ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』。読んだよん。僕の頭では難しかったしおもしろかった。
なんで読み始めたんだっけと思いながら読んでる間にボードリヤール氏はついこないだお亡くなりになった。
僕らの消費社会は、「記号」に埋め尽くされた超現代。
豊かさは管理され、自由は強制され、幸福が計量可能となり、モノの価値はその機能ではなく、「記号」となった社会だ。生産と消費のために僕たちは次々と「解放」され、幸せな呪いをオートマチックにかけられていく。価値は消費されるために生産され輝いている。価値観はまた消費されるために生産され蠢いている。この社会に息づく人は、限られたこの果てしなさを、何のために生き急いでいるのだろうか。僕たちはもはや勝ちにではなく、「価値」にこそ追われてるんだろう。
マッチポンプのようなコンプレックスがそこら中に無駄に散らばり、矯正が強制され、僕たちを支配するものは僕たち自身にされていた。
鏡の中の自分を殺せるか、とプロメシュームは言ったね。鉄郎は最後は自分の運命さえも自分の思いで裏切ってコスモドラグーンを撃った。鉄郎はメーテルとの長い旅の果てに、限りある命の美しさと、生身の自分こそが解答のない宇宙の一部であり永遠の命なのだということを知った。地球へUターンする999号の車内で、メーテルのいない静かな乗車席で物思いにふける鉄郎の姿に僕は涙し、再び闇の中に消えてゆく999号を見送った。ハッピーでもアンハッピーでもないこのエンディングに、僕はソウルを見たんだっけ。
大消費社会を意識し始めたのは、授業中にマンガばかり読んで描いてた高校の頃だったかな。
内発的な意味不明な「内なる声」のようなものに耳を傾けるようなことばかりしていたけれど、聞こえてくるのは断末魔の声のようなものばかりでそれはろくなもんじゃなかった。
「本当の自分」なんて吐き気がする。いない方がいい。真実は絶対に素敵じゃない。
人間は記号に埋め尽くされる。社会は既に記号が秩序だ。社会が既にそうだというよりも、そうすることでしかこの社会は成立していないんだね。
やる気がなければ怒られた。なんでだろと思ってた。
協調しなければ怒られた。最初から集団内にいなければ良いやと思いサボりまくってた。
無視されるのは恐かった。そのうちそれが恐くなくなった頃に友達が出来て嬉しかった。
役に立つことで存在を認められたかった。何をすることが何の役に立つのか知らぬままに、夢見てた。
「貧しい」生活は嫌だった。貧しさとは何か、豊かさとは何かも知らぬまま、脅えてた。
記号が一喜一憂させていた。いまは、かつて一喜一憂してたそうゆうものたちに興味関心が薄すぎる日々だ。あれはなんだったの?あれは誰だったの?
僕が僕のものになってきていると感じ始めた近年、このちっぽけなソウルさえいまだ神話の内なのだろうが。いまはあの頃よりも楽に、そして楽しく、人生を生きている。これで充分だなあとも思う。
僕はこうゆう本を読めて、あーだこーだ考えられるだけで充分過ぎるほど豊かだと思う。つくづく学問は向かないんだと思うけれど。
僕は僕が納得いくように、ゆっくり自分を見つめながら生きてゆきたいなとだけ思ってるんだ。
なんで読み始めたんだっけと思いながら読んでる間にボードリヤール氏はついこないだお亡くなりになった。
僕らの消費社会は、「記号」に埋め尽くされた超現代。
豊かさは管理され、自由は強制され、幸福が計量可能となり、モノの価値はその機能ではなく、「記号」となった社会だ。生産と消費のために僕たちは次々と「解放」され、幸せな呪いをオートマチックにかけられていく。価値は消費されるために生産され輝いている。価値観はまた消費されるために生産され蠢いている。この社会に息づく人は、限られたこの果てしなさを、何のために生き急いでいるのだろうか。僕たちはもはや勝ちにではなく、「価値」にこそ追われてるんだろう。
マッチポンプのようなコンプレックスがそこら中に無駄に散らばり、矯正が強制され、僕たちを支配するものは僕たち自身にされていた。
鏡の中の自分を殺せるか、とプロメシュームは言ったね。鉄郎は最後は自分の運命さえも自分の思いで裏切ってコスモドラグーンを撃った。鉄郎はメーテルとの長い旅の果てに、限りある命の美しさと、生身の自分こそが解答のない宇宙の一部であり永遠の命なのだということを知った。地球へUターンする999号の車内で、メーテルのいない静かな乗車席で物思いにふける鉄郎の姿に僕は涙し、再び闇の中に消えてゆく999号を見送った。ハッピーでもアンハッピーでもないこのエンディングに、僕はソウルを見たんだっけ。
大消費社会を意識し始めたのは、授業中にマンガばかり読んで描いてた高校の頃だったかな。
内発的な意味不明な「内なる声」のようなものに耳を傾けるようなことばかりしていたけれど、聞こえてくるのは断末魔の声のようなものばかりでそれはろくなもんじゃなかった。
「本当の自分」なんて吐き気がする。いない方がいい。真実は絶対に素敵じゃない。
人間は記号に埋め尽くされる。社会は既に記号が秩序だ。社会が既にそうだというよりも、そうすることでしかこの社会は成立していないんだね。
やる気がなければ怒られた。なんでだろと思ってた。
協調しなければ怒られた。最初から集団内にいなければ良いやと思いサボりまくってた。
無視されるのは恐かった。そのうちそれが恐くなくなった頃に友達が出来て嬉しかった。
役に立つことで存在を認められたかった。何をすることが何の役に立つのか知らぬままに、夢見てた。
「貧しい」生活は嫌だった。貧しさとは何か、豊かさとは何かも知らぬまま、脅えてた。
記号が一喜一憂させていた。いまは、かつて一喜一憂してたそうゆうものたちに興味関心が薄すぎる日々だ。あれはなんだったの?あれは誰だったの?
僕が僕のものになってきていると感じ始めた近年、このちっぽけなソウルさえいまだ神話の内なのだろうが。いまはあの頃よりも楽に、そして楽しく、人生を生きている。これで充分だなあとも思う。
僕はこうゆう本を読めて、あーだこーだ考えられるだけで充分過ぎるほど豊かだと思う。つくづく学問は向かないんだと思うけれど。
僕は僕が納得いくように、ゆっくり自分を見つめながら生きてゆきたいなとだけ思ってるんだ。
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