何か学びたいと思ったとき、大した紆余曲折も経てはいないのだけど。僕はやっぱり雇用問題に戻ってきてしまった。
矛盾と混沌だらけのこの世界で、自分の無力はもう当たり前のことだと気付いてから、正しさとは何か?なんて問うまでもなく、奪われ殺されてゆくのは実のところ僕らなのだということにも気付いてしまった。だからいまの僕は、自分たちの力で自分たちの生活を守っていくことに対し、もはや何の躊躇いもなく意志を向けられるのだ。
中野麻美『労働ダンピング』を読んで思ったのは、そんなシンプルなことだった。

僕はこの世界において、もう子どもではいられないのだ。汚く卑劣で卑怯すぎて頭の良すぎる大人達と闘うために、僕は大人になりたいと初めて思った。たとえ馬鹿でも愚かでも、心から優しい人間達と、共に成長しこの社会に責任を持ち、そして豊かで有意義な人生を過ごしていきたい。この綺麗事には、押し通すだけの意義がある。僕はそこに価値を認めたのだ。

かつて僕は『雇用破壊』を中心に雇用・労働問題を論じた。そのほとんどは、決して必要悪とみなされることのない経済効果たちだった。構造が必然的に生む悲劇は、何の対策もなく放置され、むしろ予定調和の想定内として、社会の崩壊を押し進めている。雇用破壊は、生活と社会の破壊であると僕は断言する。
もちろん暴動も飢餓も起こりはしないだろう。だけどこれは、僕らが僕らの力で僕らの社会を、そして僕ら自身の生活を守っていけるかどうかというシンプルな問いなのだ。庶民の雇用社会を守ること。目を背けようと思えばいくらでも背けられるけど、それはみんなどこかでツケになっていく。
いま景気拡大期?こんな景気回復を認めるわけにゃいかない。
終身雇用は崩壊し、格差は拡大し、社会保障は削られ、自己責任が叫ばれている。不安定雇用は増殖し、生活保護は倍増し、社会の衰退は加速している。これからの社会では、能力の高い者はよりチャンスを広げ、能力の低い者はより地獄を見ることになる。被雇用者のほとんどにあたる末端労働者は、その多くが使い捨てられ、酷使させられ、逃げ場もなく、落下したくなければ底辺をはいずり回るしかなくなる状況は確実に来る。かといって、今日の末端労働者には正当な権利を行使する力もなければ、利害を一致させ団結するすべもない。痛覚に鈍感な日本の末端も、これからは発狂するまで奪われ続ける時代がやってくる。
ふんぞり返って見ているだけの、君も、君も、君も、ツケを払わされるだろう。

僕は東京下町でどうしようもなく暮らすゴミに近き一般市民である。大層な思想も理屈も持ち合わせていない。ただこの狂った経済社会の中で、市場原理やら競争淘汰の下で、殺され殺し合わされながらも、これからの僕の立場は、どうしたって景気回復のおこぼれにはありつけないのだということを既に理解してしまったのである。
願うのは、健康で文化的な最低限度の生活だ。
望むのは、革命でもなく、画期的な政策アイデアでもなく、ヒーローの誕生でもない。
僕は、現在世界において、必要最低限僕らに許され、法律等が認めている権利なるものを、僕ら自身が主体的に、自力で、行使するために、立ち上がり動くことだけに、いま希望を見ている。
そうだ。正々堂々と生き延びてやるんだ。殺されてたまるか。

これは、これからの経済社会に殺されてゆく下流たちの、そして例外なく僕も含む、誰にとっても決して他人事ではありえない、ほとんどの末端賃金労働者の未来を賭けた闘いの、その序章における僕の一分である。

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