無知takebono経済学?
2006年4月21日 戯言戯言諸々その他「価格」こそ「神」だ。紙幣こそ免罪符だ。
価格についてごたごたする前に「市場経済」と「貨幣」について無知なりにまとめた。
市場経済とはなにか? それはまず自給自足経済ではない。生産と消費が分離した経済である。まず生産性のUPが前提になる。そして生産性の向上は生産力の特化にある(特化の利益)。故にほとんどの生産における商品やサービスは、生産者のためではなく他人の効用のために生産される。故に市場経済は分業社会である。そして自分が生産しないものを手に入れるためには、人々は生産物の交換をしなければならない。
「分業は、人間の本性に潜む交換という性向から生じる」「分業は労働の生産力を増進させる最大の原因である」(アダム・スミス『国富論』)
分業は同一のものの生産工程についても発生する。生産工程は分割され、単純化され、特化されることで、作業能率が引き上げられる。アダム・スミスは有名な「ピン作り」の例えでこれを説明した。熟練した職人は一日で(ボーリングの)ピンを数本しか作れないが、熟練してない労働者たちが生産工程を分割単純化すれば1日で何百本も作れる。
特化は交換を前提にしている。故にスムーズな交換の成立とその保証がなければ特化は進展しない。その昔行われていた「物々交換」は絶対スムーズとはいえないはずだ。交換をスムーズに行うには、一定の日時場所で交換相手と生産物が集い交換が成立しその保障がある場所があるとよい。それが「市場」だ。さらに、交換者同士の交換ニーズの2重の一致が必要になる。交換したい商品を他の誰かも超偶然に交換したがってなきゃいけない。だからどうしても一般的交換手段が必要になる。貨幣の必要性が生まれた。
貨幣役割はコメや貝殻だったりもしたけど、持ち運びや持続性のメリットから金銀銅という「金属貨幣」の登場に至る。でも、削ったり金の含有量を減らしたりと、偽造が増えたりした。かくてトーマス・グレシャムは「悪貨は良貨を駆逐する」という所謂「グレシャムの法則」を見いだすのでありますが。
そして「銀行」が登場する。銀行は金属量に見合った預かり証「銀行券」を渡し、いつでも金と交換できる制度にして偽造を封じた。そしてそのまま流通した銀行券が貨幣にうって変わる。その後、金本位制は崩壊して通貨管理制度に移行し、銀行券が完全に貨幣役割をぶんどる。紙幣は今や金と交換できない不換紙幣であるが、法によって一般的交換手段に指定されているため法定貨幣である。同時に銀行券は人々の信認で成立してもいる。中央銀行・日銀は人々の信認を確保するために、日本銀行券の価値を常に安定させる責務がある。貨幣価値の安定化とは購買力の安定つまり物価の安定を意味する。
貨幣経済が成立し始めると、交換を専門業とする「商人」が登場する。いわばこれはモノの仲介・再販売の仕事への特化である。商品移動のリスクを伴わない「店舗」が、市場に登場する。交換に伴う時間と費用も大きく節約される。最初の「物々交換」に比べると実にスムーズに事は運ぶねえ。交換取引は大きく拡大する。毎日のように交換が行われるようになる。かくして「市場(いちば)」は「市場(しじょう)」となるのである。
アダム・スミスは言います。「分業は市場の大きさによって制限される」
その通りだ。市場が小さければ分業特化はしにくい。小さな村では、様々な商品が少しずつ揃っている「よろず屋」が一つあればいい。映画館、本屋、地下鉄など専門特化は、市場が小さければ経営として成立しない。故に小さな村にはそれらは少ないな。逆に言えば、集中はさらなる集中を呼ぶということだ。東京の「一極集中」のように。東京圏の市場はでかすぎるため、あらゆる専門特化商売が成立する。
交通と通信の発達レベルはことさら重要だ。文明が常に水の近くで発展しているのは、農業発展の他にも、陸上輸送より水上輸送の方が市場拡大に貢献したからでもある。交通と通信の発達は、さらには他国との貿易という形にまで市場を拡大させる。しかし電脳時代はそういうもんも飛び越えうるのかなあ。
岩田規久男『経済学を学ぶ』を読んで書きました。わかりやすかったです。これからだこれから。
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価格についてごたごたする前に「市場経済」と「貨幣」について無知なりにまとめた。
市場経済とはなにか? それはまず自給自足経済ではない。生産と消費が分離した経済である。まず生産性のUPが前提になる。そして生産性の向上は生産力の特化にある(特化の利益)。故にほとんどの生産における商品やサービスは、生産者のためではなく他人の効用のために生産される。故に市場経済は分業社会である。そして自分が生産しないものを手に入れるためには、人々は生産物の交換をしなければならない。
「分業は、人間の本性に潜む交換という性向から生じる」「分業は労働の生産力を増進させる最大の原因である」(アダム・スミス『国富論』)
分業は同一のものの生産工程についても発生する。生産工程は分割され、単純化され、特化されることで、作業能率が引き上げられる。アダム・スミスは有名な「ピン作り」の例えでこれを説明した。熟練した職人は一日で(ボーリングの)ピンを数本しか作れないが、熟練してない労働者たちが生産工程を分割単純化すれば1日で何百本も作れる。
特化は交換を前提にしている。故にスムーズな交換の成立とその保証がなければ特化は進展しない。その昔行われていた「物々交換」は絶対スムーズとはいえないはずだ。交換をスムーズに行うには、一定の日時場所で交換相手と生産物が集い交換が成立しその保障がある場所があるとよい。それが「市場」だ。さらに、交換者同士の交換ニーズの2重の一致が必要になる。交換したい商品を他の誰かも超偶然に交換したがってなきゃいけない。だからどうしても一般的交換手段が必要になる。貨幣の必要性が生まれた。
貨幣役割はコメや貝殻だったりもしたけど、持ち運びや持続性のメリットから金銀銅という「金属貨幣」の登場に至る。でも、削ったり金の含有量を減らしたりと、偽造が増えたりした。かくてトーマス・グレシャムは「悪貨は良貨を駆逐する」という所謂「グレシャムの法則」を見いだすのでありますが。
そして「銀行」が登場する。銀行は金属量に見合った預かり証「銀行券」を渡し、いつでも金と交換できる制度にして偽造を封じた。そしてそのまま流通した銀行券が貨幣にうって変わる。その後、金本位制は崩壊して通貨管理制度に移行し、銀行券が完全に貨幣役割をぶんどる。紙幣は今や金と交換できない不換紙幣であるが、法によって一般的交換手段に指定されているため法定貨幣である。同時に銀行券は人々の信認で成立してもいる。中央銀行・日銀は人々の信認を確保するために、日本銀行券の価値を常に安定させる責務がある。貨幣価値の安定化とは購買力の安定つまり物価の安定を意味する。
貨幣経済が成立し始めると、交換を専門業とする「商人」が登場する。いわばこれはモノの仲介・再販売の仕事への特化である。商品移動のリスクを伴わない「店舗」が、市場に登場する。交換に伴う時間と費用も大きく節約される。最初の「物々交換」に比べると実にスムーズに事は運ぶねえ。交換取引は大きく拡大する。毎日のように交換が行われるようになる。かくして「市場(いちば)」は「市場(しじょう)」となるのである。
アダム・スミスは言います。「分業は市場の大きさによって制限される」
その通りだ。市場が小さければ分業特化はしにくい。小さな村では、様々な商品が少しずつ揃っている「よろず屋」が一つあればいい。映画館、本屋、地下鉄など専門特化は、市場が小さければ経営として成立しない。故に小さな村にはそれらは少ないな。逆に言えば、集中はさらなる集中を呼ぶということだ。東京の「一極集中」のように。東京圏の市場はでかすぎるため、あらゆる専門特化商売が成立する。
交通と通信の発達レベルはことさら重要だ。文明が常に水の近くで発展しているのは、農業発展の他にも、陸上輸送より水上輸送の方が市場拡大に貢献したからでもある。交通と通信の発達は、さらには他国との貿易という形にまで市場を拡大させる。しかし電脳時代はそういうもんも飛び越えうるのかなあ。
岩田規久男『経済学を学ぶ』を読んで書きました。わかりやすかったです。これからだこれから。
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