日本之下流社会(一二・最終章)
2005年12月8日 戯言戯言諸々その他下流論も遂に最終章です。
これまで「下流社会」を延々と波もなくダベってきましたが、多少興味深かったと思います。僕なりの結論を言えば、やはりこれからの社会にて貧富の差が大きくなる中でどうすっかってことです。晩婚化と少子化はどんどん進み、自殺者や失業者や犯罪者やフリーターやニートとかが増えるかもしれないけど、でも餓死者が出るわけではないし、革命が起きるわけでもない。「下流」が固定されるだけです。働かず働けず、結婚せず結婚できず、子どもを産まず産めず、「自分」を追う迷路の中で疲れ果て、とりあえず歩くために「夢」を持ち、やはり納得いかず努力ができず、低価格消費を繰り返し、一人で考え悩み、孤独と虚無に怯え、何もかも面倒になり、その日その日を生きてゆく。そんな人たちが「下流」に増え、そしてその人たちはいずれ身動きが取れなくなるまでそこに生息し続けるのです。中にはダークサイドに落ちてゆくやつもいるかもしれない。 政治も経済も周囲の人たちでさえも、そんな状況をいま是認しています。だけど本当にこれは「仕方のない」ことなのでしょうか?
「上流」はいま、自分の全存在をかけて激烈な競争社会で日々を戦い抜いています。そこで得る誇りや自負こそが社会を支え、また「上流」を支えてもいます。一方で「下流」は「自分らしさ」を追い、トレンドに没しそうな葛藤の中でそこそこ楽しく生きようと藻掻いています。当然経済的な格差がついていきます。「上流」は「勝ち組」を名乗り、醜悪にそれを自画自賛します。「下流」は「別に負けてもいいや」「勝って何が面白いの?」と、ルサンチマン(て言うの?)的に、実は嫉妬しながら呟いています。 誰もが救われているようにも、救われぬようにも思えるし、流れの隙間にこそ実は素敵な豊かさがあるようにも僕は思うのです。
労働市場にとって今やなくてはならない存在である「フリーター」が何故か批判され、子供なぞ育てることもままならない環境の中で何故か「少子化」が懸念され、階層意識をまたしてもぼやかすような「個性」「ゆとり」「自分探し」が何故か教育界では奨励され、教育機関卒業と同時に現実に絶望するパターンを生んでいます。とりわけ教育は、もともと均一ではない人間というものを画一的に処理し、その上で競わせ、そのくせ時には手を繋いでゴールさせ、現実味のない協和幻想を吹き込み、しかし「良識ある公民」となることには常に恐怖を与え続け封殺してきました。 そして、どんなにがんばっても差のつかない「結果悪平等」を、弱肉強食のネオリベラリズムにて叩き壊し、永久にありえない「機会の平等」を唱えつつ、階層格差の固定化を遂に人々が是認し始めるところまでこの社会は来てしまいました。 政治や経済は「自己責任」を唱え、公共や福祉から徐々に撤退を見せ始めています。巷ではホームレスが凍死し、罪の無い子どもたちが狂気の犠牲になり、善良な人を狙った悪徳業が蔓延し、力を持たない一市民は権力の前に泣き寝入りをし、多くの若者たちが現実に脅え希望を失っています。一体いつからこの国では弱い者が更に弱い者を叩くようになったのでしょうか?
そんな中で「公共精神」を叫び、「昔はよかった」ノスタルジーに浸り、既得権の剥奪に脅えながらも自己の老後資産運用に必死こく大人たちがいます。片方で、政治にも参加せずに自分より更に弱いものに牙をむく奴らがいて、また一方では、優しい気持ちを裏切られ続け、閉ざし、破綻することを知りつつ闇に心を委ねていく人たちがいます。 ゴミクズの僕なんかよりもよっぽど優れてて優しくて素晴らしくて人に優しく在れる人たちが、僕なんかよりずっと素晴らしくこの社会に生きていくべきそんな人たちが、同じこの社会で何故傷ついてゆかねばならないのでしょうか?
だけど、だけどね。書いててずっと思ってました。takebonoは「下流」で、しかもそこにもう在処を見つけてしまっていたことを。いつからだろうかわからないけれど、たぶんずっとずっと前からだ。takebonoは「下流」に在ることが運命付けられてたような。思えばあの日やあの日からかなぁ。 きっと「藤子不二夫」も「アントニオ猪木」も「takebono」も、何かのキッカケで生まれたのだし、それでいいのだと思う。 僕の中の僕だけのテロリズムかヒロイズムかよくわからんものが帰結する一つの形かと。だけどまだ僕は「ただ一切が流れてゆく」ことを許していません。5年くらい前からそうでした。だから充実してたんじゃん。限りある命を、いま、生きてゆきたいんだよ。すごく。生きてゆきたいんだよな。この僕が知る僕を。知ろうとする僕をだよ。
そうさ。こんな僕にどんな意欲が足りないというんだ?
僕がどのように生きれば誰が納得するっていうんだ?
社会は普通に狂っている。だがしかし「下流」はクズである。そしてだからといって「上流」が素晴らしいわけでもない。ボケた「中流」が素敵なわけでもない。大切なのは「流れ」の中にあって、自分の足で歩き、自分を見極め続けることだ。立ち上がるときに立ち上がろうとすることや、変えられることから変えようとすることや、心臓の鳴り方に納得できるかどうかということなんだ。自分なりに創りあげたどうしようもないソウルを、自分の手で生かしていければ、きっと生きることが楽しいはずさ。この瞬間は、もう2度と無い、自分の生命なんだから。そうなんじゃないのかな。
H先生の教職ゼミの共同研究を終えて、M先生の総合演習のグループワークを終えて、Sゼミの卒論を終えたら、たっくさん飲んで、一通りの人に挨拶をして、書きかけの小説を書き終えて、いろんなやり残しのそのまたやり残しなどを終えて、そして大学を卒業したら、そして宙ぶらりんになったら、仕事とネタとたくさんのソウルを見つけて、本をたくさん読んでたくさん本を書くんだ。地方にも外国にも行きたいしルームシェアもしたいし、コミュニティーを守り、作ってもゆきたいんだ。僕はもはや死なない。動けなくなるまでは、僕は絶対に生きていく。
「下流」でもいい。アンバランスで方向感覚のないこの僕が、この社会でもし泳げるのなら。そこが「下流」でもいい。そう思うんだ。 S先生、ごめんなさい。僕はtakebonoでした。そしてtakebonoは「下流」がすきでした。
“おしまい♪”
これまで「下流社会」を延々と波もなくダベってきましたが、多少興味深かったと思います。僕なりの結論を言えば、やはりこれからの社会にて貧富の差が大きくなる中でどうすっかってことです。晩婚化と少子化はどんどん進み、自殺者や失業者や犯罪者やフリーターやニートとかが増えるかもしれないけど、でも餓死者が出るわけではないし、革命が起きるわけでもない。「下流」が固定されるだけです。働かず働けず、結婚せず結婚できず、子どもを産まず産めず、「自分」を追う迷路の中で疲れ果て、とりあえず歩くために「夢」を持ち、やはり納得いかず努力ができず、低価格消費を繰り返し、一人で考え悩み、孤独と虚無に怯え、何もかも面倒になり、その日その日を生きてゆく。そんな人たちが「下流」に増え、そしてその人たちはいずれ身動きが取れなくなるまでそこに生息し続けるのです。中にはダークサイドに落ちてゆくやつもいるかもしれない。 政治も経済も周囲の人たちでさえも、そんな状況をいま是認しています。だけど本当にこれは「仕方のない」ことなのでしょうか?
「上流」はいま、自分の全存在をかけて激烈な競争社会で日々を戦い抜いています。そこで得る誇りや自負こそが社会を支え、また「上流」を支えてもいます。一方で「下流」は「自分らしさ」を追い、トレンドに没しそうな葛藤の中でそこそこ楽しく生きようと藻掻いています。当然経済的な格差がついていきます。「上流」は「勝ち組」を名乗り、醜悪にそれを自画自賛します。「下流」は「別に負けてもいいや」「勝って何が面白いの?」と、ルサンチマン(て言うの?)的に、実は嫉妬しながら呟いています。 誰もが救われているようにも、救われぬようにも思えるし、流れの隙間にこそ実は素敵な豊かさがあるようにも僕は思うのです。
労働市場にとって今やなくてはならない存在である「フリーター」が何故か批判され、子供なぞ育てることもままならない環境の中で何故か「少子化」が懸念され、階層意識をまたしてもぼやかすような「個性」「ゆとり」「自分探し」が何故か教育界では奨励され、教育機関卒業と同時に現実に絶望するパターンを生んでいます。とりわけ教育は、もともと均一ではない人間というものを画一的に処理し、その上で競わせ、そのくせ時には手を繋いでゴールさせ、現実味のない協和幻想を吹き込み、しかし「良識ある公民」となることには常に恐怖を与え続け封殺してきました。 そして、どんなにがんばっても差のつかない「結果悪平等」を、弱肉強食のネオリベラリズムにて叩き壊し、永久にありえない「機会の平等」を唱えつつ、階層格差の固定化を遂に人々が是認し始めるところまでこの社会は来てしまいました。 政治や経済は「自己責任」を唱え、公共や福祉から徐々に撤退を見せ始めています。巷ではホームレスが凍死し、罪の無い子どもたちが狂気の犠牲になり、善良な人を狙った悪徳業が蔓延し、力を持たない一市民は権力の前に泣き寝入りをし、多くの若者たちが現実に脅え希望を失っています。一体いつからこの国では弱い者が更に弱い者を叩くようになったのでしょうか?
そんな中で「公共精神」を叫び、「昔はよかった」ノスタルジーに浸り、既得権の剥奪に脅えながらも自己の老後資産運用に必死こく大人たちがいます。片方で、政治にも参加せずに自分より更に弱いものに牙をむく奴らがいて、また一方では、優しい気持ちを裏切られ続け、閉ざし、破綻することを知りつつ闇に心を委ねていく人たちがいます。 ゴミクズの僕なんかよりもよっぽど優れてて優しくて素晴らしくて人に優しく在れる人たちが、僕なんかよりずっと素晴らしくこの社会に生きていくべきそんな人たちが、同じこの社会で何故傷ついてゆかねばならないのでしょうか?
だけど、だけどね。書いててずっと思ってました。takebonoは「下流」で、しかもそこにもう在処を見つけてしまっていたことを。いつからだろうかわからないけれど、たぶんずっとずっと前からだ。takebonoは「下流」に在ることが運命付けられてたような。思えばあの日やあの日からかなぁ。 きっと「藤子不二夫」も「アントニオ猪木」も「takebono」も、何かのキッカケで生まれたのだし、それでいいのだと思う。 僕の中の僕だけのテロリズムかヒロイズムかよくわからんものが帰結する一つの形かと。だけどまだ僕は「ただ一切が流れてゆく」ことを許していません。5年くらい前からそうでした。だから充実してたんじゃん。限りある命を、いま、生きてゆきたいんだよ。すごく。生きてゆきたいんだよな。この僕が知る僕を。知ろうとする僕をだよ。
そうさ。こんな僕にどんな意欲が足りないというんだ?
僕がどのように生きれば誰が納得するっていうんだ?
社会は普通に狂っている。だがしかし「下流」はクズである。そしてだからといって「上流」が素晴らしいわけでもない。ボケた「中流」が素敵なわけでもない。大切なのは「流れ」の中にあって、自分の足で歩き、自分を見極め続けることだ。立ち上がるときに立ち上がろうとすることや、変えられることから変えようとすることや、心臓の鳴り方に納得できるかどうかということなんだ。自分なりに創りあげたどうしようもないソウルを、自分の手で生かしていければ、きっと生きることが楽しいはずさ。この瞬間は、もう2度と無い、自分の生命なんだから。そうなんじゃないのかな。
H先生の教職ゼミの共同研究を終えて、M先生の総合演習のグループワークを終えて、Sゼミの卒論を終えたら、たっくさん飲んで、一通りの人に挨拶をして、書きかけの小説を書き終えて、いろんなやり残しのそのまたやり残しなどを終えて、そして大学を卒業したら、そして宙ぶらりんになったら、仕事とネタとたくさんのソウルを見つけて、本をたくさん読んでたくさん本を書くんだ。地方にも外国にも行きたいしルームシェアもしたいし、コミュニティーを守り、作ってもゆきたいんだ。僕はもはや死なない。動けなくなるまでは、僕は絶対に生きていく。
「下流」でもいい。アンバランスで方向感覚のないこの僕が、この社会でもし泳げるのなら。そこが「下流」でもいい。そう思うんだ。 S先生、ごめんなさい。僕はtakebonoでした。そしてtakebonoは「下流」がすきでした。
“おしまい♪”
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