湯浅誠『貧困襲来』
「貧困」が襲い来る。この国に。そいつがどうゆうことなのか。
日本型雇用が音を立てて崩れ去っている。
日本型福祉が悲鳴を上げて破綻をきたしている。
歪んだ経済大国を支え続けてきたものが、その根底から揺らいでいる。
企業は撤退し、国は無視を続け、地域は見捨てられ、家族が崩壊するまで責任は個人に被せられてきた。
「なんとかなる」奴が実際なんとかなっているうちに、
「どうにもならない」奴はいよいよ呻き声をあげ始めた。
前者は後者を指さして安心して批評し、てめえの幸運を感謝もせずに、そいつの不幸を覗きもせずに、全要因を「努力」に置き換えて、この不条理な真実に妥協しようとしている。わかりやすくて都合良く用意された材料で、自分の現実への無関与無関心を必死で肯定しようとしている。
曖昧な一線を簡単にひき、適当な正論で諦めついちゃうのは、結局は抵抗する道具が無いことを知ってるからだと思う。
「格差」問題を論じるとききまって現れる不毛な「努力」論に対し、湯浅氏の「貧困」問題への視点は、強烈にひとつの明確なメッセージを投げかけてくる。
これが最低賃金・最低水準生活以下の話、なのだということを。
「努力」神話が崩れかけている世界であるということを知りながら、それでも最低ラインにまで向けられる「努力」論が、いかなるものなのかということを。
家庭・個人は、責任をもう充分に負ってきて、これからも充分負ってくと思う。だからこれからは、企業の社会的責任・国の政治的責任も、もっともっと大きく問われるべきだと思いますた。
自分が何に守られてきてたのか、それを失ったときに初めて考えるのだろうけど。おこぼれで生きてきたくせに、もはや失われた世界でまだ搾取に脅えてるつもりなのか。
「格差」なんて言葉で、「貧困」を覆い隠して、
「自立支援」なんかで必死こいて生活保護を防止して、
この先行きの無さを、これからはみなどう誤魔化してくのか。
「貧困」と相対することで見えてきたものは、どうやら闘わなければ大切なものは守れない時代になってきたということのようだ。
「貧困」が襲い来る。この国に。そいつがどうゆうことなのか。
日本型雇用が音を立てて崩れ去っている。
日本型福祉が悲鳴を上げて破綻をきたしている。
歪んだ経済大国を支え続けてきたものが、その根底から揺らいでいる。
企業は撤退し、国は無視を続け、地域は見捨てられ、家族が崩壊するまで責任は個人に被せられてきた。
「なんとかなる」奴が実際なんとかなっているうちに、
「どうにもならない」奴はいよいよ呻き声をあげ始めた。
前者は後者を指さして安心して批評し、てめえの幸運を感謝もせずに、そいつの不幸を覗きもせずに、全要因を「努力」に置き換えて、この不条理な真実に妥協しようとしている。わかりやすくて都合良く用意された材料で、自分の現実への無関与無関心を必死で肯定しようとしている。
曖昧な一線を簡単にひき、適当な正論で諦めついちゃうのは、結局は抵抗する道具が無いことを知ってるからだと思う。
「格差」問題を論じるとききまって現れる不毛な「努力」論に対し、湯浅氏の「貧困」問題への視点は、強烈にひとつの明確なメッセージを投げかけてくる。
これが最低賃金・最低水準生活以下の話、なのだということを。
「努力」神話が崩れかけている世界であるということを知りながら、それでも最低ラインにまで向けられる「努力」論が、いかなるものなのかということを。
家庭・個人は、責任をもう充分に負ってきて、これからも充分負ってくと思う。だからこれからは、企業の社会的責任・国の政治的責任も、もっともっと大きく問われるべきだと思いますた。
自分が何に守られてきてたのか、それを失ったときに初めて考えるのだろうけど。おこぼれで生きてきたくせに、もはや失われた世界でまだ搾取に脅えてるつもりなのか。
「格差」なんて言葉で、「貧困」を覆い隠して、
「自立支援」なんかで必死こいて生活保護を防止して、
この先行きの無さを、これからはみなどう誤魔化してくのか。
「貧困」と相対することで見えてきたものは、どうやら闘わなければ大切なものは守れない時代になってきたということのようだ。
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