橘木俊詔『格差社会』。
様々な統計それぞれのデータそれぞれの不正確さを認識し尚、この国が格差社会に向かっていることをしっかりと示してる本。現状認識が丁寧で分かり易く、良い本でした。
しかし日本て国は最低賃金も低いし社会保障水準も低いし雇用政策も酷いもんだわな。右肩上がりの経済下で景気のおこぼれをもらっていただけの豊かさだったのか。いまそのおこぼれを取り上げられると、自分の力ではどうしようもないくらい実は打たれ弱い社会なんだね。

そしてつい先ほどNHKでやってたワーキングプアのドキュメンタリー第2弾観た!
なんつぅか、まぁこれが実態。
再チャレンジうんたら喚いても、まぁこれが実態。
なにを綺麗事言っても、これが実態。この現実をどう受け止めるかにかかってる。
怪物のような経済のうねりを前にして、やむをえない?
やむをえず、これで、いいの?
経済に殺される人々。僕はまるで他人事だと思えない。
涙が出る。
ドキュメンタリーはあぶない、感動はあぶないというのに。それでも、涙が。

内閣府、前に言ってたよなーお前ら。「格差は統計上の見かけにすぎない」とかなんとか。
…どこがじゃッッ!!

どの本を読んでも、どんな本を読んでも、基本的に同じことしか言ってない。
新しいことを知れば知るほど、同じことしか結論付けられない。

僕らは経済と社会に殺される?
お先真っ暗なの?
なにこの社会?
マジなの? 誰か教えてよ?


そして僕の結論もいまのところ全く変わらない。

殺されたくなければ声を上げるしかない
闘わずに死ぬわけにはいかない


「これが不条理ってやつなのさ」
「だから死にたくなるんだよ」
そんなことを聞いて、僕は歯ぎしりをして、ぶん殴ってやりたいと思うことしかできないんだ。
僕は馬鹿だった。
わかってたんだけど。
わかってたんだけどさ。

力だ。
力が欲しい。
みんなを守れるだけの力が欲しいな。

くそが。
もういい。
こんなゴタク書いてる場合でもない。わかったよくわかった。
二度と書かない。何もかも、いいかげんにしろクソ。

終わり。
長谷川慶太郎『超「格差拡大」の時代』。まぁそうかなあと思った。
でも、突き詰めれば世界規模のデフレやダンピング輸出が根本なのだけど、だからって僕らにはどうすることもできないじゃん。僕らは僕らができる闘いに全力をあげることしかできないじゃん。愚かで無力な僕らに、政治家さんたちは何も言ってくれないじゃん。
どうすればいいのかなんて最初からわかんないから、やれることをやるしかないって思うことしかできないんですよ。

「労働関係における労働者の選択の自由は、労使の力関係や競争原理が働く場面における生身の人間としての脆弱性ゆえに、幻想でしかない。その日その日を労働によって生きなければならない労働者が置かれた立場は、商取引における消費者や、診療診察における患者とはまったく異なるものであり、だからこそ、労働者の意思決定、すなわち選択における自己決定を保障するためには、格段の配慮が必要なのである」(『労働ダンピング』)

いま労働社会は病理に充ちている。
異常な長時間を最低賃金以下で働く「超過労管理監督職」。
最低賃金は上回っても生活保護給付以下にしかならない低賃金労働に従事する「ワーキングプア」。
非正規労働が経済の基幹を支える「フリーター資本主義」。
企業の合法的最悪質行為「労働・社会保険逃れ」。
無権利全責任労働「個人請負」。
「バイト店長」
「チーフリーター」
「フルタイム・パート」
「長期臨時」
「ワンコール・ワーカー」
ねえ、おかしいと思わないの?

「悪貨は良貨を駆逐する」というけれど、その通りだね。この地獄のコスト削減戦争は、ほっとけばどこまでもどこまでもいく。僕らを破滅させるまでいく。いやもういってるんかもしんない。
これでもまだ僕らが恩恵を受けない景気回復を望まなきゃならんのか、不景気でも最低限の生活が保障されるシステムにすべきではないのか。なんにせよ従来の経済学的な話ではいろんなものが語れなくなってきてる。

派遣契約更新時の労働条件ダンピングは、今や当たり前に行われている。
派遣先の「違法事前面接」は今やどこでも行われている。
メーカー企業とユーザー企業がグルになって行う「偽装請負」は、今や国会で追及を受ける有様だ。
2000?ぶっ通しで走らなきゃならんかったトラックは大事故を起こした。
スチュワーデスはアルバイトになった。
知り合いは、過労で死んだ。
ある知り合いは、労災が出なかった。
友達は、労働条件を騙されて職場を離れた。
別の友達は、任意退職か賃金切り下げの二択を選ばされた末に職場を離れた。
社会保険に入れさせてくれない。
残業代が払われない。

非正規雇用の終末的状況は今さら多くは語らない。どうせ今後続出するのだ。
雇用する側は、本当に本当に本当にあの手この手で、労働力を安くこき使おうとしている。この国は残念ながら政治が機能しない。変な判決も下りる。無知無力な人たちは、結構やりたい放題されてしまう。
それでも、何度でも言うけど、本当に嫌だったら声を上げるしかないんだわよ。

知り合いは数年間に及ぶ不払い残業代○00万を勝ち取った。
ある知り合いは、バイトの身分だけどちゃんと有給を申請している。
ある友達は、職場で弱い立場にいる同僚の労働契約時間が無理矢理減らされたときに、声を上げて助けた。他人事とは思えなかったと彼は言った。

現在及び今後ピックアップされてくる労働問題は以下。恐らくほとんどの労働者に関わってくる。一つ一つをもっとちゃんと学びたい。いや、学ばなければならない。
「みなし労働」
「自律的な働き方」
「ホワイトカラーエグゼンプション」
「金銭解決制度」
「見えない拘束」

負けるか!
「そもそも、労働の商取引化や雇用の融解現象は、競争に勝ち抜くための効率化に向けた企業戦略である。景気は回復しても、競争関係を激化させる経済社会構造が維持される限り、この流れが解消されると考えることは非現実的だ。これを食い止める方法は、新しい経済に対応して競争を抑制する労働システムを新たに構築する以外にない」(『労働ダンピング』p38)

非正規雇用の拡大が、全ての根源的破滅を招いている。
僕は頭が悪りぃから、根本的なことを中心に話す。それは、一体何が起きているのかということと、それがなぜ問題なのかということだ。

まず、雇用契約の有期化である「有期雇用」が増大していることがそもそもの問題だということだ。短期間でその都度更新を繰り返す雇用契約形態は、解雇と労働条件のダンピングを容易にさせた悪魔のシステムだ。契約更新時に時給ダウンと労働条件の変更が宣告され、飲めなければクビ、というケースが後を絶たない。解雇予告手当の負担も、残期間賃金も雇用者側は回避できるという。労働基準法の正常機能以前に、雇用自体が既に破壊されている。3ヶ月や半年で更新がやってくる「細切れ契約」に至っては、労働者はブタコマ切れ肉並みの扱いを受ける。
実際この有期契約におけるダンピングは、訴訟でもイカれた判決が下りてる。結局、契約次第なのだから、どうしても労働者側が弱い。逆に言えば、正規雇用というものは企業にとって凄まじいリスクを背負ってるものなのだ。しかし、リスクを背負いたくなければ経営者にならなければいいのだからやはり容赦はしない

そして非正規雇用は不安定の上に低賃金である。非正社員は、正社員と同じ労働をしながらもその半分の賃金しか支払われない。何もかもが格差とワーキングプアを生む土壌になるわけだ。とりわけ現代の若者の半分近くは非正規雇用であります。お先真っ暗だね。
責任の押し付けや長時間労働やサービス残業が嫌だという程度の理由なら、決して非正規雇用を選択すべきではない。同一労働同一賃金が守られない日本雇用社会では非正規雇用はイコール貧困層への道なのだ。「退職金、ボーナス、有給、諸処の手当、社会保険」は、やはり正社員の特権なのである。最近では、正社員の残業代を節約するために、派遣労働者にだけ残業をさせる企業すらあるのだ。

非正規雇用者は決して能力が低い労働者ではない。努力が足りないわけでもない。むしろ彼らは貴重な戦力として扱われていることさえある。なぜなら非正社員の増加は、正社員との入れ替えで起きているからだ。能力云々の話は二次的なものなのですね。コスト戦争の現実の前には、「再チャレンジ」などデタラメな題目として社長さんにも笑われている。
市場原理である。悪魔のような雇用の有期化もダンピングも、健全な市場原理であるという。その健全な原理とやらに多くの人々が殺されかけている。いわば必要悪に殺されかけている。
いま要るのは、目新しい政策でも、そのための財源論議でもない。現行で存在する権利や制度を、正しく行使・利用できる、政治的社会的なシステム整備だ。経済と社会制度の正常な機能だ。

非正規雇用はもはや終わってるけど、じゃあ正規雇用は恵まれた層なのかといえばやっぱりそうじゃない。労働力が非正規雇用にシフトした分、正規雇用もダンピングの洗礼を受ける。
長時間労働とサービス残業はまあ当たり前として。ノルマや成果主義はまだいいのかもしれない。近年では、「自爆」と呼ばれる、ノルマ未達成分が労働者負担として課せられるという驚愕の実態まで露見している。さらに最近は「ホワイトカラー・エグゼプション」と呼ばれる悪魔の構想が進行中だ。これは要するに、ホワイトカラーが無制限の労働時間を押し付けられるものなのだけど、労働の概念から「労働時間」の存在が弱く成りつつあるというのは本当にゾッとする。

際限無きダンピング競争の中での労働力とは、非正規雇用を「切り捨て」「使い捨て」だとすれば、正規雇用は「丸投げ」「過重責任」である。いずれにせよまっとうに働く者が泣きを見る時代である。
年金?少子化? そんなもの、おまけに出てきた問題でしかない。
この現実をみろ。
何を憂うべきか。
何を守るべきか。

何もしなければ生活は良くはならない。
引き続き労働問題論を論じます。

かつて僕は長期休みのときなどに工場で働いたことがある。単純作業の労働というのは、あれはあれで僕に不向きなようであって、ときに興味深いものだった。ある工場では、非能率的に仕事をする人がたくさんいて、そんな状況が普通に慣習としてまかり通っていた。普段でさえそうなのだから、仕事の少ない時期などはより非生産的な労働状況になるという。あくまで正社員が、である。そうつまり雇用というのは、雇用者側の利潤追求のためにだけあるのではなく、個々の労働者の生活の保障手段でもあったのだ。もちろん生産性が上がらなければいずれ競争に敗れていくわけだけど、そんなことは労使交渉なり協調なりして煮詰めていくべき問題なのであって、雇用本来の意義とは別問題なのだ。
僕が言いたいのは、生活保障としての本来の雇用の意義のことだ。その根本自体が破壊されているということなんだよ。

経営やら経済的合理性に適う形で、かつては「聖域」と言われた人件費に手が付けられている。やはり外国人やフリーターを非正規雇用として雇い入れ、仕事の多い時期にだけ派遣労働者を使えば、それが経営者としてコスト戦争を生き抜く「正しい経営」なのだと僕だって思う。だが故に、雇用は破壊される。生活を守るために、この国の憲法が保障する権利を行使しようと思うならば、僕たちは「正しい経営」にこそ牙をむかなくてはならないのだ。
繰り返しだが、雇用は守られるべきものだ。倒産より優先させなければならないものであるとさえ僕は思う。倒産が増え失業率は上がるけど、僕ら底辺には本来そういうことは関係がない。むしろ失業保険の拡充を政府に求めるべきなのだ。明日の生活が守られて初めて、僕らにとって雇用の意味は存在する。僕らの生活破壊という犠牲の上に、倒産が減り失業率が下がっても、僕らが痛みに耐えられなければそれは本末転倒なことではないか。愚かで不毛な人間たちが死んでゆくことは、経済にとって効率的なことなのかもしれないけれど、僕らにとっては悪夢だ。愚かで不毛な人間である僕らにとっては悪夢だ。例え企業が死にかけていても、人材という「聖域」だけは守らなければいけなかった。こんな景気回復がくることもわかっていたくせに。もう多くが遅すぎるのだけど。

いま労働現場は激変している。この国の3人に1人の労働者は非正規雇用になった。この異常事態は、暴走した経済の要請であり、国がそれをガンガン推進した結果でもある。「雇用の融解」は90年代から着々と進み、かつて安定していた雇用社会はいま崩壊へ向かい、今日の絶望的状況を生み出してきた。
単純明快である。正社員を減らし、非正社員にすげ替えること。要するに不況を脱するための人件費戦争とは、労働者に対し賃金だけではなく、退職金とボーナスと、保険及び諸処の手当を、払わずに済ませること、なのである。
その最たるものが派遣業だ。必要なときに必要なだけ労働力を供給する超効率システムは、雇用本来の意義を完全に破壊した。
今日の悪夢は、具体的には86年施行の労働者派遣法が、職業安定法では違法であった労働者供給事業を「労働者派遣」という形で合法化させたことに始まる。これにより、人間が業者間の「商取引」の対象となることが合法化された。働き手のリスク増大の一方で、ユーザー側は労働力を自由に「使い捨て」できるという最大のメリットを得た。労働条件をダンピングし、正社員雇用をストップし、派遣労働者にシフトするのである。
コスト戦争のためにやむをえなかった悪夢というわけだが。ふざけるな、だ。
そう、だからこそ労働者派遣法はそもそも労働者派遣を規制した法律だったのである。派遣対象業務は政令指定の専門業務に限定されていたのだ。今日の悪夢の元凶は、政府が進めたその政令指定業務の規制緩和にある。何もかもが僕ら末端を地獄に追い込んでゆくように時代は用意されている。かくして、人間のダンピング競争は始まってしまった。

「聖域」は崩れ、神話は崩壊を続けている。僕らはもう「労働」というものをタヴー視してはならない。現実をしっかりと見つめなければいけない。誰もが経済社会の中で自分なりの居場所を確保しなければならないと考える故にだ。そして取り返しのつかない破壊を食い止め、破壊者と闘わなければならないだろう。僕ら愚かな末端の生活を守るためにだ。
これは誰もが意識しなければならないシンプルな闘いの意味だ。狂ったように回転を続ける市場経済からは多くの人が逃げることはできないからこそ、僕は労働というものに向き合うことに容赦や妥協をしてはならないと考える。

働くことは、生きることである。(『労働ダンピング』)
「人間の労働が“物件費”に組み込まれ、商品以上に買い叩かれる。競争に競り勝って仕事を得ても、正社員とのポスト争いで泥沼。働く職場がダンピング攻勢にさらされている。有期雇用・派遣・パート・偽装請負…雇用の液状化現象が働き手を襲う」(『労働ダンピング』)

「食べていけない」「自立できない」「結婚できない」「健康に生きてゆけない」
今後増大するワーキングプア及びその予備軍たちの声である。
今さらここでの格差問題自体の論議はしない。今後予測される恐るべき事態とは、既に「格差拡大」などではない。もはやそれは「貧困化」問題なのだ。

市場原理による景気回復を褒め称えながら、一方で沸き起こる膨大な嘆き叫びを増加させざるをえない労働環境を許すことで、いったい未来に何がもたらされるというのか?
それは、活力ある社会とかいうものとはまったく似ても似つかない破綻である、と筆者は言う。

僕は思う。
例えば世界の片隅には、もうどうしようもなく貧しく凄惨な生き方を運命付けられている人々が、これでもかというくらいいるはずだ。僕たちの豊かな社会は、豊かさの中でまた意味不明な「貧困化」を抱え、それでも経済成長路線を走り続けている。僕の思っていることはいつだって狭い世界のちっぽけなことなのだろう。
僕の非正規雇用先の職場は個人経営に近い。どこもそうだろうけど厳密に見れば労働基準法違反だらけだ。takebono阿修羅面を〈怒り〉にすれば勿論いくらでも僕は利害を正当に主張し雇用主に噛み付くことができる。でも一方で職務は楽でありむしろ楽しいときさえある。つまり僕自身が、少しくらいの不条理な違法は大目に見ているわけでもある。
それもパワーバランスなのだろうと思う。
前近代社会のように、ムチで殴られて僕らは強制労働させられているわけではない。
それこそ笑顔で。
頼み込まれたり。
泣き落としさえ使われて。
サービス残業を初めとする、違法で不当で卑怯で不条理な労働環境はそうやって、惰性や馴れ合いの部分で維持されているケースだってあるのだ。
「ここぞというとき、そんな急所…、悪魔はみな、優しいのだっ」(by涯)

強者と弱者それぞれにある、愚かさと醜さを、しっかり見つめるときがきている。
コスト戦争の中では、派遣やパートを酷使し、或いは何らかの違法やら偽装までしなければ、競争には勝てないし、倒産するのだろう。それもわかる理屈だ。だけど、だからといって、末端は黙って殺られるわけにもいかない。
「そうさ、ライオンに襲われたシカは逃げるだろう。逃げることがシカの戦いなんだ。悪魔が天敵でも、人間は全力で戦わねばならない」(by飛鳥了)

なにより、綺麗事を言ってる場合じゃなくなるのはこれからなのだ。

枯渇したソウル。生命のインフレ。
そして人間のダンピング。
今後の熾烈極まる経済戦場で、僕らが悲劇を生むことなく生き延びることを考える。
生活を破壊してまで成り立たせなければならない雇用社会など、僕は認めないし選ばない。
省み、顧みるときがきている。
何か学びたいと思ったとき、大した紆余曲折も経てはいないのだけど。僕はやっぱり雇用問題に戻ってきてしまった。
矛盾と混沌だらけのこの世界で、自分の無力はもう当たり前のことだと気付いてから、正しさとは何か?なんて問うまでもなく、奪われ殺されてゆくのは実のところ僕らなのだということにも気付いてしまった。だからいまの僕は、自分たちの力で自分たちの生活を守っていくことに対し、もはや何の躊躇いもなく意志を向けられるのだ。
中野麻美『労働ダンピング』を読んで思ったのは、そんなシンプルなことだった。

僕はこの世界において、もう子どもではいられないのだ。汚く卑劣で卑怯すぎて頭の良すぎる大人達と闘うために、僕は大人になりたいと初めて思った。たとえ馬鹿でも愚かでも、心から優しい人間達と、共に成長しこの社会に責任を持ち、そして豊かで有意義な人生を過ごしていきたい。この綺麗事には、押し通すだけの意義がある。僕はそこに価値を認めたのだ。

かつて僕は『雇用破壊』を中心に雇用・労働問題を論じた。そのほとんどは、決して必要悪とみなされることのない経済効果たちだった。構造が必然的に生む悲劇は、何の対策もなく放置され、むしろ予定調和の想定内として、社会の崩壊を押し進めている。雇用破壊は、生活と社会の破壊であると僕は断言する。
もちろん暴動も飢餓も起こりはしないだろう。だけどこれは、僕らが僕らの力で僕らの社会を、そして僕ら自身の生活を守っていけるかどうかというシンプルな問いなのだ。庶民の雇用社会を守ること。目を背けようと思えばいくらでも背けられるけど、それはみんなどこかでツケになっていく。
いま景気拡大期?こんな景気回復を認めるわけにゃいかない。
終身雇用は崩壊し、格差は拡大し、社会保障は削られ、自己責任が叫ばれている。不安定雇用は増殖し、生活保護は倍増し、社会の衰退は加速している。これからの社会では、能力の高い者はよりチャンスを広げ、能力の低い者はより地獄を見ることになる。被雇用者のほとんどにあたる末端労働者は、その多くが使い捨てられ、酷使させられ、逃げ場もなく、落下したくなければ底辺をはいずり回るしかなくなる状況は確実に来る。かといって、今日の末端労働者には正当な権利を行使する力もなければ、利害を一致させ団結するすべもない。痛覚に鈍感な日本の末端も、これからは発狂するまで奪われ続ける時代がやってくる。
ふんぞり返って見ているだけの、君も、君も、君も、ツケを払わされるだろう。

僕は東京下町でどうしようもなく暮らすゴミに近き一般市民である。大層な思想も理屈も持ち合わせていない。ただこの狂った経済社会の中で、市場原理やら競争淘汰の下で、殺され殺し合わされながらも、これからの僕の立場は、どうしたって景気回復のおこぼれにはありつけないのだということを既に理解してしまったのである。
願うのは、健康で文化的な最低限度の生活だ。
望むのは、革命でもなく、画期的な政策アイデアでもなく、ヒーローの誕生でもない。
僕は、現在世界において、必要最低限僕らに許され、法律等が認めている権利なるものを、僕ら自身が主体的に、自力で、行使するために、立ち上がり動くことだけに、いま希望を見ている。
そうだ。正々堂々と生き延びてやるんだ。殺されてたまるか。

これは、これからの経済社会に殺されてゆく下流たちの、そして例外なく僕も含む、誰にとっても決して他人事ではありえない、ほとんどの末端賃金労働者の未来を賭けた闘いの、その序章における僕の一分である。
とにかく神が市場をおつくりになられたことはわかった。そして時代は近代化し今や神の市場による所得分配こそがこの世界のルールになった。それが公正で公平かどうかという果てしなく続くマルクスチックな議論はまたあとで。
しかしゴミクズはどうしても経済からはみ出すのだろなー。「合理的」なんて、どんな場合にどんな意味なんだろって思っちゃう時点でクズ。僕はそうすると「非合理的」なのか。そんなものあるかよ、ばか。僕が僕なりに誠実に懸命に生きてる人生なのに。なんか、逆だ。僕が肯定する僕を、周囲が否定するんだな。僕は自由に生きていたいのに♪みんな幸せになるべきなのに♪だ。
経済学における、うんたら学派やなんたら学派が、長い年月をかけ積み重ねてきた学問はやっぱ相当なものでさっぱりわからん。でもどうやら神と人間の闘いにステージを本格的に移したのは最近のことのようだ。
「神さまとやら、あなたは残酷だぞ!」(byB・J)
「神の意表をつく技ッッ!!」(by柳龍光)

神の破綻。それは随分前から囁かれてきた、要するに「市場の失敗」だった。神の失敗を補うために人間たちは立ち上がる。
「お前たちもようやくわかったろうぜ!この世に完璧なんてものがねえってことをーッッ!!」(byザ・マシンガンズ)

市場の失敗:大きい規模の産業或いは地域によって、自由競争の結果、独占が発生する。「自然独占」。消費者が選択する余地がなくなり、釣り上げられた価格で消費者は買わなくてはならなくなる。 また、ある経済活動の影響が、市場取引を通さずに各経済主体に及ぶことがある。「外部性」。向上や車の排気ガスによる大気汚染、排水による水質汚濁、自動車の騒音・震動。環境破壊等々。 また、「公共財」の問題や「不完全情報」の問題等々、市場の失敗は数多く存在し、対策として規制等がときに必要になる。税金・罰金・行政指導。免許制・資格制・認可制等々がある。しかしこれらの規制システムが既得権益の温床になることも多々ある。本来は市場の暴力性から人々を守るはずの規制が食い物にされるため、従って規制緩和もときに必要になる。結局は、そのバランス、その攻防なのだな。では一体誰が神の領域へ足を踏み入れるのか。それはいちおう人間代表としての政府の役割である。

政府の役割:政府は市場経済を正常に機能させるための法律や警察を整備し、契約や交換を守らないといけない。「法による支配」。 また政府は市場を競争的に維持し、独占を取り締まらなくてはならない。独占状態は、市場原理に沿わない独占価格を生み、技術発展も起こりにくくなるから。

このように、神の市場メカニズムに対し人間の力が介入してゆくのが現状経済なのだな。で、結局最初の問いに戻っちゃった。 人間は「どれくらい」神の領域に介入するべきなのか――?
トマス・モアに始まるユートピア思想。カール・マルクスに始まるマルクス主義。全然わからんのだけど、たぶん神の市場の否定なのだろうと思う。
そしてJ・M・ケインズによる所謂ケインズ経済学の立場というのは、市場メカニズム「神の手」の「不具合」を、人間政府が介入して「修正」してあげるというアルマゲドン超えの理想だった。左翼からは「資本主義の延命にすぎぬ」だとか言われ、市場原理主義者からは「神に対してこの無礼者が」と言われたわけだった。 そんでとにもかくにもマクロ経済学はこうしてその全容を垣間見せることになった。つまりいよいよケインズの登場である。ケンブリッジ学派とやらがここまでくるのにどれだけの時間と研究を費やしたのか、だがしかし無知故に傲慢に進めるのである。

ミクロ経済学の誕生が1776年アダムスミス『国富論』ならば、マクロ経済学の誕生は1936年J・Mケインズ『雇用・利子及び貨幣の一般理論』に求められる。つまりマクロ経済学の歴史というものはまだ半世紀と少しなのだ。その扉は、1929年にアメリカに端を発し始まった世界大不況において開かれる。『一般理論』でケインズが論じたものこそが「失業」だった。労働市場では必ずしも「神の手」は正常に機能せず、むしろ不完全雇用こそが一般的であることをケインズは示したのだった。そうだった。

…ここでtakebonoは行き詰まった。グラフや図表はまだ理解できた。だが、経済学の定理や論理の、そう、数式ってやつがわからないのだサッパリパリンだ。それはつまり数学がわかっていないからだと思う。数学は無理。高校時代は連続赤点王だったtakebono。くそー、誰か僕に数学を教えてくれないかなあ。 仕方ないので数学的な部分は出来るだけ理解したつもりで、進めてくことにする。あぁここが文系の限界なのか。

偉大なケインズ。市場主義を正当化する古典派経済学を乗り越え新パラダイムを生み出したケインズ経済学。惰性に準拠する思想を思想によってうち倒し、そして同様にうち倒されつつあり、いやもう倒されてしまったか。とにもかくにも現代経済の核であり基盤であるケインズのその偉大なヒストリーに無知な僕が迫る。
(→→)
需要と供給の均衡で市場価格が決まることはわかった。供給が減れば当然価格は上がり、その結果需要が減って均衡するのだ。価格の上下で弾力的に需要が動けば問題ないのである。「価格弾力性」てやつだ。価格弾力性が小さい場合は悲劇だな。例えば異常気象でコメが半分しか収穫できなかった場合、コメは高くてもやっぱ買いたいって人が多く価格弾力性が小さいといえるので、価格は跳ね上がる。需要が均衡するまで跳ね上がるのだ。つまり「こんな高いんじゃさすがにねェ…」と諦める人が出てきてくれるまで跳ね上がるのだ。野菜高騰でも、キャベツ高いからレタスにすっかぁとかいう場合は価格弾力性は大きいといえるから問題ないわけだけど、コメや魚や肉はそうはいかないのだな。例えばレストラン経営なんてもろインフレが直撃するわけや。良い例が石油価格だ。代替エネルギーが難しいのだから、石油需要は価格弾力性が小さいというわけだ。
供給サイドの価格弾力性も関係してくる。需要が増えて価格が上がったとき、供給があまり増えなければ価格は跳ね上がり続ける。供給における価格弾力性が小さいというわけですな。
需要の増減と供給の増減で、価格は自動上下して決まる。そして均衡に合わせるよう需要及び供給が弾力的に増減するかどうかで決まるのだった。
株価が一日の中でさえ大きく変動するのはそういうわけでですな。株式の供給は、新株が発行されたりしない限り、一定の発行済み株式枚数なわけだから、価格の弾力性など皆無なわけです(供給の価格弾力性ゼロ)。だから株価は短い期間内で跳ね上がったり暴落したりするのですな。

市場経済のメカニズムとは、市場の声である「価格」を通して、個人や企業が「自由」で「自発的」に行動することに重きが置かれながら尚、資源の無駄遣いが防がれ、「適切」(あくまで「適切」)に、分配されるというミラクル構造である。これが、「神の見えざる手」通称「神の手」(ああマラドーナ!orああ中田浩二!!)と呼ばれるのだ。ゴッドハンドだ。個々の利己心による利潤追求が、結果的に社会一般や消費者の利益になり、経済発展の原動力になるのである。 人間のアタマは限られたものでしかないのだけど、自分の意図には入っていない社会的目的においても知らず知らずのうちに貢献するように仕向けられてるのが自由市場なわけだ。市場には自然に秩序を形成するメカニズムが備わっているというわけだ。神の世界だなァ。

この神の世界に不可欠なのが「競争」である。
競争的市場とは、個々の生産者・消費者の価格支配力が小さい市場のこと。ある生産者が価格をつり上げようとして供給を制限しても、まず価格は上がりません。また、ある消費者が彼らの消費量(需要)を減らしてみても、価格を引き下げることはまずできません。
ある企業が技術革新なり新商品なりリストラなりで、どうにかコストを削減しても、当初は市場均衡価格はほぼ無影響です。故にそこで利潤を大きくするわけだ。他企業は乗り遅れまいと同じ事をする。競争によって技術革新は促され、新商品は生まれ、リストラなど節約や合理化が行われる。さらに新規参入企業が増えてくると、市場全体の供給量が増えるわけで、段々と価格は低下してくわけだ。飽和経済における地獄の価格競争が行われるおかげで、消費者はうれしくなっちゃうのだ。

競争市場においては、それぞれの個人や企業には価格支配力がない。自由競争価格だとか消費者民主主義だとかいうのだろうけど、でもそんなケースばかりでは勿論ない。不完全競争市場というものは現実にある。個々の企業が供給量を減らせば価格は上がり、供給量を増やせば価格は低下する、そんな市場。競争のしようがないほどに、独占市場独占企業。「神」に逆らう人間たちですな。
それが寡占企業によるマーケットシェアだ。競争を制限し強調し合うことで、寡占産業全体の利潤を高めようとする「結託」。カルテルとかだ。大企業同士が競争しないで手を組んで利益を守ってること。独占禁止法は暗黙の内に犯されているわけだ。とりわけ日本は談合体質にあるとよくいわれる。そこら中、談合だらけ。眠れない街♪犯罪だらけ♪
だがときに裏切りもおきる。企業が企業を出し抜いたり、よくあることよね。いわば、競争と結託という相反する誘因で寡占企業は動いてるといっていいわけだな。
地獄の価格競争に一度陥ってしまうと、共倒れのリスクも出てくる。だから寡占企業の中でも比較的大きな企業が音頭を取って、価格を下げないように抑えるわけだ。「プライス・リーダーシップ」。このリーダーが価格を握ってるわけだ。勿論ときには下げたりもする。

だから寡占市場では、価格の引き下げ以外に競争しなくてはならないわけです。市場戦争はここで起きてるわけだ。製品の差別化、他企業との違いや商品の特色を打ち出していくこともそうです。性能・品質・デザイン・アフターケア・特典。まあなんて盛大に不毛な競争だこと。 二次的な戦場は、広告・宣伝・リベート・マーケティングだ。
死にものぐるいで戦争する企業の努力のおかげで、色とりどりの商品や高質のサービスを僕たちは享受できるわけです。或いは広告や宣伝で、サギに近く洗脳されたりして、トレンドを脳内で作り上げて買い物するわけですな。無駄すぎる広告・宣伝作戦は、しかし行わなければ他企業に先手を取られるだけです。だからやったもん勝ちなわけですわね。それが不毛でも過剰でも、コミュニティーやまごころや家庭や環境や道徳やらをいくらでも破壊しようとも、まぁ何を道徳的なこといくらでもノタマっても良いけれど、前提として、マーケットシェアを確保するためには戦争やるしかないわけです。はいも一度言いましょう。市場で勝ってゆくには、戦争するしかないのです。わかったかねSK君? 誰もが自分や家族を守るために戦争しているのだよ。
ええ、「殺し合いをしてもらいます」ということですよ。
(→→)
また時間をおいてしまった経済学。もうなかなか、なかなか、だ。二転三転してるのだ。やっぱり体系的にやらないとまとめきれないのだな。これぞ見切り発車。とりあえず前提の前提を尚走り続ける。ブログはノート代わりでもある。

「価格」こそ「神」だということを知る。だがそれは聖書的に自明なこと。
モノのお値段と私についてのお話です。
唐突だけど、takebonoこないだ野球観に行ったのさ。そんで球場内の食い物飲み物は相変わらず「高っけぇ〜」と思ったのさ。だから僕はいつもビールと食い物は普通に持ち込みオンリーユーなわけなのだ。でもよく見てるとバカみたいに売れてゆくんだよなーあんな値段でもさ。 つまり市場の需要と供給による「価格」には、みんながみんなその原理を知っていながらにして取り込まれる面白さと苦々しさがあるのだ。経済がちゃんと成り立ってることに安心もしながら、僕もまた「合理的」な消費者を目指す。要するにいまこの僕だ。

ある商品の価格はなぜ高かったりするのか?? それは「生産費+流通費+利潤」を基本として、ジャパン流通市場の高コスト体質もあるというのだけれど。でも一方では価格は需要と供給の均衡にて決まるそうである。
そうなのだ。「その商品がその値段で(その場所時間などその条件でも)売れるから」である。
野球場のビールしかり、銀座のコーヒーしかり、億ションしかり、ヴィトンしかりだ。買う人がいくらでもいるということだ。中には「高価格」こそが「高価値」になっているものなどいくらでもありますな。ブランド商品とかいい例だ。「見せびらかしたい」「羨ましがらせたい〜」もまた、経済学が想定する「合理的」な消費者であるというわけだ。想定内想定内、なのだ。 でもクズには関係ないですね。僕がブランド商品持ってたら笑われちまうよウヒャヒャヒャ豆腐に頭ぶつけて死ねよ、ってね。
或いは、消費者は商品購入前にその品質がよく分からないという制約条件の下にいるということがありますな。価格は…「品質の良し悪しを判断する材料」になるのだ。
高くても「安心」な有名メーカー品を買うのは「合理的」行動なのだ。想定内想定内、なのだ。正確な品質情報を得ることが出来ないからこそ、売る側は高価格をつけることができるし、逆に、消費者が品質情報を得ることが出来れば価格は下がるはずなのだ。 でもクズには関係ないね。こないだ僕は聞いたこともないメーカーの炭酸飲料を飲んだけど美味しかったしよ。
そして価格による分配は、高い価格を支払える者がより多くのモノやサービスを消費することができる点で…「人々をより勤勉な生産活動へ駆り立てる効果」でもあるのだ。 でもクズには関係ないね。モノやサービスをモチベーションに、より勤勉になんかなれたらさ、僕はいま生きていないのだろうさ。

また価格は…「資源配分」を決める。労働サービスの価格である賃金は、労働サービスがどのような産業に配分されるかを決定する。
金利は投資する資本率を決める。市場はどれだけの資本がどのような産業で利用されるかも決定しているのだ。
個人の預金金利における利子所得も、企業−銀行の借入需要と貸出供給との関係で決まる。今は最悪のゼロ金利状態。早くやめろ日銀、ゼロども、ばか。
地代所得は土地サービスの価格といえる。これもまた土地の借り手と貸し手との市場取引で決定される。
神がかる。誰が何をどれだけ必要とするか、そのためにどれだけつくって売ればよいか、需要と供給の均衡点が、その世界が必要とする適正で適切なエネルギー量を定めるのである。いわば価格とは欲望の道標なのだ。市場世界の海の羅針盤なのだ。ゴッドハンドなのだ。

価格は…「希少性を反映」するのだ。ある資源の需要に対して供給が少なければ少ないほど希少性は高く、価格も高い。 地代も同様です。日本で土地が高いのは土地サービスの希少性が高いからです。そして東京圏の土地は地方に比べて希少性が高い。 労働賃金も同様です。誰でも出来る仕事は希少性が低いため低賃金。 モノやサービスも当然同様です。希少性の高いものほど高価格です。
価格が「希少性のシグナル役割」を果たさなければ、社会は混乱し、資源は枯渇してしまうでしょう。水道水が高価だったら大混乱です。宝石が駄菓子みたいな値段だったらあーらどうしましょう。石油が無料だったらとんでもないことになる。ヴィトンがお手ごろ価格だったらそれはもうヴィトンじゃないのです。

市場と価格が全てを決定する。市場原理が機能する合理的な価格自動運動と、非合理な人間社会との間に起こる軋轢が多くの問題の根本であるといえるのだろう。
takebonoのプライスレスソウルはそれ故に明日も蠢くさんざめく。
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「価格」こそ「神」だ。紙幣こそ免罪符だ。

価格についてごたごたする前に「市場経済」と「貨幣」について無知なりにまとめた。
市場経済とはなにか? それはまず自給自足経済ではない。生産と消費が分離した経済である。まず生産性のUPが前提になる。そして生産性の向上は生産力の特化にある(特化の利益)。故にほとんどの生産における商品やサービスは、生産者のためではなく他人の効用のために生産される。故に市場経済は分業社会である。そして自分が生産しないものを手に入れるためには、人々は生産物の交換をしなければならない。
「分業は、人間の本性に潜む交換という性向から生じる」「分業は労働の生産力を増進させる最大の原因である」(アダム・スミス『国富論』)

分業は同一のものの生産工程についても発生する。生産工程は分割され、単純化され、特化されることで、作業能率が引き上げられる。アダム・スミスは有名な「ピン作り」の例えでこれを説明した。熟練した職人は一日で(ボーリングの)ピンを数本しか作れないが、熟練してない労働者たちが生産工程を分割単純化すれば1日で何百本も作れる。

特化は交換を前提にしている。故にスムーズな交換の成立とその保証がなければ特化は進展しない。その昔行われていた「物々交換」は絶対スムーズとはいえないはずだ。交換をスムーズに行うには、一定の日時場所で交換相手と生産物が集い交換が成立しその保障がある場所があるとよい。それが「市場」だ。さらに、交換者同士の交換ニーズの2重の一致が必要になる。交換したい商品を他の誰かも超偶然に交換したがってなきゃいけない。だからどうしても一般的交換手段が必要になる。貨幣の必要性が生まれた。
貨幣役割はコメや貝殻だったりもしたけど、持ち運びや持続性のメリットから金銀銅という「金属貨幣」の登場に至る。でも、削ったり金の含有量を減らしたりと、偽造が増えたりした。かくてトーマス・グレシャムは「悪貨は良貨を駆逐する」という所謂「グレシャムの法則」を見いだすのでありますが。
そして「銀行」が登場する。銀行は金属量に見合った預かり証「銀行券」を渡し、いつでも金と交換できる制度にして偽造を封じた。そしてそのまま流通した銀行券が貨幣にうって変わる。その後、金本位制は崩壊して通貨管理制度に移行し、銀行券が完全に貨幣役割をぶんどる。紙幣は今や金と交換できない不換紙幣であるが、法によって一般的交換手段に指定されているため法定貨幣である。同時に銀行券は人々の信認で成立してもいる。中央銀行・日銀は人々の信認を確保するために、日本銀行券の価値を常に安定させる責務がある。貨幣価値の安定化とは購買力の安定つまり物価の安定を意味する。

貨幣経済が成立し始めると、交換を専門業とする「商人」が登場する。いわばこれはモノの仲介・再販売の仕事への特化である。商品移動のリスクを伴わない「店舗」が、市場に登場する。交換に伴う時間と費用も大きく節約される。最初の「物々交換」に比べると実にスムーズに事は運ぶねえ。交換取引は大きく拡大する。毎日のように交換が行われるようになる。かくして「市場(いちば)」は「市場(しじょう)」となるのである。

アダム・スミスは言います。「分業は市場の大きさによって制限される」
その通りだ。市場が小さければ分業特化はしにくい。小さな村では、様々な商品が少しずつ揃っている「よろず屋」が一つあればいい。映画館、本屋、地下鉄など専門特化は、市場が小さければ経営として成立しない。故に小さな村にはそれらは少ないな。逆に言えば、集中はさらなる集中を呼ぶということだ。東京の「一極集中」のように。東京圏の市場はでかすぎるため、あらゆる専門特化商売が成立する。

交通と通信の発達レベルはことさら重要だ。文明が常に水の近くで発展しているのは、農業発展の他にも、陸上輸送より水上輸送の方が市場拡大に貢献したからでもある。交通と通信の発達は、さらには他国との貿易という形にまで市場を拡大させる。しかし電脳時代はそういうもんも飛び越えうるのかなあ。

岩田規久男『経済学を学ぶ』を読んで書きました。わかりやすかったです。これからだこれから。
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前回思考してから間をおいて、でもずっと考えておりました無知takebono見切り発車的経済論。
前回から引き続く、社会そして経済という怪物に向けた僕の問い。
「市場メカニズム〈神の手〉に、僕らが僕らの社会を「どれくらい」そこに委ねるべきなのか――?」

「全部委ねちゃえ!そうすれば全てうまくいく」ってのが市場原理主義の考え方だな。資本主義の行き着く極地だ。規制緩和及び撤廃。自由。優勝劣敗・弱肉強食。欲望。夢。競争。格差。どうやらそれらが、〈活気溢れる社会〉とかいうやつらしい。
一方で、それを否定し「何も委ねるな!」というのが、統制・計画経済だな。政府が経済を統制する、社会主義の考え方だな。平等。安定。質素。博愛。人間性。どうやらそれらが、〈搾取のない豊かな社会〉とかいうやつらしい。

いまの社会は完全に資本主義だけど、でも完全な市場主義だともいえない。「混合経済」というやつだな。市場メカニズム〈神の手〉に、社会の全ては委ねずに、規制し管理し守るべき所は国や公共機関が担っている。市場の失敗や暴力から人々を守るシステムは既得権益の温床にもなっているけど。この状況は、どっちつかずであり中途半端でありそしてバランスがとれているともいえるのだろう。人それぞれの立場があるだろう。ただ、問題が問題として論じられるとき、結局はこの状況からどっちにいくのか?なのだと思うから、いろんなケースにおいても、やっぱり僕の問いは問いであっていいと思うんだけど、どうだろうか?
「市場メカニズム〈神の手〉に、僕らが僕らの社会を「どれくらい」そこに委ねるべきなのか――?」

わけのわからないものを考えるとき、きっとほとんどわけがわかっていない。どれくらいわけがわかっていないのかもわかっていないのかもしれないし、それ自体もわかっていない。だから前提とか基礎とか何度やったってわからないし段々わかっていってるのかもしれない。無知の知だとか言いながら。
そして僕が未だわかっていないのは、そもそものそもそも、市場経済とはなんぞや?であった。

とりあえず経済学というモノサシに乗っかって、規定してみることにする。
人間は「できるだけ自分にとっての利益が最大になるように行動する動物」
企業は「できるだけ企業に関係する人々の利益が最大になるように行動する組織」

そんなことを考えながらここ数週間ほど過ごした。
最近、両親が不動産物件を探し始めている。老後の田舎移住計画はすったもんだしてるらしいが、それ以前に今住んでる家がいい加減に耐震がやばいんじゃないかとビビり始めたらしいのだ。とりあえず近辺でもいいから引っ越したいらしいのだが、しかしなかなか進展はしていない。同時に、takebonoさんの願望の一つ・ルームシェアもなかなか進展はしていない。何故かってっと、土地というものがあまりにも高いからだ。当然。日本の地価は、大都市圏は人々の年収に比べて異常に高い地価。持ち家は相当困難なことであり、ローンやら相当な金やらを積んでも、通勤ラッシュを逃れられないくらいの住宅環境におかれること多々。賃貸となると、狭い割に家賃が高く、借家人の生活も楽ではないこと多々。日本の地価は欧米主要国に比べて高いのは自明だ。

そこで思うわけです。そもそも「価格」とはなにか?ということを。
商品の値段とは、「生産費+流通費+利潤」を一つの見方として。そして一方では。
「価格」とはそもそも「誰が」「何を」「どんだけ」消費するかを決める手段の一つである、わけです。需要と供給のクロス図−あの誰もが一度は見る「需給曲線」が全てを物語るわけです。

「価格」。これこそが市場経済が誇る最強のメカニズムです。「神」とまで言われた「価格」さん。それは一つの神秘な秩序でもあった。
そもそもこの世において、限りある資源や財に対し、人の欲望は限りがない。人間が「できるだけ自分にとっての利益が最大になるように行動する動物」ならば、誰もがモノやサービスを手に入れたいと思い、行動するはずだ。奪い合い、殺し合うかもしれない。できるだけ秩序や正当性を保ちながら有限な資源や財やモノやサービスを分配するにはどうすればいいのか?を考えたとき、いろいろありますね。「試験」、「早い者勝ち」、「抽選」、「コネ」、「ジャンケン」、「戦争」、「共産主義」、「ジャイアン」なんかがあります。
そして資本主義社会では「価格」こそがそのトップに君臨するのです。今日の僕は99円ショップで野菜ジュースを買いました。なぜ僕はそれを買ったか?
ちょうど2年前の今頃の季節に、僕に「自己分析」について語ってくれたあのKRちゃんの顔が浮かびました。自己なんか分析する前に、経済を分析した方が絶対に良いです。そんなことは今だから言えるんだけど。
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経済に触れようと思いながらなかなか時間が過ぎてしまった。自明な事ながら、「経済」と「経済学」は全然違うなということに改めて気付く。テキストにあるような経済メカニズムの仕組みや経済学者の論説から入るのか、経済の歴史や思想史のようなものも必要になってくるし。つまり途方もなく範囲が広いものにどこからどうやって触れようかと立ち止まってしまった。ハッキリ言って僕は市場経済の基本的なことすらわかっていないのだ。
まあしかしそれならそれで無知故の学びがあるような気もして、やっぱり興味から入ることにした。

さて、僕が経済という怪物を見ようとするにあたり、とりあえず一番興味を持ったのは「市場主義」というやつだった。需給バランスによる価格決定と欲望調節に始まる市場メカニズムってやつはホントに〈神の手〉で、すげえなあといつも思ってたからだ。無駄な摩擦や障壁や老廃物みたいなものが全て取り除かれた純粋な市場に全てを任せれば、何もかもうまく人間の欲望は調節できて、平和と秩序が守られるんじゃないかなあとか頭のどこかでなんとなく思ってたからだ。でもそれはやはり一面的であって、よく周囲を見渡せばやっぱ市場経済という怪物は残酷な暴力を生んでいるし、犠牲者や被害者をいくらでも生んでいることにも気付く。とりわけ自由競争という名の奪い合いは優勝劣敗が必然的なものであって、劣っている者が奪われることに対しどこまで認めどこまで反対するかという問題でもある。根こそぎ奪ってもOKとするのか、少しくらい残してやるのか、劣者が自暴自棄になり社会が不安定になり始めるのはその収奪レートがどれくらいからなのか。それらを決めるのは社会であり、市場主義は市場にそのルールを大きく委ねることに意義があるとされているらしいのだ。だから、或る正しさの根拠なんて、僕は簡単に口にすることなんてできなかったんだ。仮に「正義」という言葉を使うとして、そんなものを持ちながらだったら、この怪物はまともに見ることすら叶わないんじゃないかと。弱者が奪われることを当然だろと正当化できるその根拠なんてのは、考える前から現実そうなってるじゃんって思うからだ。

そして近年のこの国の社会ではその「市場主義」がやたら台頭してきてる。混迷する日本経済をよみがえらせるためには、並大抵の処置ではダメ、やはり経済構造改革というオペが必要!という声を受けてのものだ。郵政や教育を初めとしていろんな所が改革されたし、これからも改革されてゆくはずだ。日本型雇用制度・慣行はどれもこれもが見事なまでに競争回避型に仕組まれている、と彼ら市場主義論者はいう。市場主義改革とは、日本型制度・慣行をアメリカ型のそれに作りかえることを意味してる。でもまだそれがどうゆうことなのか僕はよくわかってない。

景気は回復軌道に乗ってきてる。求人倍率は上がってる。日銀の量的緩和策は遂に終わりを告げた。企業のリストラと非正社員化など諸処の人材合理化効率化作戦は、格差拡大と社会不安定化という重い代償を払いながらもそれ自体は一応うまいこと進行して、またしても景気はしぶとく回復するみたいだ。だけどその陰には政府の大増税政策が待ちかまえている。間違いなく庶民や底辺層を直撃するだろう。経済成長は再び軌道に乗り、社会は衰退するだろう。選挙で選ばれた政府と、それを選んだ国民がその責任を棚上げにしたりして、どうせまたどこかの誰かにその責任転嫁をしたり、はけ口にもってったりするんだろう。ばかめが、と思う。でも景気回復は市場主義改革の成果だ。

「市場主義」という言葉は、やはりそれ自体は社会進歩の甲斐あってのもので、19世紀に花開く古典的市場主義「レッセフェール(自由放任)」に始まって、その後はケインズ経済学の台頭で影を潜めていたらしい。それが20世紀の70年代くらいから復活してきてるということになるんだと。レーガニズムやサッチャリズムってやつがそれだと。日本はだいぶ遅れたけど、近年の小泉改革ってやつがそれなんだと。
背景には73年のオイルショックとか、先進諸国の高度成長が終わったことがまずあって。その半面で、肥大化した福祉予算による財政赤字の悩みが「小さな政府を!」の声へつながったこと。そこで反ケインズ経済学が一気に調子に乗ってきたってこと。
或いは、オイルショックを克服したのが結局「市場の力」だったろうが!って声。
そして、70年代に起きたこと。…中国文化大革命の破綻。中ソ対立。統一ベトナム共産化。ソ連アフガン侵攻。そして日本の新左翼運動の挫折。 要するに、社会主義への完全な幻滅が、政府の市場介入パワーを内包するケインズ経済学の幻滅にもつながっちまったということ。
市場主義のテーゼは「個々人が私利私欲を追求するにまかせておけば、社会全体の福利は最大限達成される」にある。狂った社会がその正義というか正当性のようなものを、倫理不在の時代に狂った末の拠り所としてここに委ねちまったってことでもあるのか。79年にサッチャー政権、81年にレーガン政権が誕生し、市場主義改革を断行した。
その後ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が解体され、社会主義は壊滅。グローバルな市場経済時代がスタートを切り、市場主義という復古思想がいよいよ浸透を始めることとなったわけだ。

日本の市場経済が不自由・不透明・不公正であることが常に言われ、市場主義改革はそれを一掃するとされている。そこには様々な「副作用」が不可避的に伴う。一般に「痛み」とか言われるやつだ。格差とか不平等とか公共部門の撤退とか荒廃とかだ。だから「副作用」を緩和したり、改革の暴走をチェックする政策が必要だと思うんだけど、まあ行われないんだろう。突っ走る「20年遅れのサッチャリズム」とグローバル化は、ただの楽観主義なのか、醜悪な強者の論理なのか。

市場メカニズム〈神の手〉に、僕らが僕らの社会を「どれくらい」そこに委ねるべきなのか――?
「市場主義」を巡る論争も、つまるとこ僕の問いもここにつきると思われる。
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大手町の経団連ホールで東京新聞主催のシンポジウムがあったので行ってきました。「景気シンポジウム−少子化・増税、どうなる暮らし」とかいうやつでした。パネリストは、前財務相の塩川氏(「塩じい」ってなんか妖怪の名前みたいじゃね?)とか、経済同友会のお偉いさんだとか、大学教授とか。 なんというか、「どうなる暮らし」も今さらあったもんじゃねえだろとか思ったけど。格差拡大・不安定・下流化・腐敗政治・暴走市場・衰退社会…とか思ったけど。まあまあそれはいいとして。内容は大したことのないシンポジウムでした。満員だったけどオジサンオバサンばっかだし。若い世代を抜かしての「少子化」「増税」論議。あなた方はさぁ、自分の所有する有価証券や土地の心配しかしてないんじゃなかったのか。今さら「少子化」をどのような視点で憂いたりしちゃうの?「社会問題」だとかって思っちゃったりするの? 誰の?「暮らし」が?「どうなる」のか?なんて、いつだって知ったことではなかったんじゃないのか?

そんなこんなでふと僕は経済について考えてみようと思いました。今まであまり経済って触れるの難しかったから。で、考えてみると、全くの無知なわけです。わけわかんないんだよね経済の知識って。無知を露呈します。しかしその過程でもあります。基礎教養であるべきだったのにいつもわかんなかったのです。

経済というのは恐らく社会の基盤というか全てですよね。故に経済学です。社会を構成してる流れのようなものが見える感じが、少なくとももっと無知だった頃にはしたのです
経済学を真正面からやると、数字やグラフが多く出てきます。人の経済活動の根っこは、欲望や文化や集団心理とか個人的なものまでも関ってくるのに、数字的なもので切り取れるものなのかなあとか昔は漠然と思ってました。「限界効用逓減」のグラフとか見て、ハァ?とか思ったときもありました。要するに2杯目のビールは1杯目より満足度が小さくなるとか、回転寿司で食った10皿目は1皿目より満足度が小さいとか、ミクロ経済のそういうわかりやすい話にすればいいわけで、そしてそんなことは自明のことで、でもそこで、「その人の胃袋次第だろ」とか、「2杯目のビールには2杯目なりの満足度があるときもある」とか、そういう屁理屈は経済学ではカバーしないということ。胃袋や、ビールの好き嫌いも含めて、多様で複雑な人間そしてその社会というものの一般的経済活動パターンの枠組をおさえることが経済学だからです。基準を規定して切り取らなければ、その例外も見れないということなんだと。このしごく当たり前の前提にまず僕は長いことピンとこなかったの。
そしてまたイラつくのが、「ミクロ」「マクロ」に始まり、「雇用」「金融」「貿易」等々、経済学の分野ってのは多岐に渡ること。そして立場によっては主張する経済政策が異なるということもです。経済とは怪物のような生き物なわけで、誰もまだその完全な正体を掴んではいなくて、そんなことはやはり当たり前なのですが、現実目の前の経済世界と、経済学の論理のギャップとがあまりにも僕の中にはありすぎたの。だからイマイチピンとこなかった。無知ド素人の僕から見て、経済学はあまりにもそうだった。
そしてあとそれが机上の理論だったからというのがある。デフレやインフレの仕組み、マクロ政策の仕組みとか理解しても、実際には、目先だけ考えればデフレは雇用されてない消費者にとっては価格破壊で嬉しいわけで、自営の人には厳しいわけで、雇用者は嬉しい半面恐ろしいわけだ。つまり立場やレベルによってはホントに凄まじく考え方も違うからです。規制緩和だとか、M&Aがどうとか、初等教育でマネー経済教育をやるよとかっても、一般の末端雇用労働者たちやリストラの対象になるような立場にいる人たちは、情報公開がなされれば、そうゆうのはやっぱり冗談じゃねえぞオイと叫ぶように思うのです。「既得権」なんて一方ではその人たちの生活権利だからです。 つまるとこ、僕が何らかの思想を持ったり、或る立場に立ったり、客観的になれないような状況になればなるほど、経済学は理解しづらかったのです。だから、教科書的な一般的な経済学論理は、ある枠組として捉えなければならなかったわけです。「社会」を知ることと、「社会問題」を考えることが、全く違うことであるのと同じ事なわけでした。
或いは、「所有」に関する哲学的前提なども経済学はタッチしないということ。あくまで、主として取り扱うは「一般的」パターンなのです。
バブルが「根拠無き熱狂」なのなら、この世界全てがバブルみたいなものじゃないかよとか僕は昔思っていたし、そう、だから、自分の置かれた状況も相当に関ってくるのだということなのです、そう一方では。

結局よくわかんなかったのです。だから、ただ興味から入れば良かったんだよいつもそう。僕の興味なんて偏ってる。そしてそれでよかったんだよ。まず見切り発車なんだよそんなもん。いつだって僕は。
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人間が「コスト」になった90年代、企業は人を安く使うことの素晴らしさを知ってしまった。人的資源の「在庫調整」として、中高年のリストラ、新卒採用の抑制、退職者後の未補充などが至る所で激しく進行していった。そして多くのものが失われる中で新たに生まれたものこそが「非正社員」だった。彼らに、彼らが持っていた本来の臨時労働役割を超えさせることによって、日本の企業社会はいま醜悪に蘇ったのである。
雇用社会の本流は「新時代の『日本的経営』」に示された。結果、雇用労働者の3人に1人は非正社員になった。もはやライフスタイルの多様化が雇用の多様化を生むのではない。雇用破壊が生活破壊を生むのだ。 狂った市場に流通する狂った商品の価格破壊が、地獄の競争で血にまみれながら、結局は賃金破壊を起こし、雇用破壊へと繋がってゆく。その先にあるものは、恐らくは社会の破壊なのだ。

仕事にプライドを持てる社会。自活できるだけの賃金が保障される社会。努力が報われる社会。筆者が願うそんな社会。takebonoが願うそんな社会。当たり前の、普通の、多くの人が願う社会だろう。敢えて言おうじゃないか。多くの人にとって、「あるべき」社会じゃないのか、と。最低限「そうあってほしい」社会じゃないのか、と。こんな僕だって願うんだぜ。強く願う。優しい人や誠実な人がちゃんと生きていける社会のことをだよ。だけどまたしてもみんなはそんな社会を選べないのだろう。

破壊は創造を生む。そうやって市場経済は回ってゆく。だけど僕らの社会はもう、本当は破壊しちゃいけなかった所までも、既に破壊しちゃったんじゃないのか?ささやかな幸せって本当は存在したんじゃないのか?存在できたんじゃないのか?
破壊は何を生んだ?カネは何を生んだ? 格差と。バブルと狂熱と。ちっぽけな欲望と身勝手な夢たちと。ホリエモンと。大量の経済的精神的不安定と。卑屈な下流社会を生んだだけだろ。 橋本っ…橋本っ…頼むっ。生き返ってくれ。本当に破壊しなければならないものをお前のニールキックで破壊してくれっ。頼むっ。なあっ。頼むよ橋本っ。
カジノみたいな人生はお前らだけでやってくれ。本当に誠実な者や、優しい者や、努力した者が、なぜささやかに生きちゃいけないんだ? 市場論理は何でそんなに僕らを食らって楽しいんだ?
こんな市場社会で生きたくない。ずっとそう思ってた。
でもね。結局はそれすらソウルフルだったんだよね。
公務員で左翼寄りの両親の市場社会観が結構偏っているのにも、それも理解した上でそれでも僕は、そうなのだ。毅然として社会に出るべきなのだったと。社会をもっと感じるためにだ。あらゆるものが僕を形作った故にだ。
就活は遅すぎたけど、今後どんな形でもいい。社会に打って出たい。力をつけたい。力を。衝動がきそうなんだ。
そんなソウルがあれば充分だろうよと思うのだ。

いまこの国では、雇用が破壊されかけ、社会が破壊されかけてる。どんな社会問題を憂うにしても、この問題を避けて通ることは恐らく出来ないだろう。一番身近でありながら、一番僕らに知らされてこなかったものだからだ。多くの人が目を向けてほしい。人は何故人を傷つけなければならないのか。有意義な競争ではない、不毛な殺し合いが何故いつまでも続くのか。潰れてく人や排除されていく人がいるのか。そして無力な僕らに一体何が出来るのかということも。

僕はでも、破壊されているものを知ることで、守るべきものや、優しいものの存在を知ったような気もするのです。そう思考するように形成され生きてきた僕がここにいるということにもです。それはそう、そうなのです。もしあなたが絶望したとき、僕はここにいます。僕は、優しい人を守るためにいます。人に優しく在れる人を守るためにいます。絶対にね、だから、どうか、takebonoさんだけは信じてくれ。 ああ、やっぱ、僕は強くなろうかな。くそう。

―――
追伸
いま暖かな日差しの中でこれを書いています。どうか、実りある人生を。充実した日々を。お健やかにお過ごし下さい。もうすぐ春ですね。新しい時代をみんなが歩き出す頃、きっと僕も生き急ぎ始めていますよ。

親愛なるあなたへ…

−takebono−

〔終り〕
駅で組合がビラ配ってました。んで色々あってSK兄貴と飲みました。君はときに横暴だけど偉いよ、いろんな事に自覚持ってるから偉い。雇用社会について少し語りました。takebonoさん本気で法律学ぼうかなと思った。
では雇用社会論。なんか書いてて気分が滅入ってくるのでこのシリーズも次回で終わりにします。

「経済統計が不況からの脱出を示し始めたのと裏腹に、厳しさにあえぐ人々を量産している。景気の回復は、入れ替えのきく、安価な労働力を投入したからこその成果であって、そのひずみが非正社員に押し寄せている」(p146)

景気後退期までの不況対策は、まず非正社員を整理し、正社員は温存するというのが典型的パターンだった。不況克服を目指した90年代半ば以降はそれが変わる。人件費負担の重い正社員をリストラし、その代替を非正社員に依存するようになったのである。だから今時のパートは正社員以上の働きを期待されるのだ。

永遠の未決着とされた課題における永遠の2番手とされてきた女性の「継続就業型(結婚・出産しても仕事を続ける)」がいま支持を集め、「再就職型(出産したら仕事を辞め、育児がなんとかなったら再び就業する)」を画期的に抜いたらしい。もちろん厳しい雇用情勢が背景にはある。だが意識とは逆に現実にはやはり「再就職型」が占めている。
共働きしないと家庭は築けない。だから収入を落とさないために、結婚・出産をしても仕事を辞めずにキャリアを維持したい。でも実際に出産をしたら仕事を続けることは出来ない。だから辞めたら育児後にパート再就職する。 …これが一般的コース。こうやって低賃金体系は維持される。

パートへの依存度が高い外食産業は2003年、「外食産業はパートタイマーの社会保険適用拡大に強く反対します」という報道資料をマスコミに送った。先に何度も述べたが、事業主は本来1日の所定労働時間、1ヶ月の所定労働日数が正社員の4分の3以上という条件を満たした労働者を社会保険に加入させなければならない。この加入基準の見直し案として1週間所定労働時間が20時間以上――という変更案が当時上がった。多くの人が厚生年金に入り保険料を負担すれば、年金財源にもなるし、労働者としての自立にもつながる…という案だったが…外食産業界はこれに猛反対したのだと。社会保険料は労使折半だから、経営圧迫になるから。そして一方で、パートタイマー側もこの変更案に難色を示していた。社会保険料を払いたくないからだ。女性の家計補助的労働スタイルにもはや浸透している「○○ゾーン」(「ライン」?)てあるよね(違う呼び名かも)。年収が103万を超すと所得税を払わなきゃならないし、130万を超すと保険料負担(国民年金加入)への義務が生じる。保険料非負担の「ゾーン」範囲内でささやかに働くというもはや「装置」が、労使の協調のもとに機能しており、両者の既得権を反映させているのだ。業界は安く使うことに慣れきり、人は安く使われることに慣れきってしまってる。主婦はそれでいいだろうしパラサイトもとりあえずそれでいいんだろうが、ちゃんと社会保険に入って自立して生きていきたい人はキツい。

派遣業における女性の派遣スタッフは年代34歳以下が76%である。囁かれる派遣業の女性35歳定年説ってやつがこれ。35歳を過ぎると、不安から正社員になったり(新採用からスタートだから企業も都合がよかったりする)、悲惨なのはお呼びがかからなくなったりすることがあるからだ。パートを30後半〜40代女性中心労働とすると、派遣は30代半ばまでの女性労働である。派遣業界の若年志向は、IT分野が多いからというのもあるが、派遣先が使いやすい人を求める結果だからともいわれる。違法な事前面接を派遣先が行うケースがあるのも、若くて素直で可愛くて従順な女性を「見定め」て使おうぜウエヘヘという魂胆があるからだともいわれてるのだと。

派遣業は男女雇用機会均等法と同じ1986年に「労働者派遣法」が施行され、当時は専門的業務13種でスタートした。96年の改正で26業種に拡大。99年にはほとんどの分野で派遣OKになり、派遣社員に対する専門的イメージは崩れ去った。2004年施行の改正法では、「派遣労働者への直接雇用の申し込み義務」が盛り込まれた。原則3年の有機雇用期間が過ぎても受け入れるときは、「直接雇用」を打診しなければならないというものだ。でも「直接雇用」といっても非正社員のまま更新されるだけだ。厚生労働省は「できれば正社員にしてあげて」と言ってるけど、もちろんそんなこと率先してやる企業はない。 余談ですが、「紹介予定派遣」というのがあるね。派遣先の正社員になれる可能性を秘めた派遣のされ方のこと。派遣てのは、やはり正社員以下なんだね。でもフリーター以上か?どっちでもいいけど不安定には変わりはないはずだろう。

パートは頭打ちだけど、派遣社員の増加傾向はすごい勢いである。半分くらいの企業が何かしら派遣社員を使っている。 「常用型」と「登録型」がある。前者は派遣会社に常時雇用され、派遣先に派遣される労働者。後者は派遣会社に登録しておき、派遣が決定したときだけ派遣会社の社員になる。全体の8割は不安定な後者の方である。仕事の紹介や派遣期間の細切れ化が、非常に不安定な状況に彼らを追い込んでいる。(何度も言うが、就労期間が2ヶ月以内の短期労働者は厚生年金の適用も除外される)ここでもやはり8割が女性。

「ポジティブアクション」というのがあるらしいね。所謂格差是正の取り組みの動きが近年出てきているそうです。正社員はまだ救いはある。だけど、非正社員はやはりその視野に入ってないのですよね。所詮正規な労働じゃないんだ結局。だけどそれが労働力の主力となりつつあることが結局問題なんだ。過剰の中での競争。人もインフレの例外ではない。
〔続く〕
僕は結局新卒フリーターかなあ。だが何も理解せず逃げた末になりたくはない。ここまで理解してて、それでも僕がフリーターに走ることが、結局は問題なのではないのかなってのも思う。いずれは金よりも時間やソウルを選ばなければならなくなるtakebonoさんは、今だからこそ企業社会を見ておこうとも思ってるよ。

2007年を契機に、団塊世代が大量退職する。現在の団塊就業者は約500万人。現在推測されるフリーター&ニートの総数も約500万人。高い給料を貰っていた団塊中年の代わりに、その穴を低賃金フリーター共が埋める。熟練技能の継承などに不安は残すものの、一気にフリーター問題は解決するし、企業の人件費も一気に減少するから、新たな雇用もガンガン生まれる。 …これが一番前向きな未来予測。だけど、「そのビールをジュースに替えて〜」(はい内輪ネタ)なんて都合良くいくものなのかな。人間はそんな簡単じゃないだろ。

若者の労働社会への不信感もすごいが、労働社会による若者不信もすごい。「職業意識と知能・技能がない」という理由で、企業はフリーターを評価しない(厚生労働省『雇用管理調査』)。 小杉礼子の『フリーターという生き方』によると、フリーターを「脱」し正社員になった人のケースは、フリーター経験が1年未満の人であり、企業も1年くらいなら浪人や留年と同じくらいで受け止めるそうだ。「脱フリーター」の動機は、やはり「結婚」が主である。生活苦や家計の維持など、差し迫った理由がある場合は本人が積極的に正社員へ変わろうと動き出すことにも特徴がある。やはり豊かさが生んだニュータイプなのですか。 女性に関しては、正社員の道が男性よりも厳しいから、フリーターをある意味肯定的に捉えているともいう。どこかに結婚(夫)への依存もあるだろうけど、僕は女性はシンデレラでいいとも思ってる。

フリーターの就職先受け皿として中小企業が注目されている。高度成長期には大企業の若年労働力確保力と対抗するため、中途採用に力を入れフレキシブルな人材獲得をしてきた中小企業だからこそ、フリーター再生の力を秘めているという。いいかもしんない中小企業。管理がアバウトな中で底力がつくのだね。でも僕は不採用だったがね。

企業が採用で重視するのは「年齢」で、上限は「25歳」。その次は「30歳」が多い。前者が新卒者枠、後者が第2新卒者(学校卒業後6ヶ月以上5年以下の間隔)枠といえる。長寿高齢社会のくせに、20代が大きな分岐点となっているところが就活での大きな「壁」ともいわれている。

フリーターはその後どうなるのか。団塊世代が消え、景気が上向き、企業の新卒者採用意欲が高まったとしてもその後で中高年フリーターは置き去りにされているかもしれない。2002年時点で中高年男性フリーターは100万人時代であります。

最初からフリーターになりずっとフリーターで在り続ける「漂流組」がいる一方で、真面目に働いてきたのにリストラ等で失職或いは非正規社員になった人たちもいる。よく聞くけど、リストラは社内での「いじめ」の形をとることが多い。普通の退職よりも「自己都合退職」に追い込めば、退職金の扱い等で会社負担がかなり減るからだ(これは実態は凄まじく酷い)。教育問題で「いじめ」が問題になる以前に、大人社会で公認されてる「いじめ」に対し、牙をむいて噛み付けと言いたい。迫害された者が今さら何を脅えるのか。 リストラを飲んで「自主都合退職」するか、「いじめ」られるか。多くのお父さんが「妻や家族には言えない」で、頭抱えてる。プライドと家族崩壊を恐れてか。 「いじめはいけません」なんてよく言えたもんだよなどっかの先生オイそこのあなただ。

僕にはそんなものはまるでないけど、「男は稼いで一人前」というジェンダー神話が根強いとされるこの国では、男性が抱く経済から疎外される屈辱感と焦りは相当なものだという。知ったことか、と思うが。

経営難だとしても、市場原理を唱うなら、雇用を守れない時点で企業は倒産すればいい。ピンハネされてんのはいつも末端だ。底辺のくせに何を恐れているのか。そんなことを言っちゃあダメですか? 日本経済を憂う前に、首が絞まってるのは末端労働者の生活。経営側が目先を追うのなら、労働者側も自分らの利益を守り抜くことを優先し考えるべきだろ。も一度言う。労働者を守りきれない企業は倒産すればいい。生き残ることに悔い改めてよ。犠牲の上の勝利に何の意味があるのかって。だから、お願い。どうか社会的責任を果たしてほしい。いじめはやめてほしい。自己責任が、万人の闘争への一歩になってしまってゆくようで、たまらない。できることなら、傷つけ合いたくないんだ。

フリーターはじゃあ正社員を目指すべきなのか?どっかの政治家が叫ぶように。
これまで「非正社員」を問題として捉えてきたけど、じゃあ「正社員」はホントにすばらしいのかって? まぁそんなわきゃーないよねー。

「ワーク・ライフ・バランス(仕事と私生活の両立)」が最近よく叫ばれていますが、雇用の実態を見ればそんなものはお話にもならないクズ題目だということがわかります。ハッキリ言って、日本の労働社会は働き過ぎ、働かせすぎ、働かされすぎの悪性三拍子。
激務と忙殺。育休無し(女性は妊娠したら辞める)。自己判断でありながら半強制的な残業。セクハラ。パワハラ。いじめ。不払い残業(最近はサービス残業とは言わない)。無理なノルマと締め付け。無関心な労組。醜悪に煽られるガンバリズム。従えなければまたいじめ。そもそも異常な長時間労働(高度成長時に比べ時短が進んでいるというのも見かけ上のものであることが言われている)。近年では成果主義の導入が拍車をかけているともされている。 バランスなんて初めから無い。そうやって成り立ってる。みんなで成り立たせてる。

「正社員は多忙すぎる反面、賃金面でもかつてのような厚遇は受けない。そんな実態を若い世代はよく見抜いている。豊かな時代を生きる彼らは、だからこそ、青春の一時期、フリーターを選択したいと考える。正社員になっても、フリーターになっても、夢が持ちにくいのが現状である」(p132)

どっちがリアルかって。現実見てるのは誰なんだって。だからさ、証明してほしいんだよ。いつも、そうなんだよ。
〔続く〕 [編集する]
雇用は破壊されかけてる。そいつを論じる。ただ、それを「破壊」と見るかはわからない。しかし実際に「労働」というものがどこか従来の終身雇用型のものから、様々な面で変わりつつあることは否めません。
まず非正規社員の増加。そして先に述べたようにフリーターの雇用形態が直接雇用から間接雇用に移りつつあること。企業が正社員やバイトを直接雇うのではなくて、派遣会社から派遣してもらったり請負会社に代行してもらったりするケースだ。派遣という形。これだと人事管理が簡単になり、社員教育投資もいらない。福利厚生も社会保険も雇用保険も、退職金のための引当金(将来積立金)も、負担はゼロ。そりゃ借りてるだけだからね。残業手当も有給も関与しない。 働く側から見れば、別会社へ送り込まれてるということになる。ここにも色々問題が生じてる。いろんな面で不安定だなと思う。ポスト終身雇用型の課題は多い。

有名なトヨタの「カンバン方式」だとか、或いは「受注生産」だとか。オンデマンドだとか。いまや労働力がそれ。人間が「効率的」な名の下のそれ。多様で実に効率的に人は使い回され、使い捨てられる。全ては金と契約。義理も人情も努力論も精神論もそこに入る余地はない。労働はもう尊いものでは無い。労働の尊さを巡ってはよく両親と意見が衝突する。僕はアフターバブル世代だからだ。 オール自己責任。そして、だからこそ自分で自分を守らなきゃいけない時代。

製造業現場はいま派遣社員、請負社員、外国人労働者でもっている。深夜や早朝のきつくて単調で低賃金労働を彼らが引き受ける。その数の公式統計は存在しない。 熾烈なグローバル競争下にあり、多くの製造業が東アジアに工場を作り安価な労働力として現地人を雇う中で、対抗するには日本国内の工場も安価な労働力を使わざるをえない。それを担うのが彼ら。労働者派遣法の改正により、2004年から派遣社員は製造業現場でも働けるようになった。現場では、正社員、請負社員、派遣社員三者の使い分けが課題になっているし、貸し借り先の企業現場での指揮・命令の在り方とか、人間関係とか、すっげえ複雑になっていろいろ混乱してるそうだ。ポスト終身雇用型は、水面下では問題続出なのだろう。

近年流行りだした「個人請負」という形。個人が企業から業務を請け負ったり委託契約されたりする「個人事業主」になれる!という画期的システム。あなたもわたしも「個人事業主」♪。一見素敵そうけど、これがとんでもないんだってさ。「雇用」じゃないから、「労働者」として何の保護も受けられないことになるのだと。雇用保険も社会保険も何も無い。「雇用契約」じゃなくて「委託契約」故にだ。だけど、素敵なはずの「個人事業主」が、実際は別に専門仕事でもなく普通の末端労働をしてたりするんだって。職人とかじゃなくてまぎれもなく「労働者」やってたりするんだって。じゃあ「労働者」のはずだろが!要するに企業は本来すべき負担をもしたくないから、こんな卑劣なロジックまで生み出しやがったてこと。汚いな。 非正社員社会のシステムの隙間につけ込む企業によって労働問題は続出してる(例は書きたくもないほど酷いものばかりだ)けど、ほとんどの個人は泣き寝入りしてる。

法令遵守(コンプライアンス)なんて死語? それくらい企業は法律を守ってない。膨大な数の労働問題があり、これまでにそんなものはいくらでも見聞きしてきた。酷いものばかりだよ。 今回はその一般例として、企業の社会保険料逃れの手口を紹介しよう。

まずあるパート女性が、老後不安だから厚生年金に加入したいと考えたとする。その場合企業側は、加入すれすれの所で仕事時間を組み立てるのだ。第2号被保険者は、1日の所定労働時間が正社員の4分の3即ち週30時間以上勤務が条件なので、悪質事業主は週27、8時間に設定したりする。厚生年金への加入条件を満たす従業員がいるのに加入させてない事業所は、2004社保庁調査で2万7200に及ぶ。もちろん氷山の一角だ。こんな実態に憤ったら、社会保険事務所に訴え出ましょう(匿名OK)。
他にはこんなケース。 就労が2ヶ月以内の短期労働者は厚生年金適用が除外される。そこを狙ったもの。つまり2ヶ月以内で更新を繰り返して労働者を社会保険に加入させないのです。どこまで卑劣なのか。

大手の有名製造業の多くは請負労働者を活用してます。請負業界自体が、急成長な分だけ不透明な業界です。管理体制が未熟だったり、非上場企業も多い。傘下会社の名前を頻繁に変更するケースもある。そんな業界だ。法律遵守なんて初めから眼中にないのかも。

いろんな人が、企業社会の悪意の部分の前に、泣き寝入りしてる。
強くなりたい。もう自分が生き残るためだけじゃない。僕はいつもそうかもしれない。テリーマンと同じだ。この世に生をうけて、強者が嫌いだった。なめられるのが嫌いだった。弱い者いじめは殺してやりたくなる程嫌いだった。強者の正義や、「正常」な人の「正しい」判断や、世俗の「常識」や、安易なトレンドへの安息も、そしてやられっぱなしの弱者や烏合の衆も大嫌いだった。 僕がこの世でやっと見つけたものまで破壊されはしない。こんな腐った世界でも、誠実でささやかに生きてゆこうとする優しさが、踏みつけられてねじ曲がったり潰れちゃったりするのは、もう見たくないし、僕は時々キレそうになるんだ。
〔続く〕
学びのブログ再開です。つうか、こんなもん書きながら就活するような奴がかつていただろうか。落ちて当然か。しかたなや。

では今日は、殆ど蔑ろにされているけど日本の労働法律について少し論じます。これは本当に大事なことなのです。僕なんかが本来論じるようなことではないのです。もっと詳しいことを知りたい人は是非『ポケット労働法』を一読。

まず労働基準法では、採用時の雇用契約において、書面での労働条件提示をしなければならない。そして就業規則の開示もしなければならない。…って知ってた? 僕ら若者はそんなこと全然知らないような気がする。契約して働き始めてから「条件が違う」「賃金が違う」「働く内容・場所が違う」というトラブルがいま(に限ったことではないが)続出してるそうだ。無知の代償は大きい。

同じく労基法では、「6ヶ月間の連続勤務、全労働日の8割以上出勤」という条件を満たせば、非正規社員でも有給休暇を取れることになってる。でも調査によると半数が「ない」と答える。事業主の裁量に任される退職金制度も、6割以上が「ない」。ボーナスも過半数は「ない」。厚生労働省が出した「短時間労働者の雇用改善に関する指針」では、「賃金だけでなく賞与や退職金も、就業の実態や通常労働者との「均衡」を考慮し定めるように「努め」なさい」と規定してある。もちろん実際には「努め」られていない。罰則規定がない法律がザル法だってことは僕だって知ってる。国は見て見ぬふりってことです。

不払い残業(サービス残業)については、労基署が2003年度に支払いを行わせたケースは1184企業(支払額100万以上の企業)。対象労働者数は19万4653人。支払額は238億7466万円。これでも氷山の一角とされています。 不払い残業がまかり通るおかげで、企業は本来2人必要な現場で1人に2人分働かせたりしてます。全ての不払い残業を支払わせることができれば、またそれが慣習的になっていけば、ちゃんと2人必要な現場では2人雇うようになるのだと思う。多忙なのに雇用が無いなんて本来バカげたことだと僕は思う。そしてこの場合、経営難は別問題にしたい。会社を倒産から守りたいのなら、経営者及び自分の限界と相談して我慢すればいいだけのことだからだ。不安定就業者の方々は我慢するメリットはないと思うけどね。末端のくせにこれ以上何を堪え忍ぶんだ?って思う。 そして違法の証拠、言質、労働時間を証明するものは常に確保しておくことです。団体交渉・示談・裁判で有利になるからだ。

1カ所の仕事だけでは生活できないので、数カ所を掛け持ちする「複合就労」が、特に女性の非正規労働者に増えてきている。そんな昨今は実に様々な問題が続出し、ユニオンなどに寄せられてる。 …有期雇用1ヶ月更新は当たり前。使用期間に成果が出なければお払い箱。パートといえども企業が雇用する場合は労働条件の明示が必要なのに、就業規則も見せない。労働条件もちゃんと取り決めない。契約書のコピーを渡さない。「社会保険に入れますか」と言うと「そんなことを聞くのはあなたが初めてだ」と言う。社会保険に加入すれば時間給を引き下げられる。etc… 今流行りのCSR(企業の社会的責任)なんてどこにある? こんな風に、一部の企業は法令など無視して抜け道ばかりを探しまくってるんだよ。

会社が法律に違反する働き方をさせた場合、その事実を労働者は労働基準監督署に申告することができます。(我が親愛なる横暴フレンドSK兄はちゃんとこの仕組みを知ってますよ。嬉しい限りです) 雇用が破壊され、健康すら破壊されそうなとき、この労基法一〇四条を使いましょう。本人だけじゃなく家族の情報提供でも労基署は動きます(自分で思考できなくなってるケースもあるから)。自分を、そして愛するパートナーや家族を守るために、どうかこの法律があることを忘れないで下さい。そして、takebonoさんがいることも忘れないで下さい。何度だって言います。僕は優しい人の味方だ。
〔続く〕
今日は「有期雇用」について論じよう。
有期雇用とはその名の通り有期な雇用のことです。終身雇用が崩壊し非正社員化が進むということは、有期雇用が増えるってことでもあります。有期雇用者はフリーターだけじゃなく、主婦や中高年も多い。最近ではさらに人件費を削るため、企業や自治体は人を直接雇用せず、派遣社員や請負社員に委ねる「間接雇用」が多い。ハッキリ言って、これほど不安定で不安なものはない。次の更新時にクビられるかもわかんないからね。経営者にとっては素晴らしいロジック「有期雇用」。いくらでも流動的に人員を整備できるし、一つの仕事ごとに適性と人数を計算して効率的にやれる。そう、効率的にね。おかげさまで経済は人間市場の規制緩和により回る。末端労働者の経済的・精神的不安定と引き替えに回る。派遣労働の規制緩和は政府による諸処の改革の成果でもある。製造業だけでなく、建設や港湾とかもそのうち派遣がOKになるんだろう(もっとももう既に違法に派遣されてるがね)。 自分の置かれた立場における現実として、多くの人によく見ておいてほしい。これが「痛み」だと思うよ。

有期雇用の上限は、1988年の労基法改正までは原則1年だった。(そもそも法的には、あの女工哀史の時代くらいまでさかのぼって、あの劣悪環境人身拘束長期間労働は忍びないという温情的な取り決めだったらしいが…)いくつかの改正を経て今は上限3年で、専門者と高齢者は5年である。…あれ?労働契約期間が原則1年より3年の方が、有期で働く側にとってはありがたいじゃん〜。お上もたまにはいいことするね〜、っていうのはやはりおめでたくて、むしろこの規制緩和は経営者側の声を受けてのものだったという。そこには興味深い過程がある。

上限が原則1年だったときは、1年以上働く(働かせる)ときはその度に更新しなきゃ(させなきゃ)なんなかった。その際、何回も更新(「反復更新」)させておいて「急にご用済み」にすることは、実は法律が認めておらず、「解雇権の乱用」にあたっちゃうらしいのだ。厚生労働省の研究会が様々な裁判例を分析し公表した結果は、「反復更新を繰り返した末の「雇い止め(契約更新しないケース)」には合理的な理由が必要になる」というものだった。そう、だから経営者側は、上限1年の中で反復更新を繰り返すことには使い勝手の悪さを感じてたのです。そして改革にて期間3年への規制緩和を要望し実現させたのです。「3年雇用保障したんだから」で裁判等は充分企業側有利になるってことだよね。 法も司法も強者の味方か。

有期雇用者の働く理由トップは…、短時間パートの人では「家計補助」(47%)。これはたぶん主婦とかパラサイトが可能な人たちだろう。家計の補助として有期雇用を考えてる人たちは短時間労働でむしろ都合がよい場合もある。 一方で、長時間パート(労働時間は正社員並み)の人では「正社員として働ける職場がない」(41%)がトップ。パラサイト不可能な人たちは長時間働かなきゃならないし、安定した正社員を希望しても願いはなかなか叶わない。 契約社員の人たちは「これまでの経験を生かせる」(40%)がトップ。不安定就業だというのにね。 契約期間終了時の希望は「契約更新」(66%)がトップ。「正社員にしてほしい」(9%)が2番目。正社員になりたくないわけじゃない人もいるけど、もう諦めモードなんだそうだ。正社員のキツさも見てるのだろうし。企業は嬉しいけどね。

そして現状では色々な問題が起きてる。先ほどの話では原則上限3年に決められたはずの法律が、企業によっては普通に守られてなかったりする。むしろ3ヶ月や1ヶ月更新はそれほど珍しくない。そんな中では労働者の権利主張などもはや有り得ない戯言になる。経営側はいつもの決まり文句を言うだけ。「代わりはいくらでもいるよ」と。 労働条件の切り下げも常態化している。昇給どころか、更新の条件に賃金切り下げを提示してくる場合もある。「嫌なら辞めてちょ」と。 一部ではセクハラやパワハラも起きているという。特に非正規雇用の中心である主婦や若者は全くの無知無力なので、企業はやりたい放題だ。
「有期雇用」は様々な環境が未成熟なまま、社会的弱者を飲み込み拡大してる。それで成り立っているし、経済は回ってゆく。人材派遣業とかは今後伸びてゆくんだろう。 止められないから我慢する?我慢するから止められないんじゃないの? どっちにしろ弱者はこの構造の中では厳しくて、そのうち潰れてくと思う。どうすれば、いい?

これからの人間はどこまで使い捨てられていくのだろうか。取り返しのつかなくなる前に、破壊されてるものに向き合わなきゃいけないのだけど…。
僕はいつまで弱者の立場で在れるのだろうか。強者の論理は、やはり充分に戦える者ほど選んでしまうものだろう。 弱いままだから弱者の立場で在ろうとするの?強くなっても弱者の立場で在ろうとすることができるの? 今は脆弱な僕が、仮に強くなった後で、尚、弱者の立場に立てることができるのだろうか?そんなことは、何がどう甘かったり若かったりして、ダメなように言われるんだろうか?
どうにもなりそうもない現実のことをもっと知ろうとすることや、そこからなんか希望のようなものを捻り出してゆくことって、そんなに愚かなことですか? 弱肉強食にやりきれなさを感じるのは、僕がクズだからですか? 何も得ていないから?失えるものがないからなのですか?
自分のことに精一杯な中でも、どれだけ他人のことや世界のことを考えられるのか。きっとこれから真剣に考えるときがくると思う。
〔続く〕
格差拡大・下流・雇用破壊時代を我が社会が迎えるにあたり、とりあえず「フリーター」の再分析でもしよう。
陰鬱な響きである「フリーター」。2005年版の労働白書(厚生労働省)では213万人だったフリーターが、2003年版の国民生活白書(内閣府)では417万人とされている。何をもってして「フリーター」とカウントするか定義が曖昧なためだ。「フリーター」がもともと造語だってことを再認識させられるね。 とりわけ難しいのは、近年の非正社員化で急増した「派遣社員」「契約社員」はフリーターなのかそうじゃないのかどっちなの?って問題だ。それで数が違ってくるからだ。まあしかし定義の問題よりもさ、いま確実に言えるのは多くの人が不安定雇用だってことだ。だから新たにつくればいいんだよ概念定義ワードをさ。シンプルなの考えた。「不安定就業者」。これで充分。 「フリーター」なんて言葉からして利用されてる気がするんだよ。安定してるフリーターだっているし、不安定な正社員だっているさ。そして派遣や契約さんはどっちなのかね。

ちなみに新卒フリーターは大卒で3割、高卒では4割近くいる。その中でも偏差値の低い学校や、成績が悪いほど、やはりフリーター進路率は高い。フリーターは、企業のジョブトレーニングも受けれないし、労働意欲も減退してく傾向が高く、努力を評価するシステム体系も不充実だからモラルハザードまで起こりうるとされている(それにしちゃどこの店もバイトさんは勤勉なように見えるがね)。フリーターの言い分の多くにある「自分探し」「適職探し」は、そもそも未知の体験を多くしないと見えてこないものだと思われるのに、新しい体験自体を避けてしまう消極的フリーターも生まれてる。しかし、「仕事での成功・評価がなければ負け組」のような会社・仕事至上主義や、まかり通る違法や劣悪な労働環境・条件や、やり直しのきく雇用システム、などにおける改善が見られなければ、この社会はなかなか仕事に夢や希望ややりがいが持てる労働社会ではなくて、安易なフリーターが増えるのも仕方がないのだとも言えるのです。 僕はクズだから。フリーターやニートの気持ち少し分かるつもり。こないだ飲んだときKSさんと話して気持ちすごいわかる気もした。僕らは普通に質素に文化的に生活できるだけでいいのにな。過剰生産大量消費社会における労働の意味ってなんなんだろ?過剰な生産もサービスも、それらを売りさばくことも、狂ったような過剰を清算する消費システムに支えられた上で市場競争に晒された雇用労働活動だもんな。賃金も、失業の恐怖も、社会貢献も、夢やらヤリガイとやらも、どのようにか労働意欲なんてものになりうるのでしょうか? 疎外っつうんすかこれ? でも僕は新社会人も、勇気を持ってフリーターになる人も、立ち上がろうとする人たちも、みんなみんなやっぱり応援したいと思うんだよ。
「聞こえるかい?がんばれ!♪」(B・H)

「フリーター」の内情。(『非典型雇用労働者調査・フリーター編』リクルートワークス研究所)
どんな仕事してんのか?…フリーターの7割が従事してるのはやはりサービス業。 どんな所で?…勤務先は従業員30人未満の小規模企業・事業所。 年収は?…ピンキリ(状況によって違う「質的格差」なのだ)。平均年収は男性156万、女性122万。学歴はほぼ反映しない。 フリーターの中にも格差はあるの?…経験の有無と年齢が大きく関わる。正社員経験者(男性)は平均201万に対し、未経験者(同)は136万である。30〜34歳フリーター(男性)は203万に対し、18〜19歳フリーター(同)は126万である。 フリーターの世界も年功社会なのかね。そしてフリーターしかしたことがない人はやはり低収入生活から抜け出すのが難しいんだって。
同年代のフリーターと正社員の賃金格差は約3.7倍。生涯賃金格差は4.2倍。その他、税金も消費支出も年金額にも大きな格差が生じ、多大な影響を日本社会に及ぼしうるとされてる(何言ってやがるって感じだけども)。非正社員化社会はGDPも押し下げる懸念もあるが、これが少子高齢化などの社会変動とマッチしてどのような事態になりうるのか、まだ僕には想像もできないな。

男性プーがよくいうのが、「女性(フリーター)は結婚という逃げ道があるからいいよね」という皮肉。だが女性フリーターもパートナーがフリーターであることがやはり多くて、不安定は変わらなかったりするという逆皮肉。フリーター女性の方がやはり正社員女性よりも結婚では遅れをとっているというデータもある。やはり結婚は経済力である。 90年代前半までには、フリーター女性も正社員女性も、パートナーである夫の経済力にはあまり格差はなかったという。雇用情勢が厳しくなる90年代後半になると、前者の夫の年収は低くなっている。そうなるとやはり男の奪い合いなのかな。 そんなわけでフリーター女性は結婚後も働くことが多い。

仕事を持っている子どもの親との同居率は全体で4割強だが、その中でもやはり正社員の方が低く、非正社員は高い。結婚率も正社員より非正社員の方が低い。そりゃそうですよ。生活基盤とは、お金だ。 経済的不安定なら当然結婚には消極的になるし、どんなに誠実でもパートナーとしてフリーターは選ばれにくいのである。ある元IT社長はこんなことを言っている。その通りかもなと思うし、こいつ死ねばいいのにとも思う。
「お金を持つだけで、精神的なものも高みに上がる。そしてそのお金に女性もついてくる」(byホリエモン)

「結論を言えば、経済的に不安定なフリーターが増えれば増えるほど、非婚・晩婚というライフスタイルの選択に拍車をかけ、少子化もさらに進行するはずである」(p42)

フリーターの大量出現に良い面はないの? 筆者が一つ言ってます。「男が働き女が家事」という固定的性別役割分業は崩壊するんじゃないか、ってこと。おお。フェミニスト万歳。なにしろ年収が男女とも平均で200万に届かないのだから、当然共働きだから、家事は折半にでもしないとやってられんだろう。実に男女平等で相互理解だ。男性は「妻子を食わせて一人前」的な伝統的「沽券」から解放され、女性は「内助の功」的な女の「務め」から無縁になる。共倒れしないために共に働き、「結婚」は真の平等な共同体システムとなるであろう。…万歳。貧乏万歳。男女平等下流社会万歳。ろくでもねえよ。万歳。

しかしまあ新たな価値観みたいなものは実際生まれてくるかもしれないな。
〔続く〕

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