日本之下流社会(一)
2005年11月3日 戯言戯言諸々その他僕は大学で社会学部とかいう学部に属しているのもあって、もともと社会階層問題のようなものに興味を持っていました。戦後日本が作りあげた「一億総中流」社会と呼ばれる(あくまで意識上の)平等社会が、今後解体されてゆくであろうという話は最近どこからでも聞くことができて、そういうのも興味深いです。それは「格差拡大社会」だとか、「二極化社会」だとか言われるやつ。市場主義的な立場からは、「結果の平等」よりも「機会の平等」が叫ばれ、そしてそれに対しては、経済格差だけではない「意欲格差」や「希望格差」なんて興味深い論説も出てきました。そう、どうやらこれからの日本社会は確実に、人々の生活実態と意識の両方共に格差が拡大してゆく傾向にあるらしいのです。
それを踏まえて、唐突ですがこのtakebonoには20代を過ごすビジョンのような夢があります。それは低生産低消費ライフを優しいコミュニティーで過ごしながら、自分の精神を満たすような生き方というか活動をしてゆくというライフスタイルです。
その鍵となるのは間違いなく「生産」と「消費」だと思います。経済的な意味だけではないいろんな意味での「生産」と「消費」。 かつてある紙面で、「若者の生活実態」を取り上げた記事コーナーを読みました。東京都の最低賃金レベルでどれだけの生活が送れるのか、なんてのを考察したりして、実際底辺ラインの若者を取材したりするコーナーでした。取材された若者は皆一様に貧しく、生活の苦しさを言葉にしていました。「お金が無いので休みの日は家でじっとしています」「友達の飲み会にいけません」「好きなCDも買えません」「デートもあまりできません」etc…。 ホントにかわいそうでした。記事のねらいもまあそう思わせるところにあるのだと思いますが、かわいそうに思ったのはホントです。僕はしかしこの記事を読み実態を理解した上で、やはり深く共感できなかったのでした。なぜかというと、僕自身が休みの日に外出などしてお金を使うような消費体系に自分をおいてないからです。(それは僕が学生だってことも大きく関わってますが) 飲み会はほとんど家飲みです。外の飲み屋なんてぼったくりだってSKとかともよく話しながら家でかなり飲みます。第一地元以外で飲むと帰れなくなるのがとても心配だからです。交通費もかかるしね。それに家飲みは本当にまったりリラックスできるからです。それを可能にするのもコミュニティーなのだけど、とにかく家飲みは安い。 そして本やCDやDVDはほとんど買いません。図書館かレンタルです。お金を払って使用する趣味はどこかリラックスできないのです。そんなレベル。 そしてデートでお金なんかかけようとも思いません。僕はディズニーランド廃止論者でもあるんです。 どうも巷の若者の消費体系と僕の欲求体系は異なるようなのです。どうしていつの時も産業に貢献しなきゃならんのかよくわからんのです。それだけ消費型産業社会では消費意欲を常に刺激されてるってことで、アイデンティティーやライフスタイルなどもカネと消費に依存してるってことなのかもしれません。だけど消費する人がいて経済が回転しているのも事実です。だから消費社会自体を否定するわけでもありません。 ただ散歩とサッカーと読書と家飲みとマンガの立ち読みと新聞やネットの政治やスポーツニュースと小説書きとマンガ描きとネタ探しとソウルフィーリングが大すきなtakebonoさんは、全く消費型資本主義に貢献しないってことです。金と物とマジョリティーの流れに依存するような余暇や人間関係が、それこそ商品を消費してるようでたまらなく僕は嫌なのです。かつて義務教育でつまづいたときも僕はこんな感じでした。僕には「ネタ」とソウルだけで充分なんです。面白ければ当然楽しいのです。周囲を憎んでたわけじゃなくて、僕は自分に自分を依らせたかったんです。 本当に必要性に駆られたとき以外は自販機もコンビニも使いません。服もほとんど買いません。価値観の問題だからあまり苦しいとかとは違うように思います。 大学の知り合いでいつも「お金無くて」と言ってる奴が、結構高価な物を身に付けてたり、金かかる消費体系にいることを自画自賛してたりするの見ると、面白いなって思います。理解し合うことがないことを理解するからです。
学生時代に僕が確立したかったことは、僕がtakebono的な20代を過ごすビジョン作りでもありました。それは自分のフレームのようなものを創る作業だったのです。
だから僕は結局それは「消費」の体系次第なんじゃないかって思うのです。所得が格差化・二極化してゆくのなら尚更。だからこそ階層問題論は消費社会論と一緒だとより身近だなあと思うのです。そんな本をいま読んでいます。ゼミ合宿のとき飲みながら先生がTAに説教したとき話題に出てきたやつです。あれで先生はいい人なんだと思ったのです。
ああ書きすぎ。イントロで終わり。
“つづく”
それを踏まえて、唐突ですがこのtakebonoには20代を過ごすビジョンのような夢があります。それは低生産低消費ライフを優しいコミュニティーで過ごしながら、自分の精神を満たすような生き方というか活動をしてゆくというライフスタイルです。
その鍵となるのは間違いなく「生産」と「消費」だと思います。経済的な意味だけではないいろんな意味での「生産」と「消費」。 かつてある紙面で、「若者の生活実態」を取り上げた記事コーナーを読みました。東京都の最低賃金レベルでどれだけの生活が送れるのか、なんてのを考察したりして、実際底辺ラインの若者を取材したりするコーナーでした。取材された若者は皆一様に貧しく、生活の苦しさを言葉にしていました。「お金が無いので休みの日は家でじっとしています」「友達の飲み会にいけません」「好きなCDも買えません」「デートもあまりできません」etc…。 ホントにかわいそうでした。記事のねらいもまあそう思わせるところにあるのだと思いますが、かわいそうに思ったのはホントです。僕はしかしこの記事を読み実態を理解した上で、やはり深く共感できなかったのでした。なぜかというと、僕自身が休みの日に外出などしてお金を使うような消費体系に自分をおいてないからです。(それは僕が学生だってことも大きく関わってますが) 飲み会はほとんど家飲みです。外の飲み屋なんてぼったくりだってSKとかともよく話しながら家でかなり飲みます。第一地元以外で飲むと帰れなくなるのがとても心配だからです。交通費もかかるしね。それに家飲みは本当にまったりリラックスできるからです。それを可能にするのもコミュニティーなのだけど、とにかく家飲みは安い。 そして本やCDやDVDはほとんど買いません。図書館かレンタルです。お金を払って使用する趣味はどこかリラックスできないのです。そんなレベル。 そしてデートでお金なんかかけようとも思いません。僕はディズニーランド廃止論者でもあるんです。 どうも巷の若者の消費体系と僕の欲求体系は異なるようなのです。どうしていつの時も産業に貢献しなきゃならんのかよくわからんのです。それだけ消費型産業社会では消費意欲を常に刺激されてるってことで、アイデンティティーやライフスタイルなどもカネと消費に依存してるってことなのかもしれません。だけど消費する人がいて経済が回転しているのも事実です。だから消費社会自体を否定するわけでもありません。 ただ散歩とサッカーと読書と家飲みとマンガの立ち読みと新聞やネットの政治やスポーツニュースと小説書きとマンガ描きとネタ探しとソウルフィーリングが大すきなtakebonoさんは、全く消費型資本主義に貢献しないってことです。金と物とマジョリティーの流れに依存するような余暇や人間関係が、それこそ商品を消費してるようでたまらなく僕は嫌なのです。かつて義務教育でつまづいたときも僕はこんな感じでした。僕には「ネタ」とソウルだけで充分なんです。面白ければ当然楽しいのです。周囲を憎んでたわけじゃなくて、僕は自分に自分を依らせたかったんです。 本当に必要性に駆られたとき以外は自販機もコンビニも使いません。服もほとんど買いません。価値観の問題だからあまり苦しいとかとは違うように思います。 大学の知り合いでいつも「お金無くて」と言ってる奴が、結構高価な物を身に付けてたり、金かかる消費体系にいることを自画自賛してたりするの見ると、面白いなって思います。理解し合うことがないことを理解するからです。
学生時代に僕が確立したかったことは、僕がtakebono的な20代を過ごすビジョン作りでもありました。それは自分のフレームのようなものを創る作業だったのです。
だから僕は結局それは「消費」の体系次第なんじゃないかって思うのです。所得が格差化・二極化してゆくのなら尚更。だからこそ階層問題論は消費社会論と一緒だとより身近だなあと思うのです。そんな本をいま読んでいます。ゼミ合宿のとき飲みながら先生がTAに説教したとき話題に出てきたやつです。あれで先生はいい人なんだと思ったのです。
ああ書きすぎ。イントロで終わり。
“つづく”
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