ノベルを述べる48 純文学の在処
2006年6月24日 読書◇『文学2006』を読んでみた。最近の純文学作家の作品を集めたやつだ。糸山秋子とか青来有一とか藤沢周とかは聞いたことくらいあった。読んでみて、なるほど純文学はわけわからんかったけど、なるほど文学チック。興味深かった。思うにそれは、人間社会の「隙間」のようなものだったり、どうにもなりようもないちっぽけな狂気のようなものだったり、お粗末な背徳のようなものだったり。そんなものたちがイマジンされて、凝縮されて、濃厚な文章になってくるのだ。
安吾が言ってたね。どーしよーもねー死んでもいーようなそれでも生きてるクズ人間が、それでもどうしよーもなく振り回さずにはいられないボーキレのようなものが文学だ、と。あれしっくりくるmyヒットな例えだなと思ったっけ。
僕も思うのです。瞬きするように、息をするように、屁をこくように、表現することの、最低卑屈レベルの、何たるかなんだと思う。素晴らしきくだらなさなのだと思う。孤独の味や、寂しさの匂いや、虚しさの嘔吐物のような、何たるか。そこでは涙なんか流れようもなく、天国でも地獄でもない人の世の、ただひっそりとした情緒なのだと思う。
死なないために生きている人間たちは、生きる糧を得るためにそこら中をうろついてる。飽食や虚飾を繰り返しても生き足りないやつもいる。そして僕のような人間は、そんなことすらできないくらいバカなんだと思う。同情しようもねえほどダメなんだと思う。ハキダメ−覇気駄目。音楽する人はだから演奏するんだと思う。歌うんだと思う。「だから僕は歌うんだよ精一杯でかい声で」(byB・H)。
何か表現したくても、それは陳腐で、卑屈で、キレやすく、語彙力に乏しくて、適切な単語を選べなくて、ろれつだって回らない。でもだからこそ言葉なんだ。殺意とか吐き気とか悪魔とか自殺とかなんでもいい。自殺といえば、いじめ自殺した子の漢字ノートにびっしり書き込まれてた「溺死」だの「感電死」だの、ああゆうの、ああゆうやつなんだよ言うならば。
ダメ人間ってもしかして僕のことじゃないのか? ヘイヘイ、しかしだからこそ生きていられるんだぜベイベとベイヴ。 今生きてる、この生き方以外の生き方なんて、僕には最初から無いくらい見えなかった。
朽ちてゆくのだと思う。だけどそれは現在を確かに救っている。僕にとっての創作とはそんな感じだ。文学も同様なのだ。最近またマンガを描きたくなった。未来なんか無いから、今を生きていられる。真剣に誠実になれるんだと思う。
恐くなるまでは、のたうちまわれるのだと思う。
僕こそが生に執着しているのだから。
生田紗代の『金魚の死後』は、わけわからないんだけどそれっぽかった。半同棲中の男女が、水槽で飼っている金魚の死後について延々と話すだけのストーリーなんだけど、ポストモダンの産物的作品なのだそうだ。まあそれもわけわからんのだけど、でも一番ピンときたのはこの作品だった。 この作家さんはまだ若くて、僕が通っていた大学を卒業した方らしくて、2年先輩に当たるらしい。若いこと。まぁ一つにそういうことなんだろうと思う。逆に言えば、僕らが文学やるとき、このようなものしか描けないのかもしれない。ポストモダンというか、アフターバブルなのだ僕らは。 一方でベテランの作家さんは文章が重かった。こんなんは書けない。さすがだった。
文芸雑誌買ってこようかな。
安吾が言ってたね。どーしよーもねー死んでもいーようなそれでも生きてるクズ人間が、それでもどうしよーもなく振り回さずにはいられないボーキレのようなものが文学だ、と。あれしっくりくるmyヒットな例えだなと思ったっけ。
僕も思うのです。瞬きするように、息をするように、屁をこくように、表現することの、最低卑屈レベルの、何たるかなんだと思う。素晴らしきくだらなさなのだと思う。孤独の味や、寂しさの匂いや、虚しさの嘔吐物のような、何たるか。そこでは涙なんか流れようもなく、天国でも地獄でもない人の世の、ただひっそりとした情緒なのだと思う。
死なないために生きている人間たちは、生きる糧を得るためにそこら中をうろついてる。飽食や虚飾を繰り返しても生き足りないやつもいる。そして僕のような人間は、そんなことすらできないくらいバカなんだと思う。同情しようもねえほどダメなんだと思う。ハキダメ−覇気駄目。音楽する人はだから演奏するんだと思う。歌うんだと思う。「だから僕は歌うんだよ精一杯でかい声で」(byB・H)。
何か表現したくても、それは陳腐で、卑屈で、キレやすく、語彙力に乏しくて、適切な単語を選べなくて、ろれつだって回らない。でもだからこそ言葉なんだ。殺意とか吐き気とか悪魔とか自殺とかなんでもいい。自殺といえば、いじめ自殺した子の漢字ノートにびっしり書き込まれてた「溺死」だの「感電死」だの、ああゆうの、ああゆうやつなんだよ言うならば。
ダメ人間ってもしかして僕のことじゃないのか? ヘイヘイ、しかしだからこそ生きていられるんだぜベイベとベイヴ。 今生きてる、この生き方以外の生き方なんて、僕には最初から無いくらい見えなかった。
朽ちてゆくのだと思う。だけどそれは現在を確かに救っている。僕にとっての創作とはそんな感じだ。文学も同様なのだ。最近またマンガを描きたくなった。未来なんか無いから、今を生きていられる。真剣に誠実になれるんだと思う。
恐くなるまでは、のたうちまわれるのだと思う。
僕こそが生に執着しているのだから。
生田紗代の『金魚の死後』は、わけわからないんだけどそれっぽかった。半同棲中の男女が、水槽で飼っている金魚の死後について延々と話すだけのストーリーなんだけど、ポストモダンの産物的作品なのだそうだ。まあそれもわけわからんのだけど、でも一番ピンときたのはこの作品だった。 この作家さんはまだ若くて、僕が通っていた大学を卒業した方らしくて、2年先輩に当たるらしい。若いこと。まぁ一つにそういうことなんだろうと思う。逆に言えば、僕らが文学やるとき、このようなものしか描けないのかもしれない。ポストモダンというか、アフターバブルなのだ僕らは。 一方でベテランの作家さんは文章が重かった。こんなんは書けない。さすがだった。
文芸雑誌買ってこようかな。
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