前回に引き続き、学校システムの肥大化が学歴インフレ等パイプラインの亀裂を起こしてるって話。漫然と流れに身を任せていたツケ。僕らアフターバブル世代は、戦後で初めて、自分の人生のことを自分で考え自分で創らなきゃいけない時代にいたんだ。そう、僕らにとって「希望」こそがリスクになっていた。

「能力に見合った職に送り出す機能」の不全。→「学歴に見合った職業に就けないリスク」の発生。…こんくらいの学歴持てばこんくらいの職につけるべ、って見通しの消失。卒業さえすれば見通しの職に就けていたかつての時代は、だからこそ学問への求心力もあったという。現代は、勉強なんかしないで就活や就職試験勉強の努力の方が最終的には有利だから、当然学問の意欲は空洞化する。当然レベル下がるわけだ。大学は学問機関じゃなくなってるんだもんな。それでも、よい就職をするために、より「漏れ」のない上級の学校へ入学しようとして、一部の大学や学部で受験競争は激化する。それ以外の平均以下大学へ入った奴らは「大学行っても仕方ないけど大学行かなきゃもっと悪くなる」と考え進学するから、更に大学生の学問レベルは下がる。

「過大な期待を諦めさせる機能」の不全。→「諦める機会がないリスク」の発生。…学校に入学できなければ諦めて他の道を探せた人に対し、無意味に入学させ「希望」を与えてしまったために起こるその後の「絶望」。先送りした諦めに、納得できればいいんだけど、期待切り下げはなかなか困難だという。「大学まで出たのにこんな仕事しか就けないのかよ」って、やっぱ多くの人が思うのだろう。でも、大学で何を学んだかしら?って、疑わないのかな彼らは。結局歪んだ構造だったんだ。「学歴」なんて、もっと早く崩壊していいものだったんじゃないのかな、って思う。 全員で高等ルンペンになればいいのにな。

「階層上昇の機能」の不全。→「階層上昇期待が無くなるリスク」の発生。…「頑張ればいい学校には入れていい会社に入れていい人生が送れる」って定説の崩壊。不安定社会の到来は、「頑張っても報われないから、頑張るのやめよう」って人をたくさん生んだ。「個性」の時代が到来したのだ。そう、バブルまでだったら、登校にも授業にも意味はあったんだ。だけどバブル以降は、不登校も学級崩壊も、むしろ起きて当然なんじゃないかって思う。「将来」が見えないのになんで「現在」を犠牲にできるのかって。

現代の子どもたちは「将来についての確実な見通しが持てないまま」「諦める機会がないまま」「過大な期待を持つことを強いられ」「勉強を頑張っても将来豊かに暮らせる見通しがたたない」という状況におかれている。まあイカれたりキレる奴もたまにでてくるのかもしれないな。
「希望」の喪失は、大高中小と徐々にドミノ的崩壊をしていくという。登校という努力が将来報われないことを、多くの子ども達が気付き始めた〈不登校〉。学校の勉強が将来役に立たないことを、多くの子供たちが気付き始めた〈学級崩壊〉。インセンティブディバイドと呼ばれる「意欲格差」〈学力低下〉や、様々な教育問題への入口は結局これではないのだろうか。加えて、個人の自己実現までを「幸福」とみなすようになった社会で増大する「不幸」が起こす更なる「希望」の喪失は、社会の様々な場面で、歪みとなって現れてる。なのに、大消費社会の規制緩和はとどまることを知らない。否応なく、子どもたちは「希望格差社会」に巻き込まれてゆくのだ。

不安定社会の到来が3つの神話を破壊した。「企業」「結婚」「学歴」。かつて「安定」の代名詞だったこの3神話はもう蘇らない。 だけど多くの人々も、そしてtakebonoも、ひとまずこの不安定社会で生きていかなきゃなんない。でも、これを書きながら段々思うようになったんだけど、それでもいいんじゃないかって。だって、高度成長期やバブル以前だったら、間違いなく僕だって「学歴」の下で「企業」に入り「結婚」することに価値を見出して、そしてそう生きていたはずだから。ぞっとするさ。この時代だからこそ、この僕がこの僕で生きてるってこと。この時代だからこそ、あの人があの人で在ることができて、あの人があの人で在ったから、僕が僕で在れるってこと。生まれた時代はやはり自分のものなのだ。探そうぜ、「希望」を。
〈つづく…〉

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