僕たちのリアル未来を賭けた、僕の一部のその一分 の?
2006年12月5日 戯言戯言諸々その他引き続き労働問題論を論じます。
かつて僕は長期休みのときなどに工場で働いたことがある。単純作業の労働というのは、あれはあれで僕に不向きなようであって、ときに興味深いものだった。ある工場では、非能率的に仕事をする人がたくさんいて、そんな状況が普通に慣習としてまかり通っていた。普段でさえそうなのだから、仕事の少ない時期などはより非生産的な労働状況になるという。あくまで正社員が、である。そうつまり雇用というのは、雇用者側の利潤追求のためにだけあるのではなく、個々の労働者の生活の保障手段でもあったのだ。もちろん生産性が上がらなければいずれ競争に敗れていくわけだけど、そんなことは労使交渉なり協調なりして煮詰めていくべき問題なのであって、雇用本来の意義とは別問題なのだ。
僕が言いたいのは、生活保障としての本来の雇用の意義のことだ。その根本自体が破壊されているということなんだよ。
経営やら経済的合理性に適う形で、かつては「聖域」と言われた人件費に手が付けられている。やはり外国人やフリーターを非正規雇用として雇い入れ、仕事の多い時期にだけ派遣労働者を使えば、それが経営者としてコスト戦争を生き抜く「正しい経営」なのだと僕だって思う。だが故に、雇用は破壊される。生活を守るために、この国の憲法が保障する権利を行使しようと思うならば、僕たちは「正しい経営」にこそ牙をむかなくてはならないのだ。
繰り返しだが、雇用は守られるべきものだ。倒産より優先させなければならないものであるとさえ僕は思う。倒産が増え失業率は上がるけど、僕ら底辺には本来そういうことは関係がない。むしろ失業保険の拡充を政府に求めるべきなのだ。明日の生活が守られて初めて、僕らにとって雇用の意味は存在する。僕らの生活破壊という犠牲の上に、倒産が減り失業率が下がっても、僕らが痛みに耐えられなければそれは本末転倒なことではないか。愚かで不毛な人間たちが死んでゆくことは、経済にとって効率的なことなのかもしれないけれど、僕らにとっては悪夢だ。愚かで不毛な人間である僕らにとっては悪夢だ。例え企業が死にかけていても、人材という「聖域」だけは守らなければいけなかった。こんな景気回復がくることもわかっていたくせに。もう多くが遅すぎるのだけど。
いま労働現場は激変している。この国の3人に1人の労働者は非正規雇用になった。この異常事態は、暴走した経済の要請であり、国がそれをガンガン推進した結果でもある。「雇用の融解」は90年代から着々と進み、かつて安定していた雇用社会はいま崩壊へ向かい、今日の絶望的状況を生み出してきた。
単純明快である。正社員を減らし、非正社員にすげ替えること。要するに不況を脱するための人件費戦争とは、労働者に対し賃金だけではなく、退職金とボーナスと、保険及び諸処の手当を、払わずに済ませること、なのである。
その最たるものが派遣業だ。必要なときに必要なだけ労働力を供給する超効率システムは、雇用本来の意義を完全に破壊した。
今日の悪夢は、具体的には86年施行の労働者派遣法が、職業安定法では違法であった労働者供給事業を「労働者派遣」という形で合法化させたことに始まる。これにより、人間が業者間の「商取引」の対象となることが合法化された。働き手のリスク増大の一方で、ユーザー側は労働力を自由に「使い捨て」できるという最大のメリットを得た。労働条件をダンピングし、正社員雇用をストップし、派遣労働者にシフトするのである。
コスト戦争のためにやむをえなかった悪夢というわけだが。ふざけるな、だ。
そう、だからこそ労働者派遣法はそもそも労働者派遣を規制した法律だったのである。派遣対象業務は政令指定の専門業務に限定されていたのだ。今日の悪夢の元凶は、政府が進めたその政令指定業務の規制緩和にある。何もかもが僕ら末端を地獄に追い込んでゆくように時代は用意されている。かくして、人間のダンピング競争は始まってしまった。
「聖域」は崩れ、神話は崩壊を続けている。僕らはもう「労働」というものをタヴー視してはならない。現実をしっかりと見つめなければいけない。誰もが経済社会の中で自分なりの居場所を確保しなければならないと考える故にだ。そして取り返しのつかない破壊を食い止め、破壊者と闘わなければならないだろう。僕ら愚かな末端の生活を守るためにだ。
これは誰もが意識しなければならないシンプルな闘いの意味だ。狂ったように回転を続ける市場経済からは多くの人が逃げることはできないからこそ、僕は労働というものに向き合うことに容赦や妥協をしてはならないと考える。
働くことは、生きることである。(『労働ダンピング』)
かつて僕は長期休みのときなどに工場で働いたことがある。単純作業の労働というのは、あれはあれで僕に不向きなようであって、ときに興味深いものだった。ある工場では、非能率的に仕事をする人がたくさんいて、そんな状況が普通に慣習としてまかり通っていた。普段でさえそうなのだから、仕事の少ない時期などはより非生産的な労働状況になるという。あくまで正社員が、である。そうつまり雇用というのは、雇用者側の利潤追求のためにだけあるのではなく、個々の労働者の生活の保障手段でもあったのだ。もちろん生産性が上がらなければいずれ競争に敗れていくわけだけど、そんなことは労使交渉なり協調なりして煮詰めていくべき問題なのであって、雇用本来の意義とは別問題なのだ。
僕が言いたいのは、生活保障としての本来の雇用の意義のことだ。その根本自体が破壊されているということなんだよ。
経営やら経済的合理性に適う形で、かつては「聖域」と言われた人件費に手が付けられている。やはり外国人やフリーターを非正規雇用として雇い入れ、仕事の多い時期にだけ派遣労働者を使えば、それが経営者としてコスト戦争を生き抜く「正しい経営」なのだと僕だって思う。だが故に、雇用は破壊される。生活を守るために、この国の憲法が保障する権利を行使しようと思うならば、僕たちは「正しい経営」にこそ牙をむかなくてはならないのだ。
繰り返しだが、雇用は守られるべきものだ。倒産より優先させなければならないものであるとさえ僕は思う。倒産が増え失業率は上がるけど、僕ら底辺には本来そういうことは関係がない。むしろ失業保険の拡充を政府に求めるべきなのだ。明日の生活が守られて初めて、僕らにとって雇用の意味は存在する。僕らの生活破壊という犠牲の上に、倒産が減り失業率が下がっても、僕らが痛みに耐えられなければそれは本末転倒なことではないか。愚かで不毛な人間たちが死んでゆくことは、経済にとって効率的なことなのかもしれないけれど、僕らにとっては悪夢だ。愚かで不毛な人間である僕らにとっては悪夢だ。例え企業が死にかけていても、人材という「聖域」だけは守らなければいけなかった。こんな景気回復がくることもわかっていたくせに。もう多くが遅すぎるのだけど。
いま労働現場は激変している。この国の3人に1人の労働者は非正規雇用になった。この異常事態は、暴走した経済の要請であり、国がそれをガンガン推進した結果でもある。「雇用の融解」は90年代から着々と進み、かつて安定していた雇用社会はいま崩壊へ向かい、今日の絶望的状況を生み出してきた。
単純明快である。正社員を減らし、非正社員にすげ替えること。要するに不況を脱するための人件費戦争とは、労働者に対し賃金だけではなく、退職金とボーナスと、保険及び諸処の手当を、払わずに済ませること、なのである。
その最たるものが派遣業だ。必要なときに必要なだけ労働力を供給する超効率システムは、雇用本来の意義を完全に破壊した。
今日の悪夢は、具体的には86年施行の労働者派遣法が、職業安定法では違法であった労働者供給事業を「労働者派遣」という形で合法化させたことに始まる。これにより、人間が業者間の「商取引」の対象となることが合法化された。働き手のリスク増大の一方で、ユーザー側は労働力を自由に「使い捨て」できるという最大のメリットを得た。労働条件をダンピングし、正社員雇用をストップし、派遣労働者にシフトするのである。
コスト戦争のためにやむをえなかった悪夢というわけだが。ふざけるな、だ。
そう、だからこそ労働者派遣法はそもそも労働者派遣を規制した法律だったのである。派遣対象業務は政令指定の専門業務に限定されていたのだ。今日の悪夢の元凶は、政府が進めたその政令指定業務の規制緩和にある。何もかもが僕ら末端を地獄に追い込んでゆくように時代は用意されている。かくして、人間のダンピング競争は始まってしまった。
「聖域」は崩れ、神話は崩壊を続けている。僕らはもう「労働」というものをタヴー視してはならない。現実をしっかりと見つめなければいけない。誰もが経済社会の中で自分なりの居場所を確保しなければならないと考える故にだ。そして取り返しのつかない破壊を食い止め、破壊者と闘わなければならないだろう。僕ら愚かな末端の生活を守るためにだ。
これは誰もが意識しなければならないシンプルな闘いの意味だ。狂ったように回転を続ける市場経済からは多くの人が逃げることはできないからこそ、僕は労働というものに向き合うことに容赦や妥協をしてはならないと考える。
働くことは、生きることである。(『労働ダンピング』)
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