絶望の国のカオスにアディオス〔?〕
2005年10月7日 戯言戯言諸々その他閉塞感。疎外。孤独。不安定。使い捨て人生。やけっぱち人生。不安。不安。不安。キレちまえ。みんなみんなキレちまえ。なくなればいい。そんなことを臆面も無く思ってたあの98年(「希望」消失開始年)当時、僕にとっては社会なんか暗黒でしかなかった。社会の正体もわからず脅えてた僕は、得体の知れない怪物をぶっ殺そうといつも思ってた。変わらないものは変わらないのだけど、でも今の僕はそのダークサイドにちゃんと向き合おうとしているよ。
戦後日本の安心社会が崩壊した。平凡な幸せはもうこの国では叶わない。希望が生まれた故に絶望が乱造された。日常生活を送る限りは普遍的なリスクを取らざるを得ない社会。「リスク社会」。みんな一緒ならそれでもいいのか。ざけんなと僕は何度も言ったっけ。 そして弱者同士の連携はもう在りえ無い。全く同じ立場の人なんか近くにいないからだ。だからシンパはありえないんだって。死ぬ思いをしながら家族のために働いている人間、夢のために困窮する努力家、豊かなパラサイトシングル、気ままなフリーター、確かにそれぞれが同レベルの社会的経済的弱者であることは疑いようが無いのだけれど、でもその質はそれぞれが全く違う。「質的格差」。資本経済の果てに、労働者たちは見事に分断されたってことだ。これからの万国の労働者たちに団結は、ない。 「自己責任」自体からの逃避は、「運頼み人生」を生むという。グッドラックとしか言いようがない。
結婚する奴も、子ども産む奴も、ローン組む奴も、年金払う奴も、すげえ偉いと思う。むっちゃすごい。僕は考えらんねえ。ありえねえ。だってリアルが無さすぎる。全部全部全部リスクだろそれ。何10年後か僕は生きてるのかもわかんねえのに。将来が予測できたのなんてバブルまでだろ? でもこんな考え方がそもそも希望格差社会なのかもな。「勝ち組」「負け組」なんて所詮結果論の二極化現象。もはや今は「希望あり組」「希望なし組」だろ二極化。「希望」の格差ってそういうことだよな。僕はやっぱり後者なんだろうか。
成熟経済が終身雇用を破壊。
自由社会が既存を破壊。
破壊に伴って連鎖的崩壊を続ける各種の「神話」。
学歴インフレそして学校教育におけるパイプラインの「漏れ」が生む雇用市場のミスマッチ。
少子高齢化が年金制度を破壊。
テロが平和を破壊。
人が社会を、社会が人を、破壊する。
インフレする生命。創らせてもらえないソウル。
はて。希望とは何だったのか?アメリカンドリームでも社会主義革命でもないそれは。山田昌弘の結論は無難なものだった。一つは、こんな希望格差社会で生きてくために力をつけること。もう一つは、従来の考え方を変えること。「希望」に沿うか、「希望」を捨てるか。僕は結局後者を選ぶことになるのかな。
「希望」に格差が生じている。だけど僕にとってそれはソウルの差のようにも思う。生きていこうとする動機付けは、僕の中でもう「希望」なんかではなく、「ソウル」だったんじゃないか。いつからか、それは、そう、そういうことだった。
「希望」に格差が生じている。これからの社会は間違いなく不安定社会だ。だけどそれは可能性の社会でもある。一律な「希望」なんかもう捨てて、新しい希望を探しにゆこうと思う。卑屈な僕にとっては大前進か。だけどそんなものあるのかどうか。でも僕は思うんだ。あるんじゃないかって。どこかに。根拠無く思う。それも一つの「希望」かもな。
takebono hopes…〈この世界の全ての人に「希望」あれ〉
戦後日本の安心社会が崩壊した。平凡な幸せはもうこの国では叶わない。希望が生まれた故に絶望が乱造された。日常生活を送る限りは普遍的なリスクを取らざるを得ない社会。「リスク社会」。みんな一緒ならそれでもいいのか。ざけんなと僕は何度も言ったっけ。 そして弱者同士の連携はもう在りえ無い。全く同じ立場の人なんか近くにいないからだ。だからシンパはありえないんだって。死ぬ思いをしながら家族のために働いている人間、夢のために困窮する努力家、豊かなパラサイトシングル、気ままなフリーター、確かにそれぞれが同レベルの社会的経済的弱者であることは疑いようが無いのだけれど、でもその質はそれぞれが全く違う。「質的格差」。資本経済の果てに、労働者たちは見事に分断されたってことだ。これからの万国の労働者たちに団結は、ない。 「自己責任」自体からの逃避は、「運頼み人生」を生むという。グッドラックとしか言いようがない。
結婚する奴も、子ども産む奴も、ローン組む奴も、年金払う奴も、すげえ偉いと思う。むっちゃすごい。僕は考えらんねえ。ありえねえ。だってリアルが無さすぎる。全部全部全部リスクだろそれ。何10年後か僕は生きてるのかもわかんねえのに。将来が予測できたのなんてバブルまでだろ? でもこんな考え方がそもそも希望格差社会なのかもな。「勝ち組」「負け組」なんて所詮結果論の二極化現象。もはや今は「希望あり組」「希望なし組」だろ二極化。「希望」の格差ってそういうことだよな。僕はやっぱり後者なんだろうか。
成熟経済が終身雇用を破壊。
自由社会が既存を破壊。
破壊に伴って連鎖的崩壊を続ける各種の「神話」。
学歴インフレそして学校教育におけるパイプラインの「漏れ」が生む雇用市場のミスマッチ。
少子高齢化が年金制度を破壊。
テロが平和を破壊。
人が社会を、社会が人を、破壊する。
インフレする生命。創らせてもらえないソウル。
はて。希望とは何だったのか?アメリカンドリームでも社会主義革命でもないそれは。山田昌弘の結論は無難なものだった。一つは、こんな希望格差社会で生きてくために力をつけること。もう一つは、従来の考え方を変えること。「希望」に沿うか、「希望」を捨てるか。僕は結局後者を選ぶことになるのかな。
「希望」に格差が生じている。だけど僕にとってそれはソウルの差のようにも思う。生きていこうとする動機付けは、僕の中でもう「希望」なんかではなく、「ソウル」だったんじゃないか。いつからか、それは、そう、そういうことだった。
「希望」に格差が生じている。これからの社会は間違いなく不安定社会だ。だけどそれは可能性の社会でもある。一律な「希望」なんかもう捨てて、新しい希望を探しにゆこうと思う。卑屈な僕にとっては大前進か。だけどそんなものあるのかどうか。でも僕は思うんだ。あるんじゃないかって。どこかに。根拠無く思う。それも一つの「希望」かもな。
takebono hopes…〈この世界の全ての人に「希望」あれ〉
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