節目の季節だからか。かつての節目の季節の記憶をいま思い出した。
初めて未来に向かおうとしたのはいつだった?自分でもわけのわからないものに震え、初めてソウルを形にしようと思い立ったのはいつだったろうか?
あのテロリズムは僕に恐怖を与え、そして希望を与えた。今回はあの5年前の〈9・11〉を巡る話だ。


「お前生徒会もやってるから一応なー」とか言って、小太りの担任教師は書類を数枚机の上に放った。卒業が間近になって、いよいよ進路を決めなくちゃならなくて、しかし何一つ未来など考えたこともなかった僕に、担任教師はかったるそうに「進路指導」の時間を務めてくれていた。「お前ココとココなら推薦で入れるけど?」とか言って彼は書類を指さして軽く突いた。その書類には、聞いたこともないおよそ五流くらいの大学名が幾つか載っていた。彼は僕の顔色も見ずに「お前チコクと欠席多いんだよなー」と別の書類に目を通しながら呟いた。僕は15秒くらいの沈黙の後で焦らず目を見て彼に意思を伝えた。「ソコとソコ、いいです。いかないです」
いつものように、いつの間にか季節は巡っていて、その頃の僕は高校三年生だった。

あてもなく、行方もわからず、僕には何も無かった。何一つ無かった。高校を卒業する間際に一人でいろんなことを考えた。何とかなるとも思っちゃいなかったけど、どうにかしようとも思わなかった。とりあえず五体満足で健康なくせに、自分の人生のくせに、僕は自分で自分を動かせないでいた。勉強もほとんどパーだったし、「やりたいこと」なんてあるわけねえだろ!と思ってた。僕にはマンガを描くことくらいしかなかったから、本気で漫画家でも目指すかなぁとかも思ってた。
例えばこんなクズ校を出て、3流か4流大学に行って(いやそれがたとえ1流大だったとしてもだ)、しかしこんな僕が一体何者になれるのだろうかって、いつも思ってた。成功した人や充実してる人たちが、過去のエピソードとして「あの出会いが無ければ…」なんて話よく聞くけど、それ結果論だろと思ってた。「出会い」なんて実際僕には一つも訪れないじゃないかよって。それが過渡期なのかもわからない。括るのも意味がない。自分で決めて歩くことに関して、僕は僕の何を決めればいいのか。疑うことなのか信じることなのか。自己選択は、吐き気のする幸福を選ばずに、自滅を選んでもいいものなんじゃないのかって。死ねないから生きなきゃいけないのかなって。僕を動かすものはなんなんだろって。ただわけもわからずに、浅はかに、僕はいろんなこと考えた。

知り合いの知り合いの女の子と話をした。その人は僕の100倍くらい頭がいい人で、進学校に通っていて、すごいいい人で、でも親の仕事が失敗したことで大学進学を諦めて就職が内定していた。もっと勉強したかったけど仕方ないよねって寂しそうに笑う彼女に、僕はやりきれない思いだった。こんな素晴らしい人が機会を閉ざされていて、一方でこんな僕のようなゴミクズが、機会を前にしておいて自分でそれを潰そうとしてやがることに。歯ぎしりした。
後悔が押しもした。高校では僕はいろんなものを粗末にし、大切なものを放り出してしまってたことにやっと気づいてた。何もかもに申し訳ない思いだけはあった。クズの僕が五体満足な僕で在る奇跡をこれ以上冒涜しちゃだめだって思った。可能性いくつ?きっと僕にだって生きたい瞬間があるんじゃないかって。
何者かになろうとするとき、ソウルを考えた。大学にはきっとソウルがあるだろうって。僕が求めるもの、僕を何度だって揺らすものがあるだろうって。
大きな後悔とちっぽけな希望こそが背中を押していた。

2001年春。高校を卒業し僕は受験浪人になり、最初で最後の受験戦争が始まった。それは間違いなく自分との戦争だった。そうだ。あの〈9・11〉が起こるまで、僕はそんな風にして生きていたんだ。
【つづっく】

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