堀井憲一郎『若者殺しの時代』。寝っ転がって読んだ。読んでて、ふぅんとだけ思った。小説のネタが浮かんだのだ。本自体はつまらなかった。パラパラっと読んだのだ。

「人生は損得ではない」  僕はかつてそう述べたことがある。あれは高校のときの生徒会誌に載せたのだ。
しかし、あなたでさえ考えるはずだ。仮に「損得」があるならば、あなたの人生はどうだろう?と。 無謀にも愚かにもそんなことを考えたとき、いま「若者であること」が、80年代くらいから段々と徐々に、そして確実に、「損」になってきているのだと筆者は主題として言う。
時代を比較して損得を唱えるなんてそもそも愚かなことだと僕は思う。そんなに過去に戻りたいのか未来を夢見たいのか、よくわからない。現実を見てくれと切に願う。
僕が思うのは所詮月並みなことだ。雇用市場や社会保障の現状況を見ていたら当然そうだろうと思うからだ。それだけのことだ。
僕らは殺される。殺されかけている。時代というものにである。そこで「損得」を計算するほど僕は余裕ではない。そうだろ、ローウェル・ジャドー。

高度成長くらいまでは手付かずだった各「若者」分野が、マーケットなりメディアなりつまりは「社会」に、しっかり取り込まれてきた。
情報が、「若さ」に意図的な意味を持たせた。
「わかもの」のパッケージ化。システム化。囲い込みである。
僕は思う。「若者」とは、実に素晴らしき「若者らしさ」を持っている、経済最先端の、奴隷であると。

或いはこの本は、僕にとってはどうでもいい社会状況を説明してくれていたようだ。
雑誌アンアンがどうだの、クリスマスやバレンタインデーがどうだの、ラブホテルの回転ベッドの消失だの、セックスの「エッチ」化だの、ディズニーランドの聖地化だの、マンガの「オタク」化、恋愛レートの上昇と性の商品化と、単位の「来る」化、ケータイ、PC、、、、、
僕らの脳は囲い込まれてきた。精神の区別がつかないまでに。
僕らは殺されながら、生きてゆき、そして死んでゆく。
時代は僕たちを捉えきる。弱い者には逃げ場もない。

革命理論を口にしていればヤらせてくれた時代から、ディズニーランドへ連れてけばヤらせてくれる時代へと変わっただけだ、と筆者は言う。
殺されながら祈る。僕はせめて望む。誰もに。自由を願う自由を。

「80年代を通して、僕たちは僕たちの共同体の抱いていた幻想をひとつずつバラバラにしてお金にしていったのだ。何だってバラバラにできるし、何だってお金になる。それがおもしろかったのだ。 僕たちがおもしろがってバラバラにしたあと、スーツを着たおとなたちがやってきて、それをすべて大掛かりな金儲けのラインに組み込んだ。もちろんそのラインによって、いろんな人が豊かになっていったのだと思う。恐らくまわりまわって僕たちも豊かになっているんだろう。でも、いったんバラバラにしてしまったものは、社会に組み込まれてしまい、もう二度ともとのかたちに戻すことができなくなってしまったのだ」(p92)

―――

いつしか僕たちは「若者」になった
革命を語る夜をやめ
静かな聖夜を放り出した
貧しさから豊かさへと走り出した
気だるい朝の光
夜のネオンを浴び続けた

泡が弾けて初めて知った
狂乱の余熱も冷める頃
失った時代を涙した
喪失の慟哭で幕開く
もう叶わない僕らの夢

それぞれの絶望を噛みしめて
ただゆっくりと僕らは殺される

(〈ローウェル・ジャドー氏に捧ぐ一編の詩〉和訳:takebono)

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索