「希望」。それは人間が最期までどこどこまでも確かに微かにその胸に抱くものであるらしい。帝大の坂田だってそう言ってた。また、「希望」を抱くことによって人は死に急ぐって、偉大な福本漫画が散々描いてくれたっけ。
この国から「希望」が失われている。そして「希望」に格差が生じているという。それが僕らが生きている現在なのか。そしてこれからも生きていく未来なのか。未来を望みそれに向かい生きようとする意欲のようなものにさえ、今や明確に個人差が出てきたってこと?僕はどうだろ?全然わかんね。だからどうしたって。だから僕らはどうするのかって。中学校の頃のあの生活指導のゴロツキN教諭なら、あいつならきっとこう言うだろうぜ。「悩み苦しめ」

1998年―「希望」が失われ始めた年―は、中年男性の自殺率が一気に増えた年であると作者はいう。同時に、青少年犯罪・ひきこもり・不登校・家で全く勉強しない子が急増した年であるとも作者はいう。それは、「現在は豊かだが将来は全く見通しのたたない状況」の直面であるともいう。やけっぱち。享楽。ひきこもり。そんな「使い捨て人生」がこれから急増してゆくんだって。恐え。 結局、社会の豊かさと人々の自由度の増大は、その豊かさを維持する行動や自由な行動において、社会自体にリスク化と二極化をもたらしたのだ。バブルまでには社会は予測可能性・到達可能性そして安定に満ち、嫉妬心すら前向きなエネルギーとして、あの高度成長期とは凄まじいスピードで経済成長を駆け抜けた疾風の時代だったのか。あの頃は未来こそが「希望」だったのか。本当にそうだったのか。
僕は僕なりに、ずっと考えてたんだ。「希望」ってなんだったんだろ?って。 高校卒業する間際に、選択教科の国語かなんかの自由課題かなんかで、僕は原稿用紙100枚くらいかけて「自分史」を書いたっけ。あのtakebono18年史の最終章タイトルも確か「希望」だったっけ。「自分史」自体、今や読み返したくないほどひどい内容だけど、やっぱり僕自身わけのわからないままに「希望」を探していた。思えば、神に与えられたこの生命この時代を生き抜こうとする、どこかエネルギーのようなものを、模索し続け、僕は「希望」をずっと探していた。それが「ソウル」の前身だったように思う。「希望」が存在するのなら、そいつは自分にとって何なんだろ?とか、それは存在するのか?とか、見つからなかったら自分は生きていけるのだろうか?とか、よく考えたりしたっけか。あの20世紀末、それはそう相当に、きっと僕は若かったんだ。
この国から「希望」が失われている?この国には「希望」だけがない?でも希望ってやつが何なのかもわからず、20世紀は僕にとってただ息苦しく生きづらかった。アフターバブルに物心つき、ベルリンの壁やソ連の崩壊や、55年体制の終局や、大量消費社会の台頭や、とかく変動期を傍観して生きてきた僕らの世代にとって、結構感じるものは多いんじゃないかって。「希望」って何だろ?そんなものあるのか?という、感覚や雰囲気にも似た深層の思いのようなもの。
多くの人が落胆している。自分の人生に希望がないことを。未来に対する不信感と共に。だから多くの人が、そのリアルから逃れるために、将来不安を感じないために、実現可能性のない夢にすがる。誰かよく言うね。「夢を持て」ってか?だけどそれは現実逃避するためだけの道具だ。まさに「夢」。ドラッグよりたちが悪いんじゃねえか。 僕は思う。takebonoは言い切る。「夢は現実逃避のためにあるのではない」ってさ。現実から逃げるためだけじゃねえ夢を、僕は見果てたい。絶対。

この国で僕らは将来の不良債権になるのかもしれない。だけど、燃えないゴミよりは燃えるゴミでいようぜみんな。そうだよ。五味はPRIDEの希望の星ですよ。現実を忘れる夢をみせてくれますよ。
僕らは、バブル以前の「希望」なんか捨てればいい。恐るべき自由の中で、僕らだけの新しい「希望」を探せばいい。これからの社会ではもう「希望」は用意されない。だから自らが「希望」を創ってゆくんだ。
〈最後の希望へ、つづく〉

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索