日本之下流社会(四)
2005年11月26日 戯言戯言諸々その他昨日の朝生で『下流社会』が早速取り上げられていましたね。久しぶりにスピードに乗ってるぞtakebonoさん。 朝青龍前人未踏の七連覇・年間完全制覇・相撲記録年間83勝。伝説を超える伝説の誕生にtakebonoさん震えた。
では、前回は階層化による企業戦略など生産者側の動向でしたが、今回は階層化による消費者側の分裂を見ていこうと思います。 まずよく言われる男女別の展開論だが、僕は男性だし女性の意識や立場は実際よくわからないということを前置きしておきながらGO。
まず女性における階層論。まあ要するに、階層化+雇用機会均等法以降の女性の雇用市場参入が、女性の生き方を多様化させて格差も拡大してるっていう、ありふれた話。筆者は女性の階層文化を類型化してたけど、くだらなかったし大体イメージできたので端折る。要は所得と家柄とキャリアと結婚意識と教養と将来展望と消費文化の格差の類型です。
「現在、女性の格差が拡大している。それはかつてのように、夫の所得の多寡に帰せられる格差ではない。自分自身が稼ぎ出す所得、その背景にある自分の学歴、その背後にある親の階層、そして自分自身の性格、容姿など、様々な要因によって形成されるライフスタイル全体の格差である」(『下流社会』p69)
かつて女性はただ女だからという理由で女らしくあることを要求され、女であることだけを理由に共同戦線を張れた。その後台頭するジェンダーやら男女平等やら女性の地位の向上やらによって、性差別は撤廃に向かい、女性は一人の「個人」として尊重され、学歴、性格、容姿など全ての要素によって評価され、選別され、差別されるようになった。多くの選別要素は純粋に個人の能力と努力だけの産物ではなく、親の階層や、運にも左右される。 女性同士の差別や格差拡大や戦争なんかもう起きてるよ。もう男女差別なんて主張してる場合じゃねえんだよ。
さて次は男性における階層論。女性に比べてドラスティックな変化こそないが、それでもやはり立場は似たようなもの。親の所得階層と階層性に基づく生活と価値観によって規定される「個人」が、当然二極化を起こしていくという流れ。よくTVに出る放送大の宮本みち子は、90年代以降の高卒者自動的就職システムの崩壊が、弱者としての若者の増大を引き起こしたのだと語る。
「しかしもちろん、若者の全てが弱者に転落したわけではない。結局、若者が弱者と強者に分裂、二極化したのだ」(『下流社会』p73)
高階層の親の下での教育環境では、教養文化と機会が保障され、学歴やよりよい職をやはり得やすい。一方で低階層の親の下での教育環境では、高い教養文化や充分な機会は多少なりとも制限され、低学歴や職を得にくい状況になりやすい。至極当然な話。 就職後の状況も昔とは違い、同学校卒同学歴でも30歳くらいで給与格差がつき始める今日の競争社会では、ガンガンに過労しレールに乗り続けるか、マイペースでの適度な昇進でよしとするか、態度決定をせねばならない。その態度決定こそが男性における階層文化を類型化させる。
筆者の類型化はやっぱりくだらないので男性も端折る。要するに所得と出世志向と消費文化の格差の類型。
男女ともに出来すぎたインタビューが載せられておりなかなか興味深い。なるほど同じ年齢でもだいぶ階層化が進んでるんだなあと思う。年齢はもう関係ないんだね。所得格差もそうだけど文化もだいぶ違う。まさに多様化時代だ。僕なんか確実に「下」だろうな。既に決定しちゃってる。自分でもそう思う。そしてそれで別に悪い気はしない。そしてそんな考え方が既に「下流」なのだろうかなとも思う。
遅ればせながら「下流」の定義。
「「下流」は「下層」ではない。…基本的には「中の下」である。食う食わずとは無縁の生活をしている。しかしやはり「中流」に比べれば何かが足りない。例えば60年代にTVがない家庭は「中流」とは言い難かっただろう。しかし現在は下流でもDVDもPCも持っている。単に物の所有という点から見ると下流が絶対的に貧しいわけではない。では「下流」には何が足りないのか?それは意欲である」
「「下流」とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ」(『下流社会』p7)
“つづく”
では、前回は階層化による企業戦略など生産者側の動向でしたが、今回は階層化による消費者側の分裂を見ていこうと思います。 まずよく言われる男女別の展開論だが、僕は男性だし女性の意識や立場は実際よくわからないということを前置きしておきながらGO。
まず女性における階層論。まあ要するに、階層化+雇用機会均等法以降の女性の雇用市場参入が、女性の生き方を多様化させて格差も拡大してるっていう、ありふれた話。筆者は女性の階層文化を類型化してたけど、くだらなかったし大体イメージできたので端折る。要は所得と家柄とキャリアと結婚意識と教養と将来展望と消費文化の格差の類型です。
「現在、女性の格差が拡大している。それはかつてのように、夫の所得の多寡に帰せられる格差ではない。自分自身が稼ぎ出す所得、その背景にある自分の学歴、その背後にある親の階層、そして自分自身の性格、容姿など、様々な要因によって形成されるライフスタイル全体の格差である」(『下流社会』p69)
かつて女性はただ女だからという理由で女らしくあることを要求され、女であることだけを理由に共同戦線を張れた。その後台頭するジェンダーやら男女平等やら女性の地位の向上やらによって、性差別は撤廃に向かい、女性は一人の「個人」として尊重され、学歴、性格、容姿など全ての要素によって評価され、選別され、差別されるようになった。多くの選別要素は純粋に個人の能力と努力だけの産物ではなく、親の階層や、運にも左右される。 女性同士の差別や格差拡大や戦争なんかもう起きてるよ。もう男女差別なんて主張してる場合じゃねえんだよ。
さて次は男性における階層論。女性に比べてドラスティックな変化こそないが、それでもやはり立場は似たようなもの。親の所得階層と階層性に基づく生活と価値観によって規定される「個人」が、当然二極化を起こしていくという流れ。よくTVに出る放送大の宮本みち子は、90年代以降の高卒者自動的就職システムの崩壊が、弱者としての若者の増大を引き起こしたのだと語る。
「しかしもちろん、若者の全てが弱者に転落したわけではない。結局、若者が弱者と強者に分裂、二極化したのだ」(『下流社会』p73)
高階層の親の下での教育環境では、教養文化と機会が保障され、学歴やよりよい職をやはり得やすい。一方で低階層の親の下での教育環境では、高い教養文化や充分な機会は多少なりとも制限され、低学歴や職を得にくい状況になりやすい。至極当然な話。 就職後の状況も昔とは違い、同学校卒同学歴でも30歳くらいで給与格差がつき始める今日の競争社会では、ガンガンに過労しレールに乗り続けるか、マイペースでの適度な昇進でよしとするか、態度決定をせねばならない。その態度決定こそが男性における階層文化を類型化させる。
筆者の類型化はやっぱりくだらないので男性も端折る。要するに所得と出世志向と消費文化の格差の類型。
男女ともに出来すぎたインタビューが載せられておりなかなか興味深い。なるほど同じ年齢でもだいぶ階層化が進んでるんだなあと思う。年齢はもう関係ないんだね。所得格差もそうだけど文化もだいぶ違う。まさに多様化時代だ。僕なんか確実に「下」だろうな。既に決定しちゃってる。自分でもそう思う。そしてそれで別に悪い気はしない。そしてそんな考え方が既に「下流」なのだろうかなとも思う。
遅ればせながら「下流」の定義。
「「下流」は「下層」ではない。…基本的には「中の下」である。食う食わずとは無縁の生活をしている。しかしやはり「中流」に比べれば何かが足りない。例えば60年代にTVがない家庭は「中流」とは言い難かっただろう。しかし現在は下流でもDVDもPCも持っている。単に物の所有という点から見ると下流が絶対的に貧しいわけではない。では「下流」には何が足りないのか?それは意欲である」
「「下流」とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ」(『下流社会』p7)
“つづく”
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