体調悪い感じ。でも卒論できそうです。結局内容は、教育社会学−教師論みたいになりました。「教師像」の歴史的変遷と現代の教育問題の類を絡め、社会的要因と教育システム等を中心にまとめてみましたのです。
僕らが「教育」を語るとき、国家が教育を統制・管理するとき、必ず中心にきてる教師の存在。だけど教師は必ずしも「教育」そのものではない。カリキュラムやシステムをはじめ多様なものからも教育はアプローチされるからだ。現場はいつだって無視されるし、先生によって教育内容は多種多様になりうるし、それはその先生の自由裁量の部分の「特色」として、子どもは様々な教師に出会えたことを幸運に思ったり不幸に思ったりする。「こんな先生がいたあんな先生がいた」って。 教育論争とは「善さ」の衝突であり、学校とは「学習・人間形成・集団生活の場」「子ども社会」「スキルアップ・学歴取得機関」「社会化と選抜配分機関」「規律・訓練・抑圧・統制装置」「監獄或いは刑務所」等々、様々なレベルで語られる。そんな混沌な教育の中で、教師の位置づけってどうゆうものなのかなってのが本論、になるのかなあ一応。
僕はかつて義務教育において教師が嫌いでした。僕にとって嫌悪すべきは教育システムとその末端歯車である教師の存在だった。僕に社会性が欠如していたため学校教育そのものが合わなかったのと、あと、『希望格差』でもあったような、システム機能としての教育崩壊の中にあって尚、前時代的な権威のようなものでしか自らを存在づけることができない教師の姿が醜悪に感じたからだった。「センセイ君主」と呼ばれるような、情熱と勘違いした教育エゴも吐き気がした。先生に従うことで得る物なんか一つも見つけられなかったのだ。一方で、教員である両親は本当に僕と正面から向き合い理解しようとしてくれた。教師もまた家庭に戻れば普通の親なのだ。ただの人間なのだ。なのになんで学校内で彼らは威張りくさってられる?何故彼らの言うことだけがいつも「正しい」のか?僕が本音で語ろうとすると彼らはキレた。彼らは何者なのだ?僕は彼らの何もかもが理解できなかった。
大学に入って教職課程を取ったのも、教育社会学っぽいゼミに携わったのも、それが根底にあった。僕は「教師」を理解したかった。僕のことをいつも嫌な目で見てたあいつらのことをね。
戦後改革と高度成長を経て、全ての人々が教育を通じての社会的地位獲得競争におかれるようになった所謂「大衆教育社会」において、今現在行われてる市場主義的な教育改革によって教育の市場的なサービス業化が強まり、先生や学校は、消費者としての保護者に選択され評価される「商品」となり、競争こそが教育の質を上げるのだからガンガン精進せえという教師論があるけど、教師改革を望む一方でそうゆうのもホント乱暴に聞こえるんだ。例えば僕のような社会に適応できないタイプの生徒や、家庭に問題を抱えている生徒、闇を背負ってしまっている生徒、そういう「賢い消費者」になりえない層に対して、サービス業としての教育はアプローチできるのだろうか。公教育は業績ではかれるのか。僕らのようなクズは、教育サービスの業績対象にもなれず放り出されるんだろう。そしてやはり自己責任の下に堕ちてゆくんだろうと思うのさ。
教職の脱聖職化は教師のサービス業化を促進し、現行の教育改革はそれを後押ししてゆく。組合は文科省と協調路線をとり、かつての日教組のような攻撃的過激的な活動はもうありえないだけに、今や教育現場は中央集権文科省の教育政策をザルのように受容してゆくことになった。今や教員の組合組織率は酷いものです。夏休みは無くなり、「人材確保法」は廃止され、教員免許は更新制になる。教師はもう特権職でも聖職でもなく権威もなく、過労し残業手当もないボーダレスな職務範囲を抱える雑多なサービス業労働者の一人に過ぎなくなった。そいつを自覚しなけりゃいけないのに未だ前時代的な権威にすがる教師がいて、一方で教師は人々やメディアのまなざしをも受けているのだ。
かつてジャーナリズムは「サラリーマン教師」「デモシカ教師」等と、情熱無き教師たちを批判したし、現在も教師への社会の目は厳しい。教育改革が軌道に乗ってからの教師の疲弊ぶりは見るに耐えないよ。
今日の金八先生を観てもそうですが、教師をめぐる状況は厳しくなっているが、「教師像」だけは聖職のままなのです。
金八さん、ブラックジャックのように叫んでくれよ。「教師は何のためにあるんだ!」って。 だけど、だけどね、そう、金八はそうあっちゃいけない。それを口にしちゃいけない。それもわかってる。わかってる。でも僕はそんなことを思っちゃうんだ。教師は神なんかじゃない。
教師は聖職ではない。権威も力もない。喫煙だってするし金に目が眩みもするし風俗にだっていくさ。社会がそうさせていったのに、未だみんなの教師を見るまなざしは聖職の呪縛に充ちている。教師は人間だ。そして僕は根拠のない崩壊しかけた権威に従うのではなく、人間として教師を尊敬したかったんだ。
もうこれで最後だ。卒論を書き終えて僕はもう教師を憎むことも軽蔑することもなくなるんだろう。そしてあの教育実習は確かに僕に何か教えてくれたんだ。とりあえず今の僕の答え。僕の中の問いであり続けた何か。そいつはもう僕から離れるだろう。もう終わらせていいのだ。僕はもうそれを終わらせていいんだ。迷惑かけた全ての「先生」、僕の中の「教師」、サヨナラだ。
だからとりあえずは
Say hello to teacher "KINPACHI"
金八っつぁん、あなただけじゃない。僕の手で、みんなの手で、この国の子どもたちを守ってゆくんだ。
僕らが「教育」を語るとき、国家が教育を統制・管理するとき、必ず中心にきてる教師の存在。だけど教師は必ずしも「教育」そのものではない。カリキュラムやシステムをはじめ多様なものからも教育はアプローチされるからだ。現場はいつだって無視されるし、先生によって教育内容は多種多様になりうるし、それはその先生の自由裁量の部分の「特色」として、子どもは様々な教師に出会えたことを幸運に思ったり不幸に思ったりする。「こんな先生がいたあんな先生がいた」って。 教育論争とは「善さ」の衝突であり、学校とは「学習・人間形成・集団生活の場」「子ども社会」「スキルアップ・学歴取得機関」「社会化と選抜配分機関」「規律・訓練・抑圧・統制装置」「監獄或いは刑務所」等々、様々なレベルで語られる。そんな混沌な教育の中で、教師の位置づけってどうゆうものなのかなってのが本論、になるのかなあ一応。
僕はかつて義務教育において教師が嫌いでした。僕にとって嫌悪すべきは教育システムとその末端歯車である教師の存在だった。僕に社会性が欠如していたため学校教育そのものが合わなかったのと、あと、『希望格差』でもあったような、システム機能としての教育崩壊の中にあって尚、前時代的な権威のようなものでしか自らを存在づけることができない教師の姿が醜悪に感じたからだった。「センセイ君主」と呼ばれるような、情熱と勘違いした教育エゴも吐き気がした。先生に従うことで得る物なんか一つも見つけられなかったのだ。一方で、教員である両親は本当に僕と正面から向き合い理解しようとしてくれた。教師もまた家庭に戻れば普通の親なのだ。ただの人間なのだ。なのになんで学校内で彼らは威張りくさってられる?何故彼らの言うことだけがいつも「正しい」のか?僕が本音で語ろうとすると彼らはキレた。彼らは何者なのだ?僕は彼らの何もかもが理解できなかった。
大学に入って教職課程を取ったのも、教育社会学っぽいゼミに携わったのも、それが根底にあった。僕は「教師」を理解したかった。僕のことをいつも嫌な目で見てたあいつらのことをね。
戦後改革と高度成長を経て、全ての人々が教育を通じての社会的地位獲得競争におかれるようになった所謂「大衆教育社会」において、今現在行われてる市場主義的な教育改革によって教育の市場的なサービス業化が強まり、先生や学校は、消費者としての保護者に選択され評価される「商品」となり、競争こそが教育の質を上げるのだからガンガン精進せえという教師論があるけど、教師改革を望む一方でそうゆうのもホント乱暴に聞こえるんだ。例えば僕のような社会に適応できないタイプの生徒や、家庭に問題を抱えている生徒、闇を背負ってしまっている生徒、そういう「賢い消費者」になりえない層に対して、サービス業としての教育はアプローチできるのだろうか。公教育は業績ではかれるのか。僕らのようなクズは、教育サービスの業績対象にもなれず放り出されるんだろう。そしてやはり自己責任の下に堕ちてゆくんだろうと思うのさ。
教職の脱聖職化は教師のサービス業化を促進し、現行の教育改革はそれを後押ししてゆく。組合は文科省と協調路線をとり、かつての日教組のような攻撃的過激的な活動はもうありえないだけに、今や教育現場は中央集権文科省の教育政策をザルのように受容してゆくことになった。今や教員の組合組織率は酷いものです。夏休みは無くなり、「人材確保法」は廃止され、教員免許は更新制になる。教師はもう特権職でも聖職でもなく権威もなく、過労し残業手当もないボーダレスな職務範囲を抱える雑多なサービス業労働者の一人に過ぎなくなった。そいつを自覚しなけりゃいけないのに未だ前時代的な権威にすがる教師がいて、一方で教師は人々やメディアのまなざしをも受けているのだ。
かつてジャーナリズムは「サラリーマン教師」「デモシカ教師」等と、情熱無き教師たちを批判したし、現在も教師への社会の目は厳しい。教育改革が軌道に乗ってからの教師の疲弊ぶりは見るに耐えないよ。
今日の金八先生を観てもそうですが、教師をめぐる状況は厳しくなっているが、「教師像」だけは聖職のままなのです。
金八さん、ブラックジャックのように叫んでくれよ。「教師は何のためにあるんだ!」って。 だけど、だけどね、そう、金八はそうあっちゃいけない。それを口にしちゃいけない。それもわかってる。わかってる。でも僕はそんなことを思っちゃうんだ。教師は神なんかじゃない。
教師は聖職ではない。権威も力もない。喫煙だってするし金に目が眩みもするし風俗にだっていくさ。社会がそうさせていったのに、未だみんなの教師を見るまなざしは聖職の呪縛に充ちている。教師は人間だ。そして僕は根拠のない崩壊しかけた権威に従うのではなく、人間として教師を尊敬したかったんだ。
もうこれで最後だ。卒論を書き終えて僕はもう教師を憎むことも軽蔑することもなくなるんだろう。そしてあの教育実習は確かに僕に何か教えてくれたんだ。とりあえず今の僕の答え。僕の中の問いであり続けた何か。そいつはもう僕から離れるだろう。もう終わらせていいのだ。僕はもうそれを終わらせていいんだ。迷惑かけた全ての「先生」、僕の中の「教師」、サヨナラだ。
だからとりあえずは
Say hello to teacher "KINPACHI"
金八っつぁん、あなただけじゃない。僕の手で、みんなの手で、この国の子どもたちを守ってゆくんだ。
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