市場経済末期国家

2005年5月7日
教材研究の日々だ。実習教科は地理。単元は「国としてとらえる地誌」。僕はアメリカという国をまず授業することになった。キーワードは《超大国》。 その超大国ぶりを、どう興味深く伝えることができるか。どんなパフォーマンス、エンタメが必要だろう。構想は固まってきたものの、肝心な教授法に悩んでいる。昨日の皆の模擬授業は参考になった。あんな感じで、自分のテイストを取り入れていけたらな。
僕の知るアメリカは、自由主義で個人主義で契約社会で訴訟大国でもあり、差別は潜在化しているものの、表面上細かい権利への配慮もあると思う。自由と自己責任。競争と消費こそが文化の国。だが、「アメリカ=世界」と勘違いしている愚かさと、アメリカンスタンダードと、911以降酷くなったアメリカ愛国主義の立ち上がりは、酷く醜悪で、今後の世界の不安材料だ。
社会福祉面でいえば、国民健康保険が存在せず、公教育予算の現状は酷いらしい。故に民間が介入することになり、教育の商業化が進んでいるという。学校教育現場は、企業広告・マーケットの場になっていて、教材・教科書はスポンサー企業が提供する。校内の学食や自販機は契約企業の商品を独占契約し、学校行事は契約企業が優先的に広告塔として使うそうだ。運動会のユニフォーム、コンテストの賞品等々。(ソニー主催○○中学校合唱コンクール…とかか?)スポンサー企業がエネルギー会社だった場合には、社会の教科書に「環境問題」が載ることは無いらしい。なんというか…悪夢だね。京都議定書を蹴った態度そのものだな。だから地域によっては「進化論」を否定する聖書原理主義教育なんかがまかり通るわけか。学校教育が、アダムイブが人類祖先だと教えるわけだ。中絶、同性愛、尊厳死の否定を学校教育が教えるわけだ。何という危うさ。悪夢。まあ石原東京王国も似たようなものか。保守回帰。天皇万歳。 当然ながら地域間で学校・教育の質の格差は存在する。あの雑多種国家をまとめ上げる公教育なんてありえないのかな。地方分権、州とかの権限が強いってわけか。日本ではまだ教育がアメリカほどは市場の食い物にされてはいないのだな。だけどたぶん今の日本のネオリベラリズム的教育改革の最果てはこんなかんじなのかも。公教育の一定レベル保障というものを、最近の風潮のようにその一律画一主義の弊害という面だけで批判するのは危険すぎると思う。日本の教育界は規制緩和されていない非関税障壁だから、ガンガン自由化せよと、ネオリベラリズムの風吹き荒れる現代社会が後押ししているように思える。自由とは何なのか、教育権とは何なのかを考えなければならない。教育する権利を持つのは、国?親?教師?或いは市場?「子どもにとってよい環境」って何だ?誰が決めるんだ?答えなんか出ていない。ある教育という営みが、誰にとってどんな利害なのかを問うところにこそ、一つの不毛な議論への決着があるのではないか。
アメリカの教材研究だったはずが、こんなことをぐだぐだ考えてしまった。こんなん授業したら実習中止かな。大人社会は、嘘ばっか。荒れるの当たり前じゃないですかあ。
教育王ブレア労働党が生き残った。イギリスもこれからどうなってゆくのかな。

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