栄光のくず

2005年3月13日
Aの家で飲んだ。Oがてっきり来るもんだと思ってたのに「モルモン書」を読ませらんなくて残念。でもEつぃんと久しぶりに話せて楽しかったし、KSやSSも相変わらずで笑えた。SSのいう「チーム・くず」とかって、ひどいもんだと思う反面、このクズたちの場所はなんて居心地がいいのだろうかと、密かに確かに喜びを感じてたりする。トレンドからフリーに、素に近い自分を表現できて、尚かつ相手から何かを得たり、同じ空気を共有できたりするこの場所は、僕にとって家族と同じくらい大切にしたいコミュニティーになっちまってる。

あいつらも…あのイカれたSゼミの連中も、或いはあの底辺大衆的なR−SOMAも、或いはあの愚かしい民青同盟も、物心ついたときから果てしなく、僕が葛藤しながらも選んできた居場所で、歩いてきた道で、そもそも僕にとってそれはレールなどではなく、呼吸をする時間を過ごすためのものでもなく、それはなによりも僕自身を生きるためのフィールドだったのだ。世界だったのだ。カテゴライズされた「友達」の向こう側に、逸脱した所にいつもそれを見ようとしていたっけか。
この年になると、結局惰性で付き合っていた奴らはどんどん切れていって、結構自分らしさと、自分が気に入っているその人らしさのコラボが出来てきたりしてる。「トモダチ」が必要なくなり、居場所が生命感を帯びてくるようでもある。「普通」の友達が一人もいないことに気付くとき、僕の生き方が充実していることさえ感じたりする。
あのヒトと話したこと、あのコと話したこと、アイツと話したこと、名も知らぬそのヒトと話したこと、今ここに覚えているだろうか。自分とコラボしたもの、確かに響いたもの、共鳴したもの。
人間性悪を示したYさん、破滅を願ったUS、そして神になったNさん、あいつら今なにしてんだろな。あの頃のメンバーは僕の居場所だったのだろうか。
でも、そうだとしても、たいして変わってないや、紙一重。マルクスでも平和でもサッカーでも、自分らしい居場所に対しては、いつも自分らしく在ろうとしてきたように思う。「ソウル」のもとに。
「チーム・くず」…ひどいもんだ、どうしようもない連中だけど、ホントなんてすばらしいんだろ。まだまだこの冷え切った社会に生きることに開き直りきれていない自分にも、社会不適応者の輝きはだからこそ、暖かくて優しくて楽しいのです。脳死社会において、嗚呼、あいつらは、脳を委ねてはいないんだ。脳を委ねることもできないクズたち、でもそれが人間らしくて貴重ですばらしくて愛おしくて、僕をいつもいつもドキドキワクワクさせ、何度でも惚れ直させられるんだ。こんな時代にお互いを巡り合わせてくれたことに、だから、奇跡といえるのでしょう。生命の価値は奇跡かな。「チーム・くず」を誇りに思ったりして、バカげてると感じても、不思議と人に優しく在りたくなったりする。

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