地に足をつけるということは
2006年3月10日学校で法学部の記念講演会とかで、某大物の小泉チルドレン政治家がきてたので聴いてきました。すんげえ頭の回転率で、超エリートで、これが自民党のブレインなんだなと。結局こういう方々が国を動かしているのだなと。
専門知識も飛び交いさっぱりだった面もあるけど、でも要するに「地に足をつけた」論を展開してるということ。現実の現実における現実的政策の展望を示しているということ。例えば野党的には、「軍事費を削れ」「金持ちから税金を取れ」「無駄を削れ」なんだろうけど、軍事費はアジアの脅威やら国際貢献の重要性とやらがどういったものなのか僕らは結局ホントのとこ分からないし、そう考えると予算0に近づけることなんかやっぱり非現実的なんだろう。金持ちから税金を取るとなると自民党は地獄のような凄まじい抵抗に遭うことだろう。その結果どのような状況になるかわからないからやっぱり非現実的だ。無駄を削るのも、結局何がどれくらい無駄なのかもわからない中でいろんな部分を改革してるわけで。
僕らが何かを批判するのは容易いことだ。だって無知なままに選挙権を持ってるから。僕らは非現実的な意見をいくらだって吐けるから。
現実とは、人々の総意であり現状のことだ。現実を受け入れることとは、妥協することでも目を背けることでもただ非現実に依存することでもなく、よりリアルな現実を認識し、立ち向かうことなのだと思う。
あれが正義かどうかはわからないし(僕は正義だとは思わないし)、だからそれも含めて僕らが判断し参政権を行使してくことなんだろう。ただ、あの自民党のブレインが、「地に足をつけた」論を提唱してることだけは確かだった。あれを批判する側は、どこまで現実と理想のバランスをとっていくのかが、やはり問われるのだと思った。
だが全てはこの国の国民に政治性が皆無だからなのかもしれない。
Aと飲んで帰りました。Aとはいつも幅広く素で話せるから素敵。僕を生かしてくれる。
「耳をすませば」は、ジブリで一番すき。もう何回か相当観たんだ。天沢くんはいいとして。雫が勉強を投げ出して小説を書くとことか。猫とか。おじいさんとか。純粋で。共感つうか。ただ素敵なんだ。穿って観られないの。
みんなそれぞれ何かの原石であったとして。
たぶんそのまたクズの。
僕のような人間が生きることにも。
ちっぽけでもいいから何か価値が生まれたらなあ。
専門知識も飛び交いさっぱりだった面もあるけど、でも要するに「地に足をつけた」論を展開してるということ。現実の現実における現実的政策の展望を示しているということ。例えば野党的には、「軍事費を削れ」「金持ちから税金を取れ」「無駄を削れ」なんだろうけど、軍事費はアジアの脅威やら国際貢献の重要性とやらがどういったものなのか僕らは結局ホントのとこ分からないし、そう考えると予算0に近づけることなんかやっぱり非現実的なんだろう。金持ちから税金を取るとなると自民党は地獄のような凄まじい抵抗に遭うことだろう。その結果どのような状況になるかわからないからやっぱり非現実的だ。無駄を削るのも、結局何がどれくらい無駄なのかもわからない中でいろんな部分を改革してるわけで。
僕らが何かを批判するのは容易いことだ。だって無知なままに選挙権を持ってるから。僕らは非現実的な意見をいくらだって吐けるから。
現実とは、人々の総意であり現状のことだ。現実を受け入れることとは、妥協することでも目を背けることでもただ非現実に依存することでもなく、よりリアルな現実を認識し、立ち向かうことなのだと思う。
あれが正義かどうかはわからないし(僕は正義だとは思わないし)、だからそれも含めて僕らが判断し参政権を行使してくことなんだろう。ただ、あの自民党のブレインが、「地に足をつけた」論を提唱してることだけは確かだった。あれを批判する側は、どこまで現実と理想のバランスをとっていくのかが、やはり問われるのだと思った。
だが全てはこの国の国民に政治性が皆無だからなのかもしれない。
Aと飲んで帰りました。Aとはいつも幅広く素で話せるから素敵。僕を生かしてくれる。
「耳をすませば」は、ジブリで一番すき。もう何回か相当観たんだ。天沢くんはいいとして。雫が勉強を投げ出して小説を書くとことか。猫とか。おじいさんとか。純粋で。共感つうか。ただ素敵なんだ。穿って観られないの。
みんなそれぞれ何かの原石であったとして。
たぶんそのまたクズの。
僕のような人間が生きることにも。
ちっぽけでもいいから何か価値が生まれたらなあ。
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