ノベルを述べる51 −僕が「障害」者ではないということについて−
◇打海文三『時には懺悔を』読んだ。ミステリーから始まるヒューマンドラマだった。そしてシリアスな「障害」にまつわる話でもあった。
−元・大手探偵社の社員だった佐竹は、探偵スクールのレディース一期生・中野聡子の代理教官を務めることになった。探偵実習における盗聴器設置業務のために、かつての同僚・米本の事務所に忍び込むが、そこで二人は米本探偵の死体と遭遇する。そして一人の探偵の死の謎は、過去に、ある「障害児」を巡り起こった一つの事件を浮上させてゆく。。

この小説を読んで、「障害」についてしばし考えさえられた。
大学の教職課程で「介護実習」をやったこともあったけど、それよりもずっと前に僕はある養護学校でボランティアをしてた時期がある。そこでは、学校の生徒である障害児や、OBである障害者の方々と、たくさんたくさん触れ合う機会を頂いた。もちろん歩けない人や、涎を垂らしてる人や、顔面がひん曲がった人などをたくさん僕は見ることができた。一人ではトイレや食事もできない人もいた。彼らは一人では生きてくこともできない。そういう所謂「障害」ってやつを目の当たりにすることもできた。僕はその時点で陳腐な「同情」などすぐにやめた。正直に言えば、僕は確実に、「僕が健常者であること」の「優越」を感じていた。それは「五体満足でサッカーができること」の素晴らしさや、「自分の力で何百冊もの本を読める」ことの素晴らしさだった。いまの僕には障害もなければ借金もないということ。僕自身こそが、幸福に生きてることの、限りない奇跡的な現象だということを絶対的に感じた。聖者にはなれない。彼らの絶対的な「障害」を、「同情」等で括りたくもないのだ。カイジと同じ。涙を流すことで許されようなんて僕は思わない。彼らのありのままの姿を見続けることなんだと思う。絶対的弱者の醜さとそして悲しさと、なによりも打算や虚飾の無い美しさを僕は感じただけだった。障害児を産んで、苦しんでいる親たちはやはりいた。一方で、もちろん素晴らしく生きている障害者だってたくさんいた。アプローチの中には、僕らがすべきことでないことだってある。僕らのエゴだけのものもある。そして外からの支援を心から待っている人たちもやはりたくさんたくさんいたのだった。僕らは全てを背負うことはできない。それでも行政やNGOとかと連携すれば、少しだけでも僕らは彼らと共に生きながら支えることだってできるのだろうと思った。

かつて『セックスボランティア』という本を読んだことがあった。僕があの本を読んで思ったのは、障害者の「権利」というものをどう考えるのかという問題でもあった。
言うまでもなく障害とはハンディだ。障害を持った人はあらゆる社会生活の場面で、障害を持たない人より不利な立場におかれ困難を強いられる。だから「権利」や「バリアフリー」が叫ばれる。「障害者だって健常者並みに社会生活を送りたい」のだ。それは、わかるんだ。『セックスボランティア』においては、障害者の「性」というものにスポットを当ててそれが論じられていた。でも僕が思ったのは、セックスに関わらず、どこまでが障害者の「守られるべき権利」で、どこまでが「諦めるべきもの」なのか?という部分だった。
パラリンピックなんかを見ると、「スポーツ」ってのは開けてる分野かなと思う。僕の大学は「バリアフリー」推進校だったし、公共施設などの「バリアフリー」も一応は目に付くし、とりあえず生きてく余地はあるんだろう。そして「恋愛」や「セックス」とかが閉ざされてるってのはそうだと思うし、だから抵抗感ありつつも障害者の「性」のシステム化みたいのはとりあえず、わかるんだ。医学の発展は、子供の産めない夫婦が子どもをつくることさえ可能にしたのだしね。これまではハンディとして「諦めていた」ものが、可能性として開けてきてるってのはなんとなくわかるのさ。賛否両論はあるんだろうけどさ。
その一方で、それでも尚人間社会の残酷さは、「障害」を悲惨なものとしてるとも思うのだ。『ブラックジャックによろしく』の新生児医療編では、そんな一面も取り上げられてた。「差別」とか意識の低さとかだ。しかし僕は、いま根本的な部分もきてると思う。つまりそれは「金」だ。金がなければ、障害者はスポーツだって進学だって就職だってセックスだってできないという、ごく当たり前のことがだ。

今年4月からスタートした「障害者自立支援法」という法システムが、早くも破綻を起こしているという。この法律は「障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができる」ために定められたものだ。従来の支援費制度に変わり、障害者には費用の原則1割負担が求められ、障害者の福祉サービスが一元化され、保護から自立に向けた支援がなされるという。これまでの制度ではサービスを利用出来なかった精神障害などは一元化でよかったんだろけど、これまでの応能負担(福祉サービスを利用する際に、所得に応じて利用料を負担すること)から、応益負担(福祉サービスを利用する際に、所得とは関係なく一律定率で負担すること。定率負担とも言う)への移行で、障害者の経済的負担は確実に増した。施設の使用料が払えず退所する障害者もぼちぼち出てきた。家族の負担、或いはなけなしの障害者施設での労働賃金、雀の涙のような血の滲む金が、奪い取られることになった。「自立」の名の下で、とりあえずこの国がこれまで保護してきた障害者という絶対的弱者でさえ、今後は公共システムに寄りかかることができなくなるということなのだろう。
この問題をどう考えるかは個人の自由だ。だけど健常者の僕は、この精一杯の他人事に、それでも憤りや悲しみを感じざるをえない。正義とか思想とかヒューマニズムとかそんな大したモンじゃない。いつもそう、ただ素朴な問いかけなんだ。「これでいいのだろうか?」っていう。
こんな僕が、こんなこと思ったっていいと思う。
弱さとは、一体誰の、誰に対する、罪なのか?

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