本格的に勉強し始めた。
やっぱ楽しかったりする。
夜に集中したい。そろそろ今年もファミレスの出番か。
そしてその間にもやっぱりノベルを読む。
楽しかったりする。
◇吉本ばななの『アムリタ』読み終わった。とうとうと長いので眠くなりながらも、読み終えてみて考えると良い本だったと思う。ばななの文章って不思議な感じがする。たぶんこの文章は、ゆっくりと、ゆっくりと、お茶でも飲みながら読まれるともっと良いのだと思う。全体に流れる独特の雰囲気。魂のようなもので発し読まれる大切な言霊のような文章の流れ。そんなふうな、語りにくい素敵な小説。
−「なにもかもが、ここにあるわけがわかる」――。
父親を亡くし、妹が死んだ後、私は頭を打って記憶を無くした。かつてを取り戻せないまま生きる私は、妹の恋人だったという作家の竜一郎に恋をし、そして弟の由男には不思議な能力が芽生え始めていた。
「半分死んでいる」私の心が、高知そしてサイパンをかけめぐり、生きている不思議と死んでゆく不思議が私に何かをしっかりと伝えてくれた。
人が、愛されて生きていること。人が人を愛しながら生きているということ。
人は、人と家族になろうとする。愛は、愛で在ろうとする。
どんな現実でも世界でも私が生きていること。
いまある全てを愛し、生きていくこと。
きっとこの小説は「家族」の「愛」を描いたものだったのだと思う。だから、こんな不思議小説みたいなんが染み込んでくるのだと思う。ありふれたようで、神秘的なものを、言葉にならないようなものを、ばななが精一杯大切に大切に文章にしたような感じ。
リアルの無い部分のソウルってきっとこんなんだ。
やっぱ楽しかったりする。
夜に集中したい。そろそろ今年もファミレスの出番か。
そしてその間にもやっぱりノベルを読む。
楽しかったりする。
◇吉本ばななの『アムリタ』読み終わった。とうとうと長いので眠くなりながらも、読み終えてみて考えると良い本だったと思う。ばななの文章って不思議な感じがする。たぶんこの文章は、ゆっくりと、ゆっくりと、お茶でも飲みながら読まれるともっと良いのだと思う。全体に流れる独特の雰囲気。魂のようなもので発し読まれる大切な言霊のような文章の流れ。そんなふうな、語りにくい素敵な小説。
−「なにもかもが、ここにあるわけがわかる」――。
父親を亡くし、妹が死んだ後、私は頭を打って記憶を無くした。かつてを取り戻せないまま生きる私は、妹の恋人だったという作家の竜一郎に恋をし、そして弟の由男には不思議な能力が芽生え始めていた。
「半分死んでいる」私の心が、高知そしてサイパンをかけめぐり、生きている不思議と死んでゆく不思議が私に何かをしっかりと伝えてくれた。
人が、愛されて生きていること。人が人を愛しながら生きているということ。
人は、人と家族になろうとする。愛は、愛で在ろうとする。
どんな現実でも世界でも私が生きていること。
いまある全てを愛し、生きていくこと。
きっとこの小説は「家族」の「愛」を描いたものだったのだと思う。だから、こんな不思議小説みたいなんが染み込んでくるのだと思う。ありふれたようで、神秘的なものを、言葉にならないようなものを、ばななが精一杯大切に大切に文章にしたような感じ。
リアルの無い部分のソウルってきっとこんなんだ。
斎藤貴男『安心のファシズム』。
頷くところはあったけど、ピンとこなかったという感じもあるまま、読み終わった。
きっと筆者の立場もあるのだろう。
斎藤貴男氏は新聞等でよく記事を見かけますが、書き下ろしならこれくらいで充分彼らしいのだとも思う。
読書ばっかして、勉強が遅れに遅れている。やっぱりダメ人間だあ。
良くも悪くも「自由」の拡大。不安定社会の拡大。
恐るべき自由の中で、人々は「安心」というファシズムに走るのだと。
弱い者が、自分より弱い者を叩き「安心」し、また、弱い者を養護する者を叩いて「安心」する。
煽られ、拡大させられた「不安」に対し、なすすべ無く人々は「安心」へ走るためにファシズムを選ぶ。
僕らは「不安」と闘わされ、「安心」に殺されてるようなものだわな。
ちっぽけな消費者自由と引き替えに、僕らは他の多くの自由を支配者サイドに差し出してしまった。
競争を強いられ、或いは諦めさせられ、常に何者かに脅えていなければならない日常は、しかし辛うじてちっぽけな自由で息をさせてくれてるのかもしれない。殺されながら平和であり、管理と支配が心落ち着く秩序なのだ。
人々は「不安」に脅え、「安心」へ狂う。
逆に考えれば、「安心」するためには人々は何だってやるということか。教育産業で働いてると、少子化のくせにこれほど教育エゴ熱の高まっている時代はないと感じる。教育ほど不確実な「安心」を売る商売は無いからな。
僕が詐欺師なら、間違いなくそこを狙う。人々の「安心」を狙い撃つ。
そして実際やられてるわけか。
まあなんにせよ、どうしたって僕はファシズムに排除される側だろうと思う。
そもそもファシズムってやつがどんなものなのか、僕はよくわからない。
だから恐い。今がそうなのかもしれないから。
思考停止こそがこの国の国民らしさなのか。
無為にそいつと闘った、僕の負けなのか。
民主主義において人々が選択した社会と政治。その暴走は、最も愚かで恐ろしく、この世で最大の怪物なのかもしれない。
頷くところはあったけど、ピンとこなかったという感じもあるまま、読み終わった。
きっと筆者の立場もあるのだろう。
斎藤貴男氏は新聞等でよく記事を見かけますが、書き下ろしならこれくらいで充分彼らしいのだとも思う。
読書ばっかして、勉強が遅れに遅れている。やっぱりダメ人間だあ。
良くも悪くも「自由」の拡大。不安定社会の拡大。
恐るべき自由の中で、人々は「安心」というファシズムに走るのだと。
弱い者が、自分より弱い者を叩き「安心」し、また、弱い者を養護する者を叩いて「安心」する。
煽られ、拡大させられた「不安」に対し、なすすべ無く人々は「安心」へ走るためにファシズムを選ぶ。
僕らは「不安」と闘わされ、「安心」に殺されてるようなものだわな。
ちっぽけな消費者自由と引き替えに、僕らは他の多くの自由を支配者サイドに差し出してしまった。
競争を強いられ、或いは諦めさせられ、常に何者かに脅えていなければならない日常は、しかし辛うじてちっぽけな自由で息をさせてくれてるのかもしれない。殺されながら平和であり、管理と支配が心落ち着く秩序なのだ。
人々は「不安」に脅え、「安心」へ狂う。
逆に考えれば、「安心」するためには人々は何だってやるということか。教育産業で働いてると、少子化のくせにこれほど教育エゴ熱の高まっている時代はないと感じる。教育ほど不確実な「安心」を売る商売は無いからな。
僕が詐欺師なら、間違いなくそこを狙う。人々の「安心」を狙い撃つ。
そして実際やられてるわけか。
まあなんにせよ、どうしたって僕はファシズムに排除される側だろうと思う。
そもそもファシズムってやつがどんなものなのか、僕はよくわからない。
だから恐い。今がそうなのかもしれないから。
思考停止こそがこの国の国民らしさなのか。
無為にそいつと闘った、僕の負けなのか。
民主主義において人々が選択した社会と政治。その暴走は、最も愚かで恐ろしく、この世で最大の怪物なのかもしれない。
幅広く読む。というかいま部屋の整理をしているので、借りたり買ったりしたまま置きっぱなしの本を、片っ端から読んでるだけ。
◇星新一の『未来いそっぷ』読んだ。ショートショートのカリスマ。これは傑作。「いそっぷ村」は傑作揃い。
−北風が冷たい風を吹きかけると、旅人は寒がって近くのバーに飛び込んだ。そして飲み物を注文し、旅人はコートを、脱いだ。 太陽が温かい光で照らすと、旅人は暑がって喫茶店に逃げ込んだ。店内は冷房がききすぎていて、旅人はコートを、脱がなかったとさ。
(↑「北風と太陽」傑作じゃね?)
◇カミュの大名作『異邦人』読む。 これは面白い、気がする。近代が、人間に理由を持たせたってのはもしかしてこうゆうことなのかな。それが、理性か。 平凡な主人公によって描かれる「人間性」の無い行動や、動機の無い殺人。だけどやはり当然のようにそれらの意味や意義が追求されて、司法の理性によって裁判されることってのは、もしかすっと人間にとって本当は不条理なことなのかもしれない。 もっかい読んでもいいな。
−主人公の男ムルソーは、母親の死の翌日に海水浴に出かける。女と遊び、映画を観て楽しんだ後に、友人が起こしたトラブルの関係もあり、ふとしたことである殺人を犯してしまう。裁判にかけられたムルソーは人間性を言及される。さらに動機について問われた彼は、「太陽のせい」と答えてしまい、死刑判決を受けるのだった。
◇吉本ばななのベストセラー『キッチン』読んだ。丁度一年前に読んだのだけどまた読んだ。読み返してみて、ああそういえばこんな話だったなあと。ばななノベルは少し独特な雰囲気ですがあまり読まないのでどうもぴんとこない。同時収録の『ムーンライトシャドウ』もなかなか良い。
−唯一の家族だった祖母を亡くし、祖母と仲の良かった雄一とその母親(父親)の家に同居することになったみかげ。奇妙な3人の同居生活が始まり、何気ない二人の優しさにみかげは心を静かにうたれてゆく。 悲しみはまた愛によって救われる。それを信じることができるなら、優しさはいつだって優しさのまま、君をありのまま包むだろう。
今日の栃東
● 朝青龍 (寄り切り) 8勝3敗 …期待してたけど…はあああ。
今日のtakebono
・発泡酒を飲んだ。
◇星新一の『未来いそっぷ』読んだ。ショートショートのカリスマ。これは傑作。「いそっぷ村」は傑作揃い。
−北風が冷たい風を吹きかけると、旅人は寒がって近くのバーに飛び込んだ。そして飲み物を注文し、旅人はコートを、脱いだ。 太陽が温かい光で照らすと、旅人は暑がって喫茶店に逃げ込んだ。店内は冷房がききすぎていて、旅人はコートを、脱がなかったとさ。
(↑「北風と太陽」傑作じゃね?)
◇カミュの大名作『異邦人』読む。 これは面白い、気がする。近代が、人間に理由を持たせたってのはもしかしてこうゆうことなのかな。それが、理性か。 平凡な主人公によって描かれる「人間性」の無い行動や、動機の無い殺人。だけどやはり当然のようにそれらの意味や意義が追求されて、司法の理性によって裁判されることってのは、もしかすっと人間にとって本当は不条理なことなのかもしれない。 もっかい読んでもいいな。
−主人公の男ムルソーは、母親の死の翌日に海水浴に出かける。女と遊び、映画を観て楽しんだ後に、友人が起こしたトラブルの関係もあり、ふとしたことである殺人を犯してしまう。裁判にかけられたムルソーは人間性を言及される。さらに動機について問われた彼は、「太陽のせい」と答えてしまい、死刑判決を受けるのだった。
◇吉本ばななのベストセラー『キッチン』読んだ。丁度一年前に読んだのだけどまた読んだ。読み返してみて、ああそういえばこんな話だったなあと。ばななノベルは少し独特な雰囲気ですがあまり読まないのでどうもぴんとこない。同時収録の『ムーンライトシャドウ』もなかなか良い。
−唯一の家族だった祖母を亡くし、祖母と仲の良かった雄一とその母親(父親)の家に同居することになったみかげ。奇妙な3人の同居生活が始まり、何気ない二人の優しさにみかげは心を静かにうたれてゆく。 悲しみはまた愛によって救われる。それを信じることができるなら、優しさはいつだって優しさのまま、君をありのまま包むだろう。
今日の栃東
● 朝青龍 (寄り切り) 8勝3敗 …期待してたけど…はあああ。
今日のtakebono
・発泡酒を飲んだ。
筆坂秀世氏の『日本共産党』を読みました。
筆者は元日本共産党の大幹部ナンバー4までいったビッグな人であり、セクハラ疑惑不祥事で離党し議員辞職したつまんねえ男でもある。アホみたいな不祥事で失脚したくせに、今さら組織の裏側暴露本だなんて、腹いせか嫌がらせなのか、どっちにしろ情けねぇやつだなーとか思ってたけど、まあそれほどでもない本だなと思った。こんなものは、誰かが言ってたみたいに、「裏切り者」だとか「攻撃」だとか敢えて言わなくても良いんじゃないか。むしろ際だった悪意は特に見られず、組織への執着や容赦が未だ見える感じでもある。むしろ激励本のような気さえした。
組織集団ならどこにでもあるだろう問題が結構書かれてたけど、こうゆうのは今さら暴露したところで何にもなんないしあくびが出た。
ただ、この政党が「正しさ」を貫き、それ故に孤立し、窮地に立たされているというのはよくわかるような気がする。衰退し続け、敗北し続け、全てが悪い方向に流れきった後でも、「我々は正しかった」と言えるのだろうか。僕は、正しさを貫くとは、示すことだと思っている。ふてくされや小爆発はどこまでも意味がない。勝つことだ。悪法成立を阻止しきることだ。それ以外にないのだと思うのだけど。
あと僕は「前衛」だとか「啓蒙」だとか、嫌いだ。自分が何をわかったつもりになるのも嫌だからだ。この国の人々の大半は思考停止で、社会も教育もメディアもそれを推し進めている、と今日読んだどっかのコラムが書いてたけど、例えそうであってもだ。僕は、思考停止の人々のことをどうにか非難して、自分を上げたりは決してしない。
僕だって大衆の一人だ。あらゆる愚かさで一人一人生きてるんだ。
やっぱり、どうやって手を繋ぐか、だ。
アフターバブルの僕ら若い世代には、まだ「立場」や「利害」さえそれほど見えてこない。だからこそ、「共感」しかないと思う。
何かを疑問視する目。何かを顧みることのできる目。本質を見ようとする目。それらを育てないといけない。もちろん僕も含めて。
社会主義については何も言い切れない。
自衛隊の問題についても何も言い切れない。
僕の限界なんてそんなもんだ。それでも世界は回ってゆく。僕らは戦争と経済に巻き込まれてく。
だからこそその中でも、立場を決めていくこと。政治に参加してくこと。シンプルでもいいんだと思う。政治参加意識があれば。
少なくとも、胸を張って、投票権を行使させてくれる政党であってほしい。
一番大変なのは、草の根で倒れそうになりながらも、偏見や差別と闘い、尚頑張ろうとする一般党員の皆さんだと思う。それ故に、痛い。
わかるんだけど、ね。このままだと妥協になっちまうからね。
僕にできること。探したい。
今日の栃東
● 魁皇 (上手投げ) 8勝2敗 あああああ…ありえね…。あの形から魁皇に勝てる力士は現相撲界に存在しない…。
今日のtakebono
・SKさんと焼酎を飲んだ
・MM氏とビールを飲みに行く約束をした
・そしてビールが飲みたい
筆者は元日本共産党の大幹部ナンバー4までいったビッグな人であり、セクハラ疑惑不祥事で離党し議員辞職したつまんねえ男でもある。アホみたいな不祥事で失脚したくせに、今さら組織の裏側暴露本だなんて、腹いせか嫌がらせなのか、どっちにしろ情けねぇやつだなーとか思ってたけど、まあそれほどでもない本だなと思った。こんなものは、誰かが言ってたみたいに、「裏切り者」だとか「攻撃」だとか敢えて言わなくても良いんじゃないか。むしろ際だった悪意は特に見られず、組織への執着や容赦が未だ見える感じでもある。むしろ激励本のような気さえした。
組織集団ならどこにでもあるだろう問題が結構書かれてたけど、こうゆうのは今さら暴露したところで何にもなんないしあくびが出た。
ただ、この政党が「正しさ」を貫き、それ故に孤立し、窮地に立たされているというのはよくわかるような気がする。衰退し続け、敗北し続け、全てが悪い方向に流れきった後でも、「我々は正しかった」と言えるのだろうか。僕は、正しさを貫くとは、示すことだと思っている。ふてくされや小爆発はどこまでも意味がない。勝つことだ。悪法成立を阻止しきることだ。それ以外にないのだと思うのだけど。
あと僕は「前衛」だとか「啓蒙」だとか、嫌いだ。自分が何をわかったつもりになるのも嫌だからだ。この国の人々の大半は思考停止で、社会も教育もメディアもそれを推し進めている、と今日読んだどっかのコラムが書いてたけど、例えそうであってもだ。僕は、思考停止の人々のことをどうにか非難して、自分を上げたりは決してしない。
僕だって大衆の一人だ。あらゆる愚かさで一人一人生きてるんだ。
やっぱり、どうやって手を繋ぐか、だ。
アフターバブルの僕ら若い世代には、まだ「立場」や「利害」さえそれほど見えてこない。だからこそ、「共感」しかないと思う。
何かを疑問視する目。何かを顧みることのできる目。本質を見ようとする目。それらを育てないといけない。もちろん僕も含めて。
社会主義については何も言い切れない。
自衛隊の問題についても何も言い切れない。
僕の限界なんてそんなもんだ。それでも世界は回ってゆく。僕らは戦争と経済に巻き込まれてく。
だからこそその中でも、立場を決めていくこと。政治に参加してくこと。シンプルでもいいんだと思う。政治参加意識があれば。
少なくとも、胸を張って、投票権を行使させてくれる政党であってほしい。
一番大変なのは、草の根で倒れそうになりながらも、偏見や差別と闘い、尚頑張ろうとする一般党員の皆さんだと思う。それ故に、痛い。
わかるんだけど、ね。このままだと妥協になっちまうからね。
僕にできること。探したい。
今日の栃東
● 魁皇 (上手投げ) 8勝2敗 あああああ…ありえね…。あの形から魁皇に勝てる力士は現相撲界に存在しない…。
今日のtakebono
・SKさんと焼酎を飲んだ
・MM氏とビールを飲みに行く約束をした
・そしてビールが飲みたい
相変わらず小説を読む。
今回はmixiの読書コミュで「泣ける本」で抜群に好評だった2冊。
まあいつものように、前評判で読んで泣けた試しがないんだけど、素敵な本だったことは言っておこう。
mixiの利用価値ってこれだきっと。マーケティングのようなもの。
◇梨木果歩の『西の魔女が死んだ』。作品の中を突き抜ける爽やかさは、「泣ける」以前の静かな感動。
−登校拒否を続けていた少女・まいは、その年の初夏を母方の祖父母の元で過ごすことになった。まいが大好きなおばあちゃんは、日々の生活の中で様々な「魔女修行」をまいに課してゆく。大自然の中、サンクチェアリの静寂。意志の強さが希望に変わるとき、一人の少女は生の価値をまなざしてゆく。そして魔女は死んだ――。
ラストかな。ラストはすーっと通るような爽やかな感情に包まれた。そう、きたか、と。
◇湯本香樹実の『夏の庭―The Friends』。大学3年の時に授業で映画を観たことがあって、あれは確か途中までしか観れなかったから気になっていて、やっと小説で結末を知ることができた。良い話だった。
−町外れの汚い家で一人の老人が暮らしていた。僕らはその老人が死ぬ瞬間をどうしても見たくて、彼を「観察」することにした。夏休みが始まると、僕らの「観察」は次第に、彼との不思議な交流へと変化していく。
「死んだ人、見たことあるか」
死ぬことがあり、生きることがある。喪われるものがあり、決して失われないものがある。生命から、生命へと、伝わるものは夏の庭に咲くコスモスのように。
まあ、こんなもんでしょう。感動を呼ぶツボというのもある程度条件がある感じがする。共感、が大事なんだろう。登場人物設定は大きい。子どもと老人ってのは、そういう意味ではベストなのかもしれない。生死の問題も共感動が大きそうだ。
そうなんだよね、共感、なんだよね。
今日の栃東
○ 旭鷲山 (寄り切り) 7連勝!!!
そして露鵬が土俵外でまた騒動を起こしたそうだな。まったくもう。相撲を何だと思ってやがるんだ。
今回はmixiの読書コミュで「泣ける本」で抜群に好評だった2冊。
まあいつものように、前評判で読んで泣けた試しがないんだけど、素敵な本だったことは言っておこう。
mixiの利用価値ってこれだきっと。マーケティングのようなもの。
◇梨木果歩の『西の魔女が死んだ』。作品の中を突き抜ける爽やかさは、「泣ける」以前の静かな感動。
−登校拒否を続けていた少女・まいは、その年の初夏を母方の祖父母の元で過ごすことになった。まいが大好きなおばあちゃんは、日々の生活の中で様々な「魔女修行」をまいに課してゆく。大自然の中、サンクチェアリの静寂。意志の強さが希望に変わるとき、一人の少女は生の価値をまなざしてゆく。そして魔女は死んだ――。
ラストかな。ラストはすーっと通るような爽やかな感情に包まれた。そう、きたか、と。
◇湯本香樹実の『夏の庭―The Friends』。大学3年の時に授業で映画を観たことがあって、あれは確か途中までしか観れなかったから気になっていて、やっと小説で結末を知ることができた。良い話だった。
−町外れの汚い家で一人の老人が暮らしていた。僕らはその老人が死ぬ瞬間をどうしても見たくて、彼を「観察」することにした。夏休みが始まると、僕らの「観察」は次第に、彼との不思議な交流へと変化していく。
「死んだ人、見たことあるか」
死ぬことがあり、生きることがある。喪われるものがあり、決して失われないものがある。生命から、生命へと、伝わるものは夏の庭に咲くコスモスのように。
まあ、こんなもんでしょう。感動を呼ぶツボというのもある程度条件がある感じがする。共感、が大事なんだろう。登場人物設定は大きい。子どもと老人ってのは、そういう意味ではベストなのかもしれない。生死の問題も共感動が大きそうだ。
そうなんだよね、共感、なんだよね。
今日の栃東
○ 旭鷲山 (寄り切り) 7連勝!!!
そして露鵬が土俵外でまた騒動を起こしたそうだな。まったくもう。相撲を何だと思ってやがるんだ。
◇第一回「このミス」の大賞作、朝倉卓弥の『四日間の奇跡』を読み終えた。とてもよかった。まばゆいほどの輝きを放つ「描写」力。圧倒的な筆力。すばらしかった。
−かつてピアニストへの道を歩みながらその道を絶たれた如月敬輔。彼が夢と引き替えに救った少女・楠本千織は、脳に障害を負い言葉を失っていた。その後とあるきっかけからピアノ演奏の旅を続けることになった二人は、ある日訪れた山奥の診療所施設で働く一人の女性と出会った。そして、悲劇が起き、そして奇跡は起きた。
「神というものがいるのかどうかは知らん。だが時として俺自身、自分の肉体が命というものを維持しているということが、どれほど奇跡的なことかを思い知る時がある。意志とは無関係に体内で生成される様々な酵素。その一つでも狂ってしまえば人間というのは簡単に死ぬんだ。外傷など無くてもだ。我々はやはり、生かされているのだと感じるよ。だがその一方で、生きているのは俺自身だという意識も、俺は強固に持っている。俺はその俺を裏切らぬよう、俺自身に誇れるように生きていくだけだ」
そうだ。我々は生かされている。だが生きているのは僕自身なのだ。
「それはでも、幸せなことだったのよ。…ねえ、あたし今、千織ちゃんにとても感謝してる。この時間をあたしにくれた何かに、とても感謝しているの。…だっておかげで、――そう、確かめられたもの。あたしの願いはみんな叶ってたんだって、確かめられたもの。ただ自分で気付いていなかっただけ。知らなかった、見ようとしなかっただけだったの。かつて手にしていたものにこだわって今の自分を受け止めていなかったのは、それは貴方でも患者さんたちでもなくて、あたしだったのよ」
真理子がかわいそすぎて。かわいそーすぎて。takebono泣けてくる。こんな奇跡、あったっていいと思う。それだけで充分だ。
ありふれたようで輝きを放つ、この奇跡のストーリーにはきっと、それこそ「心」というものをうたれた思いだ。
今日の栃東
○ 垣添 (押し出し)4勝
栃東今場所はいける!
朝青龍のヤロー右腕全開じゃねーか!
千代大海マジで守護霊が憑いたか!
やべ、名古屋場所ドキドキする。
−かつてピアニストへの道を歩みながらその道を絶たれた如月敬輔。彼が夢と引き替えに救った少女・楠本千織は、脳に障害を負い言葉を失っていた。その後とあるきっかけからピアノ演奏の旅を続けることになった二人は、ある日訪れた山奥の診療所施設で働く一人の女性と出会った。そして、悲劇が起き、そして奇跡は起きた。
「神というものがいるのかどうかは知らん。だが時として俺自身、自分の肉体が命というものを維持しているということが、どれほど奇跡的なことかを思い知る時がある。意志とは無関係に体内で生成される様々な酵素。その一つでも狂ってしまえば人間というのは簡単に死ぬんだ。外傷など無くてもだ。我々はやはり、生かされているのだと感じるよ。だがその一方で、生きているのは俺自身だという意識も、俺は強固に持っている。俺はその俺を裏切らぬよう、俺自身に誇れるように生きていくだけだ」
そうだ。我々は生かされている。だが生きているのは僕自身なのだ。
「それはでも、幸せなことだったのよ。…ねえ、あたし今、千織ちゃんにとても感謝してる。この時間をあたしにくれた何かに、とても感謝しているの。…だっておかげで、――そう、確かめられたもの。あたしの願いはみんな叶ってたんだって、確かめられたもの。ただ自分で気付いていなかっただけ。知らなかった、見ようとしなかっただけだったの。かつて手にしていたものにこだわって今の自分を受け止めていなかったのは、それは貴方でも患者さんたちでもなくて、あたしだったのよ」
真理子がかわいそすぎて。かわいそーすぎて。takebono泣けてくる。こんな奇跡、あったっていいと思う。それだけで充分だ。
ありふれたようで輝きを放つ、この奇跡のストーリーにはきっと、それこそ「心」というものをうたれた思いだ。
今日の栃東
○ 垣添 (押し出し)4勝
栃東今場所はいける!
朝青龍のヤロー右腕全開じゃねーか!
千代大海マジで守護霊が憑いたか!
やべ、名古屋場所ドキドキする。
takebonoの嫌いな傲慢な言葉たち
2006年7月6日 読書
MM氏に借りて読んだ中島義道『私の嫌いな10の言葉』。
相当イカれて攻撃的だった。この本は、読む人にとっては好き嫌いあるだろうなと思った。ただ僕は、読んで、あはははと笑いまくった。
スカッとするのは、結構僕も共感する部分をたくさん言ってくれてたこと。
とても面白かった。
誰もが言われて首をかしげたことのある言葉たちだろう。takebonoが共感した例をあげよう。
・「お前のためを思って言っているんだぞ!」
かつて僕もよく教師などに言われたことのあるようなこの言葉。大人になった今、子どもに対してこんな言葉、傲慢すぎて言えやしない。それは、間違いなくハイ間違いなく、誰もが「お前のためを思って」いるわけが100%無いからだ。自分が「知っている」側として、「無知な」僕を、ただ遠回しにジャブ攻撃するための、最低の言葉にすぎなかった。こんなキチガイ台詞を興奮して吐く奴は、憎悪をヒロイズムで中和してただ発散してるだけだ。怒鳴られただけで何もしてくれなかった。怒鳴られたことも、今から思えば全く無意味なことだった。正義を振りかざしたかっただけだろ。
・「もっと素直になれよ!」
よく言われた気がするこの言葉。不思議なことに、僕は素直になればなるほど、この言葉を言われ続けた。最低の大嘘の言葉。「素直」っていうのは、「すなお」がどうゆうことなのか?を傲慢にカテゴライズして認識して使い廻してるだけの、幻想と侵害に充ちた言葉だ。「誰」の「素直」が一体どんなモンなのか?理解できてるわけない。未だわからない。「素直」ってどうゆうことなのか。僕がどうなれば満足したのか。 ハッキリ言えばいいじゃないか。「逆らうな!」なんだろ? 「素直」なんて単語わざわざ持ち出すなって。
・「相手の気持ちを考えろよ!」
・「一人で生きてるんじゃないからな!」
もう、どれもこれも吐き気がする言葉。偉そうな言葉をこれでもかと吐くくせに、真実からは目をそらす。いつまでも「いい子」でいたいのは奴らのほうなのだ。
・「自分の好きなことが必ず何かあるはずだ!」
極めつけの最低最悪の言葉。「革命がすきです」「暴力が好きです」「一日中寝てることが好き」は許されないくせに「自主選択」の構えを取らせる究極傲慢な言葉。結局は産業社会に有用な「好き」であったり、職業につながる「好き」以外は許されないくせにさ。
他にもおもしろいのありましたがもうめんどくさいのでまとめ。
愛、平等、思いやり、協調性、相手の気持ち、素直さ、それら全部言葉としては素晴らしいと思うよ。だけど絶対に傲慢だ。社会に出れば、それらが普通に「踏みにじられている」ことに気付くからだ。その現実に対しては目をつぶり、ヒューマニズムワードだけを唱えて何になる? そこが傲慢だっていうんだ。 じゃあ何故命をかけて現実を変えようとしない? 自分だけが「いい子」のつもりで、お決まりの道徳言葉を吐いて、何かを守った気になっているのか? ふざけるな、だ。少なくとも、何か語りうる根拠がないままに、吐ける言葉ではないのだ。
わかりきった妥協のくせに「正義」を持ち込んで。
誰も納得はしないのにそれは論理立てられている。
現実をより知っている大人が、どうしてそんな空虚な言葉を吐けるのか。
真実を言うことがそんなに恐いのか?
それなら黙っていればいいのに。
言葉を何だと思ってやがるんだ。
相当イカれて攻撃的だった。この本は、読む人にとっては好き嫌いあるだろうなと思った。ただ僕は、読んで、あはははと笑いまくった。
スカッとするのは、結構僕も共感する部分をたくさん言ってくれてたこと。
とても面白かった。
誰もが言われて首をかしげたことのある言葉たちだろう。takebonoが共感した例をあげよう。
・「お前のためを思って言っているんだぞ!」
かつて僕もよく教師などに言われたことのあるようなこの言葉。大人になった今、子どもに対してこんな言葉、傲慢すぎて言えやしない。それは、間違いなくハイ間違いなく、誰もが「お前のためを思って」いるわけが100%無いからだ。自分が「知っている」側として、「無知な」僕を、ただ遠回しにジャブ攻撃するための、最低の言葉にすぎなかった。こんなキチガイ台詞を興奮して吐く奴は、憎悪をヒロイズムで中和してただ発散してるだけだ。怒鳴られただけで何もしてくれなかった。怒鳴られたことも、今から思えば全く無意味なことだった。正義を振りかざしたかっただけだろ。
・「もっと素直になれよ!」
よく言われた気がするこの言葉。不思議なことに、僕は素直になればなるほど、この言葉を言われ続けた。最低の大嘘の言葉。「素直」っていうのは、「すなお」がどうゆうことなのか?を傲慢にカテゴライズして認識して使い廻してるだけの、幻想と侵害に充ちた言葉だ。「誰」の「素直」が一体どんなモンなのか?理解できてるわけない。未だわからない。「素直」ってどうゆうことなのか。僕がどうなれば満足したのか。 ハッキリ言えばいいじゃないか。「逆らうな!」なんだろ? 「素直」なんて単語わざわざ持ち出すなって。
・「相手の気持ちを考えろよ!」
・「一人で生きてるんじゃないからな!」
もう、どれもこれも吐き気がする言葉。偉そうな言葉をこれでもかと吐くくせに、真実からは目をそらす。いつまでも「いい子」でいたいのは奴らのほうなのだ。
・「自分の好きなことが必ず何かあるはずだ!」
極めつけの最低最悪の言葉。「革命がすきです」「暴力が好きです」「一日中寝てることが好き」は許されないくせに「自主選択」の構えを取らせる究極傲慢な言葉。結局は産業社会に有用な「好き」であったり、職業につながる「好き」以外は許されないくせにさ。
他にもおもしろいのありましたがもうめんどくさいのでまとめ。
愛、平等、思いやり、協調性、相手の気持ち、素直さ、それら全部言葉としては素晴らしいと思うよ。だけど絶対に傲慢だ。社会に出れば、それらが普通に「踏みにじられている」ことに気付くからだ。その現実に対しては目をつぶり、ヒューマニズムワードだけを唱えて何になる? そこが傲慢だっていうんだ。 じゃあ何故命をかけて現実を変えようとしない? 自分だけが「いい子」のつもりで、お決まりの道徳言葉を吐いて、何かを守った気になっているのか? ふざけるな、だ。少なくとも、何か語りうる根拠がないままに、吐ける言葉ではないのだ。
わかりきった妥協のくせに「正義」を持ち込んで。
誰も納得はしないのにそれは論理立てられている。
現実をより知っている大人が、どうしてそんな空虚な言葉を吐けるのか。
真実を言うことがそんなに恐いのか?
それなら黙っていればいいのに。
言葉を何だと思ってやがるんだ。
ノベルを述べる51 −僕が「障害」者ではないということについて−
2006年7月4日 読書
◇打海文三『時には懺悔を』読んだ。ミステリーから始まるヒューマンドラマだった。そしてシリアスな「障害」にまつわる話でもあった。
−元・大手探偵社の社員だった佐竹は、探偵スクールのレディース一期生・中野聡子の代理教官を務めることになった。探偵実習における盗聴器設置業務のために、かつての同僚・米本の事務所に忍び込むが、そこで二人は米本探偵の死体と遭遇する。そして一人の探偵の死の謎は、過去に、ある「障害児」を巡り起こった一つの事件を浮上させてゆく。。
この小説を読んで、「障害」についてしばし考えさえられた。
大学の教職課程で「介護実習」をやったこともあったけど、それよりもずっと前に僕はある養護学校でボランティアをしてた時期がある。そこでは、学校の生徒である障害児や、OBである障害者の方々と、たくさんたくさん触れ合う機会を頂いた。もちろん歩けない人や、涎を垂らしてる人や、顔面がひん曲がった人などをたくさん僕は見ることができた。一人ではトイレや食事もできない人もいた。彼らは一人では生きてくこともできない。そういう所謂「障害」ってやつを目の当たりにすることもできた。僕はその時点で陳腐な「同情」などすぐにやめた。正直に言えば、僕は確実に、「僕が健常者であること」の「優越」を感じていた。それは「五体満足でサッカーができること」の素晴らしさや、「自分の力で何百冊もの本を読める」ことの素晴らしさだった。いまの僕には障害もなければ借金もないということ。僕自身こそが、幸福に生きてることの、限りない奇跡的な現象だということを絶対的に感じた。聖者にはなれない。彼らの絶対的な「障害」を、「同情」等で括りたくもないのだ。カイジと同じ。涙を流すことで許されようなんて僕は思わない。彼らのありのままの姿を見続けることなんだと思う。絶対的弱者の醜さとそして悲しさと、なによりも打算や虚飾の無い美しさを僕は感じただけだった。障害児を産んで、苦しんでいる親たちはやはりいた。一方で、もちろん素晴らしく生きている障害者だってたくさんいた。アプローチの中には、僕らがすべきことでないことだってある。僕らのエゴだけのものもある。そして外からの支援を心から待っている人たちもやはりたくさんたくさんいたのだった。僕らは全てを背負うことはできない。それでも行政やNGOとかと連携すれば、少しだけでも僕らは彼らと共に生きながら支えることだってできるのだろうと思った。
かつて『セックスボランティア』という本を読んだことがあった。僕があの本を読んで思ったのは、障害者の「権利」というものをどう考えるのかという問題でもあった。
言うまでもなく障害とはハンディだ。障害を持った人はあらゆる社会生活の場面で、障害を持たない人より不利な立場におかれ困難を強いられる。だから「権利」や「バリアフリー」が叫ばれる。「障害者だって健常者並みに社会生活を送りたい」のだ。それは、わかるんだ。『セックスボランティア』においては、障害者の「性」というものにスポットを当ててそれが論じられていた。でも僕が思ったのは、セックスに関わらず、どこまでが障害者の「守られるべき権利」で、どこまでが「諦めるべきもの」なのか?という部分だった。
パラリンピックなんかを見ると、「スポーツ」ってのは開けてる分野かなと思う。僕の大学は「バリアフリー」推進校だったし、公共施設などの「バリアフリー」も一応は目に付くし、とりあえず生きてく余地はあるんだろう。そして「恋愛」や「セックス」とかが閉ざされてるってのはそうだと思うし、だから抵抗感ありつつも障害者の「性」のシステム化みたいのはとりあえず、わかるんだ。医学の発展は、子供の産めない夫婦が子どもをつくることさえ可能にしたのだしね。これまではハンディとして「諦めていた」ものが、可能性として開けてきてるってのはなんとなくわかるのさ。賛否両論はあるんだろうけどさ。
その一方で、それでも尚人間社会の残酷さは、「障害」を悲惨なものとしてるとも思うのだ。『ブラックジャックによろしく』の新生児医療編では、そんな一面も取り上げられてた。「差別」とか意識の低さとかだ。しかし僕は、いま根本的な部分もきてると思う。つまりそれは「金」だ。金がなければ、障害者はスポーツだって進学だって就職だってセックスだってできないという、ごく当たり前のことがだ。
今年4月からスタートした「障害者自立支援法」という法システムが、早くも破綻を起こしているという。この法律は「障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができる」ために定められたものだ。従来の支援費制度に変わり、障害者には費用の原則1割負担が求められ、障害者の福祉サービスが一元化され、保護から自立に向けた支援がなされるという。これまでの制度ではサービスを利用出来なかった精神障害などは一元化でよかったんだろけど、これまでの応能負担(福祉サービスを利用する際に、所得に応じて利用料を負担すること)から、応益負担(福祉サービスを利用する際に、所得とは関係なく一律定率で負担すること。定率負担とも言う)への移行で、障害者の経済的負担は確実に増した。施設の使用料が払えず退所する障害者もぼちぼち出てきた。家族の負担、或いはなけなしの障害者施設での労働賃金、雀の涙のような血の滲む金が、奪い取られることになった。「自立」の名の下で、とりあえずこの国がこれまで保護してきた障害者という絶対的弱者でさえ、今後は公共システムに寄りかかることができなくなるということなのだろう。
この問題をどう考えるかは個人の自由だ。だけど健常者の僕は、この精一杯の他人事に、それでも憤りや悲しみを感じざるをえない。正義とか思想とかヒューマニズムとかそんな大したモンじゃない。いつもそう、ただ素朴な問いかけなんだ。「これでいいのだろうか?」っていう。
こんな僕が、こんなこと思ったっていいと思う。
弱さとは、一体誰の、誰に対する、罪なのか?
−元・大手探偵社の社員だった佐竹は、探偵スクールのレディース一期生・中野聡子の代理教官を務めることになった。探偵実習における盗聴器設置業務のために、かつての同僚・米本の事務所に忍び込むが、そこで二人は米本探偵の死体と遭遇する。そして一人の探偵の死の謎は、過去に、ある「障害児」を巡り起こった一つの事件を浮上させてゆく。。
この小説を読んで、「障害」についてしばし考えさえられた。
大学の教職課程で「介護実習」をやったこともあったけど、それよりもずっと前に僕はある養護学校でボランティアをしてた時期がある。そこでは、学校の生徒である障害児や、OBである障害者の方々と、たくさんたくさん触れ合う機会を頂いた。もちろん歩けない人や、涎を垂らしてる人や、顔面がひん曲がった人などをたくさん僕は見ることができた。一人ではトイレや食事もできない人もいた。彼らは一人では生きてくこともできない。そういう所謂「障害」ってやつを目の当たりにすることもできた。僕はその時点で陳腐な「同情」などすぐにやめた。正直に言えば、僕は確実に、「僕が健常者であること」の「優越」を感じていた。それは「五体満足でサッカーができること」の素晴らしさや、「自分の力で何百冊もの本を読める」ことの素晴らしさだった。いまの僕には障害もなければ借金もないということ。僕自身こそが、幸福に生きてることの、限りない奇跡的な現象だということを絶対的に感じた。聖者にはなれない。彼らの絶対的な「障害」を、「同情」等で括りたくもないのだ。カイジと同じ。涙を流すことで許されようなんて僕は思わない。彼らのありのままの姿を見続けることなんだと思う。絶対的弱者の醜さとそして悲しさと、なによりも打算や虚飾の無い美しさを僕は感じただけだった。障害児を産んで、苦しんでいる親たちはやはりいた。一方で、もちろん素晴らしく生きている障害者だってたくさんいた。アプローチの中には、僕らがすべきことでないことだってある。僕らのエゴだけのものもある。そして外からの支援を心から待っている人たちもやはりたくさんたくさんいたのだった。僕らは全てを背負うことはできない。それでも行政やNGOとかと連携すれば、少しだけでも僕らは彼らと共に生きながら支えることだってできるのだろうと思った。
かつて『セックスボランティア』という本を読んだことがあった。僕があの本を読んで思ったのは、障害者の「権利」というものをどう考えるのかという問題でもあった。
言うまでもなく障害とはハンディだ。障害を持った人はあらゆる社会生活の場面で、障害を持たない人より不利な立場におかれ困難を強いられる。だから「権利」や「バリアフリー」が叫ばれる。「障害者だって健常者並みに社会生活を送りたい」のだ。それは、わかるんだ。『セックスボランティア』においては、障害者の「性」というものにスポットを当ててそれが論じられていた。でも僕が思ったのは、セックスに関わらず、どこまでが障害者の「守られるべき権利」で、どこまでが「諦めるべきもの」なのか?という部分だった。
パラリンピックなんかを見ると、「スポーツ」ってのは開けてる分野かなと思う。僕の大学は「バリアフリー」推進校だったし、公共施設などの「バリアフリー」も一応は目に付くし、とりあえず生きてく余地はあるんだろう。そして「恋愛」や「セックス」とかが閉ざされてるってのはそうだと思うし、だから抵抗感ありつつも障害者の「性」のシステム化みたいのはとりあえず、わかるんだ。医学の発展は、子供の産めない夫婦が子どもをつくることさえ可能にしたのだしね。これまではハンディとして「諦めていた」ものが、可能性として開けてきてるってのはなんとなくわかるのさ。賛否両論はあるんだろうけどさ。
その一方で、それでも尚人間社会の残酷さは、「障害」を悲惨なものとしてるとも思うのだ。『ブラックジャックによろしく』の新生児医療編では、そんな一面も取り上げられてた。「差別」とか意識の低さとかだ。しかし僕は、いま根本的な部分もきてると思う。つまりそれは「金」だ。金がなければ、障害者はスポーツだって進学だって就職だってセックスだってできないという、ごく当たり前のことがだ。
今年4月からスタートした「障害者自立支援法」という法システムが、早くも破綻を起こしているという。この法律は「障害者及び障害児がその有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができる」ために定められたものだ。従来の支援費制度に変わり、障害者には費用の原則1割負担が求められ、障害者の福祉サービスが一元化され、保護から自立に向けた支援がなされるという。これまでの制度ではサービスを利用出来なかった精神障害などは一元化でよかったんだろけど、これまでの応能負担(福祉サービスを利用する際に、所得に応じて利用料を負担すること)から、応益負担(福祉サービスを利用する際に、所得とは関係なく一律定率で負担すること。定率負担とも言う)への移行で、障害者の経済的負担は確実に増した。施設の使用料が払えず退所する障害者もぼちぼち出てきた。家族の負担、或いはなけなしの障害者施設での労働賃金、雀の涙のような血の滲む金が、奪い取られることになった。「自立」の名の下で、とりあえずこの国がこれまで保護してきた障害者という絶対的弱者でさえ、今後は公共システムに寄りかかることができなくなるということなのだろう。
この問題をどう考えるかは個人の自由だ。だけど健常者の僕は、この精一杯の他人事に、それでも憤りや悲しみを感じざるをえない。正義とか思想とかヒューマニズムとかそんな大したモンじゃない。いつもそう、ただ素朴な問いかけなんだ。「これでいいのだろうか?」っていう。
こんな僕が、こんなこと思ったっていいと思う。
弱さとは、一体誰の、誰に対する、罪なのか?
◇大崎善生のロングセラー『パイロット・フィッシュ』。村上春樹に似てた。『ノルウェイの森』にすごく似てた。透明感溢れる文章というのはこうゆう作品のことを言う。
−「パイロット・フィッシュ」――生態系を作るためだけに、一番最初に水槽に入れられる魚。
生態系の中で僕らは出会う。
「それは、どんな長い長い旅にも、必ず終わるときがくるということに似ている」
水槽の中の、あまりにも透明な水のせいで、僕らはそんな風に出会う。忘れられないものを増やすこととは、そんな風に時間の功罪を生むことだということを、感性を主戦場にした20代の果てに僕らは知った。記憶の集合体はそんな風に僕らを追いつめてゆく。
「一度巡りあった人間と、一度発した言葉と、人は二度と別れることはできない」
それもまた、あまりにも透明な水のせいで。僕たちは生きているのだ。曖昧な優しさを糧に。透明な水を世界に。僕たちは記憶の中を泳いでいるのだ。
人間の想いというやつは、これほどまで切なく透明なものだろうか? 「優しさ」のかぎりない力を描く、永遠の青春小説。
takebono的にはストレートなんだろう。真っ正面から読んでしまった。なかなか透明な気持になれた。
◇舞城王太郎『熊の場所』読んだ。舞城ワールドはほんとにすごい。これ傑作です。
−「まー君」が猫を殺して切り取った尻尾をコレクションしてた。僕はとんでもねえ恐怖を感じてしまって、そして思い出した。かつて熊を殺した父親が言っていたこと。
「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない」
そして僕は「まー君」と仲良くなる。
ある日、近所の犬が行方不明になった。そして近所に住む小学生も行方不明になった。僕らは笑いながらサッカーボールを蹴って遊ぶ。「まー君」と僕との戦慄の友情物語。
舞城王太郎は天才だなと思った。
−「パイロット・フィッシュ」――生態系を作るためだけに、一番最初に水槽に入れられる魚。
生態系の中で僕らは出会う。
「それは、どんな長い長い旅にも、必ず終わるときがくるということに似ている」
水槽の中の、あまりにも透明な水のせいで、僕らはそんな風に出会う。忘れられないものを増やすこととは、そんな風に時間の功罪を生むことだということを、感性を主戦場にした20代の果てに僕らは知った。記憶の集合体はそんな風に僕らを追いつめてゆく。
「一度巡りあった人間と、一度発した言葉と、人は二度と別れることはできない」
それもまた、あまりにも透明な水のせいで。僕たちは生きているのだ。曖昧な優しさを糧に。透明な水を世界に。僕たちは記憶の中を泳いでいるのだ。
人間の想いというやつは、これほどまで切なく透明なものだろうか? 「優しさ」のかぎりない力を描く、永遠の青春小説。
takebono的にはストレートなんだろう。真っ正面から読んでしまった。なかなか透明な気持になれた。
◇舞城王太郎『熊の場所』読んだ。舞城ワールドはほんとにすごい。これ傑作です。
−「まー君」が猫を殺して切り取った尻尾をコレクションしてた。僕はとんでもねえ恐怖を感じてしまって、そして思い出した。かつて熊を殺した父親が言っていたこと。
「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない」
そして僕は「まー君」と仲良くなる。
ある日、近所の犬が行方不明になった。そして近所に住む小学生も行方不明になった。僕らは笑いながらサッカーボールを蹴って遊ぶ。「まー君」と僕との戦慄の友情物語。
舞城王太郎は天才だなと思った。
かつて野球界を震撼させたといわれるあの「江川問題」における、あの「空白の一日」とは、契約社会の不備を衝いた怪物スグルの一撃であり、この事件はそのまま、「契約」社会の薄さと、「一方的」を忌み「話し合い」が尊重されるこの社会の体制を現していたといわれてるんだそうだ。
結局、明確な契約が決め手にならない社会だということだ。「非競争的」といわれる一面もこうゆうとこからなんだな。日本は、どんな契約だろうと「一方的」はだめで、「話し合い」が決めうる社会でもあるという。つまり「話し合い」に基づく慣行さえあれば、それは超法規的に許される社会なのである。一方的な法の遵守がNGで、合意の上なら多様な違法も曖昧にOKになる。これを馴れ合いというか、現場の裁量が大きいというのか、規定が曖昧だというか、いやそれ以前にやはり「個人」が無いというのかもしれない。
誰も守ってないことが周知の事実になっている法律なんかいくらでも存在して、そしてそれを暗黙了解の上で社会が正常に機能している。じゃあ何のために法律や取り決めがあるのかというと、例えば何らかの伝統的規範からの逸脱があって初めてその法が活用されるためにあるのだという。そうだ、規範さえ守っていれば、厳密な違法なんて糾弾されやしないのだ。「ホンネとタテマエ」社会と言われる所以だ。 数々の不正や汚職の事件のニュースは、どれもこれもがずーっと前から違法であることが周知の事実の上で続けられてきたものだ。建築もサラ金もインサイダーも、どれも今に始まったことではないことくらいみんながみんな知ってたはずだろ。
契約外の労働にも、法を守れない企業が生き残ることにも、全く愚を感じる。そんなことをかつては思っていたけど、この国ではその当たり前のことを通すことこそが困難だということなんだ。
わかっているのだろうか?
株保有は「投資」だ。
就職は「雇用契約」だ。
半端な資本主義をしている日本。ムラカミだってそれを言いたかったんだろう。だが、それでも愚かだ。無知無力なまま、株保有は投資になりつつあるし、就職は雇用契約になりつつある。真の競争的競争がこれから始まる。極めて無知無力なままで。「慣習」が廃されたとき、初めて本物の資本主義に晒されたとき、この国で真っ先に喰われるのは無知無力な庶民たちだと思うだけだ。
強くならなきゃだめだ。強さとは何か?はまだわからないけど、でも、僕がかつて信じた力こそが強さのような気が、今になってするんだよね。
弱い者は喰われる。喰われるのが嫌なら喰う側にまわれ。共食いしたくないなら支配者たちと闘え。闘いたくないなら我慢しろ。我慢するのが嫌なら、死ね。
弱者が、闘うこと無しに、この世を生き残れるわけがないのだ。
卑屈な共食いは勝手にやればいい。弱い者がさらに弱い者をたたいてどうするんだ、と思うけどね。
支配者たちとの闘いにだけ、僕は弱き者に手を貸してやる。
そいつが、この冥土の国に放つ僕のソウルの一部だ。
結局、明確な契約が決め手にならない社会だということだ。「非競争的」といわれる一面もこうゆうとこからなんだな。日本は、どんな契約だろうと「一方的」はだめで、「話し合い」が決めうる社会でもあるという。つまり「話し合い」に基づく慣行さえあれば、それは超法規的に許される社会なのである。一方的な法の遵守がNGで、合意の上なら多様な違法も曖昧にOKになる。これを馴れ合いというか、現場の裁量が大きいというのか、規定が曖昧だというか、いやそれ以前にやはり「個人」が無いというのかもしれない。
誰も守ってないことが周知の事実になっている法律なんかいくらでも存在して、そしてそれを暗黙了解の上で社会が正常に機能している。じゃあ何のために法律や取り決めがあるのかというと、例えば何らかの伝統的規範からの逸脱があって初めてその法が活用されるためにあるのだという。そうだ、規範さえ守っていれば、厳密な違法なんて糾弾されやしないのだ。「ホンネとタテマエ」社会と言われる所以だ。 数々の不正や汚職の事件のニュースは、どれもこれもがずーっと前から違法であることが周知の事実の上で続けられてきたものだ。建築もサラ金もインサイダーも、どれも今に始まったことではないことくらいみんながみんな知ってたはずだろ。
契約外の労働にも、法を守れない企業が生き残ることにも、全く愚を感じる。そんなことをかつては思っていたけど、この国ではその当たり前のことを通すことこそが困難だということなんだ。
わかっているのだろうか?
株保有は「投資」だ。
就職は「雇用契約」だ。
半端な資本主義をしている日本。ムラカミだってそれを言いたかったんだろう。だが、それでも愚かだ。無知無力なまま、株保有は投資になりつつあるし、就職は雇用契約になりつつある。真の競争的競争がこれから始まる。極めて無知無力なままで。「慣習」が廃されたとき、初めて本物の資本主義に晒されたとき、この国で真っ先に喰われるのは無知無力な庶民たちだと思うだけだ。
強くならなきゃだめだ。強さとは何か?はまだわからないけど、でも、僕がかつて信じた力こそが強さのような気が、今になってするんだよね。
弱い者は喰われる。喰われるのが嫌なら喰う側にまわれ。共食いしたくないなら支配者たちと闘え。闘いたくないなら我慢しろ。我慢するのが嫌なら、死ね。
弱者が、闘うこと無しに、この世を生き残れるわけがないのだ。
卑屈な共食いは勝手にやればいい。弱い者がさらに弱い者をたたいてどうするんだ、と思うけどね。
支配者たちとの闘いにだけ、僕は弱き者に手を貸してやる。
そいつが、この冥土の国に放つ僕のソウルの一部だ。
昨夜のSKさんの横暴クライマックスのせいで体調がガクガク。SKさんとは本当に決定的に分かり合えないけれど、お互いそのことを認め合えてると思うし、それでも馴れ合いやキレること無しに語り合えうるから素敵です。相手を傷つける武器を持ちながらにして手を繋ぐことってのは、一つの現実的な平和なのかもしれないね。武器を捨てることじゃなくて、手を伸ばすことなのが。 ただSK君には、そこらの大人たちのように、現実に手も足も出せない虚しさや、疲れ果てるだけのダンスのような虚構現実へのもがき方は、必要ないと思ってたんだよね。この僕が正しさを説けるわけがないけれど、まあせいぜい藻掻きに協力してはやりたい。きっとそんな時代なんだろう。
最近は、山本七平『日本資本主義の精神』読んだ。でもちゃんと読まなかった。
思想史だとか精神の形成史だとか全くよくわからんくて、イマイチサッパリパリンだったんだけど、ともかく日本資本主義の精神基盤が形成されたのは江戸時代だとかいうことが書かれてた。日本の近代化は外からのものだったけど、資本主義の精神基盤は封建時代の徳川期に形成されていたものなんだそうだ。藩政だとか、禅の思想だとかが、結局エコノミックアニマルにも通じてるんだそうだ。
日本資本主義は、日本の民主主義同様に、未成熟で不完全なのだと思ってたけど、それは実際オリジナル資本主義なわけか。本流の資本主義に移行しつつある今だからこそ、またしても、日本流のそれを不完全とみなすのか、オリジナルのものとしてみなすのか、誇るのか、支持するのか、批判するのか、その辺りなのかなあとか思った。
資本主義は、全てが同じ性格を有していない。それも当然実感は無いけれど、アメリカもヨーロッパもアラブもアジアもそれぞれに異なる資本主義を持っているんだそうだ。日本の資本主義は「日本型資本主義」と度々そう呼ばれてるやつだ。かつては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界から賞賛され、嫉妬され、或いは「日本的経営」「金融社会主義」「日本株式会社」だの言われたやつだ。「日本では経済学、経営学は役に立たない」とまでいわれた所以のやつだ。
西欧資本主義ではプロテスタンティズムがそうであったといわれているように、日本には「日本資本主義の精神」が独自に存在するという。それは「見えざる原則」によるのだという。日本資本主義はこれで動いているのだとさ。
例えば、日本の雇用社会は「終身雇用制度」ということになっている。近年崩壊しつつあることも含め、多くの人が一応はそう認識してたはずだ。だけど不思議なことに、「終身雇用契約」というものは実際には存在しない。例えば採用面接の際に「貴社は終身雇用ですよねぇ?」なんて言ってみろ。ソッコー不採用ケッテーだ。「えー!終身雇用制度だと言いながら、終身雇用の契約は無いの??」と、外国人は不思議顔で質問するそうだ。僕ら日本人は「まあそうですねぇ」と答えるほかない。興味深い。よく考えてみると、「終身雇用制度」を基準に、出世戦争が存在し、入社戦争が存在し、大高中小の受験戦争が存在しているからだ。延々と敷かれている悪名高き脳死人生レールのピラミッドのその正体は、なんと実体の無い「終身雇用制度」に基づいていた。そうなんだよな。日本の資本主義は欧米のような「契約」ではなく、「慣習」に基づいているのだ。
就職は「雇用契約」である一方で、「企業神」をシンボルとした「共同体への加入」なのだという。日本の会社は、必ずしも「利潤追求」「労働力を提供して賃金を獲得する場所」ではなく、純粋な機能集団ではないという。それは、コミュニティーなのだ。正社員こそが血族のコミュニティーなのだ。故に「正当解雇」は「希望退職」なんだとさ。だから非正規社員は無権利状態のまま放置されてるわけなんだとさ。
「公共精神が無くなった」とか「地域の崩壊」とか言われる、あれ。政治家型無責任発言典型例の、あれ。そうなんだ。日本人の公共は「企業神」の方だったのだ。会社という共同体維持のためにはいくらだって奉仕する人間が、自分の属する共同体(社会とか地域とか家族とか)にはまるで無関心なのは、企業入社こそが擬制の血縁集団への加入だったからなのだと。年功序列。終身雇用。福利厚生。アフター5。系列。談合。これら日本特有といわれる企業社会特有の単語群は、そこからきてるのか。わからん。
この国は、馴れ合いとしがらみと慣習が、資本主義の基本である「個人」をも、ときに凌駕してるのか。
最近は、山本七平『日本資本主義の精神』読んだ。でもちゃんと読まなかった。
思想史だとか精神の形成史だとか全くよくわからんくて、イマイチサッパリパリンだったんだけど、ともかく日本資本主義の精神基盤が形成されたのは江戸時代だとかいうことが書かれてた。日本の近代化は外からのものだったけど、資本主義の精神基盤は封建時代の徳川期に形成されていたものなんだそうだ。藩政だとか、禅の思想だとかが、結局エコノミックアニマルにも通じてるんだそうだ。
日本資本主義は、日本の民主主義同様に、未成熟で不完全なのだと思ってたけど、それは実際オリジナル資本主義なわけか。本流の資本主義に移行しつつある今だからこそ、またしても、日本流のそれを不完全とみなすのか、オリジナルのものとしてみなすのか、誇るのか、支持するのか、批判するのか、その辺りなのかなあとか思った。
資本主義は、全てが同じ性格を有していない。それも当然実感は無いけれど、アメリカもヨーロッパもアラブもアジアもそれぞれに異なる資本主義を持っているんだそうだ。日本の資本主義は「日本型資本主義」と度々そう呼ばれてるやつだ。かつては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界から賞賛され、嫉妬され、或いは「日本的経営」「金融社会主義」「日本株式会社」だの言われたやつだ。「日本では経済学、経営学は役に立たない」とまでいわれた所以のやつだ。
西欧資本主義ではプロテスタンティズムがそうであったといわれているように、日本には「日本資本主義の精神」が独自に存在するという。それは「見えざる原則」によるのだという。日本資本主義はこれで動いているのだとさ。
例えば、日本の雇用社会は「終身雇用制度」ということになっている。近年崩壊しつつあることも含め、多くの人が一応はそう認識してたはずだ。だけど不思議なことに、「終身雇用契約」というものは実際には存在しない。例えば採用面接の際に「貴社は終身雇用ですよねぇ?」なんて言ってみろ。ソッコー不採用ケッテーだ。「えー!終身雇用制度だと言いながら、終身雇用の契約は無いの??」と、外国人は不思議顔で質問するそうだ。僕ら日本人は「まあそうですねぇ」と答えるほかない。興味深い。よく考えてみると、「終身雇用制度」を基準に、出世戦争が存在し、入社戦争が存在し、大高中小の受験戦争が存在しているからだ。延々と敷かれている悪名高き脳死人生レールのピラミッドのその正体は、なんと実体の無い「終身雇用制度」に基づいていた。そうなんだよな。日本の資本主義は欧米のような「契約」ではなく、「慣習」に基づいているのだ。
就職は「雇用契約」である一方で、「企業神」をシンボルとした「共同体への加入」なのだという。日本の会社は、必ずしも「利潤追求」「労働力を提供して賃金を獲得する場所」ではなく、純粋な機能集団ではないという。それは、コミュニティーなのだ。正社員こそが血族のコミュニティーなのだ。故に「正当解雇」は「希望退職」なんだとさ。だから非正規社員は無権利状態のまま放置されてるわけなんだとさ。
「公共精神が無くなった」とか「地域の崩壊」とか言われる、あれ。政治家型無責任発言典型例の、あれ。そうなんだ。日本人の公共は「企業神」の方だったのだ。会社という共同体維持のためにはいくらだって奉仕する人間が、自分の属する共同体(社会とか地域とか家族とか)にはまるで無関心なのは、企業入社こそが擬制の血縁集団への加入だったからなのだと。年功序列。終身雇用。福利厚生。アフター5。系列。談合。これら日本特有といわれる企業社会特有の単語群は、そこからきてるのか。わからん。
この国は、馴れ合いとしがらみと慣習が、資本主義の基本である「個人」をも、ときに凌駕してるのか。
◇ボストン・テランの処女作『神は銃弾』。MM氏から借りてたのやっと読み終わった。ハードボイルドバイオレンス小説。
−地獄のカルト集団が、別れた妻を惨殺し、かけがえのない娘を連れ去った。ボブ・ハイデガーは、地獄から生還したジャンキー更正患者ケイスと共に旅に出る。教祖サイラスのナイトメアが砂塵に舞い上がるカリフォルニアの広大な大地を舞台に、ドラッグと血と精液の混じり合った世界が蠢く中で、呪縛と正義を飲み込んだ神の追撃が始まった!! ただ一つの、贖罪を求めて!!!
「でも、本物になりすますことに成功して、世間に流布してるものがひとつある。何物にもとらわれない自由な銃だ。…見なよ。これこそ完全な命の形だ。至高の芸術形式だ。誰にも平等な偉大なるものさ。これは政治の境界も社会の境界も宗教の境界も全部越える。これにはなんのしがらみもない。だから誰もえこひいきしたりしない。向こうにもこっちにもどっちにも傷を負わせる。これは、ゴミみたいな偉ぶったたわごとを並べて、聖書が撒き散らすくそ寓話のどれにも負けないくらい単純で深いものだ。これはその背に歴史を負って、眼の前にあるもの全てを薙ぎ倒す。信仰は全てこの処女真鍮の莢の中にあるんだよ。…そうとも。これこそ新しい宗教を生み、古い宗教をやっつけるものだ。コヨーテ、神はいるよ」
◇前NHKワシントン支局長の手嶋龍一が「知られざる拉致」の闇を描ききり発売前から騒がれてたというドキュメントノベル『ウルトラ・ダラー』読んだ。無知な僕には小難しかったけど、結構魅せられた。こうゆうの書くのってすごいな。半島情勢や中台問題。実際アメリカと中国は今後どうなってゆき、日本と北朝鮮はどうなってゆくのだろうか。
−昭和43年暮れ。東京・荒川に住む若い彫刻職人が、忽然と姿を消した。それから35年以上の月日が流れ、その日ダブリンに超精巧偽百ドル札が現れた!! 震源は、「北」!! 「ウルトラ・ダラー」を巡り、全ての真相が交錯する。「北」の狙いとは? 陰謀の先に待ち受けるものとは? 世界を震撼させる偽造紙幣攻防戦を描いたドキュメントノベル。
ただ、ラストは、えぇっっ?!と思った。
眠い。
言葉がシャワーのように湧き出てくる。
どんだけが無駄なものかわかんない。
ほらみろポルトガル。
−地獄のカルト集団が、別れた妻を惨殺し、かけがえのない娘を連れ去った。ボブ・ハイデガーは、地獄から生還したジャンキー更正患者ケイスと共に旅に出る。教祖サイラスのナイトメアが砂塵に舞い上がるカリフォルニアの広大な大地を舞台に、ドラッグと血と精液の混じり合った世界が蠢く中で、呪縛と正義を飲み込んだ神の追撃が始まった!! ただ一つの、贖罪を求めて!!!
「でも、本物になりすますことに成功して、世間に流布してるものがひとつある。何物にもとらわれない自由な銃だ。…見なよ。これこそ完全な命の形だ。至高の芸術形式だ。誰にも平等な偉大なるものさ。これは政治の境界も社会の境界も宗教の境界も全部越える。これにはなんのしがらみもない。だから誰もえこひいきしたりしない。向こうにもこっちにもどっちにも傷を負わせる。これは、ゴミみたいな偉ぶったたわごとを並べて、聖書が撒き散らすくそ寓話のどれにも負けないくらい単純で深いものだ。これはその背に歴史を負って、眼の前にあるもの全てを薙ぎ倒す。信仰は全てこの処女真鍮の莢の中にあるんだよ。…そうとも。これこそ新しい宗教を生み、古い宗教をやっつけるものだ。コヨーテ、神はいるよ」
◇前NHKワシントン支局長の手嶋龍一が「知られざる拉致」の闇を描ききり発売前から騒がれてたというドキュメントノベル『ウルトラ・ダラー』読んだ。無知な僕には小難しかったけど、結構魅せられた。こうゆうの書くのってすごいな。半島情勢や中台問題。実際アメリカと中国は今後どうなってゆき、日本と北朝鮮はどうなってゆくのだろうか。
−昭和43年暮れ。東京・荒川に住む若い彫刻職人が、忽然と姿を消した。それから35年以上の月日が流れ、その日ダブリンに超精巧偽百ドル札が現れた!! 震源は、「北」!! 「ウルトラ・ダラー」を巡り、全ての真相が交錯する。「北」の狙いとは? 陰謀の先に待ち受けるものとは? 世界を震撼させる偽造紙幣攻防戦を描いたドキュメントノベル。
ただ、ラストは、えぇっっ?!と思った。
眠い。
言葉がシャワーのように湧き出てくる。
どんだけが無駄なものかわかんない。
ほらみろポルトガル。
ノベルを述べる48 純文学の在処
2006年6月24日 読書◇『文学2006』を読んでみた。最近の純文学作家の作品を集めたやつだ。糸山秋子とか青来有一とか藤沢周とかは聞いたことくらいあった。読んでみて、なるほど純文学はわけわからんかったけど、なるほど文学チック。興味深かった。思うにそれは、人間社会の「隙間」のようなものだったり、どうにもなりようもないちっぽけな狂気のようなものだったり、お粗末な背徳のようなものだったり。そんなものたちがイマジンされて、凝縮されて、濃厚な文章になってくるのだ。
安吾が言ってたね。どーしよーもねー死んでもいーようなそれでも生きてるクズ人間が、それでもどうしよーもなく振り回さずにはいられないボーキレのようなものが文学だ、と。あれしっくりくるmyヒットな例えだなと思ったっけ。
僕も思うのです。瞬きするように、息をするように、屁をこくように、表現することの、最低卑屈レベルの、何たるかなんだと思う。素晴らしきくだらなさなのだと思う。孤独の味や、寂しさの匂いや、虚しさの嘔吐物のような、何たるか。そこでは涙なんか流れようもなく、天国でも地獄でもない人の世の、ただひっそりとした情緒なのだと思う。
死なないために生きている人間たちは、生きる糧を得るためにそこら中をうろついてる。飽食や虚飾を繰り返しても生き足りないやつもいる。そして僕のような人間は、そんなことすらできないくらいバカなんだと思う。同情しようもねえほどダメなんだと思う。ハキダメ−覇気駄目。音楽する人はだから演奏するんだと思う。歌うんだと思う。「だから僕は歌うんだよ精一杯でかい声で」(byB・H)。
何か表現したくても、それは陳腐で、卑屈で、キレやすく、語彙力に乏しくて、適切な単語を選べなくて、ろれつだって回らない。でもだからこそ言葉なんだ。殺意とか吐き気とか悪魔とか自殺とかなんでもいい。自殺といえば、いじめ自殺した子の漢字ノートにびっしり書き込まれてた「溺死」だの「感電死」だの、ああゆうの、ああゆうやつなんだよ言うならば。
ダメ人間ってもしかして僕のことじゃないのか? ヘイヘイ、しかしだからこそ生きていられるんだぜベイベとベイヴ。 今生きてる、この生き方以外の生き方なんて、僕には最初から無いくらい見えなかった。
朽ちてゆくのだと思う。だけどそれは現在を確かに救っている。僕にとっての創作とはそんな感じだ。文学も同様なのだ。最近またマンガを描きたくなった。未来なんか無いから、今を生きていられる。真剣に誠実になれるんだと思う。
恐くなるまでは、のたうちまわれるのだと思う。
僕こそが生に執着しているのだから。
生田紗代の『金魚の死後』は、わけわからないんだけどそれっぽかった。半同棲中の男女が、水槽で飼っている金魚の死後について延々と話すだけのストーリーなんだけど、ポストモダンの産物的作品なのだそうだ。まあそれもわけわからんのだけど、でも一番ピンときたのはこの作品だった。 この作家さんはまだ若くて、僕が通っていた大学を卒業した方らしくて、2年先輩に当たるらしい。若いこと。まぁ一つにそういうことなんだろうと思う。逆に言えば、僕らが文学やるとき、このようなものしか描けないのかもしれない。ポストモダンというか、アフターバブルなのだ僕らは。 一方でベテランの作家さんは文章が重かった。こんなんは書けない。さすがだった。
文芸雑誌買ってこようかな。
安吾が言ってたね。どーしよーもねー死んでもいーようなそれでも生きてるクズ人間が、それでもどうしよーもなく振り回さずにはいられないボーキレのようなものが文学だ、と。あれしっくりくるmyヒットな例えだなと思ったっけ。
僕も思うのです。瞬きするように、息をするように、屁をこくように、表現することの、最低卑屈レベルの、何たるかなんだと思う。素晴らしきくだらなさなのだと思う。孤独の味や、寂しさの匂いや、虚しさの嘔吐物のような、何たるか。そこでは涙なんか流れようもなく、天国でも地獄でもない人の世の、ただひっそりとした情緒なのだと思う。
死なないために生きている人間たちは、生きる糧を得るためにそこら中をうろついてる。飽食や虚飾を繰り返しても生き足りないやつもいる。そして僕のような人間は、そんなことすらできないくらいバカなんだと思う。同情しようもねえほどダメなんだと思う。ハキダメ−覇気駄目。音楽する人はだから演奏するんだと思う。歌うんだと思う。「だから僕は歌うんだよ精一杯でかい声で」(byB・H)。
何か表現したくても、それは陳腐で、卑屈で、キレやすく、語彙力に乏しくて、適切な単語を選べなくて、ろれつだって回らない。でもだからこそ言葉なんだ。殺意とか吐き気とか悪魔とか自殺とかなんでもいい。自殺といえば、いじめ自殺した子の漢字ノートにびっしり書き込まれてた「溺死」だの「感電死」だの、ああゆうの、ああゆうやつなんだよ言うならば。
ダメ人間ってもしかして僕のことじゃないのか? ヘイヘイ、しかしだからこそ生きていられるんだぜベイベとベイヴ。 今生きてる、この生き方以外の生き方なんて、僕には最初から無いくらい見えなかった。
朽ちてゆくのだと思う。だけどそれは現在を確かに救っている。僕にとっての創作とはそんな感じだ。文学も同様なのだ。最近またマンガを描きたくなった。未来なんか無いから、今を生きていられる。真剣に誠実になれるんだと思う。
恐くなるまでは、のたうちまわれるのだと思う。
僕こそが生に執着しているのだから。
生田紗代の『金魚の死後』は、わけわからないんだけどそれっぽかった。半同棲中の男女が、水槽で飼っている金魚の死後について延々と話すだけのストーリーなんだけど、ポストモダンの産物的作品なのだそうだ。まあそれもわけわからんのだけど、でも一番ピンときたのはこの作品だった。 この作家さんはまだ若くて、僕が通っていた大学を卒業した方らしくて、2年先輩に当たるらしい。若いこと。まぁ一つにそういうことなんだろうと思う。逆に言えば、僕らが文学やるとき、このようなものしか描けないのかもしれない。ポストモダンというか、アフターバブルなのだ僕らは。 一方でベテランの作家さんは文章が重かった。こんなんは書けない。さすがだった。
文芸雑誌買ってこようかな。
◇前から読みたかった京極夏彦『姑獲鳥の夏』やっと読みました。なかなか、なかなか、面白い。言うならば、攻殻機動隊みたいなネタが、民族伝承や民俗学と絡む辺りが素敵。京極シリーズ全部読もうと思いました。
−「20ヶ月もの間、子供を身籠もっていることができると思うかい――?」
昭和27年の夏――東京・雑司ヶ谷の古い病院で、その世にも奇怪な事件は発生した。鬼子を宿した女。密室から消失した夫。呪いの血筋。灰色の記憶。そして――姑獲鳥(うぶめ)。 本格ミステリ界に賛否両論の大旋風を巻き起こしたという京極夏彦の恐るべきデビュー作。
その怪奇性に惹かれながら、takebono夢中で読み終えた。古本屋陰陽師・京極堂は言う。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ」と。
◇坂口安吾の『白痴』読んだ。もうどうしょーもねー堕落ストーリーの総集編。さすがデカダン派観念的私小説のカリスマ安吾。『堕落論』をそのまま小説にもっていった感がまざまざある。『堕落論』読んでても思ったんだけど、takebonoの文章と雰囲気が似ている理由がわかった。安吾は「魂」という言葉をよく使うからだ。それは僕の「ソウル」と似ている。言葉では説明しきれぬものに対して在る、自分だけの観念のようなもの。そしてその「魂」の行方こそが、安吾が文学の先に見つめていたものだった。だから彼はこんな文章が書けるのだと思う。
−白痴の女を押し入れから引っ張り出し、私は焼夷弾の雨を逃げまどった。何もかもが焼け、その跡だけが残り、生きるために灯されていた何もかもが消え去っていた。それでも人はよろよろと生きている。寒すぎる今朝に、自分と自分の隣に寝ている豚の背中に、太陽の光はそれでもきらめいて降り注ぐだろうかと考える。いずこへ。いずこへゆくのか。
安吾の言葉は、刹那的で、退廃的で、病的で、卑屈で、自虐的で、すごく人間的、そして、何よりも優しく、何よりも美しく、リンダリンダ的に僕に語りかけてくる。圧倒的な孤独と生の輝きがそこにはあって、僕の高ぶる脳の周波を鎮めてくれたりもする。安吾の声が聞こえる。優しい声だ。彼はがんばれなんて決して言わない。前を向こうだなんて決して言わない。あいだみつをなんてクソクラエ級の言葉たちだ。
死ぬな。死ぬなよ。生きろ。生きよ。生きて、堕ちよ。
それは僕にとって、涙が出るほど欲しかった言葉たちだった。
−「20ヶ月もの間、子供を身籠もっていることができると思うかい――?」
昭和27年の夏――東京・雑司ヶ谷の古い病院で、その世にも奇怪な事件は発生した。鬼子を宿した女。密室から消失した夫。呪いの血筋。灰色の記憶。そして――姑獲鳥(うぶめ)。 本格ミステリ界に賛否両論の大旋風を巻き起こしたという京極夏彦の恐るべきデビュー作。
その怪奇性に惹かれながら、takebono夢中で読み終えた。古本屋陰陽師・京極堂は言う。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ」と。
◇坂口安吾の『白痴』読んだ。もうどうしょーもねー堕落ストーリーの総集編。さすがデカダン派観念的私小説のカリスマ安吾。『堕落論』をそのまま小説にもっていった感がまざまざある。『堕落論』読んでても思ったんだけど、takebonoの文章と雰囲気が似ている理由がわかった。安吾は「魂」という言葉をよく使うからだ。それは僕の「ソウル」と似ている。言葉では説明しきれぬものに対して在る、自分だけの観念のようなもの。そしてその「魂」の行方こそが、安吾が文学の先に見つめていたものだった。だから彼はこんな文章が書けるのだと思う。
−白痴の女を押し入れから引っ張り出し、私は焼夷弾の雨を逃げまどった。何もかもが焼け、その跡だけが残り、生きるために灯されていた何もかもが消え去っていた。それでも人はよろよろと生きている。寒すぎる今朝に、自分と自分の隣に寝ている豚の背中に、太陽の光はそれでもきらめいて降り注ぐだろうかと考える。いずこへ。いずこへゆくのか。
安吾の言葉は、刹那的で、退廃的で、病的で、卑屈で、自虐的で、すごく人間的、そして、何よりも優しく、何よりも美しく、リンダリンダ的に僕に語りかけてくる。圧倒的な孤独と生の輝きがそこにはあって、僕の高ぶる脳の周波を鎮めてくれたりもする。安吾の声が聞こえる。優しい声だ。彼はがんばれなんて決して言わない。前を向こうだなんて決して言わない。あいだみつをなんてクソクラエ級の言葉たちだ。
死ぬな。死ぬなよ。生きろ。生きよ。生きて、堕ちよ。
それは僕にとって、涙が出るほど欲しかった言葉たちだった。
◇沢木耕太郎の『凍』読んだ。クライミングの話だった。こうゆうの専門の作家さんじゃないのにここまで書けるのはすごいとどこかの雑誌で書評があったっけ。で?結局ノンフィクションだったんか?まだよくわかってない。 しかし中盤から後半にかけては壮絶だった。クライミングって、やっぱ人生をかけられるもんなんだろうなあ。特にクライミングの知識とかかなりリアルだったし。こうゆう小説って取材や勉強たくさんするんだろうなあ。とても無理だなあ。あと山に登ってみたいと思った。
−世界最高峰のエヴェレストと、世界6位のチョー・オユーの間に位置し、ネパールとチベットの谷奥深くに存在する頂「ギャチュンカン」。クライマー山野井泰史はそのギャチュンカン前人未踏の「北東壁」へ登ろうとしていた。先輩クライマーでもあり妻でもある妙子と共に、生死をかけた最後のクライムアタックが始まる!
◇沙藤一樹の『D−ブリッジ・テープ』読みました。少しグロくてよかった。うげって感じなんだけど、テープに残された肉声とそれを延々と聞いている人間たちのやりとりだけで進むストーリー展開は手法としては面白い。一幕劇ドラマのような緊迫感がこの文章にはある。
−横浜ベイブリッジ・不法投棄エリアのゴミの山の中から発見された少年の死体。手に握られていたカセットテープ「D−ブリッジ・テープ」。その後、数十人が集まる部屋でテープの記録が公開され、その恐るべき物語は恐ろしい声で幕を開けた。
「もし、今、これを…聞いてる奴が、いたとしたら…最後まで、聞け」
戦慄の恐怖を肉声だけであなたに…。
あー明日からワールドカップだあ!!
明日はワールドカップネタで書こうっと。
−世界最高峰のエヴェレストと、世界6位のチョー・オユーの間に位置し、ネパールとチベットの谷奥深くに存在する頂「ギャチュンカン」。クライマー山野井泰史はそのギャチュンカン前人未踏の「北東壁」へ登ろうとしていた。先輩クライマーでもあり妻でもある妙子と共に、生死をかけた最後のクライムアタックが始まる!
◇沙藤一樹の『D−ブリッジ・テープ』読みました。少しグロくてよかった。うげって感じなんだけど、テープに残された肉声とそれを延々と聞いている人間たちのやりとりだけで進むストーリー展開は手法としては面白い。一幕劇ドラマのような緊迫感がこの文章にはある。
−横浜ベイブリッジ・不法投棄エリアのゴミの山の中から発見された少年の死体。手に握られていたカセットテープ「D−ブリッジ・テープ」。その後、数十人が集まる部屋でテープの記録が公開され、その恐るべき物語は恐ろしい声で幕を開けた。
「もし、今、これを…聞いてる奴が、いたとしたら…最後まで、聞け」
戦慄の恐怖を肉声だけであなたに…。
あー明日からワールドカップだあ!!
明日はワールドカップネタで書こうっと。
現代テロリズムエコノミー
2006年6月6日 読書
風邪をひいたみたい。既に体が治しにとりかかってるこの感覚。作業のような治癒力にももう慣れたものだ。
坂井拓也著『経済ニュースの裏とオモテがよくわかる本』読みました。僕は無知なのでこれくらいでわかりやすかったです。
そんで金融ネタを考えてた矢先にハゲタカキング村上が捕まった。僕は株なんか無知だし『銀と金』を読んでおお株やりてえと思った程度のバカクズですが、それでもあのファンドってやつが、庶民とかけ離れたとこにあるってのはわかる。企業が利益をガッツリ独占しちゃってて、緩慢経営をしてて、株主に利益もっと還元しろよオラァとかってモノ言ってくれるのはまあ聞こえよく格好いいですが、結局は株価つりあげて売り抜けるだけのゼネラルモンスターなのだから、どうにもパンピーの僕はやはりこんな茶番逮捕劇で何も思う所はないのです。世界中の金持ちが更に私腹を肥やすために生まれたモンスター村上がインサイダーでひっかかるなんて、しくじったもんだ。せいぜい堀江や日本型資本主義を恨め。なんにせよ「持たざる者」の僕には何一つ言葉が無い。投資家は自己責任で死ねるくらいで丁度いい。不労所得の極みとは全てを磨り減らすギャンブルに他ならぬ。 僕にとっちゃPRIDE放送中止の方が大変な事件であった。
本読んで色々考えたことはあるのだけど、一つ思ったのは、「無知や間違いや正しくないことや歪んだこととかがこれでもかというくらいこの世には存在しながらにして、でもそれ故にこの世が成立しているんだなあ」ということ。世界とはそういう在り方もあるのだと思った。TVなり新聞なり既存メディアは、罪なくらい物事の一面しか語らないし、でもそれは当たり前のことなんですよね利根川さん、て感じだ。
反日デモが起きても、靖国問題が騒がれても、グローバル経済は中国を必要としているし、拉致問題や制裁やら騒いでても、いずれは北朝鮮も必要としなければならないのだ。
企業社会の動向は既に「格差」「晩婚化」「少子化」に沿ってるものだし、経団連など上の方はフリーターや派遣労働者を必要としている。
社会が社会問題を肯定しているとはいえないのか。経済は本来必要悪を必要不可欠としているものじゃないか。一体どうゆう理屈でこれまで僕が見聞きした数々の正義は存在したのか。
束縛の中で努力を要求され、カネのために人間性が要求されている。
選挙も行かずに社会を憂う?
死にかけてる人の自殺を憂う?
努力して、満足する??
そうゆうのぜんぶ初めから頭おかしーんだよ。おかしーと思わねーのかよ。おかしーことがおかしーって思わねーのかよ。おかしーことがおかしーくらいまかり通ってることがおかしーことなんだろがっ。
どうせいつだって「誰かがやってくれる」なのだ。
だからなんだっつーんだよ? だからどうだってんだよ?
バーチャルなんだな、世界は。ホームレスものらねこも途上国も。おそらく人も。
ホリエモンにせよ村上にせよ、コイズミにせよ。紙芝居だ、まるで。
世論だとか、国民感情だとかっていうのは、実際に厄介なもんなんだなあと思った。
洗脳しちゃったもん勝ちだな、と思った。
好きになっちゃった方が負けなのよねとかいうあのイカれた卑屈な屁理屈と同じ論理で、そうなのだな、と思った。
デマは混乱だけど、歪んだ現実こそ秩序なのかもしれない。
それこそ、歴史は常に流動的なんだろうか。
僕は未だに無知だった。でもまだ負けない僕の無知の知に、がんばれって言ってやる。
坂井拓也著『経済ニュースの裏とオモテがよくわかる本』読みました。僕は無知なのでこれくらいでわかりやすかったです。
そんで金融ネタを考えてた矢先にハゲタカキング村上が捕まった。僕は株なんか無知だし『銀と金』を読んでおお株やりてえと思った程度のバカクズですが、それでもあのファンドってやつが、庶民とかけ離れたとこにあるってのはわかる。企業が利益をガッツリ独占しちゃってて、緩慢経営をしてて、株主に利益もっと還元しろよオラァとかってモノ言ってくれるのはまあ聞こえよく格好いいですが、結局は株価つりあげて売り抜けるだけのゼネラルモンスターなのだから、どうにもパンピーの僕はやはりこんな茶番逮捕劇で何も思う所はないのです。世界中の金持ちが更に私腹を肥やすために生まれたモンスター村上がインサイダーでひっかかるなんて、しくじったもんだ。せいぜい堀江や日本型資本主義を恨め。なんにせよ「持たざる者」の僕には何一つ言葉が無い。投資家は自己責任で死ねるくらいで丁度いい。不労所得の極みとは全てを磨り減らすギャンブルに他ならぬ。 僕にとっちゃPRIDE放送中止の方が大変な事件であった。
本読んで色々考えたことはあるのだけど、一つ思ったのは、「無知や間違いや正しくないことや歪んだこととかがこれでもかというくらいこの世には存在しながらにして、でもそれ故にこの世が成立しているんだなあ」ということ。世界とはそういう在り方もあるのだと思った。TVなり新聞なり既存メディアは、罪なくらい物事の一面しか語らないし、でもそれは当たり前のことなんですよね利根川さん、て感じだ。
反日デモが起きても、靖国問題が騒がれても、グローバル経済は中国を必要としているし、拉致問題や制裁やら騒いでても、いずれは北朝鮮も必要としなければならないのだ。
企業社会の動向は既に「格差」「晩婚化」「少子化」に沿ってるものだし、経団連など上の方はフリーターや派遣労働者を必要としている。
社会が社会問題を肯定しているとはいえないのか。経済は本来必要悪を必要不可欠としているものじゃないか。一体どうゆう理屈でこれまで僕が見聞きした数々の正義は存在したのか。
束縛の中で努力を要求され、カネのために人間性が要求されている。
選挙も行かずに社会を憂う?
死にかけてる人の自殺を憂う?
努力して、満足する??
そうゆうのぜんぶ初めから頭おかしーんだよ。おかしーと思わねーのかよ。おかしーことがおかしーって思わねーのかよ。おかしーことがおかしーくらいまかり通ってることがおかしーことなんだろがっ。
どうせいつだって「誰かがやってくれる」なのだ。
だからなんだっつーんだよ? だからどうだってんだよ?
バーチャルなんだな、世界は。ホームレスものらねこも途上国も。おそらく人も。
ホリエモンにせよ村上にせよ、コイズミにせよ。紙芝居だ、まるで。
世論だとか、国民感情だとかっていうのは、実際に厄介なもんなんだなあと思った。
洗脳しちゃったもん勝ちだな、と思った。
好きになっちゃった方が負けなのよねとかいうあのイカれた卑屈な屁理屈と同じ論理で、そうなのだな、と思った。
デマは混乱だけど、歪んだ現実こそ秩序なのかもしれない。
それこそ、歴史は常に流動的なんだろうか。
僕は未だに無知だった。でもまだ負けない僕の無知の知に、がんばれって言ってやる。
エッセイにおくエッセィンス2
2006年6月5日 読書
坂口安吾の『堕落論』読んだ。
すばらしい本でした。久しぶりに心に残る一冊となったわ。これはエッセイだよね。実にこれ一冊でいいな。生きていくための淪落の書。ブルーノタウトや天皇や志賀直哉がめためたにぶったぎられてました。戦後あたりにこんなん書いてなんだこれってかんじだろなそれがたまらん。
文章の書き方というか言い回しというかリズムというかソウルというか、どこかどこかが、たしかにtakebonoの書き方と少し似ているなあと思った。『続堕落論』辺り痛快ですが、『青春論』『恋愛論』『エゴイズム小論』『大阪の反逆』辺りも必見。
本を読んで考えた。本を読んで考えた。takebonoは空を見て考えた。
僕は最近の夜ふけは、涼しければ窓を開けて寝っ転がりながら読書してるのだけど、夢中になれば読みふけってしまうし、つまらなければ寝てしまう。この『堕落論』は、本当に笑いあり涙ありで読んでしまいました。強烈に時代を睨み続け、鮮烈に世界を疑い続け、愛おしいほどに自己に挑み続け、狂おしいほどに何かと戦い抜いた坂口安吾。全ての日本人へ語りかける安吾のその優しさがtakebonoの胸を強くうった。
虚飾のために生きそして死んでゆく人間たちの愚かさを、堕落という人間の優しさが、それを救うでもなく存在していることに、愛や希望さえ感じた。もっと前に読みたかった。そういえば中学校時代、この本をYさんが図書室で読んでたっけ。Yさんはこれを読んで何を思っていたのだろう。
「生きて堕ちよ、その正当な手順の外に、真の人間を救いうる便利な近道がありうるだろうか」
「日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ」(『続堕落論』)
「生きてる人間というものは、自分でも何をしでかすかわからない、自分とは何者だか、それもてんで知りゃしない、人間はせつないものだ、しかし、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋り付いて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし、思いこもうとし、体当たり、遁走、全く悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。…生きることにあらゆる矛盾があり、不可欠、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリまわす廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ。人間は何をやりだすかわからんから、文学があるのじゃないか」(『教祖の文学』)
「自分さがし」の必要は僕には皆無だけど、だがしかし自分を顧みなくなったらお終いなのだと思った。堕落すること。反逆すること。思惑することなくして、踏みしめそして噛みしめるものなど生きていてそこにあるはずがないから。人生は創るものだ。人生を創る情熱意外に、生きることに何かなどない。無間地獄など当たり前に過ぎぬことは屁でもない。安吾は言ってる。ただ生きることだと。それぞれの限界まで生きることが、ただ一つ在るのだと。文学は生きることだと。
堕落すればいいと思う。不毛で無駄で騙されたものばっかりでこの世が充ちちゃってるからだ。でも真理に到達することもできないし限界もあると思う。だから堕落なんだと思う。安吾のいう「堕落」とは、モラルを否定することとは全然ちがくて、むしろ人間性溢れる生き方なのだった。堕落してるのはむしろ1億人サイドだと思った。
でもだからって浮浪者やニートになるんはもちろん違う。でも、それほど「正しく」生きなくてもいいんだってことだ。優しさがまた人を生かす。そんなレベルでも人は生きられるのだと思う。「正しさ」とは、実は「正し」くないものだ。美しい無知や、罪な知だってそこら中にある。
社会に「堕落」を投げかける坂口安吾の優しさに、癒されてみませんか?
僕はときどき堕落したくなるんです。え?もうしてる?あらそう。
すばらしい本でした。久しぶりに心に残る一冊となったわ。これはエッセイだよね。実にこれ一冊でいいな。生きていくための淪落の書。ブルーノタウトや天皇や志賀直哉がめためたにぶったぎられてました。戦後あたりにこんなん書いてなんだこれってかんじだろなそれがたまらん。
文章の書き方というか言い回しというかリズムというかソウルというか、どこかどこかが、たしかにtakebonoの書き方と少し似ているなあと思った。『続堕落論』辺り痛快ですが、『青春論』『恋愛論』『エゴイズム小論』『大阪の反逆』辺りも必見。
本を読んで考えた。本を読んで考えた。takebonoは空を見て考えた。
僕は最近の夜ふけは、涼しければ窓を開けて寝っ転がりながら読書してるのだけど、夢中になれば読みふけってしまうし、つまらなければ寝てしまう。この『堕落論』は、本当に笑いあり涙ありで読んでしまいました。強烈に時代を睨み続け、鮮烈に世界を疑い続け、愛おしいほどに自己に挑み続け、狂おしいほどに何かと戦い抜いた坂口安吾。全ての日本人へ語りかける安吾のその優しさがtakebonoの胸を強くうった。
虚飾のために生きそして死んでゆく人間たちの愚かさを、堕落という人間の優しさが、それを救うでもなく存在していることに、愛や希望さえ感じた。もっと前に読みたかった。そういえば中学校時代、この本をYさんが図書室で読んでたっけ。Yさんはこれを読んで何を思っていたのだろう。
「生きて堕ちよ、その正当な手順の外に、真の人間を救いうる便利な近道がありうるだろうか」
「日本国民諸君、私は諸君に、日本人及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ」(『続堕落論』)
「生きてる人間というものは、自分でも何をしでかすかわからない、自分とは何者だか、それもてんで知りゃしない、人間はせつないものだ、しかし、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋り付いて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし、思いこもうとし、体当たり、遁走、全く悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。…生きることにあらゆる矛盾があり、不可欠、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリまわす廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ。人間は何をやりだすかわからんから、文学があるのじゃないか」(『教祖の文学』)
「自分さがし」の必要は僕には皆無だけど、だがしかし自分を顧みなくなったらお終いなのだと思った。堕落すること。反逆すること。思惑することなくして、踏みしめそして噛みしめるものなど生きていてそこにあるはずがないから。人生は創るものだ。人生を創る情熱意外に、生きることに何かなどない。無間地獄など当たり前に過ぎぬことは屁でもない。安吾は言ってる。ただ生きることだと。それぞれの限界まで生きることが、ただ一つ在るのだと。文学は生きることだと。
堕落すればいいと思う。不毛で無駄で騙されたものばっかりでこの世が充ちちゃってるからだ。でも真理に到達することもできないし限界もあると思う。だから堕落なんだと思う。安吾のいう「堕落」とは、モラルを否定することとは全然ちがくて、むしろ人間性溢れる生き方なのだった。堕落してるのはむしろ1億人サイドだと思った。
でもだからって浮浪者やニートになるんはもちろん違う。でも、それほど「正しく」生きなくてもいいんだってことだ。優しさがまた人を生かす。そんなレベルでも人は生きられるのだと思う。「正しさ」とは、実は「正し」くないものだ。美しい無知や、罪な知だってそこら中にある。
社会に「堕落」を投げかける坂口安吾の優しさに、癒されてみませんか?
僕はときどき堕落したくなるんです。え?もうしてる?あらそう。
今回からなるべく本の表紙を載せていこうと思います。
◇今回は恩田陸の『夜のピクニック』読みました。ずっと読みたかったのやっと読めました。確かこれはずっとずっと前にHが薦めてくれたんだっけ。とても面白かったです。ノスタルジーの魔術師ともいわれる恩田陸はなるほどさすがなのだ。
−みんなで夜歩く。たったそれだけのことなのに。どうして、それだけのことが、こんなに特別なことなんだろうね――。 北高伝統の行事「歩行祭」は、高校生活最後のイベントだ。母校を出発し、朝八時から翌朝八時まで歩き続け、ゴールを目指す。ある者は順位を競い、またある者は友と語り合いながら夜を歩く。誰もが高校生活を振り返りながら、最後の青春の思い出をこの夜に刻みつけるのである。そして貴子はこの小さな夜に小さな秘密の賭けをしていた。 親友と歩く。夜歩く。恋人と歩く。夜歩く。仲間と歩く。夜歩く。あの人と歩きたい。この夜を。その闇を永遠に焼き付けて、僕らは夜歩く。 いま、もう二度とやってこない夜がくる。もう二度と歩かない道を夜歩く。僕らのブルーダーク、高校生活最後の、夜のピクニックがやってくる。
「雑音だって、お前を作ってるんだよ。雑音はうるさいけど、やっぱ聞いておかなきゃなんない時だってあるんだよ。お前にはノイズにしか聞こえないだろうけど、このノイズが聞こえるのって、今だけだから、あとからテープを巻き戻して聞こうと思った時にはもう聞こえない。お前、いつか絶対、あの時聞いておけばよかったって後悔する日が来ると思う」
ノスタルジーの何たるか、青春の何たるかですね。すごくいい。すごく。小説にはこんな読ませ方もあるのだ。
絶対高校時代が懐かしくなる本ですね。
◇今回は恩田陸の『夜のピクニック』読みました。ずっと読みたかったのやっと読めました。確かこれはずっとずっと前にHが薦めてくれたんだっけ。とても面白かったです。ノスタルジーの魔術師ともいわれる恩田陸はなるほどさすがなのだ。
−みんなで夜歩く。たったそれだけのことなのに。どうして、それだけのことが、こんなに特別なことなんだろうね――。 北高伝統の行事「歩行祭」は、高校生活最後のイベントだ。母校を出発し、朝八時から翌朝八時まで歩き続け、ゴールを目指す。ある者は順位を競い、またある者は友と語り合いながら夜を歩く。誰もが高校生活を振り返りながら、最後の青春の思い出をこの夜に刻みつけるのである。そして貴子はこの小さな夜に小さな秘密の賭けをしていた。 親友と歩く。夜歩く。恋人と歩く。夜歩く。仲間と歩く。夜歩く。あの人と歩きたい。この夜を。その闇を永遠に焼き付けて、僕らは夜歩く。 いま、もう二度とやってこない夜がくる。もう二度と歩かない道を夜歩く。僕らのブルーダーク、高校生活最後の、夜のピクニックがやってくる。
「雑音だって、お前を作ってるんだよ。雑音はうるさいけど、やっぱ聞いておかなきゃなんない時だってあるんだよ。お前にはノイズにしか聞こえないだろうけど、このノイズが聞こえるのって、今だけだから、あとからテープを巻き戻して聞こうと思った時にはもう聞こえない。お前、いつか絶対、あの時聞いておけばよかったって後悔する日が来ると思う」
ノスタルジーの何たるか、青春の何たるかですね。すごくいい。すごく。小説にはこんな読ませ方もあるのだ。
絶対高校時代が懐かしくなる本ですね。
◇灰谷健次郎の『海の図』を読みました。長編だったがあっさり読んだ。改行多いし、読みやすいのなんの。そしてさすがに灰谷作品はヒューマニズムに満ち溢れてるな。これは80年代って感じだ。素晴らしいものは揺れ動きながら尚素晴らしかった時代だ。左系と言われればそれまでなのだが、こんな作品すてきじゃんて僕は思う。10年前に読みたかったな。こんな時代もあったのだし、こんな作品もあったのだ。もっともっともっと本を読めばよかった。いまそう思う。だから、いまもっともっともっと本を読むのです。
−瀬戸内海の小島の高校3年生沖島壮吉は、登校拒否を続けていた。海と島を誰よりも愛した亡き父が、あるとき漁業を捨て、電力会社の開発に手を貸していたという事実を調査するためにだ。壮吉がいかなくなった学校では、教師−生徒の対立関係が紛糾を極めていた。ある日の港で、壮吉は都会からの転校生・英世と出会う。心に傷を持つ彼女の存在に、壮吉は確かに動かされながら、前進するために歩き出すのだった。 一人の島の少年が抱く幾多の思いは、かけがえなく純粋な、全ての現代人へのメッセージでもある。takebonoの胸に、それは確かに突きつけられた。この社会の明日に希望を灯す、感動長編作品。
沖縄からきた五郎が壮吉に語りかけるシーンがいいですね。すごくいいです。
「自ら、生きるっていうのかな。自分たちの土地で自分たちの海で生きていく力だよな。長い歴史の中で確かめられてきたものを、どうして豊かにするかということを考えていけば、本物の自立が必ず果たせられると信じているんですよ。おれたち、やがて、ふるさとへ帰るさ。…沖縄にはね。自然のあらゆる生命はもちろん、木も水も土も、みな人間の生命のひとつだっていう強い思想があるんです。そいつが生きているうちはおれたちの島は、いつまでも美しいさ」
数々の人たちとの出会いを経て、そして学校に戻ってきた壮吉が教室でみんなの前で語るシーンがすごくいい。壮吉の成長がすばらしかったですよ。
「…そして、それがものすごく本気だった。自分の不幸も、そっとしておきたいことも、みんなぶっつけて、おれにつき合ってくれたです。…おれ、人間はいいなと思った。人間はみんなええなと初めて思った。そう思ったら、世の中というかおれたちの住んでる社会がどんなものか、ぼんやり分かったような気がしたんです。…人間は自分のことだけを考えているうちは何も見えんワ。この社会と学校が敷いているレールは、文明社会のエリートへの道らしいが、おれはそのレールを自分でつけ変えたい。…この島の人間が、この島の自然と生命を大事にして、この島で生きていくことのできるレールを自分でしっかりつける」
静かに感動しました。
−瀬戸内海の小島の高校3年生沖島壮吉は、登校拒否を続けていた。海と島を誰よりも愛した亡き父が、あるとき漁業を捨て、電力会社の開発に手を貸していたという事実を調査するためにだ。壮吉がいかなくなった学校では、教師−生徒の対立関係が紛糾を極めていた。ある日の港で、壮吉は都会からの転校生・英世と出会う。心に傷を持つ彼女の存在に、壮吉は確かに動かされながら、前進するために歩き出すのだった。 一人の島の少年が抱く幾多の思いは、かけがえなく純粋な、全ての現代人へのメッセージでもある。takebonoの胸に、それは確かに突きつけられた。この社会の明日に希望を灯す、感動長編作品。
沖縄からきた五郎が壮吉に語りかけるシーンがいいですね。すごくいいです。
「自ら、生きるっていうのかな。自分たちの土地で自分たちの海で生きていく力だよな。長い歴史の中で確かめられてきたものを、どうして豊かにするかということを考えていけば、本物の自立が必ず果たせられると信じているんですよ。おれたち、やがて、ふるさとへ帰るさ。…沖縄にはね。自然のあらゆる生命はもちろん、木も水も土も、みな人間の生命のひとつだっていう強い思想があるんです。そいつが生きているうちはおれたちの島は、いつまでも美しいさ」
数々の人たちとの出会いを経て、そして学校に戻ってきた壮吉が教室でみんなの前で語るシーンがすごくいい。壮吉の成長がすばらしかったですよ。
「…そして、それがものすごく本気だった。自分の不幸も、そっとしておきたいことも、みんなぶっつけて、おれにつき合ってくれたです。…おれ、人間はいいなと思った。人間はみんなええなと初めて思った。そう思ったら、世の中というかおれたちの住んでる社会がどんなものか、ぼんやり分かったような気がしたんです。…人間は自分のことだけを考えているうちは何も見えんワ。この社会と学校が敷いているレールは、文明社会のエリートへの道らしいが、おれはそのレールを自分でつけ変えたい。…この島の人間が、この島の自然と生命を大事にして、この島で生きていくことのできるレールを自分でしっかりつける」
静かに感動しました。
◇阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』読んだ。うむぅ、これは、けっこう、けっこうソウルってる話。久しぶりに重厚なイカれ具合を味わった。二転三転ならぬ四転五転はしてますこのストーリー。衝撃の結末もまずまずイケてる。
−渋谷国際映画劇場の映写技師オヌマは、スパイ私塾訓練生の過去を持つ男である。ある日、かつての私塾仲間が集団で事故死したとの報が入り、オヌマは暴力団とプルトニウムを巡る攻防に巻き込まれてゆく。イノウエに託された映画フィルムに隠された暗号の謎。塾長マサキの正体。血と暴力と錯乱だけが、物語を進行させる言語となる。圧倒的な展開に是非とも酔え。精神は、多極だ。存在は、儚い。真実こそ、終末だ。
この作品で阿部和重は、現代文学の臨界点を超えたんだそうだ。へー。確かに、後半の展開はなかなかのものだったけど。まあある意味、これぞノベルですよね。うん。
◇石田衣良が2月に出した『40(フォーティー)翼ふたたび』読んだ。最近イシダイラのやつTVにちょくちょく出やがる。そのためか若干作品に生彩を欠いてきた感があったりなかったりでもやっぱり面白かったり。うぬ。
−四〇歳になった。喜一はその年に会社を飛び出した。あてもなかった。妻との関係も冷え切っていた。子どももいなかった。 そんなとき、個人の新事業のために開設していたサイトとブログ「40歳から始めよう」に、思いがけず依頼主が現れた。彼らは皆、人生の折り返しを経た40歳たちだった。いまこの国で40歳が生きていくこと。あなたはそこに涙を落とす。
生きてればたぶんそれは寿命の内にやってくる。よくよく考えてみればたったあと15年ほどだ。もし生きていたらその頃の僕は何をしているのだろう。そんなこと思った。
「なんなんだろうな、四〇歳って。若い奴のようなセンスも勢いもなく、上の奴らのように権力も金もない。宙ぶらりんで、中途半端で、死にたくなければ走れと尻を叩かれるだけだ。若い女はおやじとバカにする。妻は目もくれない。くそっ、やってらんねえな」
ラストはもろイシダイラっぽかった。満場のステージの上で、末期ガンの卓巳がサプライズするんだけど、やっぱ感動します。
「おれはどんな病気になっても平気だと思っていた。四〇年生きて、別にこの人生に期待するものなどなにもない。ひとりで生きて、ひとりで死んでやるってな。でも、そんなふうに自暴自棄になっているときに、ある人が現れた。その人は、おれに見苦しく生きろと言った。じたばたして、カッコ悪くてもいい。そのうえ生きてきた証におれの子どもを産んでやるなんていう。わけがわからないけど、おれはその人のおかげで、ガンと闘う気になった。…おれは四〇歳になったとき、もう終わりだと思った。人生の明るくて楽しい部分はもう終わっちまった。それどころか、金もないし、ガンにもなっちまう。でもな、今はこう思う。四〇歳もそう悪くないな。まだまだこれからだって。みんなも一緒に歩こう。いいか、スローガン覚えてるよな。じゃあ、いくぞ。四〇歳から始めよう!」
−渋谷国際映画劇場の映写技師オヌマは、スパイ私塾訓練生の過去を持つ男である。ある日、かつての私塾仲間が集団で事故死したとの報が入り、オヌマは暴力団とプルトニウムを巡る攻防に巻き込まれてゆく。イノウエに託された映画フィルムに隠された暗号の謎。塾長マサキの正体。血と暴力と錯乱だけが、物語を進行させる言語となる。圧倒的な展開に是非とも酔え。精神は、多極だ。存在は、儚い。真実こそ、終末だ。
この作品で阿部和重は、現代文学の臨界点を超えたんだそうだ。へー。確かに、後半の展開はなかなかのものだったけど。まあある意味、これぞノベルですよね。うん。
◇石田衣良が2月に出した『40(フォーティー)翼ふたたび』読んだ。最近イシダイラのやつTVにちょくちょく出やがる。そのためか若干作品に生彩を欠いてきた感があったりなかったりでもやっぱり面白かったり。うぬ。
−四〇歳になった。喜一はその年に会社を飛び出した。あてもなかった。妻との関係も冷え切っていた。子どももいなかった。 そんなとき、個人の新事業のために開設していたサイトとブログ「40歳から始めよう」に、思いがけず依頼主が現れた。彼らは皆、人生の折り返しを経た40歳たちだった。いまこの国で40歳が生きていくこと。あなたはそこに涙を落とす。
生きてればたぶんそれは寿命の内にやってくる。よくよく考えてみればたったあと15年ほどだ。もし生きていたらその頃の僕は何をしているのだろう。そんなこと思った。
「なんなんだろうな、四〇歳って。若い奴のようなセンスも勢いもなく、上の奴らのように権力も金もない。宙ぶらりんで、中途半端で、死にたくなければ走れと尻を叩かれるだけだ。若い女はおやじとバカにする。妻は目もくれない。くそっ、やってらんねえな」
ラストはもろイシダイラっぽかった。満場のステージの上で、末期ガンの卓巳がサプライズするんだけど、やっぱ感動します。
「おれはどんな病気になっても平気だと思っていた。四〇年生きて、別にこの人生に期待するものなどなにもない。ひとりで生きて、ひとりで死んでやるってな。でも、そんなふうに自暴自棄になっているときに、ある人が現れた。その人は、おれに見苦しく生きろと言った。じたばたして、カッコ悪くてもいい。そのうえ生きてきた証におれの子どもを産んでやるなんていう。わけがわからないけど、おれはその人のおかげで、ガンと闘う気になった。…おれは四〇歳になったとき、もう終わりだと思った。人生の明るくて楽しい部分はもう終わっちまった。それどころか、金もないし、ガンにもなっちまう。でもな、今はこう思う。四〇歳もそう悪くないな。まだまだこれからだって。みんなも一緒に歩こう。いいか、スローガン覚えてるよな。じゃあ、いくぞ。四〇歳から始めよう!」