日本プロレタリア文学を読むのです。まずど真ん中。小林多喜二の『蟹工船』。1929年に書かれながら、二次大戦終了まで発行禁止だったこの作品。小林多喜二はこれ書いた四年後に弾圧され拷問で虐殺された。つまりはこの作品は小林多喜二のプロレタリア文学を確立したものなのですね。素晴らしかったし面白かった。震えましたよ。
−時は戦時下、オホーツク海の北洋漁業に駆り出された蟹の加工母船・博光丸は、300人もの底辺労働者を船倉(通称:「糞壺」)に詰め込み、地獄の最底辺の労働環境にて虐使していた。辺境での酷使生活の中で漁夫たちは次々衰弱死してゆくが、しかし、「監督」の残酷な労働指揮による蟹工船の運営は尚、漁夫たちを人間以下の労働生活に従事させることで成立してもいた。そんな地獄の船上生活の中である日起きた一つのサボタージュが、黙って死んでゆくことしかできなかった漁夫たちに微かな希望を生む。それはやがて段々と「ストライキ」という命がけの確かな団結にまでつながってゆくのであった。プロレタリア大衆の血みどろの歴史が壮絶に描かれる渾身の一作。
「殺されるッて分かったら? 馬鹿ァ、何時だ、それァ。――今、殺されているんでねえか。小刻みによ。彼奴らはな、上手なんだ。ピストルは今にも撃つように何時でも持っているが、なかなかそんなヘマはしないんだ。あれァ「手」なんだ。――分るか。…俺たちを殺せば、自分らの方で損するんだ。…本当の目的は、俺たちをウンと働かせて、締木にかけて、ギイギイ絞り上げてしこたま儲けることなんだ。そいつを今俺たちは毎日やられてるんだ。――どうだ、この滅茶苦茶は。まるで蚕に食われて桑の葉のように、俺たちの身体が殺されているんだ」
「こっちは人数が多いんだ。恐れることはないさ。それに彼奴らが無茶なことをすればするほど、今のうちこそ内へ、内へとこもっているが、火薬よりも強い不平と不満が皆の心の中に、つまりいいだけつまっているんだ。――俺はそいつを頼りにしているんだ」
「…俺たちが働かなかったら、一匹の蟹だって、金持ちの懐に入っていくか。…分るか。皆んな俺たちの力さ。…水夫と火夫がいなかったら、船は動かないんだ。――労働者が働かねば、ビタ一文だって、金持の懐にゃ入らないんだ」

もう一作、小林多喜二『一九二八・三・一五』を読む。 「三・一五事件」の話ですね。それにしても、極論根本的にはこうゆうものを考えざるをえないのだなと思います。マルクスやらレーニンやらとかいうことよりも、自分の幸せと他人の幸せを考えるということにおいてですね。むしろ現代において考えるべきではないのかって。だから古典的な左翼たちが生き残っていても、僕は彼らを遠くに見ながらも、無視できなかったりするのです。
−1928年3月15日未明。日本共産党員・労働組合などが全国一斉に検挙される「三・一五事件」が起こる。捕らえられた者たちは皆すべからく拷問を受け刑務所に送られた。中には拷問死する者もいた。彼らは何のために闘うのか。何のために社会変革を夢見たのか。それこそが、プロレタリア文学が描ききるソウルフルなテーマ。

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