最近は小説だけでなくエッセイなども雑多に読むのです。エッセイ本を読んで思ったことなど書いてこうかな。

最近読んだんは、僕がすきな現代作家の一人である石田衣良氏の初エッセイ『空は、今日も、青いか』です。
イシダイラ氏の文章はすきです。人気があるのもわかるのです。シンプルで、路上的というか、フリーター的(?)で、優しい感じもするし、僕は書評なんてさっぱりなんだけど、石田氏の文章は読みやすく感動するフレーズなりリズムがあり、結構ソウルフルだなあ、と思っていつも読んでいるのです。

本を読んで考えた。本を読んで考えた。takebonoは空を見て考えた。僕は、僕らが生きているこの世界のことを考えた。
過剰や無駄なものにこそ価値がおかれて、不毛にカテゴライズされて、あまりにも勿体なく生命や時間が奪われている、僕らのこの世界の大部分のこと。石田氏の文章を読んでると、そんな当たり前のように歪んだ社会がシンプルに素直に等身大に其処に僕は感じるのだ。だからって、この社会が悪りぃんだ!とか、いやぁ自己責任だしぃ!とかいう風に誰かが用意した愚かな二元論なんかはどこにも必要ない。むしろだからこそ石田ワードにはときに共感をする。強烈に人を生かし活かすことのできる魅力とか価値というものだって、そうソウルだって、つまりは弱さや不完全さの中に潜在してるのだと、僕もそう思うのだ。村上春樹の「鼠」じゃないけれど、僕は僕の弱さがすきだし、弱さを守るために強くなりたいとも考えている。人の弱さはすきだ。クズやゴミやハキダメ共の弱さもすきだ。優しさとも名付けられる弱さがすきだ。強さなんかよりよっぽどすきなのだ。かけがえがないそんなものを守ることこそ、僕の最もソウル的な部分かもしれないのだ、と考えることもよくあるほどなのだ。
「役に立つor役に立たない」の呪縛でしか全てを判断できなければ、五感は制限されるような気がするのです。世界や可能性自体が拡大しなければ、脳を活かすことも出来ないし、意識も動かせない、何一つ動きようがないし、すげえ勿体ないのだとやはり思う。そうだ、実は世界って思考以上に広すぎるのだ。圧倒的に見えてないのだから。わかった気になるのもつまらないし、絶望や妥協もやっぱり早すぎるのだ。
きっと羽を広げる前に臆していることって、本当に小さいことなんだよねと僕はわかっていて、それでもポジティヴかネガティヴかそんな二元論もバカバカしいまま、やはり小さいものにひっかかっていて飛べないことだってあるのだろう。たかが数百冊程度の本で生き方が変わるとも思ってないし、でもどこかの1ページや1つの言葉が何かを突き動かすことも知っているのだけど。
現実から逃げるためだけの「夢」。流れに委ねる卑屈な姿勢としての「理想」。それらは僕にとってクソクラエのものたちだ。
作られた「感動」。煽られた「衝動」。与えられた「不安」と「恐怖」。そんなどうでもいいものたちと、僕らは日々を殺し合わされている。誰もが無駄死にのように、解答のない世界を虚しく葛藤するだけで、タイムリミットは相殺され、なあ、そんなんでさ、そんなんで僕らの人生終わりなのかい?
目に見えるものだけが全てなら、もちろん僕は自殺していたはずなのだ。
キミが何者で、ボクが何者であれば、一体ダレが満足するというの?
それでも、僕が伝えることは一つなんだ。死ぬな、だ。この文章を読んでいる全ての人よ。誰も死ぬな。「みんな、死ぬな」なのだ。

30分くらいですっすっすーって、読めるような本にも。
ありふれた言葉たちにも。
一瞬の優しさや奇跡があることに気付くとき。
そんなとき、そこに、そっと、触れてみたとき。
あなただけの勇気が湧きませんか?
その正体が分からないまま、分からないはずなのに。
明日を勇敢に生きていけるような気がしませんか?
僕はときどき、そう思うんです。

「空は今日も青いか? 当たり前のことを聞くな」(byタカシ)

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