東京教育道

2005年1月27日
宮代真司って社会学者が学校について書いてる本を読んだ。何言ってんだこいつ!と思う一方で、どこか、そうですねえと共感する部分もあった。僕らは学校っつう装置で「学校的身体」にされちまってるという。そういえば「階級の再生産」もそうだ。現代は特に、良き労働力主体をつくることと、良き消費力主体をつくることが混在してて、マルクスの「下部構造」やイリッチの「学校化」だってきっと似たようなことなんだと思う。苦しむ中学生高校生というのはとてもよく説明される論だと思う。だけどそれはとりあえず秩序であるわけで、結局その秩序に従えない僕なんかは、結局苦しむしかなかった運命なんだなと、妙に納得。でも、生きる力って必ず「反学校的」な方に存在するって宮代氏が言ってたから、なんつか、安心したのかな。そっか、って思った。
その本のあとがきにあったんだけど、いじめ自殺した子が通ってた中学校で追悼集会があったとき、追悼講演をした作家かなんか知識人の方に対して「綺麗事だろ!俺たちの足下をもっとよく見ろ!」と発言した男子中学生のK君が、自殺した子のお父さんに宛てた手紙で「学校は何もしない。いつも綺麗事。自殺した奴が弱いと思う」のような内容を綴った後で、最後に結んだ文章が少し興味深かった。以下−

−いまは夢が見えにくい時代。でも、ニヒリズムのかたまりだったやつが、倒れたおばあさんを病院に連れてったと聞いたとき、僕はうれしかった。僕は現実を見つめて、小さな喜びや正義を見つけたいと思う。味が薄くなったガムをそれでも噛みしめるように−

変革とか理想とか、前向きとか、人間的とか、上を向いて歩こうとか、そんなんより、そんなんよりも、「いまこのとき」の苦しんでいる時を、どうにかしてどうにかして生き延びてゆくすべを、結構多くの子が求めているんだと思う。「足下」ってそうゆうことやろ。足下が泥だらけ血だらけなのに、それが恐くて閉じてんのに、「前を向け」はないよな確かに。 そうだ。Aが言ってたっけ。「見る」ことなんだって。結局、大人や教師達が「子どもが見えなくなった」とかってるけど、じゃあ以前は「見えてた」のかよ!って言ってやりたくなる。自分らにとって都合のいい「学校的身体」をこれまた都合のいい部分だけを見て「見た」つもりになってたんじゃねえのか。社会に蔓延する嘘が、やっとばれそうになってきただけなのだと思う。子どもたちはどんどん気付くよ。だって今はもう子どもたちの方が「見て」るもん。現象を。真理への何かを。
いやしかしそれにしても、僕の教育批判も高度になったもんだ。

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