豊かさサイコー(再考)【2】
2005年8月26日 戯言戯言諸々その他日本人は週末にわざわざ人混みの中へレジャーしに行って、短時間に金払って楽しんで、楽しかったねなんて言う。お盆に3、4日くらい焦って田舎帰ってゆっくりしてすぐ帰らなきゃならなくて、楽しかったねなんて言う。 一方で、フランスやドイツには「バカンス」って概念がある。どの人も夏には3〜4週間の長期休みを取って避暑地などでゆっくり家族や友達と過ごす。余暇を過ごすコストがバカみたいにかかる日本ではそんなことしたら破産だけど、ヨーロッパでは「バカンス」が常識だ。つまらない労働なんて、バカンスのためにあるのだから。 確かに日本は、金さえ払えば夢のように娯楽が楽しめる国なんだけど(それも安易でポップな市場消費的価値だが)、公共の優しいサービスは全くなくないか?金さえあれば楽しめるってことは、金がなきゃ安心できないってことで、結局どこかに不安を引きずったまま生活してるってことのように思える。金が絡めば当然「価値」は実に市場的ポップに変質してくるし。そう考えると、確かに物質面では「豊か」だけど、日本人はかわいそうなのかもしれない。日本の賃金は高いけど、生活にお金がかかる社会構造だし、いつの時も暇がないほど働かなきゃなんない。モノは買えるけど安心は買えない。ブランド商品に群がり、100円ショップに群がって、「豊かさの中の貧しさ」なんて言われちまう。 ものすげえ劣悪な住宅環境の中でローン組むマイホームドリーム。吐き出される子どもの教育費。帰ってこないお父さん。いつも会うことが出来ない友達。通勤ラッシュ。高い物価。無い時間。狂った肉体。リストラ。残業。テロ。BSE。アスベスト。終わらない娯楽と新商品と消費、そして労働につぐ労働。 それでも日本人はコミュニティーとアイデンティティーを求めながら誠実に懸命に生きている。
かつて知り合いの左翼団体の連中が言ってた。「世界全体で生産性が向上したのだから、労働時間も短縮できるはずです。短縮されない分だけ搾取されてるのです」と。確かにそうなんだけども、でも、お前ら衣食住の他に娯楽サービスも消費するようになったじゃないか。需要が成立しちゃったら当然そこに労働力を供給することになるだろが。搾取的支配はもう既に、物理的な力関係じゃないのだ。お前らも含めた生産力消費力が、資本主義経済のダイナモなのだ。
ずっとずっとずっと僕らは「豊かさ」を求めてきた。その中では、快楽が幸福であったり不幸であったりしてきた。僕らはまた「しあわせ」の行方を探したりもしてきた。それは真冬に咲く一輪の花のようなものでもあったのかもしれない。クスッと笑えるものや、どこかホッと和めるものだったのかもしれない。ただ平和の内に生存することだったのかもしれない。自分の存在がほんの少しだけでも何かの価値となり反映されることだったのかもしれなかった。 この国にあって、目も眩む高度成長とバブルを経て、いまこの長期不況時代だからこそ、「豊かさ」を考え直してみることって、未来のために意義のあることだと僕自身思うのだ。GDPを疑ってかかる人が現在増えているだろう。確かに「衣食足りて礼節を知る」のだけど、もう衣食は既に足りていて、生まれたときから僕らの前には「豊かさ」を考えるという苦楽が在った。「豊かさ」って何ですか?って。今日、そしてこの僕において、どれほどの経済的安定がどれほどの「豊かさ」にあたるのだろうか?そして精神的安定はそれに比例するのだろうか?反比例するのだろうか? 極めて個人的な、それでいて普遍的な、「豊かさ」という問題を、人知れず思考する日々が続く。
姉は結婚という安定を。兄は芸術という表現を。両親は近々地方に移住し田舎ライフを送る計画を立てている。2匹の老猫は相変わらず僕の万年床やソファーで気持ちよさげに寝てる。撫でると喉をゴロゴロ鳴らす。ふむ。皆それぞれの「豊かさ」を、それぞれの生命のレベルや「しあわせ」によって、ソウルづかせているのだ。 いま社会は新しい時代に入ろうとしている。やってくるのは間違いなく不安定な社会だけど、姉も兄も両親も、新しい時代の「豊かさ」をそれぞれに模索し表現しているように思う。僕もまた僕で僕なりに、この時代を生きていくソウルを自分勝手に創りあげていくことを誓おう。
かつて知り合いの左翼団体の連中が言ってた。「世界全体で生産性が向上したのだから、労働時間も短縮できるはずです。短縮されない分だけ搾取されてるのです」と。確かにそうなんだけども、でも、お前ら衣食住の他に娯楽サービスも消費するようになったじゃないか。需要が成立しちゃったら当然そこに労働力を供給することになるだろが。搾取的支配はもう既に、物理的な力関係じゃないのだ。お前らも含めた生産力消費力が、資本主義経済のダイナモなのだ。
ずっとずっとずっと僕らは「豊かさ」を求めてきた。その中では、快楽が幸福であったり不幸であったりしてきた。僕らはまた「しあわせ」の行方を探したりもしてきた。それは真冬に咲く一輪の花のようなものでもあったのかもしれない。クスッと笑えるものや、どこかホッと和めるものだったのかもしれない。ただ平和の内に生存することだったのかもしれない。自分の存在がほんの少しだけでも何かの価値となり反映されることだったのかもしれなかった。 この国にあって、目も眩む高度成長とバブルを経て、いまこの長期不況時代だからこそ、「豊かさ」を考え直してみることって、未来のために意義のあることだと僕自身思うのだ。GDPを疑ってかかる人が現在増えているだろう。確かに「衣食足りて礼節を知る」のだけど、もう衣食は既に足りていて、生まれたときから僕らの前には「豊かさ」を考えるという苦楽が在った。「豊かさ」って何ですか?って。今日、そしてこの僕において、どれほどの経済的安定がどれほどの「豊かさ」にあたるのだろうか?そして精神的安定はそれに比例するのだろうか?反比例するのだろうか? 極めて個人的な、それでいて普遍的な、「豊かさ」という問題を、人知れず思考する日々が続く。
姉は結婚という安定を。兄は芸術という表現を。両親は近々地方に移住し田舎ライフを送る計画を立てている。2匹の老猫は相変わらず僕の万年床やソファーで気持ちよさげに寝てる。撫でると喉をゴロゴロ鳴らす。ふむ。皆それぞれの「豊かさ」を、それぞれの生命のレベルや「しあわせ」によって、ソウルづかせているのだ。 いま社会は新しい時代に入ろうとしている。やってくるのは間違いなく不安定な社会だけど、姉も兄も両親も、新しい時代の「豊かさ」をそれぞれに模索し表現しているように思う。僕もまた僕で僕なりに、この時代を生きていくソウルを自分勝手に創りあげていくことを誓おう。
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