ガンダム
2005年2月24日最近改めて観始めてた「機動戦士ガンダム」を今日で全話観終えてしまった。結局最初から最後まで僕は夢中になって観ました。その人間ドラマと戦争の描写は意外と素敵で「魅力」が多く詰まっていた。引き出しの豊富さ。「見せない」ものを「魅せる」こと。そのいずれも充実してた。キャラクターもくせのない、生き生きしていたし素朴だった。モビルスーツの戦闘シーンもかっちょよかった。
しかし、地球連邦軍もジオン軍も、登場人物は結構死ぬんだね。結局ニュータイプとはシャアのいうように、戦争が生み出した変種なのだろうか。それでも戦争の中で成長してゆくアムロ。運命故に散っていったララァ。そしてシャアは、平和とか戦争とか以前に、自らのアイデンティティを戦場に求めているように思えた。でもその陰で、戦争の中で、様々な思いの中で死んでいったたくさんの人たちがいて、残された人たちの悲しみがあって、なんか戦争という人類単位の大きな歴史的潮流が、人の思いもモビルスーツも、何もかもを飲み込んで動いていくような、そんなかんじ。宇宙植民地時代ってのは、戦闘が宇宙空間になって、モビルスーツになっても、人間自身はそんなに変わらないもんなんだなあ。つまんないことでアムロはすぐ不安定になるし、ブライトはぶち切れるし、人間くさい。だからこそ、死んじゃいけない人が死ぬのは悲しかった。最終回のアムロとシャアの白兵戦一騎打ちに象徴されるように、ニュータイプっつっても血も涙も流れる生身の人間であって、そのことを忘れちゃいけないと思った。ニュータイプが、戦争故の変種だったとしても、戦争がアムロを成長させ、シャアを突き動かすものであったことには違いはない。戦いが人を強くさせるのなら、歴史的潮流の中で、仮に眼差す未来に自分が無力であったとしても、僕はニュータイプでもいいと思った。
人はなぜ戦うのか。戦いの中で生き延びようとするのか。いつのときも死んでいった人たちがいて、生き残った人たちがいて、時代が移っていくだけなのにな。
戦争への憂いはそのまま人類への憂いなのかもな。人間どうしが、モビルスーツという人間型兵器どうしで殺し合う様は、なんというか、人が人の限界を超えて尚、人間がもつ本来の何かと葛藤しながらも、結局は人は戦うことでしか生きてゆけないことを示しているように、僕には思えたのだ。
ラストの、ホワイトベースが炎上して沈んでいくシーンには感動した。アムロたちの長かった戦争はひとまず終わったけど、僕の戦争はこれからだわな。
しかし、地球連邦軍もジオン軍も、登場人物は結構死ぬんだね。結局ニュータイプとはシャアのいうように、戦争が生み出した変種なのだろうか。それでも戦争の中で成長してゆくアムロ。運命故に散っていったララァ。そしてシャアは、平和とか戦争とか以前に、自らのアイデンティティを戦場に求めているように思えた。でもその陰で、戦争の中で、様々な思いの中で死んでいったたくさんの人たちがいて、残された人たちの悲しみがあって、なんか戦争という人類単位の大きな歴史的潮流が、人の思いもモビルスーツも、何もかもを飲み込んで動いていくような、そんなかんじ。宇宙植民地時代ってのは、戦闘が宇宙空間になって、モビルスーツになっても、人間自身はそんなに変わらないもんなんだなあ。つまんないことでアムロはすぐ不安定になるし、ブライトはぶち切れるし、人間くさい。だからこそ、死んじゃいけない人が死ぬのは悲しかった。最終回のアムロとシャアの白兵戦一騎打ちに象徴されるように、ニュータイプっつっても血も涙も流れる生身の人間であって、そのことを忘れちゃいけないと思った。ニュータイプが、戦争故の変種だったとしても、戦争がアムロを成長させ、シャアを突き動かすものであったことには違いはない。戦いが人を強くさせるのなら、歴史的潮流の中で、仮に眼差す未来に自分が無力であったとしても、僕はニュータイプでもいいと思った。
人はなぜ戦うのか。戦いの中で生き延びようとするのか。いつのときも死んでいった人たちがいて、生き残った人たちがいて、時代が移っていくだけなのにな。
戦争への憂いはそのまま人類への憂いなのかもな。人間どうしが、モビルスーツという人間型兵器どうしで殺し合う様は、なんというか、人が人の限界を超えて尚、人間がもつ本来の何かと葛藤しながらも、結局は人は戦うことでしか生きてゆけないことを示しているように、僕には思えたのだ。
ラストの、ホワイトベースが炎上して沈んでいくシーンには感動した。アムロたちの長かった戦争はひとまず終わったけど、僕の戦争はこれからだわな。
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