駄文思考
2006年8月22日夜SKさんとカラオケと飲みに行きました。
またおごってもらっちゃってサンキュ。
幸福論について話しました。
案外まとまった思考で。
少し見直した。
僕も思うところはいっぱいあった。
友達だろ。悩みなんていくらでも聞いてやるよ。都合の良い陳腐なアドバイスや、「話したがり」のお節介なんか、しちゃうやついるんだろうけど、僕は絶対にしないからよ。
否定することなんかできやしない。それでも、奪われたものや喪ったものがあるだけでも、それは幸福だったとは言えないのかなあ。
「正しさ」を語っちゃうほど最悪なことはないけれど。
何度だって絶望し、何度だって希望を求める、その機会が与えられるてるんだってこと自体、そのこと自体、生をもがけることそのものがさ。本当に幸福なことなのだと、僕は思うのですよ。
人との比較なんか虚しいだけだ。
自分は自分を充実して生きているのかい?と。
涙を流せなくなることは、涙を流せることよりも悲しいことで。
憤れなくなることは、憤ることよりも虚しいことだ。
苦しみは、喜びの原動力だと。
絶望は、その後の希望を生むのだと思う。
「幸福」のパッケージが、自分をいくら追い込もうとも。
弱さを認めながら、強さを誇りたいのだ。
何かを信じる自分を、信じてるのだ。
なんのために人をすきになるの?
「人間関係」って。
「何か」を話さないこと?
「何か」を話せること?
少なくともそんなこと意識しちゃってれば窮屈だ。
意識しないでいられるなら幸せなのだと思う。
だから僕は幸せ、なのかもね。
自分は、誰に出会いたい?
自分は、何を成し遂げたい?
何処を歩きたい? 何を見たい?
この短き一生で。
僕は、誰かに絶対に出会いたい。
僕は、どうしても成し遂げたいことがある。
あそこもあそこもあそこも歩きたい。
あれも見たい。これも見たい。
だから、いま死ぬわけにはいかんのだよ。
死に物狂いで創りあげた。
僕の。
この僕自身。
生きることそのもののようなもの。
価値のようなもの。
何が起きてももう揺るぎはしない。
これがtakebonoなのだ。
ほうっ、と。
実に。
悪くないわ。
ああ、生きてゐる。
またおごってもらっちゃってサンキュ。
幸福論について話しました。
案外まとまった思考で。
少し見直した。
僕も思うところはいっぱいあった。
友達だろ。悩みなんていくらでも聞いてやるよ。都合の良い陳腐なアドバイスや、「話したがり」のお節介なんか、しちゃうやついるんだろうけど、僕は絶対にしないからよ。
否定することなんかできやしない。それでも、奪われたものや喪ったものがあるだけでも、それは幸福だったとは言えないのかなあ。
「正しさ」を語っちゃうほど最悪なことはないけれど。
何度だって絶望し、何度だって希望を求める、その機会が与えられるてるんだってこと自体、そのこと自体、生をもがけることそのものがさ。本当に幸福なことなのだと、僕は思うのですよ。
人との比較なんか虚しいだけだ。
自分は自分を充実して生きているのかい?と。
涙を流せなくなることは、涙を流せることよりも悲しいことで。
憤れなくなることは、憤ることよりも虚しいことだ。
苦しみは、喜びの原動力だと。
絶望は、その後の希望を生むのだと思う。
「幸福」のパッケージが、自分をいくら追い込もうとも。
弱さを認めながら、強さを誇りたいのだ。
何かを信じる自分を、信じてるのだ。
なんのために人をすきになるの?
「人間関係」って。
「何か」を話さないこと?
「何か」を話せること?
少なくともそんなこと意識しちゃってれば窮屈だ。
意識しないでいられるなら幸せなのだと思う。
だから僕は幸せ、なのかもね。
自分は、誰に出会いたい?
自分は、何を成し遂げたい?
何処を歩きたい? 何を見たい?
この短き一生で。
僕は、誰かに絶対に出会いたい。
僕は、どうしても成し遂げたいことがある。
あそこもあそこもあそこも歩きたい。
あれも見たい。これも見たい。
だから、いま死ぬわけにはいかんのだよ。
死に物狂いで創りあげた。
僕の。
この僕自身。
生きることそのもののようなもの。
価値のようなもの。
何が起きてももう揺るぎはしない。
これがtakebonoなのだ。
ほうっ、と。
実に。
悪くないわ。
ああ、生きてゐる。
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