現実の価値、奇跡への礼儀、正義への懐疑、週末に終末のスリーポイント
2006年6月25日MM氏のつてで、荒川区までバスケしに行きました。車出してもらってありがとございました。
ほんとに、バスケはきつい。完全にガクガクになった。でもすんげえ楽しかった。
今日はその後で、色々考えることがありました。
たぶん、僕が東京にいる間に一回は起こるだろうなと思っていたことが今日起きたからです。ブログは誰かに見られてるものだ。でもそんなことも意識せずに、今日のことは書いて残しておきたかったから書きます。
完全に一人になった後で、高ぶってたわけでもないと思うんだけど、また一人で夜の公園をうろついた。公園のベンチに、タンクトップ姿でカップラーメン食ってる外国人の方がいた。話しかけようと思って、手持ちぶさたなので、15M離れてるコンビニまで走ってキリンビールを2缶とマルボロを買って戻ったら、その白人の方は逃げるように公園を去るところだった。たぶん、ベンチの脇にいた猫を僕がじーっと見つめていたのが、「あいつ俺のこと見てる」と思われたのだと思う。ああ話したかったのに。君とビールが飲みたかったのに。
ビールは結局飲まなかった。
今日のことについて、思った。
一方的なものが正義であるはずがない。
そんなこと思うのは僕がまだ無知だからか?
僕が何を、物事の何を、誰よりどれくらい知ってるというのか?
人間は多様なんだ。
そのときわかりあえなかった人間が、どうして自分にとって無価値だと言い切れるのか。
「わかりあえてる」ことを信仰してる者同士が、何をわかった気になって、その信仰内でだけ、感情を自由にするのか。
違って、良いのだ。異なるから、人間なのだろ。
どうしよーもねえ奴だって、精一杯、できる限り、一生懸命生きてるんだよ。僕がその一人じゃないかよ。誰がそのことを否定できるんだよ!!
「聖者になんてなれないよ、だけど生きてる方が良い」(byB・H)
全てから逃れられるわけはない。どこかで立場を決めなければいけない。僕はしかし、あの一方的な正義からは、どうしても中立で在りたかったんだ。
ハッキリとじゃないけど、わかったような気になった。
自分にとって大切なものを、そのかけがえのないものを失う恐怖が、他人になどわかるものか!!
なぜ認めない? 自分とは異なる者が存在することを。そして他の誰よりも、僕らはそのことを確認し合わなければならなかったはずだろ?
利害を廃した、それでも惰性でない誠実なコミュニティーに足りうるソウルとは、シンパシー以外にはなかったのだ。
少なくともいまの僕はそう考えている。
誰も悪くはない。故に傷つけ合うのが人間じゃないか。
この繰り返される怪物のような愚かさに、僕は幾度も絶望しかけた。それを救ってくれたのも、また人間のコミュニティーだった。だから。
まだ信じてるんだよ。正しさをじゃない。可能性をだ。僕にだってわからないそれをだ。
これが一つの、現実の一面であり、決着の在り方だ。今まで見て見ぬふりをしてきたものかもしれない。
何もかもわかりあえないけど、僕はみんなのことがすきだ。「正しさ」にじゃない。一人一人の人間性に共感してるからだ。間違っても「これが正しいのだ」なんて言いたくはない。
そうさ、MM氏の言うとおりさ。
目的のための、人間関係など、必要ないんだ。
すきだから、意味があるんだ。
それでも今日はやっぱり申し訳なかった。
ゴメンね。
ああちっくしょーどーしょーもねー駄文だな。
くそったれ。
もういいや。
ヴルーだ。
あの白人と飲み損ねたビールで、エクアドルを応援してます。
ほんとに、バスケはきつい。完全にガクガクになった。でもすんげえ楽しかった。
今日はその後で、色々考えることがありました。
たぶん、僕が東京にいる間に一回は起こるだろうなと思っていたことが今日起きたからです。ブログは誰かに見られてるものだ。でもそんなことも意識せずに、今日のことは書いて残しておきたかったから書きます。
完全に一人になった後で、高ぶってたわけでもないと思うんだけど、また一人で夜の公園をうろついた。公園のベンチに、タンクトップ姿でカップラーメン食ってる外国人の方がいた。話しかけようと思って、手持ちぶさたなので、15M離れてるコンビニまで走ってキリンビールを2缶とマルボロを買って戻ったら、その白人の方は逃げるように公園を去るところだった。たぶん、ベンチの脇にいた猫を僕がじーっと見つめていたのが、「あいつ俺のこと見てる」と思われたのだと思う。ああ話したかったのに。君とビールが飲みたかったのに。
ビールは結局飲まなかった。
今日のことについて、思った。
一方的なものが正義であるはずがない。
そんなこと思うのは僕がまだ無知だからか?
僕が何を、物事の何を、誰よりどれくらい知ってるというのか?
人間は多様なんだ。
そのときわかりあえなかった人間が、どうして自分にとって無価値だと言い切れるのか。
「わかりあえてる」ことを信仰してる者同士が、何をわかった気になって、その信仰内でだけ、感情を自由にするのか。
違って、良いのだ。異なるから、人間なのだろ。
どうしよーもねえ奴だって、精一杯、できる限り、一生懸命生きてるんだよ。僕がその一人じゃないかよ。誰がそのことを否定できるんだよ!!
「聖者になんてなれないよ、だけど生きてる方が良い」(byB・H)
全てから逃れられるわけはない。どこかで立場を決めなければいけない。僕はしかし、あの一方的な正義からは、どうしても中立で在りたかったんだ。
ハッキリとじゃないけど、わかったような気になった。
自分にとって大切なものを、そのかけがえのないものを失う恐怖が、他人になどわかるものか!!
なぜ認めない? 自分とは異なる者が存在することを。そして他の誰よりも、僕らはそのことを確認し合わなければならなかったはずだろ?
利害を廃した、それでも惰性でない誠実なコミュニティーに足りうるソウルとは、シンパシー以外にはなかったのだ。
少なくともいまの僕はそう考えている。
誰も悪くはない。故に傷つけ合うのが人間じゃないか。
この繰り返される怪物のような愚かさに、僕は幾度も絶望しかけた。それを救ってくれたのも、また人間のコミュニティーだった。だから。
まだ信じてるんだよ。正しさをじゃない。可能性をだ。僕にだってわからないそれをだ。
これが一つの、現実の一面であり、決着の在り方だ。今まで見て見ぬふりをしてきたものかもしれない。
何もかもわかりあえないけど、僕はみんなのことがすきだ。「正しさ」にじゃない。一人一人の人間性に共感してるからだ。間違っても「これが正しいのだ」なんて言いたくはない。
そうさ、MM氏の言うとおりさ。
目的のための、人間関係など、必要ないんだ。
すきだから、意味があるんだ。
それでも今日はやっぱり申し訳なかった。
ゴメンね。
ああちっくしょーどーしょーもねー駄文だな。
くそったれ。
もういいや。
ヴルーだ。
あの白人と飲み損ねたビールで、エクアドルを応援してます。
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