冥土陰邪犯2

2006年6月29日 読書
かつて野球界を震撼させたといわれるあの「江川問題」における、あの「空白の一日」とは、契約社会の不備を衝いた怪物スグルの一撃であり、この事件はそのまま、「契約」社会の薄さと、「一方的」を忌み「話し合い」が尊重されるこの社会の体制を現していたといわれてるんだそうだ。
結局、明確な契約が決め手にならない社会だということだ。「非競争的」といわれる一面もこうゆうとこからなんだな。日本は、どんな契約だろうと「一方的」はだめで、「話し合い」が決めうる社会でもあるという。つまり「話し合い」に基づく慣行さえあれば、それは超法規的に許される社会なのである。一方的な法の遵守がNGで、合意の上なら多様な違法も曖昧にOKになる。これを馴れ合いというか、現場の裁量が大きいというのか、規定が曖昧だというか、いやそれ以前にやはり「個人」が無いというのかもしれない。

誰も守ってないことが周知の事実になっている法律なんかいくらでも存在して、そしてそれを暗黙了解の上で社会が正常に機能している。じゃあ何のために法律や取り決めがあるのかというと、例えば何らかの伝統的規範からの逸脱があって初めてその法が活用されるためにあるのだという。そうだ、規範さえ守っていれば、厳密な違法なんて糾弾されやしないのだ。「ホンネとタテマエ」社会と言われる所以だ。 数々の不正や汚職の事件のニュースは、どれもこれもがずーっと前から違法であることが周知の事実の上で続けられてきたものだ。建築もサラ金もインサイダーも、どれも今に始まったことではないことくらいみんながみんな知ってたはずだろ。

契約外の労働にも、法を守れない企業が生き残ることにも、全く愚を感じる。そんなことをかつては思っていたけど、この国ではその当たり前のことを通すことこそが困難だということなんだ。
わかっているのだろうか?
株保有は「投資」だ。
就職は「雇用契約」だ。

半端な資本主義をしている日本。ムラカミだってそれを言いたかったんだろう。だが、それでも愚かだ。無知無力なまま、株保有は投資になりつつあるし、就職は雇用契約になりつつある。真の競争的競争がこれから始まる。極めて無知無力なままで。「慣習」が廃されたとき、初めて本物の資本主義に晒されたとき、この国で真っ先に喰われるのは無知無力な庶民たちだと思うだけだ。

強くならなきゃだめだ。強さとは何か?はまだわからないけど、でも、僕がかつて信じた力こそが強さのような気が、今になってするんだよね。

弱い者は喰われる。喰われるのが嫌なら喰う側にまわれ。共食いしたくないなら支配者たちと闘え。闘いたくないなら我慢しろ。我慢するのが嫌なら、死ね。
弱者が、闘うこと無しに、この世を生き残れるわけがないのだ。
卑屈な共食いは勝手にやればいい。弱い者がさらに弱い者をたたいてどうするんだ、と思うけどね。
支配者たちとの闘いにだけ、僕は弱き者に手を貸してやる。
そいつが、この冥土の国に放つ僕のソウルの一部だ。

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