いまこの瞬間を恐怖している者たちへ
2005年3月15日いちおうウェブ上ということもあってこの日記上に書かない出来事・思いも、自分なりにたくさんある。 そして今日、自分の中の小さいことなんだけど、一つ、「あ、乗り越えることができたな」と思ったことがあった。その内容はこの徒然日記には書くことが出来ない程内面的なもの(もちろん自分の日記には書きます)なのだけど、ちっぽけだけど自分の中では大きいものだった。おかげで昨日までの僕と明日からの僕はまた若干違うものになるのだろう。前進といえばそうかもしれない。葛藤も含めて、自分の力だけで乗り越えることが出来た今日のことは、大きい一歩かもしれない。
立ち止まった時間、遠回った時間は長かったけど、僕はもう同じ恐怖を同じようには恐怖しないだろう。退けてしまったのだ。乗り越えてしまったら所詮こんなものだけど、でも今まで恐れていた時間に意義がないわけではない。恐れを知ることは、勇気を知ることで、自らの弱さと強さを知ることだと思うから。 奇妙なものだ恐れって。なんで足がすくむのだろう、なんで声が震えるのか。防衛本能の一つなのかな。だから勇気なのだ。恐れ知らずが勇敢ではないように、勇気とは恐怖を乗り越えた人間だけに与えられる鍵なのかもしれない。扉を開く勇気という鍵を得るために、人間は恐れるのかもしれない。勇気を得られない人間はその場にとどまって、つまるとこ恐れる必要もないのかも。恐れという感情はまるで、進もうとする意志を試されている過程のような気がする。 僕は、恐れという感情を抱いた以上、立ち止まる必要を僕に認める。そして立ち向かう必要をその後に認めているのだ。なんのことはない。立ち向かうために、進むために僕は恐れていたのだ。わかってて、それでも立ち止まって恐れて乗り越えようとするんだろう僕は。とにかく今日はちょっぴり嬉しかった。
優しさある勇気、勇気ある優しさ、僕の中に育めるだろうか。
立ち止まった時間、遠回った時間は長かったけど、僕はもう同じ恐怖を同じようには恐怖しないだろう。退けてしまったのだ。乗り越えてしまったら所詮こんなものだけど、でも今まで恐れていた時間に意義がないわけではない。恐れを知ることは、勇気を知ることで、自らの弱さと強さを知ることだと思うから。 奇妙なものだ恐れって。なんで足がすくむのだろう、なんで声が震えるのか。防衛本能の一つなのかな。だから勇気なのだ。恐れ知らずが勇敢ではないように、勇気とは恐怖を乗り越えた人間だけに与えられる鍵なのかもしれない。扉を開く勇気という鍵を得るために、人間は恐れるのかもしれない。勇気を得られない人間はその場にとどまって、つまるとこ恐れる必要もないのかも。恐れという感情はまるで、進もうとする意志を試されている過程のような気がする。 僕は、恐れという感情を抱いた以上、立ち止まる必要を僕に認める。そして立ち向かう必要をその後に認めているのだ。なんのことはない。立ち向かうために、進むために僕は恐れていたのだ。わかってて、それでも立ち止まって恐れて乗り越えようとするんだろう僕は。とにかく今日はちょっぴり嬉しかった。
優しさある勇気、勇気ある優しさ、僕の中に育めるだろうか。
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