ブルーダークの少年の記憶【Ⅵ】-2
2006年1月20日 エッセイ奇妙な飲み会もとりあえず終わって、結構飲んでしまって店を出るともう夜も更けていて、みんなしてフラついてて、まあ解散ってことになって、帰ろうとしたら、「ここら辺地元で詳しい人ー?」とか言う奴がいて、手を挙げたのは僕だけで、あれ?地元僕だけ?君ら何でここ(S駅)を選んだの?じゃあtakebonoくんはナビよろしくーということになって。原チャの後ろに乗って、駅前を徘徊する警官を避けながら、駅の側のあのでけえ公園まで僕はみんなをナビした。公園で大勢でバカみたいにそこでたまってダベって、少しずつ人数は減っていったけど、結局は日付変わるまで僕らはそこにいた。群れるの大嫌いだしくだらねえなあとか思ってたけど、昼間は学校で話したこともないような奴らと何で僕はいま一緒にいるんだろうなあと不思議でもあった。これが一般的な現代高校生文化ってやつなのかなあとか考えてた。
ちょうど今くらいの寒い冬の夜だった。でっけえ公園にはほとんど人気が無くて、僕らの話し声だけが響いていた。
息は白かった。学校で一度も話したことない、昼間よりも数倍ギャル化してたB(名前忘れた)さんが、僕にホットの缶コーヒーをくれた。
(B)「飲む?」(缶コーヒーを渡す)
(自分)「うん」(受け取って開ける)
(B)「吸う?」(タバコ取り出す)
(自分)「いい」(吸う印象つくりたくないな…)
(B)「…takebono君、学校で○○と噂になってるよ」(煙を吐く)
(自分)「ハァ?ふーん…」(コーヒーを飲む)
そんとき思った。自分は学校でクラスメートのことなんかどうでもよく、眼中にさえなかったのに、周りは以外とどーでもいい他者のことを結構よく見ているんだなと。自分を疎外していたものは自分自身でもあったんじゃないかって、そんとき少しだけ思ったんだ。自分はちっとも優しくないのに、彼らはどこか優しかった。人を暖め、勇気づけるものはやはり人なのかなあって。 takebonoが、初めてクラスメートという同年代の他者に触れ、どうしようもないようなどこか暖かい気持ちになれたのはその夜が凍るように寒かったからだけではなくて、僕のソウルのどこかしらがやっぱ冷めきってたからだったように思う。あんな寒い夜に少しだけあったかいなって思ったのは、ケバいBさんがくれた缶コーヒーと、そしてそれは初めて感じた他者のコミュニティーによるぬくもりだったような気がする。小さいことだ。小さいことだったんだけど。そのときの僕はどこか確かに、僕を見る他者の存在が初めて優しくてうれしかったんだ。
その後日付変わってからもいろんなことがあって、僕は明け方家に帰った。どこか不思議なこの朝帰りは、もう二度と訪れない種類のものだということを知りながら。自販機で買ったホットのミルクティーが胃に沁みこんでいった。この日から夜中や明け方帰るときには僕はミルクティーを飲む癖がついた。
ミルクティー飲むときたまに思い出します。数多くある酒飲んだ日の夜の中で、あんなどうでもいい夜が以外と記憶に残ってるもんです。僕はどこかで、忌み嫌う一方でどこかで、本当は「高校生」らしく、「一般的」らしく在りたかったのかもしれなかった。だから底辺でも公立高を選んだんだ。ホントは「高校生」やりたかったんだ。「自分」なんかよりホントはさ、みんなと同じように泣いたり笑ったり動揺したりキレたりしたかったんだ。叶わなくていい願いはやっぱり叶えられなかったんだけどさ。
だから、思う。学校に行くということは、学力の保障でも協調性云々でもなんでもなくて、ときに殺したくなるような奴に出会うことや、ときに死にたくなるような時間を味わうことや、何よりも素晴らしい喜びを探すためだったり、総じて生きているということや、そしてどうしようもない自分をどうしようもないくらい生き尽くすために、自分こそを自分で創り上げてゆく過程なのだったと。何よりもクラスメートという他者にこそ触れ合うことで、それを磨き、紡ぎ、育ててゆく場所だったのだと思うんだ。カリキュラムなんかまなざさなくても、進路探しに躍起にならなくても、社会に脅えなくてもよかったんだ。僕はそのことにもっともっと早く気づくべきだったんだよ。
ブルーダークこそ僕の10代の学生生活だった。そしてそれは僕の原色でもあった。透明な存在でもなく、ゴテゴテに塗り固められた気色悪さでもなく、出来合いのポスターカラーでもなければ、虹のようにカラフルなものでもそれはなかった。それは僕の原色であり、鮮やかで不確実で悠久のブルーダークだったのでした。
【END】
ちょうど今くらいの寒い冬の夜だった。でっけえ公園にはほとんど人気が無くて、僕らの話し声だけが響いていた。
息は白かった。学校で一度も話したことない、昼間よりも数倍ギャル化してたB(名前忘れた)さんが、僕にホットの缶コーヒーをくれた。
(B)「飲む?」(缶コーヒーを渡す)
(自分)「うん」(受け取って開ける)
(B)「吸う?」(タバコ取り出す)
(自分)「いい」(吸う印象つくりたくないな…)
(B)「…takebono君、学校で○○と噂になってるよ」(煙を吐く)
(自分)「ハァ?ふーん…」(コーヒーを飲む)
そんとき思った。自分は学校でクラスメートのことなんかどうでもよく、眼中にさえなかったのに、周りは以外とどーでもいい他者のことを結構よく見ているんだなと。自分を疎外していたものは自分自身でもあったんじゃないかって、そんとき少しだけ思ったんだ。自分はちっとも優しくないのに、彼らはどこか優しかった。人を暖め、勇気づけるものはやはり人なのかなあって。 takebonoが、初めてクラスメートという同年代の他者に触れ、どうしようもないようなどこか暖かい気持ちになれたのはその夜が凍るように寒かったからだけではなくて、僕のソウルのどこかしらがやっぱ冷めきってたからだったように思う。あんな寒い夜に少しだけあったかいなって思ったのは、ケバいBさんがくれた缶コーヒーと、そしてそれは初めて感じた他者のコミュニティーによるぬくもりだったような気がする。小さいことだ。小さいことだったんだけど。そのときの僕はどこか確かに、僕を見る他者の存在が初めて優しくてうれしかったんだ。
その後日付変わってからもいろんなことがあって、僕は明け方家に帰った。どこか不思議なこの朝帰りは、もう二度と訪れない種類のものだということを知りながら。自販機で買ったホットのミルクティーが胃に沁みこんでいった。この日から夜中や明け方帰るときには僕はミルクティーを飲む癖がついた。
ミルクティー飲むときたまに思い出します。数多くある酒飲んだ日の夜の中で、あんなどうでもいい夜が以外と記憶に残ってるもんです。僕はどこかで、忌み嫌う一方でどこかで、本当は「高校生」らしく、「一般的」らしく在りたかったのかもしれなかった。だから底辺でも公立高を選んだんだ。ホントは「高校生」やりたかったんだ。「自分」なんかよりホントはさ、みんなと同じように泣いたり笑ったり動揺したりキレたりしたかったんだ。叶わなくていい願いはやっぱり叶えられなかったんだけどさ。
だから、思う。学校に行くということは、学力の保障でも協調性云々でもなんでもなくて、ときに殺したくなるような奴に出会うことや、ときに死にたくなるような時間を味わうことや、何よりも素晴らしい喜びを探すためだったり、総じて生きているということや、そしてどうしようもない自分をどうしようもないくらい生き尽くすために、自分こそを自分で創り上げてゆく過程なのだったと。何よりもクラスメートという他者にこそ触れ合うことで、それを磨き、紡ぎ、育ててゆく場所だったのだと思うんだ。カリキュラムなんかまなざさなくても、進路探しに躍起にならなくても、社会に脅えなくてもよかったんだ。僕はそのことにもっともっと早く気づくべきだったんだよ。
ブルーダークこそ僕の10代の学生生活だった。そしてそれは僕の原色でもあった。透明な存在でもなく、ゴテゴテに塗り固められた気色悪さでもなく、出来合いのポスターカラーでもなければ、虹のようにカラフルなものでもそれはなかった。それは僕の原色であり、鮮やかで不確実で悠久のブルーダークだったのでした。
【END】
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