ときに巡り廻る運命というリング
2005年2月28日福本伸行の麻雀漫画『天』を読んでいるのだが、この漫画たまに震える。別連載の麻雀漫画『アカギ』の主人公でもある赤木しげるが、その老年期として登場しているのだが、この赤木がホントにすごい。まるで死ぬことを恐れない。賢明であることを捨てることで勝ち続ける男なのである。 自爆覚悟の牌切りを平然と通す赤木に、ひろゆきが問いかける。「赤木さん…、あの牌を切るとき…あの時って…、自分を信じてるんですか?それとも捨ててるんですか…?」 赤木は静かに言う。「同じことだろ…、フフ…」 赤木の言葉を借りた福本伸行独特の言い回しが、僕の中に響いた。「信じると捨てるは同じこと…、自分の本心に沿って執着を整理していくと…いつの間にか自分を信じ同時に捨てている…同時だ…分かつことはできない…」
己の中の執着を整理していくってことは、つまるとこ、それが自分なのではないか。自分を信じるとは、自分を賭けること。そもそもが、自分を守ることではないのだ。運命に対し、礼儀を尽くそうとする姿なのではないか。 自分を信じるのなら、自分を捨てて、自分に賭けてみること。あやふやな心とやらに己を漂わせていては、犬死にすらできないのかもしれない。
意識レベルで臨むことに、明らかに身体がついていかないときが最近多々ある。精神の奥底に薄い氷幕が張ってあるかのようだ。今尚歴史が残した傷跡が、遅く生誕した僕を、嘆きの壁のように止まらせやがる。生き急ぎたいなら、ここをまず叩かないとだめだ。巡り廻る運命と名乗るあの螺旋状の奇跡に、きっと辿り着こうとするなら。
己の中の執着を整理していくってことは、つまるとこ、それが自分なのではないか。自分を信じるとは、自分を賭けること。そもそもが、自分を守ることではないのだ。運命に対し、礼儀を尽くそうとする姿なのではないか。 自分を信じるのなら、自分を捨てて、自分に賭けてみること。あやふやな心とやらに己を漂わせていては、犬死にすらできないのかもしれない。
意識レベルで臨むことに、明らかに身体がついていかないときが最近多々ある。精神の奥底に薄い氷幕が張ってあるかのようだ。今尚歴史が残した傷跡が、遅く生誕した僕を、嘆きの壁のように止まらせやがる。生き急ぎたいなら、ここをまず叩かないとだめだ。巡り廻る運命と名乗るあの螺旋状の奇跡に、きっと辿り着こうとするなら。
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