今日は図書館行って文献集めたり読んだり、教材研究に取り組んだ。なかなか進まないけど、だいぶ材料は揃ってきた。あとはシュミレーションを重ねたいところだな。
あの頃…高校生の僕が、知りたかったこと。知りたくなかったこと。そうゆうのみんなみんな授業で詰め込んでやろうと思う。わかる喜びとは、知ってしまう苦しみでもある。だけど人は知ることで生きることができる。強くも、愚かにもなれたりする。公教育の求心力は今や衰退し、教師の権威も、学習の価値ももう前世紀のようにはいかなくなってるけど、結局基本は、「知ること」の、自分にとっての意義を感じさせることなんじゃないかと最近思う。
例えば、「なんのために勉強するの?」という現代の子ども達の問いに対して、公教育は答えを出すことができるのだろうか。歴史や公民や数学が何の役に立つのかって?それは市場経済社会においては確かに無価値だろうよ。機械の修理方法や、接客の仕方、契約の取り方、ニーズ商品の企画力、マネー経済の知識とかの方がよっぽど「役に立つ勉強」なのだろうよ。だから、「なんのために勉強するの?」っていう問い自体、ある価値観枠組みの下でしかないのではないか。生きてることと同じで、本当はその問いに正しい答えなんか無いのだ。それぞれの意味を確立していくためにこそ、勉強するんだと僕は思う。既に「役に立つ」「役に立たない」で判断した勉強意義を問いてしまってる、大人びた子どもたちに対しては、「君たちの労働力に、生産力という付加価値をつけるためだよ」とハッキリ言ってしまっても、しかし子ども達はそれで納得するのだろうか。むしろ企業社会に抗っている子ども達からこそ、この種の疑問は発せられてるようにも思うのだけど…。どこか市場価値を否定しながらも飲み込まれてくのだろうけど。 「役に立つ勉強」は確かに存在する。だけどそれに憧れているのか君たちは、本当に…? 「役に立つ」ことは絶対的に素晴らしいのかい?「役に立たない」けれど、素晴らしい生き方もあるとは思わないかい?そう生きるための勉強もまた存在する。どっちが正しいわけでもない。だからこそ自らでその答えを出すこと。何をどう生き方として選ぶかなんだ。生きながらにして生き方を深く考えることができるのも、義務教育期間なのだと思うのだ。だから、公教育は公教育で在らなければならないと思う。公教育とは、子どもの思考空間の保障事業なのだと思う。 どう生きるかを自由に試行錯誤することが大いに許されている時代に、早くも価値観を自分に定めてしまうことがつまらなくないのかい?とかいっても仕方ないし、何よりも学校がつまらないのだろうけどもね。実際に思考空間が保障されてきたと言えるのかよ。これからは、教育が保障するのも、完全に労働力だけになってゆくのかもな。おしえてほしい。金八先生。教育って何ですか?

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