経済に触れようと思いながらなかなか時間が過ぎてしまった。自明な事ながら、「経済」と「経済学」は全然違うなということに改めて気付く。テキストにあるような経済メカニズムの仕組みや経済学者の論説から入るのか、経済の歴史や思想史のようなものも必要になってくるし。つまり途方もなく範囲が広いものにどこからどうやって触れようかと立ち止まってしまった。ハッキリ言って僕は市場経済の基本的なことすらわかっていないのだ。
まあしかしそれならそれで無知故の学びがあるような気もして、やっぱり興味から入ることにした。

さて、僕が経済という怪物を見ようとするにあたり、とりあえず一番興味を持ったのは「市場主義」というやつだった。需給バランスによる価格決定と欲望調節に始まる市場メカニズムってやつはホントに〈神の手〉で、すげえなあといつも思ってたからだ。無駄な摩擦や障壁や老廃物みたいなものが全て取り除かれた純粋な市場に全てを任せれば、何もかもうまく人間の欲望は調節できて、平和と秩序が守られるんじゃないかなあとか頭のどこかでなんとなく思ってたからだ。でもそれはやはり一面的であって、よく周囲を見渡せばやっぱ市場経済という怪物は残酷な暴力を生んでいるし、犠牲者や被害者をいくらでも生んでいることにも気付く。とりわけ自由競争という名の奪い合いは優勝劣敗が必然的なものであって、劣っている者が奪われることに対しどこまで認めどこまで反対するかという問題でもある。根こそぎ奪ってもOKとするのか、少しくらい残してやるのか、劣者が自暴自棄になり社会が不安定になり始めるのはその収奪レートがどれくらいからなのか。それらを決めるのは社会であり、市場主義は市場にそのルールを大きく委ねることに意義があるとされているらしいのだ。だから、或る正しさの根拠なんて、僕は簡単に口にすることなんてできなかったんだ。仮に「正義」という言葉を使うとして、そんなものを持ちながらだったら、この怪物はまともに見ることすら叶わないんじゃないかと。弱者が奪われることを当然だろと正当化できるその根拠なんてのは、考える前から現実そうなってるじゃんって思うからだ。

そして近年のこの国の社会ではその「市場主義」がやたら台頭してきてる。混迷する日本経済をよみがえらせるためには、並大抵の処置ではダメ、やはり経済構造改革というオペが必要!という声を受けてのものだ。郵政や教育を初めとしていろんな所が改革されたし、これからも改革されてゆくはずだ。日本型雇用制度・慣行はどれもこれもが見事なまでに競争回避型に仕組まれている、と彼ら市場主義論者はいう。市場主義改革とは、日本型制度・慣行をアメリカ型のそれに作りかえることを意味してる。でもまだそれがどうゆうことなのか僕はよくわかってない。

景気は回復軌道に乗ってきてる。求人倍率は上がってる。日銀の量的緩和策は遂に終わりを告げた。企業のリストラと非正社員化など諸処の人材合理化効率化作戦は、格差拡大と社会不安定化という重い代償を払いながらもそれ自体は一応うまいこと進行して、またしても景気はしぶとく回復するみたいだ。だけどその陰には政府の大増税政策が待ちかまえている。間違いなく庶民や底辺層を直撃するだろう。経済成長は再び軌道に乗り、社会は衰退するだろう。選挙で選ばれた政府と、それを選んだ国民がその責任を棚上げにしたりして、どうせまたどこかの誰かにその責任転嫁をしたり、はけ口にもってったりするんだろう。ばかめが、と思う。でも景気回復は市場主義改革の成果だ。

「市場主義」という言葉は、やはりそれ自体は社会進歩の甲斐あってのもので、19世紀に花開く古典的市場主義「レッセフェール(自由放任)」に始まって、その後はケインズ経済学の台頭で影を潜めていたらしい。それが20世紀の70年代くらいから復活してきてるということになるんだと。レーガニズムやサッチャリズムってやつがそれだと。日本はだいぶ遅れたけど、近年の小泉改革ってやつがそれなんだと。
背景には73年のオイルショックとか、先進諸国の高度成長が終わったことがまずあって。その半面で、肥大化した福祉予算による財政赤字の悩みが「小さな政府を!」の声へつながったこと。そこで反ケインズ経済学が一気に調子に乗ってきたってこと。
或いは、オイルショックを克服したのが結局「市場の力」だったろうが!って声。
そして、70年代に起きたこと。…中国文化大革命の破綻。中ソ対立。統一ベトナム共産化。ソ連アフガン侵攻。そして日本の新左翼運動の挫折。 要するに、社会主義への完全な幻滅が、政府の市場介入パワーを内包するケインズ経済学の幻滅にもつながっちまったということ。
市場主義のテーゼは「個々人が私利私欲を追求するにまかせておけば、社会全体の福利は最大限達成される」にある。狂った社会がその正義というか正当性のようなものを、倫理不在の時代に狂った末の拠り所としてここに委ねちまったってことでもあるのか。79年にサッチャー政権、81年にレーガン政権が誕生し、市場主義改革を断行した。
その後ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が解体され、社会主義は壊滅。グローバルな市場経済時代がスタートを切り、市場主義という復古思想がいよいよ浸透を始めることとなったわけだ。

日本の市場経済が不自由・不透明・不公正であることが常に言われ、市場主義改革はそれを一掃するとされている。そこには様々な「副作用」が不可避的に伴う。一般に「痛み」とか言われるやつだ。格差とか不平等とか公共部門の撤退とか荒廃とかだ。だから「副作用」を緩和したり、改革の暴走をチェックする政策が必要だと思うんだけど、まあ行われないんだろう。突っ走る「20年遅れのサッチャリズム」とグローバル化は、ただの楽観主義なのか、醜悪な強者の論理なのか。

市場メカニズム〈神の手〉に、僕らが僕らの社会を「どれくらい」そこに委ねるべきなのか――?
「市場主義」を巡る論争も、つまるとこ僕の問いもここにつきると思われる。
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