たまには世界を憂うとき?
2005年7月18日 戯言戯言諸々その他「飢え」に立ち向かうすべ。土地改良。砂漠化対策。スラムのインフラ対策。農業援助。井戸づくり…。 しかしどれも応急処置でしかない。飢餓問題の根本的解決には、各国の自給自足経済の確立と、民主的な国家建築以外にないのではないかと思う。狂った市場原理主義経済と暴力的金融資本。国民から富を巻き上げるクズ国家。愚かな戦争。そして僕ら北半球人の脳死的無関心と圧倒的な無力感。正義って何だ?悪って何なんだ?僕らには関係ない…でも何で僕らは遠い国の人たちの「飢え」を憂いているのだろう?…
カリム少年はジグレールお父さんに最後の問いを投げかけます。「本当の出口ってどこにあるの?」 そしてジグレールお父さんは優しく優しく答えるのでした。「飢えに苦しむ人たちの様子を日常の風景にしてしまうような社会、人を人として扱わなくなった殺人的な社会構造を変えることだ」と。
社会倫理を逸脱した市場原理主義経済に対して、或いは様々な暴力による支配に対して、僕らには何かを考える意味が在るはずなのです。カリム少年はもう知っている。「飢え」は運命でも自然淘汰でもないことを。 ジグレールお父さんは最後に僕たちに語りかけてくれました。
「自分たちの手で自分たちの国づくりを」
「自立した経済を」
市場原理主義経済というモンスターの台頭は、弱肉強食のジャングル資本主義にあって、良心の呵責を感じることなく生きていきたいと願う悪魔どもの、罪深き精神基盤である。なぜ飢える人々がたくさんいるのか?それは食べる物を買うお金がないからだ。南半球の人々は、北半球の人々の食卓を豊かにするための作物を、クズ値で買い叩かれながらも植民地時代から大量に作り続けている。北半球の人々はそれを利用しておきながら、南半球の自然破壊を懸念する。そして他の農産物を「つくらせない」ために、余剰穀物を「食糧援助」するアメリカ。輸出入で安くさばき儲ける国際大企業と、搾取を続ける南半球諸国のクズ政府。そして愚かな終わらない戦争がいつも弱者を傷つけて追いつめてゆく。かくいう南北問題ってやつの、背景。世界中の人間の醜い部分が、蓄積された末の掃き溜めみたいに、世界の問題として僕たちの前に現れてきてる。誰が一体悪いのか?どうすればいいのか?単純な答えは難しい。人類のあらゆる負の遺産を抱えた問題はとても複雑なものなのだ。
世界の問題。目を背けても別にいい。むしろ人間的だろう。その時々でわからないことがほとんどじゃないか。世界ってそういうもんじゃないか。自分自身の人生を一生懸命生きることが、本当は一番大事なことなんだって、僕は思うのだ。
だけど…それでも僕たちが「飢え」を憂うのは、やはり人間だからなのだ。食って吐いて糞をして、睡眠欲と性欲と自己顕示欲にまみれた僕たちが、それでも遠い国で「飢え」ている人のことを時に思い、世界を憂うのは、やはり人間だからなのだろう。幼いカリム少年の思いに対し、真剣に答えてくれたジグレールお父さんもまた人間なのだ。
人を殺すのも人ならば、人を救うのもまた人だ。人を憂うのもまた人だ。世界を恐怖させるテロリズムも、世界に勇気を与える平和活動やスポーツも、人の行いなのだ。
「飢え」の中、必死で生きようとしている人たちがいる。誰のせいで「飢え」ているのか、何のせいで「飢え」ているのか、彼らには知るすべもない。僕らがそれを知ったところで、僕らもまた神に祈るしかないのだろうか。不幸の中で死んでゆく不幸。テロに脅え、年金に脅え、あの娘の態度に脅え、金に脅え、プライドに脅え、自分自身に脅え、未来に脅え…、ただ、それだけじゃねえってこと。生きるってことは。
僕は何が言いたいのかな…。なんつうか、僕らが多くのことに脅え勇気を出し立ち向かうことに、それは賞賛されたり励まされたりするんだけど、そうやって人は成長するんですよみたいなことを言われるけど、そうじゃねえってこと。確かに僕たちの社会で僕たちは誠実に生きることが、その方がいいに決まっている(と僕は思う)。だけど、今日僕が食った柿ピーのピーナッツとか、サラダにぶっかけたドレッシングの落花生オイルとか、みんな途上国の人たちが「飢え」と紙一重の構造の中で作ったものなのだ。僕らは「飢え」を救わない。明日失恋しても、リストラされても、勇気を出してまた立ち直るくせに、僕らは「飢え」には一切の力を使わない。まがい物とは言わないけれど、僕たちは僕たちに与えられた恐怖と幸福の中でそれらと葛藤させられて日々を過ごしている。こんなことほざくのも、甘いし若いのだろうけど、でも立派な大人たちが「飢え」を憂おうとしてるようには見えない。どうしようもないことにはいちいち憂わなくなるのが大人なんだろうか?世界で何億人が「飢え」ていても、僕らは年金や郵政や雇用に脅え、勇気を出し全力で立ち向かおうとだけしている。それが悪いわけじゃない。むしろ正しいことだろう。でも、それ故に僕らはテロで死んでいいのかもしれない。誰も悪くないのにな。くそう。 自立してからほざけって言われるだろうな。それでも今の僕は世界を憂う。
「飢え」の中で必死に生きてる人がいる。僕らは「飢え」の外側で必死に生きようとしてる。どんな理由をつけても埋まらない現実。だからこそ、僕は世界を憂う。
カリム少年はジグレールお父さんに最後の問いを投げかけます。「本当の出口ってどこにあるの?」 そしてジグレールお父さんは優しく優しく答えるのでした。「飢えに苦しむ人たちの様子を日常の風景にしてしまうような社会、人を人として扱わなくなった殺人的な社会構造を変えることだ」と。
社会倫理を逸脱した市場原理主義経済に対して、或いは様々な暴力による支配に対して、僕らには何かを考える意味が在るはずなのです。カリム少年はもう知っている。「飢え」は運命でも自然淘汰でもないことを。 ジグレールお父さんは最後に僕たちに語りかけてくれました。
「自分たちの手で自分たちの国づくりを」
「自立した経済を」
市場原理主義経済というモンスターの台頭は、弱肉強食のジャングル資本主義にあって、良心の呵責を感じることなく生きていきたいと願う悪魔どもの、罪深き精神基盤である。なぜ飢える人々がたくさんいるのか?それは食べる物を買うお金がないからだ。南半球の人々は、北半球の人々の食卓を豊かにするための作物を、クズ値で買い叩かれながらも植民地時代から大量に作り続けている。北半球の人々はそれを利用しておきながら、南半球の自然破壊を懸念する。そして他の農産物を「つくらせない」ために、余剰穀物を「食糧援助」するアメリカ。輸出入で安くさばき儲ける国際大企業と、搾取を続ける南半球諸国のクズ政府。そして愚かな終わらない戦争がいつも弱者を傷つけて追いつめてゆく。かくいう南北問題ってやつの、背景。世界中の人間の醜い部分が、蓄積された末の掃き溜めみたいに、世界の問題として僕たちの前に現れてきてる。誰が一体悪いのか?どうすればいいのか?単純な答えは難しい。人類のあらゆる負の遺産を抱えた問題はとても複雑なものなのだ。
世界の問題。目を背けても別にいい。むしろ人間的だろう。その時々でわからないことがほとんどじゃないか。世界ってそういうもんじゃないか。自分自身の人生を一生懸命生きることが、本当は一番大事なことなんだって、僕は思うのだ。
だけど…それでも僕たちが「飢え」を憂うのは、やはり人間だからなのだ。食って吐いて糞をして、睡眠欲と性欲と自己顕示欲にまみれた僕たちが、それでも遠い国で「飢え」ている人のことを時に思い、世界を憂うのは、やはり人間だからなのだろう。幼いカリム少年の思いに対し、真剣に答えてくれたジグレールお父さんもまた人間なのだ。
人を殺すのも人ならば、人を救うのもまた人だ。人を憂うのもまた人だ。世界を恐怖させるテロリズムも、世界に勇気を与える平和活動やスポーツも、人の行いなのだ。
「飢え」の中、必死で生きようとしている人たちがいる。誰のせいで「飢え」ているのか、何のせいで「飢え」ているのか、彼らには知るすべもない。僕らがそれを知ったところで、僕らもまた神に祈るしかないのだろうか。不幸の中で死んでゆく不幸。テロに脅え、年金に脅え、あの娘の態度に脅え、金に脅え、プライドに脅え、自分自身に脅え、未来に脅え…、ただ、それだけじゃねえってこと。生きるってことは。
僕は何が言いたいのかな…。なんつうか、僕らが多くのことに脅え勇気を出し立ち向かうことに、それは賞賛されたり励まされたりするんだけど、そうやって人は成長するんですよみたいなことを言われるけど、そうじゃねえってこと。確かに僕たちの社会で僕たちは誠実に生きることが、その方がいいに決まっている(と僕は思う)。だけど、今日僕が食った柿ピーのピーナッツとか、サラダにぶっかけたドレッシングの落花生オイルとか、みんな途上国の人たちが「飢え」と紙一重の構造の中で作ったものなのだ。僕らは「飢え」を救わない。明日失恋しても、リストラされても、勇気を出してまた立ち直るくせに、僕らは「飢え」には一切の力を使わない。まがい物とは言わないけれど、僕たちは僕たちに与えられた恐怖と幸福の中でそれらと葛藤させられて日々を過ごしている。こんなことほざくのも、甘いし若いのだろうけど、でも立派な大人たちが「飢え」を憂おうとしてるようには見えない。どうしようもないことにはいちいち憂わなくなるのが大人なんだろうか?世界で何億人が「飢え」ていても、僕らは年金や郵政や雇用に脅え、勇気を出し全力で立ち向かおうとだけしている。それが悪いわけじゃない。むしろ正しいことだろう。でも、それ故に僕らはテロで死んでいいのかもしれない。誰も悪くないのにな。くそう。 自立してからほざけって言われるだろうな。それでも今の僕は世界を憂う。
「飢え」の中で必死に生きてる人がいる。僕らは「飢え」の外側で必死に生きようとしてる。どんな理由をつけても埋まらない現実。だからこそ、僕は世界を憂う。
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