戦後日本の高度経済成長から生まれていった「新中間層」。それは所謂サラリーマン家庭の増加。そしてそれはかなり多くの人たちが自分たちのことを「中」と感じるような時代。そんな日本社会らしい日本社会が近年崩壊していくという。圧倒的多数であった「中」は、「上」と「下」に分裂することで減少していく。だけど決して餓死者が出るようなことはない。

金融広報中央委員会(事務局・日銀)が発表した最新の調査で、「貯蓄を保有していない」と答えた世帯(除単身)の割合が全体の23%であった。これは53年の調査開始以来、過去最高の数字だという。現在の日本の景気は回復基調にあり、全体平均の金融資産保有額は前年比で増加してるが、より多くの世帯の実感に近いとされる「中央値」てのが減ってるという。つまり全体の貯蓄平均は増えてるのに、多くの家庭では「貯蓄は減った」と感じていることになる。これ一体どういうことか? 「統計の誤差の範囲の動きで、格差が確認できるほどの変動はない」と、同委員会は言う。
所得格差の不平等度指数である「ジニ係数」の増加はもちろん、90年代に入ってからは人々の意識にも明確に格差が表れてきたと筆者はいう。かつてどの収入階層でも階層意識に差が無く、半数以上の人が自分のことを「中の下」と回答したが、95年調査では上層20%の人たちの半数が自分のことを「中の上」と回答している。バブル後には「中の中」が減り「中の下」と「下」が増大。戦後の大衆消費社会が作り上げた国民過半数の「中の中」意識に解体がみられ、その分「中の下」「下」が増えたと見られている。一方で「中の上」は10%前後を維持している。全体は下降傾向にある中で、上層意識の%は維持されている。これ一体どういうことか?

「上」と「下」への二極化が進んでいるとして、それは消費社会に何をもたらすか。これまでのように国民の多くが中流を目指すため或いは中流であることを確認するための消費をしなくなることがいわれている。中流であることを象徴するようなものはもう売れなくなるのだ。いやそもそもそんなもんあるのか?僕がいま周りを見てみると、TVがありPCがありDVDがある。マンガがあり本があり大量のカップ麺とペットボトル飲料がある。近所に図書館とコンビニとレンタル店とサッカーできる場所があれば、中流でも中流でなくても僕は今のところあと何も欲しくない。こんな意識がそもそも豊かな時代後に生まれた僕らの考え方ではないのかな。第三次産業における過度なサービス精神すらうぜえと感じる僕らのようなアフターバブル世代が、構造改革の遅れと共に不況をキープしているのかもね。 物が売れなきゃ死ぬしかない企業はそれじゃ参る。リストラだけじゃ限界が来るし、価格競争でも限界が来る。「一億総中流」期には中流トレンドだけを追い、中流向けの商品を大量生産してきた日本企業は、「中流」が解体する今、階層別商品生産計画を立てねばならなくなっている。二極化が進む中で、中流社会モデルのままに経営を続けた百貨店業界は軒並み敗れ去っているのだ。

「財布に金が無えんだよ。買えるわけねーだろが。そんな高え品物無理だろが。ボケが」って人が多分どこにでもいて、もちろんそれは「下」の人たちで、だからユニクロ現象とか起きたりして、結局デフレとか言われたりして。「中」が減る中で「中」に向けて商品を売っても売れないし、「下」に向けて売っても儲からない。じゃあどうすっかって。「上」の人たちに「上」の物を買わせればいいじゃんよ。もっと言えば、商品戦略を階層化するってことだ。膨大な中流のために大量の物を売る時代は既に終わり、利益の最大化は新しいビジネスモデルへのシフトになった。

2003年新宿伊勢丹メンズ館は高級化路線に転換。百貨店といえば中流の部長・課長へ向けた紳士服売場であったがそのスタイルを改め、まさに「上」に向けた差別化によって生まれ変わった。 世界観の狭い僕の周りでも、六本木ヒルズが登場したし、億ションが結構売られていってるらしい。金はあるところにはありやがるのだ。ちっとも不況じゃない。 トヨタは8月、「一部の富裕層」に向けてレクサスを投入。55年体制の始まりとともに登場したトヨタクラウンは、「カローラ、コロナ、いつかはクラウン」という典型的階層上昇型消費モデルの象徴であったというが、レクサスは「いつかはレクサス」なんかでは当然売られやしないだろう。 僕は一連の市場メカニズムの蠢きを賞賛すべきだろうか。わからないけど、どこからか取り残されていく気がするのは、僕が「下」だからか?それともtakebonoだからか?
“つづく”
だらだら書き綴る学問の時間再開。栃乃花三年ぶり幕内勝ち越しtakebonoさん涙。

前回イントロ。それでは本題。 戦後日本が作りあげた「一億総中流」社会と呼ばれる(あくまで意識上の)平等社会が、今後解体されてゆくという話。「格差拡大社会」だとか、「二極化社会」だとか言われ、これからの日本社会は確実に人々の生活実態と意識の両方共に格差が拡大してゆく傾向にあるらしい。つまり貧富の差が拡がってゆくのね。所得及び意識が格差化・二極化してゆくのなら、これまでこの社会ではあまり意識されてこなかった「階層」という概念が、今後は社会問題になってゆくのかもしれない。こんな豊かな国でそんなことがもし起こるとするならば、やはりそれは消費社会面において顕在化すると思うのです。現実に僕らはそんな時代をこれから生きてゆくわけですから、実に身近だなあって思うんす。

横山源之助の名著『日本之下層社会』は、日清戦争後の日本の産業革命期における新旧下層各層の生活・労働状態を、客観的且つ総合的に調査した社会学の古典。

「貧民はその生活に欠陥あると共に、知識思想の上においてもこれに等しき程度を以て、むしろその以上の欠陥を有す。即ち貧民は経済上の欠乏者たると共に、思想の上の大欠乏者たり。鮫ヶ橋・万年町の路地に住めるものにして、手紙を書き得るものとは言わじ、僅かに自己の姓名を記し得るもの幾人あるべきや。余輩はかれらが経済上の欠乏者たるを憐れむと共に、思想の欠乏者たるを憐れむこと最も切なりとす」(『日本之下層社会』p60)

「貧民と教育」という章立ての部分で横山氏はそう述べ、貧困と教育の相互関係を調査して論じました。庶民教育の是非がそのまま生活の貧富に繋がっていた時代だったのです。
でも現代は違うよね。みんな字書けるっしょ。そんで履歴書書けるっしょ。なんだかんだ言って義務教育が保障されていたのだから。現代において、死ぬほどの貧困とはなかなか出会うことがない。公園のホームレスくらいだ。
小さい頃、友達のお家などに遊びに行くとき、それぞれ小さい家もあれば大きい家もあったし、例えば家具であったり本棚の数であったりその家における教養レベルというか文化資本というかそういうものも目にしたことはあったけど、でも「金持ち」とか「貧しい」とかって序列あまり感じたことはなかった。お家バラバラでも、義務教育で同じ学校に通ってんだし同じことして遊んでたし、大人になれば仕事ついて結婚して、人並み以上の生活なんてものは誰にでも訪れるもんだと思ってた。そんな一見普遍的な意識自体が「一億総中流」社会だったのかもしれないと思うようになったのは義務教育が終わってからだった。

「格差拡大社会」?「二極化社会」?がやってくる?戦後日本が作り上げた「一億総中流社会」の崩壊が始まる?どゆこと?これからの日本の社会で貧富の差が拡がる?どこにそんなもんある?

新しい形での貧富の差(といえるんか?)が拡がっているという。特にいま新しい貧困層がこの社会に生まれてるのだという。それが「下流社会」と呼ばれる社会の出現なんだと。
というわけで、三浦展の『下流社会』を読みました。「下流社会」はこの筆者の造語。筆者曰く、階層研究における初の消費社会論なんだと。へぇ。

経済的な序列なんて感じたことなかった「一億総中流」社会がこれから壊れてってそして「下流」社会が出現する。そんなん実に簡単な理屈だ。 問えばいい。あなたは未だ「中流」ですか?それとも「下流」かな? イマジンすればいい。ある日、「上流」から大きな桃がどんぶらこっこどんぶらこっこと流れてくるのだ。それを見て初めて僕らは理解するのだ。あぁ!…僕らが今いるここは…「下流」だったんだぁ!…と。そんなかんじ。

この国はこれから第2第3のホリエモンを生む。そしてその倍の倍の倍の……倍くらい、低所得者やフリーターや失業者やホームレスや犯罪者を生む。それが良いことなのか悪いことなのか、問う暇もなくこの社会はその流れのように流れてゆく。そして僕は間違いなくその下の方を流れてゆく。「現実を見ろ」と言われ続けて現実を見ていたら、なんだこんな状況だったんじゃないかよって。これが現実かって、思うだけだった。好きで下を流れるわけじゃない。でも上に流れていく動機付けもない。そんな考え自体がしかし既に下へ下へと流されている証拠なのだとも思う。「新貧民」は遂に具体的に現実化するのか。「下流社会」とは何か?それは単なる貧困ではない。現代の複雑な階層社会を知るためには、「下層社会」を論じた横山源之助氏のように、人々のライフスタイルに密着した消費論や文化論が必要なのだと思う次第でこんなこと書きながら思いめぐらしています。
“つづく”
僕は大学で社会学部とかいう学部に属しているのもあって、もともと社会階層問題のようなものに興味を持っていました。戦後日本が作りあげた「一億総中流」社会と呼ばれる(あくまで意識上の)平等社会が、今後解体されてゆくであろうという話は最近どこからでも聞くことができて、そういうのも興味深いです。それは「格差拡大社会」だとか、「二極化社会」だとか言われるやつ。市場主義的な立場からは、「結果の平等」よりも「機会の平等」が叫ばれ、そしてそれに対しては、経済格差だけではない「意欲格差」や「希望格差」なんて興味深い論説も出てきました。そう、どうやらこれからの日本社会は確実に、人々の生活実態と意識の両方共に格差が拡大してゆく傾向にあるらしいのです。

それを踏まえて、唐突ですがこのtakebonoには20代を過ごすビジョンのような夢があります。それは低生産低消費ライフを優しいコミュニティーで過ごしながら、自分の精神を満たすような生き方というか活動をしてゆくというライフスタイルです。
その鍵となるのは間違いなく「生産」と「消費」だと思います。経済的な意味だけではないいろんな意味での「生産」と「消費」。 かつてある紙面で、「若者の生活実態」を取り上げた記事コーナーを読みました。東京都の最低賃金レベルでどれだけの生活が送れるのか、なんてのを考察したりして、実際底辺ラインの若者を取材したりするコーナーでした。取材された若者は皆一様に貧しく、生活の苦しさを言葉にしていました。「お金が無いので休みの日は家でじっとしています」「友達の飲み会にいけません」「好きなCDも買えません」「デートもあまりできません」etc…。 ホントにかわいそうでした。記事のねらいもまあそう思わせるところにあるのだと思いますが、かわいそうに思ったのはホントです。僕はしかしこの記事を読み実態を理解した上で、やはり深く共感できなかったのでした。なぜかというと、僕自身が休みの日に外出などしてお金を使うような消費体系に自分をおいてないからです。(それは僕が学生だってことも大きく関わってますが) 飲み会はほとんど家飲みです。外の飲み屋なんてぼったくりだってSKとかともよく話しながら家でかなり飲みます。第一地元以外で飲むと帰れなくなるのがとても心配だからです。交通費もかかるしね。それに家飲みは本当にまったりリラックスできるからです。それを可能にするのもコミュニティーなのだけど、とにかく家飲みは安い。 そして本やCDやDVDはほとんど買いません。図書館かレンタルです。お金を払って使用する趣味はどこかリラックスできないのです。そんなレベル。 そしてデートでお金なんかかけようとも思いません。僕はディズニーランド廃止論者でもあるんです。 どうも巷の若者の消費体系と僕の欲求体系は異なるようなのです。どうしていつの時も産業に貢献しなきゃならんのかよくわからんのです。それだけ消費型産業社会では消費意欲を常に刺激されてるってことで、アイデンティティーやライフスタイルなどもカネと消費に依存してるってことなのかもしれません。だけど消費する人がいて経済が回転しているのも事実です。だから消費社会自体を否定するわけでもありません。 ただ散歩とサッカーと読書と家飲みとマンガの立ち読みと新聞やネットの政治やスポーツニュースと小説書きとマンガ描きとネタ探しとソウルフィーリングが大すきなtakebonoさんは、全く消費型資本主義に貢献しないってことです。金と物とマジョリティーの流れに依存するような余暇や人間関係が、それこそ商品を消費してるようでたまらなく僕は嫌なのです。かつて義務教育でつまづいたときも僕はこんな感じでした。僕には「ネタ」とソウルだけで充分なんです。面白ければ当然楽しいのです。周囲を憎んでたわけじゃなくて、僕は自分に自分を依らせたかったんです。 本当に必要性に駆られたとき以外は自販機もコンビニも使いません。服もほとんど買いません。価値観の問題だからあまり苦しいとかとは違うように思います。 大学の知り合いでいつも「お金無くて」と言ってる奴が、結構高価な物を身に付けてたり、金かかる消費体系にいることを自画自賛してたりするの見ると、面白いなって思います。理解し合うことがないことを理解するからです。
学生時代に僕が確立したかったことは、僕がtakebono的な20代を過ごすビジョン作りでもありました。それは自分のフレームのようなものを創る作業だったのです。

だから僕は結局それは「消費」の体系次第なんじゃないかって思うのです。所得が格差化・二極化してゆくのなら尚更。だからこそ階層問題論は消費社会論と一緒だとより身近だなあと思うのです。そんな本をいま読んでいます。ゼミ合宿のとき飲みながら先生がTAに説教したとき話題に出てきたやつです。あれで先生はいい人なんだと思ったのです。

ああ書きすぎ。イントロで終わり。
“つづく”
続けて靖国神社を歩く。何とも厳かな雰囲気がこの時点では漂っている。
中国から強奪してきたシーサーやら、どっかから発掘した石碑やら、靖国神社そのものが多様な戦争モニュメントを複合したごった煮的な場所って感じがした。一つこないだ韓国に返還されたっけ。 噂に聞いた「招魂斎庭」はなんと駐車場の裏だった。驚愕した。神聖もへったくれもない。「遊就館」なんかもはや「戦争博物館」だった。ゼロ戦(か?)の実物大模型が入り口にあって、日露戦争の日本の奇跡の勝利を「プロジェクトX」風にまとめたVTRが上映されてんの。あと軍服とか回天魚雷とか、戦争グッズいろいろ見れます。極めつけはおびただしい数の戦没者たちの写真。これがウケるんだ。「GANTZ」で、死んだ人間が全員個別写真で並んでるシーンがあるけど、まさにあの状態が壁一面。「ウオーリーを探せ」状態。そして、うおッ、寄りかかってた肘の所に東条英機大将軍様が!隣は名も無き特攻隊員の写真。いや「天皇陛下のために」死んだのなら、あの世に身分も階級もないってか。 ん?あのお方は…吉田松陰…?そうか、幕末んとき尊皇側だった方々は「天皇のために死んだ」から祀られるってわけか。しかしあれは写真じゃなくて絵じゃないか!?ウケるなこれは。 あの戦争で死んだ人間何百万からいるわけだけど、「天皇陛下万歳!」とか叫んで自爆テロってった兵士達も、死ぬ間際まで我が子を抱き締めてたお母さん達だって、一つの悲しい死であることには変わりない。国家総動員体制下、挙国一致で、誰だって戦没者じゃないのかい。でも一つの形での戦没者慰霊の場所がここ九段下にあることも確かな事実。授業でH先生が呟いていたっけ。「あれほどナショナリズムをひけらかした場所はない」と。 国のために死んでいった、ということはどういうことなんだろう? 僕は右翼の方々のように「天皇のために死んだ」ことを素晴らしいとは讃えないし、だけど左系の方々の言うように戦没者の方々それぞれの「死」が非業で不毛で愚かだった、とも言えるわけもない。なんでかって?戦争ってそういうもんだからかな。いまを生きてる僕が思う戦争観が、そこにあって、当然戦争を知らない世代の僕が、しかし平和を願っていたりするからだ。
靖国神社全体で「戦争博物館公園」でもいいと思った。要するに「靖国問題」なんて緊迫感まるでないわけよ。それで、一番ウケたのが遊就館のお土産売り場。ここは是非行ってみてくれ。まず戦闘機・軍艦のプラモ(プラモ屋より割高)、「必勝」「闘魂」日の丸鉢巻き(受験やW杯にどうぞ)、「のらくろ」ぬいぐるみ(これはウケたわ)、「軍人将棋」(うちにもある)、いやいや戦争の「記憶」すら商品かあ、と思う。もはや招魂ならぬ「商魂」、笑うしかない。右翼の方々はお嘆きにならないのかな。全く、酷いもんだ。
帰り際、靖国名物の白鳩が呟いたような気がした。「また会おう」と。たぶん、もう会わない。takebonoさんが首相になって、遺族会の圧力に押されて参拝しにくるまで、達者でな鳩よ。

そんなこんなで靖国レポートでした。ああぐだぐだ。
小泉首相がまたまた靖国神社を参拝しました。参拝形式にはだいぶ妥協が見られたそうだけど、案の定送られてきたTRのメルマガはそこに触れておらず、フェアじゃないなと思った。そういうところが嫌なんだ僕は。まあしかし靖国参拝、またしても一騒動になるのでしょう。
 
僕はもう半年以上も前に、かねてより見学したかった靖国神社に行ってきて、そのときの感想をレポート化したのだけど、結局どこに提出するわけでもなかったので、そのままにしておいたんだけど、今度発表する機会に恵まれそうで、いやその機会も流れそうだけども、どうせ修正されそうなので勿体ないので適当に端折ってここに残しておこうと思います。
それで、なんか「靖国問題」ってのは、耳にしたことはよくよくあるのだけれど、どうもよくわかんなくて、実際に見学できて(解説ガイドの人付きで)とってもよかった。A級戦犯がNGだとか、参拝形式がどうとか、僕は「問題」の意味がずっとわからずにここまできて、なによりも、自分との接点がわからず、自分の立場もわからず、ぶっちゃけ「靖国」の何がどうだっつうの?思想の衝突だべ?行く前はそんなこと思ってたけど、実際の現地見学ってのは少しはリアルを感じるもので、まあまあ興味深かった。

歪んだ予備知識を含みつつ、九段下・大鳥居の前に僕は立ちました。「靖国で会おう」だなんて誓い合って死んでいった日本兵たちの、その魂は無事ここに辿り着けたのだろうか。戦時中の精神基盤だった国家神道の、メッカとも言うべき靖国神社。杖をついたおじいさんがよたよたと僕の傍を歩いていきました。彼も戦争経験者だろうか。 「靖国」ってやつが僕にとってなんなのかを、少しでも感じれたらなって思いながら、僕はでっけえ〜大鳥居をくぐったのでした。
興味深かったのは、いったんコンクリで埋めたレリーフを再び剥がしてあったとこ。勇敢な皇軍の活躍を描いたレリーフが貼り付けられてる石碑モニュメント。戦後にコンクリで埋められたけどまた剥がされたんだって。どうしてもあの戦争を肯定したいらしい右派のあがきと攻防がみられるわ。コンクリで埋め立てなんて生ぬるいことしてっからさ。戦後すぐ破壊しとけば面倒がなくてよかったのにとか思った。どうせ破壊にも躊躇ったんだろう。不完全決着がこんなめんどくせえ後腐れを残したのか。
歩いて進む。靖国神社は広い。
〔つづく〕
閉塞感。疎外。孤独。不安定。使い捨て人生。やけっぱち人生。不安。不安。不安。キレちまえ。みんなみんなキレちまえ。なくなればいい。そんなことを臆面も無く思ってたあの98年(「希望」消失開始年)当時、僕にとっては社会なんか暗黒でしかなかった。社会の正体もわからず脅えてた僕は、得体の知れない怪物をぶっ殺そうといつも思ってた。変わらないものは変わらないのだけど、でも今の僕はそのダークサイドにちゃんと向き合おうとしているよ。

戦後日本の安心社会が崩壊した。平凡な幸せはもうこの国では叶わない。希望が生まれた故に絶望が乱造された。日常生活を送る限りは普遍的なリスクを取らざるを得ない社会。「リスク社会」。みんな一緒ならそれでもいいのか。ざけんなと僕は何度も言ったっけ。 そして弱者同士の連携はもう在りえ無い。全く同じ立場の人なんか近くにいないからだ。だからシンパはありえないんだって。死ぬ思いをしながら家族のために働いている人間、夢のために困窮する努力家、豊かなパラサイトシングル、気ままなフリーター、確かにそれぞれが同レベルの社会的経済的弱者であることは疑いようが無いのだけれど、でもその質はそれぞれが全く違う。「質的格差」。資本経済の果てに、労働者たちは見事に分断されたってことだ。これからの万国の労働者たちに団結は、ない。 「自己責任」自体からの逃避は、「運頼み人生」を生むという。グッドラックとしか言いようがない。
結婚する奴も、子ども産む奴も、ローン組む奴も、年金払う奴も、すげえ偉いと思う。むっちゃすごい。僕は考えらんねえ。ありえねえ。だってリアルが無さすぎる。全部全部全部リスクだろそれ。何10年後か僕は生きてるのかもわかんねえのに。将来が予測できたのなんてバブルまでだろ? でもこんな考え方がそもそも希望格差社会なのかもな。「勝ち組」「負け組」なんて所詮結果論の二極化現象。もはや今は「希望あり組」「希望なし組」だろ二極化。「希望」の格差ってそういうことだよな。僕はやっぱり後者なんだろうか。

成熟経済が終身雇用を破壊。
自由社会が既存を破壊。
破壊に伴って連鎖的崩壊を続ける各種の「神話」。
学歴インフレそして学校教育におけるパイプラインの「漏れ」が生む雇用市場のミスマッチ。
少子高齢化が年金制度を破壊。
テロが平和を破壊。

人が社会を、社会が人を、破壊する。
インフレする生命。創らせてもらえないソウル。

はて。希望とは何だったのか?アメリカンドリームでも社会主義革命でもないそれは。山田昌弘の結論は無難なものだった。一つは、こんな希望格差社会で生きてくために力をつけること。もう一つは、従来の考え方を変えること。「希望」に沿うか、「希望」を捨てるか。僕は結局後者を選ぶことになるのかな。
「希望」に格差が生じている。だけど僕にとってそれはソウルの差のようにも思う。生きていこうとする動機付けは、僕の中でもう「希望」なんかではなく、「ソウル」だったんじゃないか。いつからか、それは、そう、そういうことだった。
「希望」に格差が生じている。これからの社会は間違いなく不安定社会だ。だけどそれは可能性の社会でもある。一律な「希望」なんかもう捨てて、新しい希望を探しにゆこうと思う。卑屈な僕にとっては大前進か。だけどそんなものあるのかどうか。でも僕は思うんだ。あるんじゃないかって。どこかに。根拠無く思う。それも一つの「希望」かもな。

takebono hopes…〈この世界の全ての人に「希望」あれ〉
「希望」。それは人間が最期までどこどこまでも確かに微かにその胸に抱くものであるらしい。帝大の坂田だってそう言ってた。また、「希望」を抱くことによって人は死に急ぐって、偉大な福本漫画が散々描いてくれたっけ。
この国から「希望」が失われている。そして「希望」に格差が生じているという。それが僕らが生きている現在なのか。そしてこれからも生きていく未来なのか。未来を望みそれに向かい生きようとする意欲のようなものにさえ、今や明確に個人差が出てきたってこと?僕はどうだろ?全然わかんね。だからどうしたって。だから僕らはどうするのかって。中学校の頃のあの生活指導のゴロツキN教諭なら、あいつならきっとこう言うだろうぜ。「悩み苦しめ」

1998年―「希望」が失われ始めた年―は、中年男性の自殺率が一気に増えた年であると作者はいう。同時に、青少年犯罪・ひきこもり・不登校・家で全く勉強しない子が急増した年であるとも作者はいう。それは、「現在は豊かだが将来は全く見通しのたたない状況」の直面であるともいう。やけっぱち。享楽。ひきこもり。そんな「使い捨て人生」がこれから急増してゆくんだって。恐え。 結局、社会の豊かさと人々の自由度の増大は、その豊かさを維持する行動や自由な行動において、社会自体にリスク化と二極化をもたらしたのだ。バブルまでには社会は予測可能性・到達可能性そして安定に満ち、嫉妬心すら前向きなエネルギーとして、あの高度成長期とは凄まじいスピードで経済成長を駆け抜けた疾風の時代だったのか。あの頃は未来こそが「希望」だったのか。本当にそうだったのか。
僕は僕なりに、ずっと考えてたんだ。「希望」ってなんだったんだろ?って。 高校卒業する間際に、選択教科の国語かなんかの自由課題かなんかで、僕は原稿用紙100枚くらいかけて「自分史」を書いたっけ。あのtakebono18年史の最終章タイトルも確か「希望」だったっけ。「自分史」自体、今や読み返したくないほどひどい内容だけど、やっぱり僕自身わけのわからないままに「希望」を探していた。思えば、神に与えられたこの生命この時代を生き抜こうとする、どこかエネルギーのようなものを、模索し続け、僕は「希望」をずっと探していた。それが「ソウル」の前身だったように思う。「希望」が存在するのなら、そいつは自分にとって何なんだろ?とか、それは存在するのか?とか、見つからなかったら自分は生きていけるのだろうか?とか、よく考えたりしたっけか。あの20世紀末、それはそう相当に、きっと僕は若かったんだ。
この国から「希望」が失われている?この国には「希望」だけがない?でも希望ってやつが何なのかもわからず、20世紀は僕にとってただ息苦しく生きづらかった。アフターバブルに物心つき、ベルリンの壁やソ連の崩壊や、55年体制の終局や、大量消費社会の台頭や、とかく変動期を傍観して生きてきた僕らの世代にとって、結構感じるものは多いんじゃないかって。「希望」って何だろ?そんなものあるのか?という、感覚や雰囲気にも似た深層の思いのようなもの。
多くの人が落胆している。自分の人生に希望がないことを。未来に対する不信感と共に。だから多くの人が、そのリアルから逃れるために、将来不安を感じないために、実現可能性のない夢にすがる。誰かよく言うね。「夢を持て」ってか?だけどそれは現実逃避するためだけの道具だ。まさに「夢」。ドラッグよりたちが悪いんじゃねえか。 僕は思う。takebonoは言い切る。「夢は現実逃避のためにあるのではない」ってさ。現実から逃げるためだけじゃねえ夢を、僕は見果てたい。絶対。

この国で僕らは将来の不良債権になるのかもしれない。だけど、燃えないゴミよりは燃えるゴミでいようぜみんな。そうだよ。五味はPRIDEの希望の星ですよ。現実を忘れる夢をみせてくれますよ。
僕らは、バブル以前の「希望」なんか捨てればいい。恐るべき自由の中で、僕らだけの新しい「希望」を探せばいい。これからの社会ではもう「希望」は用意されない。だから自らが「希望」を創ってゆくんだ。
〈最後の希望へ、つづく〉
前回に引き続き、学校システムの肥大化が学歴インフレ等パイプラインの亀裂を起こしてるって話。漫然と流れに身を任せていたツケ。僕らアフターバブル世代は、戦後で初めて、自分の人生のことを自分で考え自分で創らなきゃいけない時代にいたんだ。そう、僕らにとって「希望」こそがリスクになっていた。

「能力に見合った職に送り出す機能」の不全。→「学歴に見合った職業に就けないリスク」の発生。…こんくらいの学歴持てばこんくらいの職につけるべ、って見通しの消失。卒業さえすれば見通しの職に就けていたかつての時代は、だからこそ学問への求心力もあったという。現代は、勉強なんかしないで就活や就職試験勉強の努力の方が最終的には有利だから、当然学問の意欲は空洞化する。当然レベル下がるわけだ。大学は学問機関じゃなくなってるんだもんな。それでも、よい就職をするために、より「漏れ」のない上級の学校へ入学しようとして、一部の大学や学部で受験競争は激化する。それ以外の平均以下大学へ入った奴らは「大学行っても仕方ないけど大学行かなきゃもっと悪くなる」と考え進学するから、更に大学生の学問レベルは下がる。

「過大な期待を諦めさせる機能」の不全。→「諦める機会がないリスク」の発生。…学校に入学できなければ諦めて他の道を探せた人に対し、無意味に入学させ「希望」を与えてしまったために起こるその後の「絶望」。先送りした諦めに、納得できればいいんだけど、期待切り下げはなかなか困難だという。「大学まで出たのにこんな仕事しか就けないのかよ」って、やっぱ多くの人が思うのだろう。でも、大学で何を学んだかしら?って、疑わないのかな彼らは。結局歪んだ構造だったんだ。「学歴」なんて、もっと早く崩壊していいものだったんじゃないのかな、って思う。 全員で高等ルンペンになればいいのにな。

「階層上昇の機能」の不全。→「階層上昇期待が無くなるリスク」の発生。…「頑張ればいい学校には入れていい会社に入れていい人生が送れる」って定説の崩壊。不安定社会の到来は、「頑張っても報われないから、頑張るのやめよう」って人をたくさん生んだ。「個性」の時代が到来したのだ。そう、バブルまでだったら、登校にも授業にも意味はあったんだ。だけどバブル以降は、不登校も学級崩壊も、むしろ起きて当然なんじゃないかって思う。「将来」が見えないのになんで「現在」を犠牲にできるのかって。

現代の子どもたちは「将来についての確実な見通しが持てないまま」「諦める機会がないまま」「過大な期待を持つことを強いられ」「勉強を頑張っても将来豊かに暮らせる見通しがたたない」という状況におかれている。まあイカれたりキレる奴もたまにでてくるのかもしれないな。
「希望」の喪失は、大高中小と徐々にドミノ的崩壊をしていくという。登校という努力が将来報われないことを、多くの子ども達が気付き始めた〈不登校〉。学校の勉強が将来役に立たないことを、多くの子供たちが気付き始めた〈学級崩壊〉。インセンティブディバイドと呼ばれる「意欲格差」〈学力低下〉や、様々な教育問題への入口は結局これではないのだろうか。加えて、個人の自己実現までを「幸福」とみなすようになった社会で増大する「不幸」が起こす更なる「希望」の喪失は、社会の様々な場面で、歪みとなって現れてる。なのに、大消費社会の規制緩和はとどまることを知らない。否応なく、子どもたちは「希望格差社会」に巻き込まれてゆくのだ。

不安定社会の到来が3つの神話を破壊した。「企業」「結婚」「学歴」。かつて「安定」の代名詞だったこの3神話はもう蘇らない。 だけど多くの人々も、そしてtakebonoも、ひとまずこの不安定社会で生きていかなきゃなんない。でも、これを書きながら段々思うようになったんだけど、それでもいいんじゃないかって。だって、高度成長期やバブル以前だったら、間違いなく僕だって「学歴」の下で「企業」に入り「結婚」することに価値を見出して、そしてそう生きていたはずだから。ぞっとするさ。この時代だからこそ、この僕がこの僕で生きてるってこと。この時代だからこそ、あの人があの人で在ることができて、あの人があの人で在ったから、僕が僕で在れるってこと。生まれた時代はやはり自分のものなのだ。探そうぜ、「希望」を。
〈つづく…〉
僕らの父親たちが若い頃は、大学を出さえすれば大企業就職。定年まで安定給料が期待されていた。でも今は大卒でもフリーターにしかなれない若者も多いし、大企業も倒産やリストラと無縁でない。当時の「学歴」ってなんだったんだい?それは「希望」だったのかい?

今現在「学歴」はインフレしてる。僕の通う大学で、キャンパスや教室で周りを見渡せば、中学生みたいな大学生がいる。バカかこいつって思うくらい幼稚な大学生もいる。欠けてるのは知識や経験とかだけじゃなく、意識及び姿勢もだと思う。どっかの専門家みたいに、分数だの漢字だので「学力低下論」なんて語りたくもないけど、でもしかし大学生のレベル(という基準があるとして)は明らかに落ちていると思う。なにも学生運動やれとか言うわけじゃない。でも、こんな奴が大学生なのかよっていう連中が多くないかっていつも思うのだ。そう、まるで子どもなんだ。物質欲・消費欲とヘボいプライドだけが大人感覚で。あと何もないの。探求心も、知識欲も、行動力も、「大学生」らしいソウルの何もないの。なんか枠組み通りに縮こまってる。そのくせ見栄を張ったり、見て見ぬふりをする。すげえ醜悪。受験競争システムと現代的豊かさの申し子として、脳死学生が大量生産されてる今、大学はもはやレジャーランドであり、就職予備校であり、モラトリアム消費機関なのだと改めて実感する。
学歴インフレは、ニューエコノミー下において、学歴自体を段々と着実に形骸化していってる。社会において進行するリスク化と二極化に対し、学校教育システムはあまりにも不対応でありすぎた。仮に学校教育とは?を考えたとき、それを「人格の形成」という抽象的結論に求めるヒューマニズム教育者はそれでよくとも、社会学的に見れば学校教育とは「階層上昇の手段」「職業配分の道具」に他ならない。ある人材に適正な能力を教授し社会における適正なポストに配分することこそが教育の目的である。受験や入試もそのためにある。能力の伴わない者が不適正なポストに着くことで起こる社会混乱を防ぐために。一方で、階層を上昇するためにも教育は使われる。高給取りになれるからこそ、みんな東大を目指すのだ。 オールドエコノミー下ではこのパイプラインが見事に機能していた。故に安定が約束されていた。学校教育がこのパイプラインの上に胡座をかいていられたのは、「学歴があれば大丈夫」神話こそが、学校という収容所への求心力を維持していたにすぎないといわれる。今日の「教育問題」は、パイプラインの機能不全によるものであるという。きっと恐らく僕らの世代はその真っ只中を歩いてきたように思う。パイプラインから「漏れる」ことを、完全に理解はせずとも、学校教育への求心力は確実に下がっていたように思うからだ。失うものもなければ、そう、「希望」がなければ、学校に執着する意味だって僕らには無かったのだ。
学校教育という、社会とのパイプラインの機能不全が、何を引き起こしたのか?それはパイプラインの亀裂から生じる「漏れ」である。そしてその受け皿は全て「フリーター」に集約されていった。

大学院における「漏れ」を見てみる。まず大学院博士号取得者が毎年1万人を超えているという実態があり、一方で少子化等からくる大学入学者不足による、学部の統廃合という状況が、大学経営における雇用数も減少させている。博士課程を修了しても、大学の先生には一生なれない「博士」が、毎年7000人以上誕生していることになるという。「大学院まで進学した」というブランドとプライドと、そこまでに費やした金と時間の投資を「無駄にしたくない」と考える彼らは、不安定雇用に就きながら大学雇用ポストの空きを狙って息を潜めて待機している。この状況で20年後には、大量の中年フリーター「博士」が出現するとまで予想されている。「超高学歴フリーター」の本格的増加が危ぶまれている。
工業高校における「漏れ」を見てみる。ニューエコノミー下で企業の工場自体が低賃金のアジア等に国外流出しているため、20年前に比べ雇用はガタガタ。特に地方では、卒業後の工業以外の不安定就業が増大しているという。
各種学校・専門学校の「漏れ」は救いようがない。ミーハーな職業観に飛びついてきた人たちが、需要以上の過剰供給となり、卒業後も希望の就職ができない状況にある。既に溢れちゃってるってこと。
一般文化系大学の「漏れ」は量的に最も多い。バブル以降は完全に崩壊したパイプラインである。就活がんばっても中堅ホワイトカラーにも採用されないことが多々あるし、大卒学歴が無意味な職種に就くことも多い。まあ社会学部なんてまともにやったら社会人になんかなれなくなるし、僕の場合それはそれでいいけど、結局一般文系ってニューエコノミーになんら貢献できないってこと。

進路によっては「漏れ」が少ないパイプラインもある。「乗り続けられる」か「漏れる」かは、運や実力、それに状況の格差がやはりものを言う。結局、学校に入ることが職を保証してくれない時代がきてるのだといえる。
〈つづく…〉
引き続き、不安定社会について。ニューエコノミーの台頭で構造上、雇用が不安定なものになってゆくと、当然社会の色々な面も影響を受けてくる。顕著なのが「結婚」という社会制度だ。厚生労働省調査で、年収と結婚率における比例関係の結果を最近見た。やっぱり年収高いほど結婚率が相当高くて、年収低いほど結婚率は相当低いという結果だった。この国で全体的に「晩婚化」が進んでるっつっても、その中にもやはり状況の格差が生じている。カネ次第。経済的に安定してる層はちゃんと結婚できてるってこと。「晩婚化」には、確かに女性の社会進出も要因にあるんだろう。近代的恋愛結婚において恋愛市場の拡大という一面も確かにあるんだろう。だけど、例えばフリーターカップルは、結婚したくても経済的不安定から結婚を思いとどまってるってのも事実だ。つまり、結婚を選択肢にできる層がいる一方で、結婚したくてもできない層もたくさんあるってこと。少子化を嘆くなら、こんな実態をまず憂うべきなんじゃないか。
更にいえば、子どもの教育費養育費がバカみたいに搾り取られるこの社会構造において、出産がリスク以外の何でもなくなっているように思う。多産多死、多産小死を経て、遂に時代は小産小死。子どもは既に労働力でもなく、種の存続でもなく、夫婦のエゴの産物になった。子どもはどこか夫婦の芸術作品のようなものでもあり、夫婦の夢やアイデンティティや永続性を託す、「希望」的存在にまでなったのだ。「少なく産んで大切に育てる」近代子ども観は、子どもの価値を高く引き上げた分、膨張した「希望」が諸処の問題を引き起こしてもいる。ほっとけば勝手に育ってくれた「子育て」は、もう戻ってこない。昔に比べて現代は、子どもに様々な複雑な「ケア」をしてあげなければ「子育て」は成立しないのだ。故に、出産はリスクである。故に、不安定なままの出産は不幸なのである。できちゃった婚は、多いけど、この時代には高リスクだ。産みたくても産めない層がまたたくさんいるってこと。「少子化」は、先進国ならどこでも起こってる必然的なものだけど、社会の不安定性もしっかり反映してると思う。出産や養育に手当や保障をつけたりして少子化対策とってる国もあるけど、僕が住むこの国にはそんなもんはなく、都市化や近代化が子どもの教育環境を急変させてしまった今、周囲を見渡して、この社会が子どもを育てやすい環境だとはやはりいえないのです。

かつて「結婚」は、そのまま「安定」に直結する幸せなことだった。だけど今や結婚はそれ自体リスクになっている。或いは経済的合理性からの「玉の輿」だけを目的とした、社会移動上の「チャンス」にもなってる。愛はどこにいったのか。市場や合理性なんかに負けるなよLOVEよ。

本来、孤独で弱い個人を社会の圧力から守り傷を癒し共に「希望」を紡いでいってくれるものこそが、中間集団と呼ばれる「家族」であった。が、今や「絆」こそがリスクになった。「家族」を持とうとすればするほど、個人はリスクを背負う。だけど、家族に取って代わる伝統的共同体(村、宗教)なんかも今はもう無い。現代人が依るのはやはり「家族」以外に無いのだと思う。リスクを覚悟してでも「絆」やアイデンティティを求めるしかない。「家族」を求めるしかないように、構造は構造化されているのだ。

これまで述べてきたけど、雇用が不安定なものになれば、「結婚」は安定ではなくリスクになる。とりわけ女性にとっては大きなリスクになる。フェミニストには怒られるかもしれんけど、女性の社会進出とかいいながらやはり残存する女性側の最後の切り札「結婚さえしてしまえば」という既存のセーフティレール。専業主婦の一生生活保障。雇用の不安定はその神話の崩壊を意味するからだ。早い話、旦那がリストラされりゃ破綻ってこと。熟年離婚も恐いけど、やはり問題はカネなのだ。世の女性は結婚に悩むようになる。高給取りか、リストラされないような職種・技能を持った男を探さなきゃならないからだ。恋愛市場が拡大した現在、「恋愛対象との出会い」のチャンスは溢れるほどに増大した。しかし、需給ニーズのミスマッチに試行錯誤しながら年老いていく女性も少なくはない。また後に述べるが、そこに「希望」の不安定性があるのだ。
カップル単位の格差も注目されている。親の格差、配偶者の格差がそのままリスクに直結する。僕の姉夫婦は2人とも優秀な公務員で地方暮らし、強者カップル。兄は未婚だけどフリーターカップルか、弱者カップル。格差は拡大してるけど、どちらにしてもかつての神話の意味での「結婚」はもはや無い。共働きは当然主流になってくる。

「企業に入れば大丈夫」神話の崩壊は、「結婚すれば大丈夫」神話の崩壊も誘発した。個人の時代。自己責任。「結婚」制度なんてのは、いろんな面で形骸化してゆくんだと思う。何度も述べるが、「安定」こそが難しい不安定社会がやってきてる。そして、戦後日本人を支え続けた3番目の神話「学歴があれば大丈夫」もまた、雪崩現象のように崩壊していく。それは次回。
〈つづく…〉
OECDの統計で最近出た、加盟国の状況を比較調査した「貧困率」というのを興味深く見た。その国の国民平均所得の半分以下の人を「貧困者」とみなして、国民全体の何割にあたるかその率を出したやつ。1位メキシコ20%くらいで、米国、トルコ、アイルランドに続き日本は5位で15%なんだと。日本は先進国の中では、格差拡大が著しく拡がってる「高貧困率国」だといえるそうだ。そう、豊かな国の裏の顔がこれだ。この10年で貧困率は倍増したという。生活保護受給者数は実際に倍増していることからも、格差拡大時代がやってきてるリアル感がある。なんでこうなった? まず不況からくる高失業率。倒産とリストラ。そして極めて由々しき事態は、その不況につけこんだ形の、低賃金非正規社員数(フリーターや派遣社員)の急増にある。年金や失業保険など社会保障の対象にならない労働者がたくさん生まれたのは、不況企業が非正規社員を雇うことによって社会保障負担を免れ、労働コストを削減しようとする悪魔のビジョンからだ。だから、失業率が下がって(失業率の調査方法を知ってるかい?)、それを政府が「構造改革の成果」だとか自賛してても、実際働く人の多くはいわゆる低所得で「不安定」就業なわけで、それが「貧困率」を押し上げてるというわけだ。 はあ、じゃあ、「景気回復」は誰のためのものなのよ?決まってんだろ。「勝ち組」の人々のためさ。

衆院解散の翌日に日銀が「景気の踊り場脱却」を宣言。内閣府とかのデータ的には、今現在が「景気拡大期」なんだって。なんと、1958〜61のあの「岩戸景気」を抜く、戦後3位タイ確実だという、すっげえ。「景気回復」! …は?どこが?バカいうなって。誰一人景気が回復したなんて思ってないっしょ?つうか…「不景気」だろ。内閣府のデータ狂ってんじゃね?…いやいや狂ってない。実際に「景気回復」きてるんだと思う。でもそれは「誰のための景気回復か?」ってこと。そう、一部の勝ち組以外には「景気回復」の恩恵なんかまわってこないように構造がそうなってるからさ。そう、これまでの経済学モデルのようにはいかなくなってるってことじゃん。儲けてる企業がそのくせ設備投資しないだとか、金融不安だとか、個人消費が伸びないとか、色々あるんだろうけど、何よりも大多数のサラリーマンの給与が伸びずに社会保障費や税金の負担増があるもんだから、誰も景気回復を実感できないというのもあるだろう。一方で、超満員のディズニーランドや、大繁盛の100円ショップや、空港の外国旅行からの帰国ラッシュなんかを見てると、どこが不況?って思わずにいられない。

末端を淘汰し排除する形での景気回復が進んでるのか。僕らどうしようもないじゃないか。「社会に必要ない人間」は、経済がそうさせるのだ。学校教育も、メディアも、罪なくらい綺麗事しか言わないけど、経済は容赦なく人に現実を突きつける。「あなたはもう必要ない」と。

「人間はもはや搾取の対象にでさえなくなった。いまや人間は排除の対象になった」(『経済の恐怖』Viviane FORRESTER)

「経済は栄え、社会は衰退する」
「作らせない、買わせる」

市場を中心に進めていく改革は、必然的にそうなってゆくと思うし、至上主義批判はだからこそ同時に社会のことを顧みないといけないと思うのです。先日のブログで「豊かさ」を書いたときには、まるで欧州がすごいみたいになっちゃったけど、EU展開に始まり、欧州も徐々に市場中心になっていくのかな。これから勉強したいけど、でもまだ政治は社会のこともみてくれてる感じもするんだがな。「第三の道」ってやつなのか。冷戦終結までに、左と右に揺れ動き続けた歴史がヨーロッパにはあるからかな。市民革命もあったし。日本は結局市民社会が育っていないとか、そうなのかなあ。
日本は絶望っすか。それでも僕は「希望」を探す。
〈つづく…〉
「希望の消失は、全ての人々を一様に見舞うわけではない。中にはもちろん将来に希望をもって生活できる人もいる。それは、生まれつき高い能力や資質をもっていて、経済構造変換後のニューエコノミーの中で、より大きな成功を得られそうな人々である。その一方で、平凡な能力とさしたる資産を持たない多くの人々は、自己責任という名の下の自由競争を強いられ、その結果、いまと同様の生活を維持するのも不安な状況におかれることになるだろう。つまりここに、経済格差よりも深刻な、希望の格差が生じるのだ」(「希望格差社会」p20)

まず企業社会が変化し、雇用体系が変化する。国際競争の熾烈化も後を押すニューエコノミーにおいては、安定成長が約束されてる企業など僅かなのだから、ほとんどの企業は生き残り競争に晒されることになる。結果、オールドエコノミーを支えてきた「終身雇用」等の日本型雇用慣行は当然のように崩壊する、といわれている。
かつては企業が人間を一から教育した。住居も与えてくれた。そして年功序列賃金体系も含め、何もかもは「末永く」安定成長を共に果たしてゆこうとする「家族」のような、〔会社−人間〕の一心同体主義であった。企業忠誠もそこに生まれた。「頑張りさえすれば幸せになれる」「努力は報われる」といった努力主義や平等感もそこで生まれた。会社のためそして自分の将来のために、ただ人々は働き続けたのだ。企業は会社に人々を縛り付けようとした。そしてまた人々も会社に縛られることを良しとした時代だったのだ。
だが、高度成長が終わりニューエコノミーが台頭すると、今や企業は激烈な競争の中で一からの教育などする余裕など無く「即戦力」を求めるようになった。住居の世話などしない。社宅や寮なんかガンガン消えてってる。企業福利の時代は終わったのだ。リストラの横行。年功賃金制は徐々に廃され、能力賃金制が台頭してくるという。企業の中核を担う人材は、当然ニューエコノミーにおける「新・消費体系」において、激烈な競争の中で他企業を出し抜き、金を生むにあたり最高の「ニーズ」を効率よく供給できるかにかかっているいわば会社の「〈商品〉創造部門」…「頭脳」である。そしてそれ以外の人間、才能も特別な技術もないいわばほとんど大半の「手足」普通労働者たちは、ただいつでも取り替えのきく単純労働に従事し使い回されることになる。情報化が進めば中間管理職なんてのも消えてくともいわれる。「中抜き」ってやつ。出世するポジション自体が消えてくサヨナラ。そして、パソコンスキルや資格くらいないと「手足」普通労働者の中でも格差が生じてくるともいわれてる。
つまるとこ一昔前の「サラリーマンライフ」なんてのは良かれ悪かれもう幻想になってゆくんでないかってこと。平凡な安定ってやつは、年々掴むことが困難になってゆくってこと。これからは「倒産」「リストラ」「再就職」の時代。
不安定雇用社会は多くの人に嫌がられるのかもしれないけど、これからの時代の不安定就業ライフスタイルはもう政府や経団連の予定調和の内なのだからどうしようもない。皮肉なことに、発展を遂げた経済下だからこそ、国の方向性は不安定雇用構造になっていってる。一方で、例えば「フリーター」の不安定性を問題に取り上げたり、そこから派生する少子化や年金問題なんか聞くと、どうしろっつうの?って思う。フリーター研究にも色々あって、「夢追い型」「モラトリアム型」など、豊かさが生み出した新しいライフスタイルなり若者の就業・職業観、なんていう一面は確かにあるのだけど、「やむを得ない型」というのもやはり多く、要するに正社員採用が少ないから仕方なくフリーターしてたり、正社員になれるまで腰掛けフリーターをしてる人たちってのが実際多かったりするのだ(歪んだ希望社会のせいでもあるが)。だからいくら問題視したって、それはニュー・エコノミーのせいなわけで、政府も経団連もそんなこと予定調和だって理解して動いてるわけだから、だから「フリーター」ってのは一体何が問題で誰のせいで誰がどう解決する意義があるのか、僕には未だわかんないままなのだ。不安定雇用社会がどんどんやってくる中で、社会の色々な面が不安定になってゆくのは当然のことで、それを(一部の連中は)散々批判し否定し「誰か」の責任にするくせに、やっぱりそれは必要悪でもあるらしくて、「生きる力」「転職の時代」だなんて騒がれて推進されてたりする。なんなの?どうしろっつうの?
例えば、不可避な不安定構造の中であっても安心して暮らせる多様な福祉システムだとか、企業利益や生産消費中心じゃないライフスタイルの推進だとか、そういった、人々に優しい政策って必要だし可能だと思うんだけど。でもいつも掛け声だけで終わったりする。よくわからないけど、勝ち組を優遇し負け組を淘汰しなければ本当に国際競争とやらに勝っていけないのだろうか。そのへんの理屈がイマイチ僕にはちっともわからないんだ。

とにかくも、才能や技術を必要としなくても安定していたかつての雇用社会はもう戻ってこない。誰も悪くないけどそうなってゆく。構造だから。景気が回復してもそれは同じ。だから不況の時にこそ思考すること。不況期ってのは、そういう進歩的なインターバルや、これまでの経済を反省するという意義にもあたるっていわれてるし。 「景気回復」っていう言葉に甘い夢を抱いてる庶民たちは、いわゆる「雇用無き景気回復」に愕然とするのかも。
takebonoはそんな絶望社会でも「希望」を探し続けています。そう、本当の「希望」をね。
〈つづく…〉
「…この国には何でもある。しかし、希望だけがない」
村上龍のベストセラー「希望の国のエクソダス」で、閉塞した日本に対する無血クーデター・独立を計画し実行する子どもたちのトップ−中学生のリーダー・ポンちゃんが言った名台詞だ。僕はこの小説を高校の頃に読んで、経済とかの理屈がさっぱりわかんないまま、ポンちゃんたちの日本からのエクソダス(脱出)ストーリーだけが興味深かった記憶がある。言うまでもなくあの頃の僕には希望なんてなく、常にエクソダスに憧れていたからだ。でも思う。「希望」ってなんだったんだろ?って。

幾分有名な社会学者・山田昌弘の「希望格差社会」を読みました。わかりやすくて、そんな単純じゃないんじゃ?とも思うとこもあったけど、でも興味深かった。作者が言う「1998年」−希望が失われ始めた年…僕は16歳だった。あの頃はサカキバラやら「17歳」やら、イカれた少年たちによる、犯罪のための犯罪−ある種のエクソダスが起こったりしてたっけ。
この国から「希望」が失われている。そんな抽象的な嘆き文句を、僕はもう一体何度耳にしただろう。

「希望」に格差が生じているという。 社会は否応なく不安定になっていってる。TVをつければ誰かがほざく。新聞を開けば誰かが宣う。「不安定」「閉塞感」「不況」「凶悪化」…「テロリズム社会」が到来し始めた?そして決まって有識者も世論も「誰か」の責任にしようとする。答えが見えないという恐怖に耐えられないからだ。学校のせい?大人のせい?若者のせい?政治家のせい?文化のせい?病気のせい?脳のせい?運命のせい?…キリがない。一体なぜこうなった?僕らの社会はどこで道を誤った?いや、道など誤っちゃいないんじゃないかって僕は思う。普通に歩いてこうなった。散歩に出たのび太がドブにはまるようにさ。ドラえもんが22世紀からやってきて初めて、のび太の人生に希望が生まれたようにさ。

全てはニュー・エコノミーの台頭にある。戦後の高度成長期を支えた大量生産大量消費型市場社会(オールド・エコノミー)は、オイルショックとバブルを経たあたりでその役割を終えた。90年代以降に到来したニュー・エコノミーとは、大量生産大量消費にすら飽和した新しい人々の消費生活体系であった。見るがいい。大量に、そしてそれ以上に「多種多様」と化し展開される商品市場を。人々の消費は今や生存生活を超えたのだ。
「諸君、喝采したまえ。喜劇は終わった」(Ludwig van Beethoven) 

かつて「三種の神器」(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)がもてはやされ、3C(カラーテレビ、自動車、クーラー)がもてはやされ、そして今や消費世界は個人のものとなった。
企業社会が変わる。家族社会が変わる。人間自体が変わっていく。これまであった「神話」は音を立てて崩壊していく。 「希望」に格差が生じているという。カネ、地位、幸運を超え、今や「希望」にすら、持つ者と持たざる者に大きな差が生じているという。
この国に希望がなくなった理由を知ったとして、僕に何が出来るわけではないけど、ひとまずこの絶望の国に迫り来るテロリズム社会に対し、明確な訣別を表明できたら素敵だなと思います。 発狂しそうな程に恐るべき自由がやってくる。だけど、寄る辺なき時代は創造の時代でもある。バブル以前、高度成長以前には出来なかったような生き方を、してみろやと、都合の良い神様がいるならばそんなお告げをtakebonoは夢で聞くだろう。
〈つづく…〉
日本人は週末にわざわざ人混みの中へレジャーしに行って、短時間に金払って楽しんで、楽しかったねなんて言う。お盆に3、4日くらい焦って田舎帰ってゆっくりしてすぐ帰らなきゃならなくて、楽しかったねなんて言う。 一方で、フランスやドイツには「バカンス」って概念がある。どの人も夏には3〜4週間の長期休みを取って避暑地などでゆっくり家族や友達と過ごす。余暇を過ごすコストがバカみたいにかかる日本ではそんなことしたら破産だけど、ヨーロッパでは「バカンス」が常識だ。つまらない労働なんて、バカンスのためにあるのだから。  確かに日本は、金さえ払えば夢のように娯楽が楽しめる国なんだけど(それも安易でポップな市場消費的価値だが)、公共の優しいサービスは全くなくないか?金さえあれば楽しめるってことは、金がなきゃ安心できないってことで、結局どこかに不安を引きずったまま生活してるってことのように思える。金が絡めば当然「価値」は実に市場的ポップに変質してくるし。そう考えると、確かに物質面では「豊か」だけど、日本人はかわいそうなのかもしれない。日本の賃金は高いけど、生活にお金がかかる社会構造だし、いつの時も暇がないほど働かなきゃなんない。モノは買えるけど安心は買えない。ブランド商品に群がり、100円ショップに群がって、「豊かさの中の貧しさ」なんて言われちまう。 ものすげえ劣悪な住宅環境の中でローン組むマイホームドリーム。吐き出される子どもの教育費。帰ってこないお父さん。いつも会うことが出来ない友達。通勤ラッシュ。高い物価。無い時間。狂った肉体。リストラ。残業。テロ。BSE。アスベスト。終わらない娯楽と新商品と消費、そして労働につぐ労働。 それでも日本人はコミュニティーとアイデンティティーを求めながら誠実に懸命に生きている。

かつて知り合いの左翼団体の連中が言ってた。「世界全体で生産性が向上したのだから、労働時間も短縮できるはずです。短縮されない分だけ搾取されてるのです」と。確かにそうなんだけども、でも、お前ら衣食住の他に娯楽サービスも消費するようになったじゃないか。需要が成立しちゃったら当然そこに労働力を供給することになるだろが。搾取的支配はもう既に、物理的な力関係じゃないのだ。お前らも含めた生産力消費力が、資本主義経済のダイナモなのだ。

ずっとずっとずっと僕らは「豊かさ」を求めてきた。その中では、快楽が幸福であったり不幸であったりしてきた。僕らはまた「しあわせ」の行方を探したりもしてきた。それは真冬に咲く一輪の花のようなものでもあったのかもしれない。クスッと笑えるものや、どこかホッと和めるものだったのかもしれない。ただ平和の内に生存することだったのかもしれない。自分の存在がほんの少しだけでも何かの価値となり反映されることだったのかもしれなかった。 この国にあって、目も眩む高度成長とバブルを経て、いまこの長期不況時代だからこそ、「豊かさ」を考え直してみることって、未来のために意義のあることだと僕自身思うのだ。GDPを疑ってかかる人が現在増えているだろう。確かに「衣食足りて礼節を知る」のだけど、もう衣食は既に足りていて、生まれたときから僕らの前には「豊かさ」を考えるという苦楽が在った。「豊かさ」って何ですか?って。今日、そしてこの僕において、どれほどの経済的安定がどれほどの「豊かさ」にあたるのだろうか?そして精神的安定はそれに比例するのだろうか?反比例するのだろうか? 極めて個人的な、それでいて普遍的な、「豊かさ」という問題を、人知れず思考する日々が続く。
姉は結婚という安定を。兄は芸術という表現を。両親は近々地方に移住し田舎ライフを送る計画を立てている。2匹の老猫は相変わらず僕の万年床やソファーで気持ちよさげに寝てる。撫でると喉をゴロゴロ鳴らす。ふむ。皆それぞれの「豊かさ」を、それぞれの生命のレベルや「しあわせ」によって、ソウルづかせているのだ。 いま社会は新しい時代に入ろうとしている。やってくるのは間違いなく不安定な社会だけど、姉も兄も両親も、新しい時代の「豊かさ」をそれぞれに模索し表現しているように思う。僕もまた僕で僕なりに、この時代を生きていくソウルを自分勝手に創りあげていくことを誓おう。
「豊かさ」って何だろう?って問いは恐らくずっと前からあって、結構多くの人が興味を持ってるのだと思うのだけど、だけど面白いことにやはり多くの人はアイデンティティーに自分らが慣れ親しんだものを選んでると思うのだ。 将来は立派な高等ルンペンになって、高度消費なんかせず、本をバカみたいに読んで、芸術やスポーツをバカみたいに嗜んで、ちょっとだけ金稼いで、外国に暮らしたりして、黒人女性をお嫁さんにしたいなー、なんて考えてるtakebonoさんにとっては果たしてじゃあ「豊かさ」ってどうなのだろうかって、時々思ったりするのです。

唐突だが僕は日本のサラリーマンたちを尊敬してる。あんなに誠実に、勤勉で、真面目に働きまくること、恐らく僕には一生できないだろうからだ。政治家や官僚、大企業、その親族達、いわゆる既得権益を持ってる奴らがどうしたってこの世を支配しながら、くだらなくふざけ合いたらたらと欲望消費を謳歌してるってのに、日本のサラリーマンたちは一生懸命に、愚直に、コツコツと日々を戦い抜いている。ささやかな「豊かさ」を得るために。そして守り抜くために。 何はともあれその姿に、やはり僕が最初に抱くのは「偉いなあ」という思いだ。

日本では「サービス残業」やら「リストラ」やら、労働者が近年色々と大変な目に遭っている、ってのは今や当たり前の状況にある。一方ヨーロッパでは、ホントにゆるゆるだらだらと人が働いてるという。平均的ホワイトカラー層は例えば朝遅く出勤して夕方早くには仕事終わりだったりする。昼御飯の時間をバカみたいにとったりする。昼食に1時間しかとらないのは日本とアメリカくらいだよと彼らは言う。残業なんかしやしない。普通に皆飲みにいくために毎日定時であがる。夢のようじゃんって思う?でも日本の労働環境の方が僕はすげえと思う。たくさんたくさん働く日本人。家族も、自らも顧みず、一生懸命働き続ける。残業も単身赴任もこなす。みんながみんな疲れてる。一時のような企業忠誠心みたいのはなくなってるように思うけど、それでも日本人はよう働くわと思う。「カローシ(過労死)」は日本発祥の世界語になっちまった。日本人の働き過ぎに世界がいつも驚いていることは、今更疑いようがない事実なのだ。
だけど働きバチの日本人労働者のおかげで、この国ではとてつもなく高水準の市場サービスが受けられるってこともまた事実だ。お店でお釣りをごまかす店員さんなんて絶対いないし(たぶん)、お喋りに夢中になって仕事しない従業員なんてのも絶対にいない。電車は1分も遅れずにやってくるし、料理店は美味しいもんばっかだ。夜遅くまで開いてるし。その他これでもかと便利なサービスが乱立してる。それに比べたらヨーロッパの市場サービス水準は劣悪を極めるのだと思う。不便でルーズで相当イラつくと思うよ。日本に比べたら例えばイギリスなんかは生産性も当然圧倒的に低いし、工場製品の品質もケタちがいだと思う。だけど、だからといってイギリス人の生活ぶりがよくないとか、イギリス人はもっと働くべきだ、とかいうことにはならない。なんでか?それは長い歴史の中でイギリスが選択した社会の在り方だから。サービス水準なんか落ちてもいいから、自分らの労働時間をギリギリまで短縮して、労働以外の生活をエンジョイしようとするライフスタイルは、イギリス人が歴史を経て辿り着いた生き方だからだ。過労死するまで働かされるけど高水準の市場サービスを受けられる日本とどっちが「豊か」だろうか? 答えは無い(と言いたい)。日本のように、労働がこんなに強いアイデンティティーとなりうるのも、価値観に基づく一つの「選択」だからだ。日本には資源もないし自給自足もできないしね。
しかし日本人から「仕事」を奪ったらホントに何も残らないのかな。いわゆる「仕事ができる」人ってやつに、僕は何の魅力も感じないし、なりたくもない。飽和した経済の中で、もう労働なんかそれほど賛美できる価値じゃない(とか言ってみてはサラリーマンにホント失礼にあたるか)。でもだからこそ、毎日勤めに出るサラリーマンを尊敬してもいるのだ。
〈つづく〉
「飢え」に立ち向かうすべ。土地改良。砂漠化対策。スラムのインフラ対策。農業援助。井戸づくり…。 しかしどれも応急処置でしかない。飢餓問題の根本的解決には、各国の自給自足経済の確立と、民主的な国家建築以外にないのではないかと思う。狂った市場原理主義経済と暴力的金融資本。国民から富を巻き上げるクズ国家。愚かな戦争。そして僕ら北半球人の脳死的無関心と圧倒的な無力感。正義って何だ?悪って何なんだ?僕らには関係ない…でも何で僕らは遠い国の人たちの「飢え」を憂いているのだろう?…
カリム少年はジグレールお父さんに最後の問いを投げかけます。「本当の出口ってどこにあるの?」 そしてジグレールお父さんは優しく優しく答えるのでした。「飢えに苦しむ人たちの様子を日常の風景にしてしまうような社会、人を人として扱わなくなった殺人的な社会構造を変えることだ」と。
社会倫理を逸脱した市場原理主義経済に対して、或いは様々な暴力による支配に対して、僕らには何かを考える意味が在るはずなのです。カリム少年はもう知っている。「飢え」は運命でも自然淘汰でもないことを。 ジグレールお父さんは最後に僕たちに語りかけてくれました。
「自分たちの手で自分たちの国づくりを」
「自立した経済を」

市場原理主義経済というモンスターの台頭は、弱肉強食のジャングル資本主義にあって、良心の呵責を感じることなく生きていきたいと願う悪魔どもの、罪深き精神基盤である。なぜ飢える人々がたくさんいるのか?それは食べる物を買うお金がないからだ。南半球の人々は、北半球の人々の食卓を豊かにするための作物を、クズ値で買い叩かれながらも植民地時代から大量に作り続けている。北半球の人々はそれを利用しておきながら、南半球の自然破壊を懸念する。そして他の農産物を「つくらせない」ために、余剰穀物を「食糧援助」するアメリカ。輸出入で安くさばき儲ける国際大企業と、搾取を続ける南半球諸国のクズ政府。そして愚かな終わらない戦争がいつも弱者を傷つけて追いつめてゆく。かくいう南北問題ってやつの、背景。世界中の人間の醜い部分が、蓄積された末の掃き溜めみたいに、世界の問題として僕たちの前に現れてきてる。誰が一体悪いのか?どうすればいいのか?単純な答えは難しい。人類のあらゆる負の遺産を抱えた問題はとても複雑なものなのだ。

世界の問題。目を背けても別にいい。むしろ人間的だろう。その時々でわからないことがほとんどじゃないか。世界ってそういうもんじゃないか。自分自身の人生を一生懸命生きることが、本当は一番大事なことなんだって、僕は思うのだ。
だけど…それでも僕たちが「飢え」を憂うのは、やはり人間だからなのだ。食って吐いて糞をして、睡眠欲と性欲と自己顕示欲にまみれた僕たちが、それでも遠い国で「飢え」ている人のことを時に思い、世界を憂うのは、やはり人間だからなのだろう。幼いカリム少年の思いに対し、真剣に答えてくれたジグレールお父さんもまた人間なのだ。
人を殺すのも人ならば、人を救うのもまた人だ。人を憂うのもまた人だ。世界を恐怖させるテロリズムも、世界に勇気を与える平和活動やスポーツも、人の行いなのだ。
「飢え」の中、必死で生きようとしている人たちがいる。誰のせいで「飢え」ているのか、何のせいで「飢え」ているのか、彼らには知るすべもない。僕らがそれを知ったところで、僕らもまた神に祈るしかないのだろうか。不幸の中で死んでゆく不幸。テロに脅え、年金に脅え、あの娘の態度に脅え、金に脅え、プライドに脅え、自分自身に脅え、未来に脅え…、ただ、それだけじゃねえってこと。生きるってことは。
僕は何が言いたいのかな…。なんつうか、僕らが多くのことに脅え勇気を出し立ち向かうことに、それは賞賛されたり励まされたりするんだけど、そうやって人は成長するんですよみたいなことを言われるけど、そうじゃねえってこと。確かに僕たちの社会で僕たちは誠実に生きることが、その方がいいに決まっている(と僕は思う)。だけど、今日僕が食った柿ピーのピーナッツとか、サラダにぶっかけたドレッシングの落花生オイルとか、みんな途上国の人たちが「飢え」と紙一重の構造の中で作ったものなのだ。僕らは「飢え」を救わない。明日失恋しても、リストラされても、勇気を出してまた立ち直るくせに、僕らは「飢え」には一切の力を使わない。まがい物とは言わないけれど、僕たちは僕たちに与えられた恐怖と幸福の中でそれらと葛藤させられて日々を過ごしている。こんなことほざくのも、甘いし若いのだろうけど、でも立派な大人たちが「飢え」を憂おうとしてるようには見えない。どうしようもないことにはいちいち憂わなくなるのが大人なんだろうか?世界で何億人が「飢え」ていても、僕らは年金や郵政や雇用に脅え、勇気を出し全力で立ち向かおうとだけしている。それが悪いわけじゃない。むしろ正しいことだろう。でも、それ故に僕らはテロで死んでいいのかもしれない。誰も悪くないのにな。くそう。 自立してからほざけって言われるだろうな。それでも今の僕は世界を憂う。
「飢え」の中で必死に生きてる人がいる。僕らは「飢え」の外側で必死に生きようとしてる。どんな理由をつけても埋まらない現実。だからこそ、僕は世界を憂う。
残酷にも「飢え」は続く。世界で「砂漠化」や「森林消失」が進んでいること。原因は異常気象でも人災でもあるけど、とにかく農業を失った人々は「環境難民」になってゆく。都市に辿り着いてもスラムに住むしかない。生きるためには犯罪でもするしかない。どこまでいっても彼らにとっては地獄なのだ。アフリカとかラテンアメリカとか、いわゆる第三世界ってのは、結局解けない呪いをどこまでも抱えているといっていい。
解けない呪いの正体。かつて欧米が第三世界を植民地化してた。大戦後、確かに第三世界の国々がたくさん独立したけど、その傷跡は未だ癒えていないってこと。フランスの植民地だったセネガルっつう国は、今尚ピーナッツだけを大量に生産している。モノカルチャーってやつだ。他の作物を生産するシステムが作られていないため、ピーナッツだけを膨大に生産し、腐敗した政府は農民から不当に安い価格で買い取って輸出し、他の食物は輸入でまかなうしかない。単一栽培型農業を続けている限り、輸入に頼るしかないのだから、どんなに働いても自給自足はありえず、ゴミみたいに安い価格でピーナッツを売り続けるしかない。セネガル人は働き者が多いらしい。でも、働いても働いても死ぬほど働いても、彼らが豊かになることはありえないのだ。構造故に。本当は教育とか自立支援プロジェクトとかが必要なんだろうけど、別に誰もやろうとしてない。セネガル政府も、アメリカも、そしてやはり僕らも…「飢え」を本当に救おうとはしていないのだ。 前回のW杯でセネガルがフランスを倒すという大波乱を起こしたとき、僕はちょっとだけ嬉しかった。ジダンやアンリ…フランスのスター選手達が敗北のショックで顔を歪ませてたとき、僕はセネガルに拍手を送っていたのです。サッカーに政治を持ち込みたくなかったけど、まあサッカーの醍醐味である大波乱という意味も含めてね。 フランスもまたアフリカ諸国が自立しようとするとぶっ潰したりしてたから。大国はいつだってそう。日本はといえば自給自足も出来ない経済で、靖国がどうとかまだいってやがる。神の国だ?脳死の国だろが。靖国じゃなくて安い国だろが。

これまで長々「飢え」について話してきましたが、とうとうジグレールお父さんのお話を息子カリム少年は全て聞き終えます。そして、今まで話されてきた「飢え」の真実に、カリム少年は絶望するのです。それでもジグレールお父さんは静かに言うのです。
「くりかえさざるをえない悲劇−これがとどのつまり現在の世界の状況だ」と。 …そしてジグレールお父さんは、カリム少年の最後の問いに答え始めるのです。

こんなどうしょうもねえ僕が思う。こんな意味のねえ僕が世界を憂う。世界に希望はあるのでしょうか?無力すぎる僕らに、それでも何かゴミの欠片くらいでも世界を救うために出来ることはないのでしょうか?偽善も必要悪も、開き直りも、もうどうだっていいのです。僕らは日本にいる限りいろんな物を食って吐けるのだから。来週飲み会だし。傲慢だとか愚かだとか、そんなんじゃなくても、少なくとも人は人の痛みを感じちゃう存在だってこと。そうやって人類は豊かになりながらもちょっとずつ平和の歴史を歩んできたのだとも思うから。僕らは後世代に愚かな歴史を語られるかもしれない。僕らが人類史を戦争や略奪の歴史だととらえているように。だけど、等身大の愚かな僕らで、狂った世界のために何か希望のようなものを生んでいけたらとも…僕はときどき夢見るのです。
−ラストへつづく−
「飢え」の正体。戦争、暴力、独裁政権。 ここまでダベってきて本当によくわかる。人間は食わなきゃ死ぬってこと。だから「飢えは武器になる」ってこと。そして勿論、飢えを武器として利用してるのは戦争や国家だけじゃない。そう、繰り返すけど、国際大企業の奴らがそうだ。ジグレールお父さんは悲しそうに言う。「例を挙げようか。あのネスレだ」ネスレってあの有名なスイスの企業、あのネスレだ。
70年代のチリで、左派の大統領アジェンデ氏が当選した。彼は元小児科医で、チリの子どもたちの栄養失調を解消するという公約で信頼されて当選した。彼は粉ミルクを無料で国民に配給しようとするんだけど、当時粉ミルクを独占市場にしていたネスレがアジェンデ政権に協力しなかった。なんで?栄養失調の子どもたちを救うためじゃん! 当時のアメリカのニクソンと補佐官キッシンジャーの極悪タッグが、アジェンデ政権をぶっ潰そうとしてたからだ。アジェンデ政権は外国からの依存から脱し、チリの自律性を高めることを目指す改革ビジョンを持ってたからだった。アメリカ企業がチリ国内で儲けまくることが出来なくなる、ただそんだけの理由で、アジェンデ政権は叩き潰された。チリへの援助を打ち切り、CIAがストとサボタージュを煽り、西側諸国の銀行・工場・商社もまたアメリカに追随した。「飢え」なんて奴らにとってはそんなもんなんだった。悪魔どもめ。
粉ミルクは配られることはなかった。そしてアメリカCIAとチリ極右グループが共同して起こしたクーデターで、アジェンデは殺された。チリ自立の夢はそこで絶たれたのだった。
アメリカの利権支配のために、僕らはアメリカで捨てるほど余ってる余剰作物での「食糧援助」を受けなければならないことになってしまってる。自国での自給自足を、アメリカ寄りの国でない限りは、アメリカは潰しに来るということだ。核も兵器も駐留軍も、食糧も、アメリカは全世界を握っている。
全てそうだけど、アメリカが動かないと世界は変わってゆかないってこと。国連含めてね。環境問題も、エネルギー問題も、戦争も、「飢え」もだ。これぞパックスアメリカーナ(アメリカによる支配=平和)。何が良くても悪くても、僕らは無力だってこと。だけど、たとえ世界がそんなんでも、僕らはそれぞれのコミュニティーを幸せにしていくことしか今は出来ない。だけどいつか、世界を見渡すことが出来て、この安い命を世界のために使えたらなと、願い、祈る。

家庭教師先の子が、テストの成績が良くなりました。あんなにクソバカだったのにな。うれしいなあ。憂うばかりの日々の中、やはり優しく嬉しくなれる時間もあるのです。
−つづく−
今尚内戦が続くアフリカ。スーダン、リベリア、アンゴラ、ルワンダ…様々な国で終わることのない戦争が続いている。民族、宗教、利権、思想、あらゆる対立が渦巻いて、殺し合いはいつ止むのだろうか。戦争は人を殺し、また人を「飢え」させる。政治難民の半分はアフリカで生まれているのだ。
シエラレオネという国のことを、僕は去年のNHKのドキュメントで知った。貧しい国なのに、内戦が続いてるんだ。反政府軍はゲリラ戦の中で、罪もない農民たちをたくさん捕まえて、腕や手首を切り落としまくった。農作業を出来なくするためにだ。手を切断された農民はただ「飢え」ていくしかない。政府軍にダメージを与えるためだけ、国力にダメージを与えるためだけに、あえて殺さず、何も出来なくさせて食料を使わせ「飢え」させる戦略。なんてことだ。これが人間のすることなのか。僕は涙が止まらなかった。シエラレオネの人たちに、そして人間の愚かさに。
アメリカも先進国も、リスクをかけてでもアフリカを救おうとは思ってない。イラクだけに「人道支援」が行くのはやはり石油があるからなんだということがハッキリわかる。シエラレオネの人々も「解放」してあげろよ。「人道支援」してあげろよ!って思う。有意義な資源が無いアフリカを、どこの国もなかなか救おうとはしない。
ルワンダ、コンゴ、そして北朝鮮。支援団体や国連が送る、飢える人々を助けるはずの支援物資が、腐敗した政権に横取りされることがこれらの国では多々ある。援助活動が独裁者を維持させてしまってるって意見は、悲しいことだが確かにそうかもしれない。でも、援助を止めたら一人の子どもの命も助からないってこともまた事実なんだ。湾岸戦争以降の国連の経済制裁で、イラクがどんなに苦しんだことか。だけどフセインはのうのうと王様生活を続けてやがった。今後結局は発動されそうな北朝鮮への日本の経済制裁が、北の人々をどれだけ苦しめることか。だけど金正日はのうのうと王様を続けることだろう。

結局何が正しいとか先に求めるべきじゃねえ。現実を現実に見て知って、全てはそれからなんだ。 人が人を傷つける。人が人を殺す。そして人が人を飢えさせているってこと。
−つづく−
食糧自給率を超えて穀物を生産できるのは何もアメリカだけじゃない。EUもそうだ。だけどそのEUも、肉の山と数百万トンの農産物を定期的に焼却処分しているという驚く現実がある。は?なんで?なんでその食糧を「飢え」に回さないで燃やしちゃったりすんの?バカじゃねえの?いや、EUはバカじゃない。アメリカのような異常なウルトラ生産力に対して、EU農業は農産物の価格破壊を防ごうとしている。「最低価格を保障する」ために、生産を抑制する政策をとっているのだ。農家に対して制約を課したり補助金を出したりしてね。だから、余った農産物は市場に流す前に火葬の山となる。「飢え」の国に届くことはないのだ。EU自体は「飢え」に対して少しずつ取り組んでるが、慢性構造的な問題部分には踏み込めないという現実がある。
そうなのだ。世界の食糧の公平な分配とは、ただ単純に余ってるから回せるねなんて話じゃなかった。食料の価格決定も、生産量の決定も、全てに権力を握っているのは世界市場なのだ。ジグレールお父さんは静かに言う。「飢えた人々を生かすも殺すも市場の気分しだいなんだよ」と。
「飢え」の正体。それは僕らには手の届きようもない世界構造の中にある。僕らが給食を残さずたいらげても、たいらげなくても、「飢え」はなくなりはしない。例えば社会の時間とかに、「飢え」の写真とか見ても、「かわいそぉ」で終わる。そんな状況を例え嘆いても批判しても、やはり何も変わらない。僕らは無力だけを知ってしまうだけだ。学校は世界の構造を何も教えない。僕らは大量生産消費と飽食の中で大人になってゆくのだ。
「飢え」の正体。それは自然災害。それは政治腐敗。それは市場価格操作。そして、もうどうしようもなく人間の愚かさを証明するものが極めつけの原因としてある。そうだ。「戦争」だ。人が人を殺し、希望さえ存在しない。戦争こそ悲劇なのだ。僕は戦争の愚かさをまたも思い知ることになった。

「飢え」を見ること。そんなこと考えなくてもいいのかもしれない。鎌倉幕府とか2次方程式とかの方が大事なのかもしれない。教育論で争ってもどうしようもない。だけどさ、同じ人間なんだぞ。人間が人間のことを考えるのは人間らしくないかい?思いやりがどうとか、問題解決学習がどうとか、心の教育がどうとかよ。バカみたいだな。現実のグロい部分から目をそらして「命の大切さ」も無いだろ。教育ってホント欺瞞に充ちたものなのだ。もはや責められもしない。結局何もかもの人間の弱さを、人間自身が顧みることなんだろが。一週間後に迫った教採試験に向けて、勉強する日々だけど、「教育」なんてヘドが出るね。
−つづく−

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