ノベルを述べる17

2005年10月18日 読書
飯島夏樹著「ガンに生かされて」を読んだ。末期ガン患者でもある元サーファーの飯島夏樹氏が、死ぬ間際まで書いたブログ集。去年出した「天国で君に逢えたら」で、迫る死に対して暖かく寛大で在ろうとする彼の強い意志を、その最終決着を僕は見たかった。そして読んでみた。
−奇跡などではなく。終わりの日を垣間見ることによって見えてくるもの。その日を感じることによって優しくなれるもの。今日を生かされていることは、命自体より大切なことなのかもしれない。生きるのに時があり、死ぬのに時がある。最後まで生かされ、最後まで生きようとした人間の日々が、そこに…。

石田衣良の「LAST」を読みました。石田衣良はやはり読みやすくて面白いな。
−堕ちてゆく人間が最後に行き着くとこって知ってるかい?それは「死」だよなんて、それは「地獄」だよなんて、君が口にできるうちはきっとそれは夢なんだろう。本当の底辺も、本当の崖っぷちも、地獄ってやつも、まずは「生」のこちら側に在るんだね。断末魔の叫びを聞く前に、人が巡り会う人生の壮絶な「ラスト」ストーリー。

村上春樹の「ノルウェイの森」を読んだ。とってもよかった。何でしょう。ゆっくりゆっくりだけど、何か残ってった感じ。切なさと言えるのか、哀しさと言えるのか、わけわかんないんだけど、とても揺さぶられた。直子も緑もレイコさんも、素敵。すごい素敵。きっと僕はこういう女性たちに惚れてしまう。人が人に惹かれること、繋がろうとすることって、本当にどういうことなんだろう。その人のことを忘れないでいることとは、本当にどういうことなんだろう。僕は最初から最後まで、夢中といえるほど胸も高鳴らず、しかしゆっくり何か噛みしめるように、一気に読んでしまった。
−死は生の対局としてではなく、その一部として存在している。喪失と再生。高揚と慟哭。何かのために君を忘れない。誰かのために何かを忘れない。だから僕は生きています。「ノルウェイの森」はそんな時間の中をただゆっくりと流れてゆく。

そして村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」を読んだ。相変わらずよくわからないが、「ピンボール」に続いてく感じはわかった。
−ハートフィールドは言う。「文章を書くという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なのは感性ではなく、ものさしだ」 だから「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」 そして鼠は小説を書くと言った。海辺の街に帰省していた僕はジェイズ・バーを去った。あらゆるものは通り過ぎていって、誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きていた。

一昨日、「ノルウェイ」を読み終えそうなところで、鹿島アントラーズが気になってサッカー観ようとしてTVをつけたら「しゃべり場」がやってた。「外見こそ人生を変える!」とかいううさんくさいテーマを、どうみても無理した田舎臭い着せ替え人形のような女の子が提案者で、必死に語ってた。かわいそうだななんて僕には言えるわけ無いんだけど、でも勿体ないなとは思った。僕は10代の頃そんなことあまり考えなかった。今も考えてない。 そしてその時間帯の裏番組で、マスク(外見を隠すためのやつ)をつけたまま恋愛し結婚までいけるのか、とかいうバラエティー企画をやってた。 両番組のまるで対局の偏り具合に、そして同じ流れをくんでいる愚かさが、おかしかった。「外見」と「中身」?は、「こころ」と「からだ」のように?バラけてるもんなんすか?どのように?磨く?何を?理解する?? またしても僕には関係ないかと思う。僕は或る価値枠組がわかってない狭い人間だな。わかろうとする動機付けすらないのか。 そんなとき、僕は小説を読む。眠くなるまで読む。眠くなったら寝る。友達とサッカーをする。飲んで語ったり笑ったりする。どう考えても幸せな日々だ。いまは何も変わらなくてもいい。時がくれば何かしら変わればいいじゃないかと思う。 最近自分でも小説を書く。小説の登場人物は何だってできる。人殺しもするし強姦もするし世界だって救う。僕は長いことそんな風に、ある世界をある物語にして遊んできた。考える間もないような空想が好きだった。いつからか語り始めたのは、やはりあらゆる事象と僕との適度な距離だったのかもしれない。「ノルウェイ」と「風の歌」を読み終わったときふとそう思った。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索