たまには世界を憂うとき?
2005年6月25日 戯言戯言諸々その他「世界の半分が飢えるのはなぜ?」(J・ジグレール著)という本を読んだ。「僕たちはこんなに、お腹一杯に食べられるのに、どうして世界にはたくさんの飢えている人たちがいるの?」−カリム少年の素朴な疑問に、お父さんのジグレール教授が一つ一つ答えてゆくというストーリーだ。
いま地球上で、実に8億2000万人が「飢え」に苦しんでいるという。「飢え」。ウエ〜。そんなもんはもはや「普通」になっちまっている。「恵まれない」人々が「いること」を、僕らは普通に知ってるし、かわいそうに思うこともあるけど、もはやそれすら「日常風景」や「共通認識」みたいになっちまってて、固まって動かしようのない「現実」みたいで、どうしようもない。「世界全体の問題として考えなければなりません」なんていつもいつも言うやついるけど…さ、そのどこかの世界の悲惨な現実なんて誰でも知ってる問題だし、既に考えたことあるんだよね。かわいそうだなとも、出来れば助けてあげたいなとも、少なくとも僕は思ったことあるんだ。なんつうか、多くの人が既に「問題として考えている」と思うんだよね。だけど悲劇はなくならない。僕は「問題」の「位置づけ」なんじゃないかと思う。単純な「かわいそぉ」だけでは、人は「悲劇」だけでは動かない。福知山線脱線事故の方が共感できるのは、僕らが日本に住む人間であり、JRを使う可能性がある人間だからだと思う。どこか知らない遠い国での「飢え」による罪なき死よりも、日本国内の列車事故による同国人の罪なき死の方が、ずっと共感できるのは当たり前のことなのだ。「共感理論」のようなものも社会学系か心理学系であるんだろうけど…そう、要するに、何故「かわいそぉ」なのか?なんだ。 過去に、イラク人の幸せなんぞ願ったことはなかったけれど、僕はイラク戦争反対のデモ行進に参加したことがある。それは、大国の傲慢な戦争政策に憤ったからだった。そう、現実って「かわいそぉ」以上のものなのだ。世界には、「かわいそぉ」な人たちがいくらでもいる。「世界の問題として考える」っつうのは、8億2000万人全てに同情し共感することじゃない。構造だ。構造。人間が人間を苦しめる人間世界の構造に。そいつこそに僕は憤り悲しむんだよね。支配者が作り上げ、人々が妥協して支えている世界構造の中で、罪なき人々が死んでゆく現実こそが「かわいそぉ」だと思うんだ。
全世界の人々を養うだけの食べ物は、既に地球上に存在する。だのに何故、片方で肥満やらグルメやら食い過ぎて死ぬ奴らとかがいて、片方で飢える人がいるのか?食料が行き渡ってないのか?幼いカリム少年の問いに、ジグレールお父さんは静かに答える。「飢えは自然淘汰でも運命でもない」と。
教育実習でアメリカの農業政策について勉強してから、いや、もっと前からか、食糧問題はいつか触れてみたいとは思ってた。食料って、決定的に「力」だからだ。拳銃持ってても核持ってても、札束持ってても、人間は食わなきゃあ死ぬ。食い物持ってる奴が最終的には一番強いんじゃねえかって、子どもの頃いつも思ってた。食糧自給率の低い日本って国は、食糧の貿易を絶たれたら滅亡する国だけど、経済大国だ。歪んだ経済大国だ。「構造」の中で、食糧問題に関心を持つべきはむしろ日本じゃねえのかと僕は思う。日本人ならば、「構造」の中に取り残された飢える人々に対し少しは共感の立場に立てるんじゃねえのかなと、残飯にまみれた食堂の配膳場を見ながらふと僕は思ったのでした。
−つづく−
いま地球上で、実に8億2000万人が「飢え」に苦しんでいるという。「飢え」。ウエ〜。そんなもんはもはや「普通」になっちまっている。「恵まれない」人々が「いること」を、僕らは普通に知ってるし、かわいそうに思うこともあるけど、もはやそれすら「日常風景」や「共通認識」みたいになっちまってて、固まって動かしようのない「現実」みたいで、どうしようもない。「世界全体の問題として考えなければなりません」なんていつもいつも言うやついるけど…さ、そのどこかの世界の悲惨な現実なんて誰でも知ってる問題だし、既に考えたことあるんだよね。かわいそうだなとも、出来れば助けてあげたいなとも、少なくとも僕は思ったことあるんだ。なんつうか、多くの人が既に「問題として考えている」と思うんだよね。だけど悲劇はなくならない。僕は「問題」の「位置づけ」なんじゃないかと思う。単純な「かわいそぉ」だけでは、人は「悲劇」だけでは動かない。福知山線脱線事故の方が共感できるのは、僕らが日本に住む人間であり、JRを使う可能性がある人間だからだと思う。どこか知らない遠い国での「飢え」による罪なき死よりも、日本国内の列車事故による同国人の罪なき死の方が、ずっと共感できるのは当たり前のことなのだ。「共感理論」のようなものも社会学系か心理学系であるんだろうけど…そう、要するに、何故「かわいそぉ」なのか?なんだ。 過去に、イラク人の幸せなんぞ願ったことはなかったけれど、僕はイラク戦争反対のデモ行進に参加したことがある。それは、大国の傲慢な戦争政策に憤ったからだった。そう、現実って「かわいそぉ」以上のものなのだ。世界には、「かわいそぉ」な人たちがいくらでもいる。「世界の問題として考える」っつうのは、8億2000万人全てに同情し共感することじゃない。構造だ。構造。人間が人間を苦しめる人間世界の構造に。そいつこそに僕は憤り悲しむんだよね。支配者が作り上げ、人々が妥協して支えている世界構造の中で、罪なき人々が死んでゆく現実こそが「かわいそぉ」だと思うんだ。
全世界の人々を養うだけの食べ物は、既に地球上に存在する。だのに何故、片方で肥満やらグルメやら食い過ぎて死ぬ奴らとかがいて、片方で飢える人がいるのか?食料が行き渡ってないのか?幼いカリム少年の問いに、ジグレールお父さんは静かに答える。「飢えは自然淘汰でも運命でもない」と。
教育実習でアメリカの農業政策について勉強してから、いや、もっと前からか、食糧問題はいつか触れてみたいとは思ってた。食料って、決定的に「力」だからだ。拳銃持ってても核持ってても、札束持ってても、人間は食わなきゃあ死ぬ。食い物持ってる奴が最終的には一番強いんじゃねえかって、子どもの頃いつも思ってた。食糧自給率の低い日本って国は、食糧の貿易を絶たれたら滅亡する国だけど、経済大国だ。歪んだ経済大国だ。「構造」の中で、食糧問題に関心を持つべきはむしろ日本じゃねえのかと僕は思う。日本人ならば、「構造」の中に取り残された飢える人々に対し少しは共感の立場に立てるんじゃねえのかなと、残飯にまみれた食堂の配膳場を見ながらふと僕は思ったのでした。
−つづく−
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