絶望の国のカオスにアディオス[?]
2005年8月28日 戯言戯言諸々その他「…この国には何でもある。しかし、希望だけがない」
村上龍のベストセラー「希望の国のエクソダス」で、閉塞した日本に対する無血クーデター・独立を計画し実行する子どもたちのトップ−中学生のリーダー・ポンちゃんが言った名台詞だ。僕はこの小説を高校の頃に読んで、経済とかの理屈がさっぱりわかんないまま、ポンちゃんたちの日本からのエクソダス(脱出)ストーリーだけが興味深かった記憶がある。言うまでもなくあの頃の僕には希望なんてなく、常にエクソダスに憧れていたからだ。でも思う。「希望」ってなんだったんだろ?って。
幾分有名な社会学者・山田昌弘の「希望格差社会」を読みました。わかりやすくて、そんな単純じゃないんじゃ?とも思うとこもあったけど、でも興味深かった。作者が言う「1998年」−希望が失われ始めた年…僕は16歳だった。あの頃はサカキバラやら「17歳」やら、イカれた少年たちによる、犯罪のための犯罪−ある種のエクソダスが起こったりしてたっけ。
この国から「希望」が失われている。そんな抽象的な嘆き文句を、僕はもう一体何度耳にしただろう。
「希望」に格差が生じているという。 社会は否応なく不安定になっていってる。TVをつければ誰かがほざく。新聞を開けば誰かが宣う。「不安定」「閉塞感」「不況」「凶悪化」…「テロリズム社会」が到来し始めた?そして決まって有識者も世論も「誰か」の責任にしようとする。答えが見えないという恐怖に耐えられないからだ。学校のせい?大人のせい?若者のせい?政治家のせい?文化のせい?病気のせい?脳のせい?運命のせい?…キリがない。一体なぜこうなった?僕らの社会はどこで道を誤った?いや、道など誤っちゃいないんじゃないかって僕は思う。普通に歩いてこうなった。散歩に出たのび太がドブにはまるようにさ。ドラえもんが22世紀からやってきて初めて、のび太の人生に希望が生まれたようにさ。
全てはニュー・エコノミーの台頭にある。戦後の高度成長期を支えた大量生産大量消費型市場社会(オールド・エコノミー)は、オイルショックとバブルを経たあたりでその役割を終えた。90年代以降に到来したニュー・エコノミーとは、大量生産大量消費にすら飽和した新しい人々の消費生活体系であった。見るがいい。大量に、そしてそれ以上に「多種多様」と化し展開される商品市場を。人々の消費は今や生存生活を超えたのだ。
「諸君、喝采したまえ。喜劇は終わった」(Ludwig van Beethoven)
かつて「三種の神器」(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)がもてはやされ、3C(カラーテレビ、自動車、クーラー)がもてはやされ、そして今や消費世界は個人のものとなった。
企業社会が変わる。家族社会が変わる。人間自体が変わっていく。これまであった「神話」は音を立てて崩壊していく。 「希望」に格差が生じているという。カネ、地位、幸運を超え、今や「希望」にすら、持つ者と持たざる者に大きな差が生じているという。
この国に希望がなくなった理由を知ったとして、僕に何が出来るわけではないけど、ひとまずこの絶望の国に迫り来るテロリズム社会に対し、明確な訣別を表明できたら素敵だなと思います。 発狂しそうな程に恐るべき自由がやってくる。だけど、寄る辺なき時代は創造の時代でもある。バブル以前、高度成長以前には出来なかったような生き方を、してみろやと、都合の良い神様がいるならばそんなお告げをtakebonoは夢で聞くだろう。
〈つづく…〉
村上龍のベストセラー「希望の国のエクソダス」で、閉塞した日本に対する無血クーデター・独立を計画し実行する子どもたちのトップ−中学生のリーダー・ポンちゃんが言った名台詞だ。僕はこの小説を高校の頃に読んで、経済とかの理屈がさっぱりわかんないまま、ポンちゃんたちの日本からのエクソダス(脱出)ストーリーだけが興味深かった記憶がある。言うまでもなくあの頃の僕には希望なんてなく、常にエクソダスに憧れていたからだ。でも思う。「希望」ってなんだったんだろ?って。
幾分有名な社会学者・山田昌弘の「希望格差社会」を読みました。わかりやすくて、そんな単純じゃないんじゃ?とも思うとこもあったけど、でも興味深かった。作者が言う「1998年」−希望が失われ始めた年…僕は16歳だった。あの頃はサカキバラやら「17歳」やら、イカれた少年たちによる、犯罪のための犯罪−ある種のエクソダスが起こったりしてたっけ。
この国から「希望」が失われている。そんな抽象的な嘆き文句を、僕はもう一体何度耳にしただろう。
「希望」に格差が生じているという。 社会は否応なく不安定になっていってる。TVをつければ誰かがほざく。新聞を開けば誰かが宣う。「不安定」「閉塞感」「不況」「凶悪化」…「テロリズム社会」が到来し始めた?そして決まって有識者も世論も「誰か」の責任にしようとする。答えが見えないという恐怖に耐えられないからだ。学校のせい?大人のせい?若者のせい?政治家のせい?文化のせい?病気のせい?脳のせい?運命のせい?…キリがない。一体なぜこうなった?僕らの社会はどこで道を誤った?いや、道など誤っちゃいないんじゃないかって僕は思う。普通に歩いてこうなった。散歩に出たのび太がドブにはまるようにさ。ドラえもんが22世紀からやってきて初めて、のび太の人生に希望が生まれたようにさ。
全てはニュー・エコノミーの台頭にある。戦後の高度成長期を支えた大量生産大量消費型市場社会(オールド・エコノミー)は、オイルショックとバブルを経たあたりでその役割を終えた。90年代以降に到来したニュー・エコノミーとは、大量生産大量消費にすら飽和した新しい人々の消費生活体系であった。見るがいい。大量に、そしてそれ以上に「多種多様」と化し展開される商品市場を。人々の消費は今や生存生活を超えたのだ。
「諸君、喝采したまえ。喜劇は終わった」(Ludwig van Beethoven)
かつて「三種の神器」(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)がもてはやされ、3C(カラーテレビ、自動車、クーラー)がもてはやされ、そして今や消費世界は個人のものとなった。
企業社会が変わる。家族社会が変わる。人間自体が変わっていく。これまであった「神話」は音を立てて崩壊していく。 「希望」に格差が生じているという。カネ、地位、幸運を超え、今や「希望」にすら、持つ者と持たざる者に大きな差が生じているという。
この国に希望がなくなった理由を知ったとして、僕に何が出来るわけではないけど、ひとまずこの絶望の国に迫り来るテロリズム社会に対し、明確な訣別を表明できたら素敵だなと思います。 発狂しそうな程に恐るべき自由がやってくる。だけど、寄る辺なき時代は創造の時代でもある。バブル以前、高度成長以前には出来なかったような生き方を、してみろやと、都合の良い神様がいるならばそんなお告げをtakebonoは夢で聞くだろう。
〈つづく…〉
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