でも…それでもデモ

2005年11月14日
昨日、文化センターのとこでデモパレードやってました。僕の知り合いが渋谷にデモしに行ってたので、同じ流れの各地同時多発イベント的なものなのかと思ったけどどうも違うようでした。
デモ行進って特に明確に訴える個別テーマでなければ、大体は平和運動系と労働運動系に分かれますが、昨日のはごちゃまぜだった感じ。僕はかつていろいろな運動に参加したことがあり、デモにはいろんなカラーがあることをそこで知りました。それはやはり思想であったり、運動団体の立場であったり、政治的なものも含んだりして、ポップで柔軟な「パレード」や「PW」系から、いわゆるシュプレヒコールに声を合わせるような旧来式の「〜集会」や「〜行動」みたいのまで、様々なものです。デモンストレーションには違いないので、ひっくるめて僕は「デモ行進」と呼んでいますが、規模や参加形式や中心団体や訴える目的などによってカラーが異なるのは当然といえばまあ当然なのです。

イラク戦争のときみたいに、日比谷で一般市民が結構集まって大規模なものになると、思想や団体の立場を超えたカラーになるので素敵だと思いました。デモ行進してて、僕の隣は子ども連れの夫婦とお年寄りだったし、後ろは女の子グループだった。それぞれ手作りの看板を手にして、隣は皆知らない人同士で、声を合わせるような統率もなく、バラバラで、だけどものすげえ長い列になって皆ただ日比谷を歩いたのです。左翼政党や組合色が出てない市民カラーだったので、ああいいなあこういうのと思ったのです。
逆に、組合の幟が乱立して、左系議員や組合系のお偉いさんとかの挨拶があって、拡声器があって、ほとんどが中高年で、声からして「〜はヤメロー!」とかって系の旧来型デモは、はっきし言って僕の居場所がないんですね。実に硬直的。閉鎖的。
学生系のにも行くけど、これはもっと疎外感を感じます。結局「若者」とかいって、「平和」を「peace」に変えて、「NONO小泉!」「やっぱり平和がイイじゃんヨー!」(ラップ調)とかって無理矢理「若者」カラー出そうとしてるのが非常にイラつくときがあるんですね。表面を変えて内実はほとんど旧来型の踏襲だからです。やはり旧来型のデモ運動の域を出ないし、むしろそれを、「ダサい」と感じる若者の新しいセンスだぜ楽しくやんなきゃさ、みたいにしちゃって、「今風」みたいにアレンジして、何かしら誤魔化してるところが大嫌いなんです。デモはデモだろと思うし、そんなにお前ら「若者」らしく在りたいのかよって。なんかもっと自然で紐付きじゃないデモンストレーションってできないのかなっていつも思う。

あと結局、運動がコミュニティーになっちゃってるところが一番嫌なんです。目的と手段がごっちゃになってるっていうのか、まるで宗教のように、確かに無条件で自分が必要とされるから居心地がいいんですあの場所は。とりわけ社会に適応できない奴が、運動というアイデンティティーと、コミュニテイーという居場所に心のセーフティーを見つけるって感じです。戦争や権力を共通の絶対悪に仕立ててね。僕も最初はそんなんだったと思うからあまり批判もどうかと思うんだけど、でも僕は次第にあの「居心地の良さ」に吐き気を催すようになったのです。

今の僕は群れることなく自分の脳で運動というものを考えていきたいのです。バラバラの中で手をつなぐことこそ、平和運動なんじゃないのかって思うんです。自分と全く考え方や行動性の異なる人と出会ったとき、僕はどうやったらこの人と手を繋げるだろうかっていつもドキドキします。だからいろんなことをその人と話せたときはすごく嬉しいのです。自分と全く異なるからこそ他人に魅力を感じて、だから理解し合える部分に感動するんだよ。人と人は、わからないしわかってもらえないしわかりあうことは相当に困難、でもだからこそリアルなんじゃん。その中にあって僕は手を繋ぐ努力をしたいのです。

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