おらんうーたん

2007年5月16日 読書
川端裕人『オランウータンに森を返す日』

大阪のあるペットショップで、密輸されたオランウータンが発見された。彼らのふるさとは、日本を遠く離れたインドネシアだった。インドネシアでは、オランウータンを保護する施設が満杯になっているという。筆者はいま起きていることを知るべく、インドネシア・カリマンタン島へ向かった。

オランウータンに森を返してやりたい。自然を破壊し、色々なものを奪っておきながら、人間としてやっぱりそうゆうことも思う。

くじら

2007年5月15日 読書
川端裕人『クジラを捕って、考えた』

商業捕鯨再開論者でも反対論者でもない筆者が、クジラが見たい一心で調査捕鯨船に乗り込んで半年間の航海に旅立ちその体験記録を残した一冊。
捕鯨にまつわる様々な問題を一つずつ生身のルポで確かめてゆく様子は素敵。
漁師にも科学者にもグリンピースにも日本にもアメリカにもヨーロッパにもそれぞれの考え方と主張があり、当然誰一人クジラの絶滅を願っている者はいない。

捕鯨に限らずそうかも。多くの問題は、様々な立場というやつが、それぞれよりよい未来を選択しようとして衝突しているということでもある。もちろん決定を下すときには選択に責任を持つんだけど、自身何かに対し明確な方向性を持ってるわけじゃないし。だから衝突を不毛だと思うのも恐いなと。 物事って、分かり切られていないから、どっかでバランスして、それなりの均衡になってんだなって。
ぶつかりもしないで、葛藤もしないで、方向性に確信を持ってるのは恐い。
真摯な受け止め方として、揺れていることだってある。
都合良く見えてるものを、疑い続けたい。
わからないから、考え続けるのだと。
ぶつかる場のようなもの、さらにそこへのクッションのようなもの、有意義なものを保障するような試みをしたいな。
そんなこと思った。
◇ロバート・B.パーカー『初秋』

−離婚した元夫が連れ去った子どもを取り戻してほしい、という依頼を受けた探偵スペンサー。あっさりと解決したかに見えた事件は、少年の閉じきった心によって新たの展開を見せる。
ハードボイルドの優しさは、少しずつ少年の心を揺り動かしていく。
君だって覚えているだろう? あの頃の季節が初秋だったことを。
◇村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』

−あの冒険から4年――。「僕」は帰ってきた。雪の降りしきる札幌の街の「いるかホテル」に。

でも結局のところ、全てはそこから始まるのだ。僕にはそれがわかっていた。そこからしか始まらないのだ。

「僕はいったいどうすればいいんだろう?」
「踊るんだよ。音楽の続く限り」

ステップを踏もう。ビートを無視して。リズムを刻め。ハイにロックにエレガントに――。
僕のために泣いてくれる多くの人たちのために。
全てを喪った僕のラストダンスは続いていた。そしていま時代は流れ飛ぶ雲のように、当然の不規則のままに、確実に過ぎ去っていこうとしている。
3部作の続編にして完結編。こんなふうに終わり始まるものがそこにあるなら、僕はそれが面白かったと思っている。
さよなら、羊男。
◇吉村昭『闇を裂く道』

−大正7(1918)年に着工された丹那トンネルは、その完成までに16年もの歳月を要した。日本最長トンネルを富士火山帯断層地帯に貫くという究極悪条件の難事業は、度重なる犠牲を払いながら敢行されたのである。
崩落。湧水。動く断層。救出劇。暴動。
人闇を裂く道に光が射す日、人々は何を思うのか。
終わりなき自然と人間の闘いを圧巻のスケールで描く記録文学。
3年目の坑道大崩壊のストーリーは圧巻の一言。4つの救出ルート。暗闇の8日間。生存者のリアル描写はすごかった。農民の暴動も読みごたえあり。

一次大戦やら満州事変やら、戦時下の状況も密接に絡みつつ、トンネル事業のその後は現代まで引き続いていて、歴史性リアル。
そんなわけで。
僕は恵まれているですよ。ハッキリと自覚がある。
僕はいま完全に思う。ワーキングプアになっちゃだめだな。
こんなに恵まれてるくせに。恵まれない人々がいくらでもいるくせに。愚かすぎる。これでワープアになっちゃ申し訳がなさすぎる。

筆者も繰り返し述べているけど、イデオロギーからくる二元論は全く意味無い。
もちろんハンディを負った人が全員ワープアになるわけじゃないだろう。だけど、ハンディが絶対的な原因でワープアになった人は圧倒的に存在してる。
環境が貧困の原因かどうかなんて、白黒でも是非でもイエスノーでもない。要因としてそれは在るのだ。あらゆる前提に先んじてだ。そもそも環境以上に単純明快な要因があるわけないんだ。
筆者は繰り返し言う。貧困の原因は、物質的なものと精神的なものとの複合であり、個人的なものと社会的なものとの複合であると。改善課題は、雇用や賃金だけでなく、個人の意志や能力から、家族、育児、教育、職業訓練、医療、住宅、福祉制度、社会運動、政治制度にいたるまで、多岐に渡っているのだと。
右とか左とか関係ない。焦点を当てれば自己責任であり、背景として社会の責任なんだね。
ただほとんどの問題は、お金で解決できるということ。予算編成の際の言い訳にはならないということ。僕たちは、誰のために何ができるかということをとっくに知っているし。だからあとは、それをどれだけできるのかということを、突きつけたいんだろうね。
僕は、この本の序文にあるように、現状へのアプローチを支持する。
弱い立場にいる人々のために本当に有効な福祉予算が計られるのならば、増税だって支持をする。

絶望は、絶望的状況を更に追い込む。
生きてゆくには、まず希望が必要なんだね。
貧しくてもも、希望や目標を持っている人は強く生きていた。心を打たれるのは、いつだって底辺で懸命に生きようとする人々の姿だった。

「読者は、本書を読み進むうちに、章の数だけの異なるドラマに出会うだろう。そして今日の豊かな社会を支えているのは、社会に不可欠なさまざまな財やサービスを、低賃金のハードワークで作り出している、ワーキング・プアの人々であることがわかるだろう」

アメリカンドリームでも、ペシミズムでも、シニシズムでもない。アルコールでもドラッグでもナショナリズムでもない。
これからの社会で不可避な絶望を、それを少しだけ上回る希望こそが、庶民にとっては必要だ。

これから日本は不安定社会に突入する。
弱い者が弱い者を叩いてもなんにもならない。
希望を持って生きてかなくちゃだめだ。

何が起きるかわからない。明日は我が身。強がりも言えなくなってくる頃にようやく考え始めること。
政府には、上っ面だけでないワーキングプア対策を心から望みます。

僕は、何を話し合うために何を話し合う必要があるのか、だんだんわかってきたかんじ。ただそれは、僕がどれくらいそこに思い入れをするかということなんだよね。肩入れというやつになるのだろうね。いまそんなバヤイじゃないということもわかっていながら僕はそンなことも思う。

THA WORKING POOR

2007年5月9日 読書
『ワーキング・プア―アメリカの下層社会』デイヴィッド K.シプラー(著), 森岡孝二(翻訳)

最近いろんな所で度々耳にするのが「格差」や「ワーキング・プア」。そうゆうタイトルの本もたくさん見かけるようになった。日本もいよいよ危険で不安定な時代に突入しようとしているらしい。
これからの日本がたどる道。おそらくその元祖。それがアメリカ。

この本では、元祖ワーキングプア大国アメリカの、その社会の実態がレポートされている。いくら必死に一生懸命働いても、生活保護ラインギリギリの生活を抜け出せない貧困層といわれるワープアは、実際こんなふうに、アメリカの後を追うように、日本でも増加してゆくんだろうなと思った。
世界一豊かな超大国は、一方で凄まじい数の貧困層を抱える国でもある。また、当然この国の労働社会は日本以上にシビアであり残酷な一面も持ち、その絶望の大きさに比べて希望があまりにも少ないように僕には思えた。

読み終えて、僕はまずタメイキ。そして、まだまだ日本は良い国なのではないかと思った。それほど酷いと思った、このアメリカの底辺ってやつは。
貧しい者が更に追い込まれるようにできてる。市場原理があまりにも優先されすぎてる。セーフティネットを行き渡らせる努力がなさすぎてる。矛盾を諦めた絶望色のPOOR。

どうしてもどうしても、「恵まれている」かどうか、にかかってくるよね。
五体満足で健康であること。両親が健在であること。兄弟姉妹がいること。持ち家があること。学校に通わせてもらえたかどうかということ。
一見当たり前で普通の環境がいかに奇跡的でかけがえがないのかということを再認識する。

運不運が公平ならば、「恵まれている」層はたとえ何か不幸なことが起きたときでもその傷が浅く、「恵まれている」ものの大きさに比例して、結局は救われうるのだ。
しかし「恵まれていない」層は、同じように何か不幸なことが起きたとき、大ダメージを受け、即座にピンチに陥ってしまう。
リストラされたとき、再就職のための学歴やスキルや資格や教養の差。
子どもができたとき、託児先や子育ての助言や支援のコミュニティーの差。
住宅環境の差。教育環境の差。
急な出費のとき、預貯金の差。
いざというとき、頼れる先の数の差。
あらゆるストレスへの精神的余裕度の差。
そして、「恵まれない」環境で経過する時間こそが、更にその差を維持し、また拡大を加速させてゆく。

豊かな国の貧困問題は多様で複雑だ。或る「恵まれない」部分が、別の「恵まれない」部分と複雑に絡みつき、潜在的な貧困を顕在化させる要因に繋がってゆく。「恵まれない」層は、恵まれている層に比べ、あまりにも不測の事態に弱く、世間の荒波に脆く、社会の底辺に沈みやすい。豊かな国の貧困問題において、配慮されにくい不幸な部分がこれだ。

少なくとも、ワーキングプアに対して何か言えるのなら、
あらゆる人に健康で教養のある両親や兄弟姉妹を、確かな不動産を、質の高い学校教育や職業訓練を、頼れる友達を、住宅やコミュニティーを、精神的余裕を、あまねく与えたまへ、なのだ。
筆者のいうように、保守にもリベラルにも扱いにくい部分がこれだと思った。

アメリカ庶民の実態に、ジャーナリストが深く細かく踏み込んだ、とてもよいルポルタージュでした。
◇石原慎太郎『太陽の季節』
東京国王石原大先生の小説。これがいわゆる太陽族?てやつなのかあ?うーん。

−太陽のようにそれを溶かすこと。肉体を解かし、既成の価値や倫理を無根拠に反逆せしめること。
若き戦後世代の生と死は、新鮮な狂気を沸騰させ、社会全体に衝撃を与えた。

当時でこのようなアンチモラルはさぞ衝撃だったかと思う。いまはもう太陽の季節は過ぎたのだとも思う。
保守とはなんなのかと思った。ただ都政はよくしてほしい。
ジャン・ボードリヤールの『消費社会の神話と構造』。読んだよん。僕の頭では難しかったしおもしろかった。
なんで読み始めたんだっけと思いながら読んでる間にボードリヤール氏はついこないだお亡くなりになった。

僕らの消費社会は、「記号」に埋め尽くされた超現代。
豊かさは管理され、自由は強制され、幸福が計量可能となり、モノの価値はその機能ではなく、「記号」となった社会だ。生産と消費のために僕たちは次々と「解放」され、幸せな呪いをオートマチックにかけられていく。価値は消費されるために生産され輝いている。価値観はまた消費されるために生産され蠢いている。この社会に息づく人は、限られたこの果てしなさを、何のために生き急いでいるのだろうか。僕たちはもはや勝ちにではなく、「価値」にこそ追われてるんだろう。
マッチポンプのようなコンプレックスがそこら中に無駄に散らばり、矯正が強制され、僕たちを支配するものは僕たち自身にされていた。

鏡の中の自分を殺せるか、とプロメシュームは言ったね。鉄郎は最後は自分の運命さえも自分の思いで裏切ってコスモドラグーンを撃った。鉄郎はメーテルとの長い旅の果てに、限りある命の美しさと、生身の自分こそが解答のない宇宙の一部であり永遠の命なのだということを知った。地球へUターンする999号の車内で、メーテルのいない静かな乗車席で物思いにふける鉄郎の姿に僕は涙し、再び闇の中に消えてゆく999号を見送った。ハッピーでもアンハッピーでもないこのエンディングに、僕はソウルを見たんだっけ。

大消費社会を意識し始めたのは、授業中にマンガばかり読んで描いてた高校の頃だったかな。
内発的な意味不明な「内なる声」のようなものに耳を傾けるようなことばかりしていたけれど、聞こえてくるのは断末魔の声のようなものばかりでそれはろくなもんじゃなかった。
「本当の自分」なんて吐き気がする。いない方がいい。真実は絶対に素敵じゃない。

人間は記号に埋め尽くされる。社会は既に記号が秩序だ。社会が既にそうだというよりも、そうすることでしかこの社会は成立していないんだね。

やる気がなければ怒られた。なんでだろと思ってた。
協調しなければ怒られた。最初から集団内にいなければ良いやと思いサボりまくってた。
無視されるのは恐かった。そのうちそれが恐くなくなった頃に友達が出来て嬉しかった。
役に立つことで存在を認められたかった。何をすることが何の役に立つのか知らぬままに、夢見てた。
「貧しい」生活は嫌だった。貧しさとは何か、豊かさとは何かも知らぬまま、脅えてた。
記号が一喜一憂させていた。いまは、かつて一喜一憂してたそうゆうものたちに興味関心が薄すぎる日々だ。あれはなんだったの?あれは誰だったの?

僕が僕のものになってきていると感じ始めた近年、このちっぽけなソウルさえいまだ神話の内なのだろうが。いまはあの頃よりも楽に、そして楽しく、人生を生きている。これで充分だなあとも思う。
僕はこうゆう本を読めて、あーだこーだ考えられるだけで充分過ぎるほど豊かだと思う。つくづく学問は向かないんだと思うけれど。
僕は僕が納得いくように、ゆっくり自分を見つめながら生きてゆきたいなとだけ思ってるんだ。
◇石田衣良『スローグッドバイ』
ダイラの恋愛小説の短編集。
短編はやっぱいいな。朝起きて一話読んで、出かける前に一話、帰宅して一話、寝る前に一話、と。読む楽しみってかんじ。

内容それほどおもしろくもなかったけど。
恋愛小説だからといって読む気しないということはないんだな。

どこにでもある特別な日の、すごく普通な素敵なことで。
むしろ人間的なソウル的なものを経て、恋が愛おしくなるのだと思うな。

将棋ソウル

2007年4月13日 読書
◇団鬼六『真剣師 小池重明』
すんげえ面白かッた。天才とはこういう生き方がもはや宿命づけられているのかと思った。紙一重の栄光と没落、輝きと退廃、狂気のような悪夢のような、どーしょーもない魅力に溢れたソウルフルソウルなものをそこに見た。

−将棋界には、プロではなくギャンブラーとしての賭け将棋で飯を食う人種が存在する。それが「真剣師」である。ときに彼らは真剣勝負でプロをも凌ぎ、闇の世界に消えていった。
その昔、アマチュア将棋界で伝説となった一人の真剣師がいた。「新宿の殺し屋」の異名を持つ小池重明である。
闇将棋界で裏プロたちと繰り広げる死闘。プロとの真剣勝負。これは、波乱と混沌と破滅に充ちた生涯を送った、将棋界最強最高の真剣師の物語だ。

SKさん最近将棋にこってますよね。今度ぜひ真剣勝負を。
定跡を知らないtakebono将棋は端攻めしかやりません。
◇吉村昭『高熱隧道』

−黒部峡谷の高熱地帯。岩盤最高温度は165℃。昭和初期、そこに隧道(トンネル)を通さんとする人間たちがいた。極限状態の人間たちと大自然の闘いを描く記録文学。
地獄の熱風。ダイナマイトの誘爆。雪崩。犠牲に次ぐ犠牲は300人を超えた。
無謀な闘いは、戦時下の国策でもあり、リスキーなビジネスでもあり、トンネル技師たちの狂気にも似た情熱でもあった。

吉村昭の、抑制のきいたというか、この文章は入り込むとドキドキする、かも。
プロジェクトXなんてもんじゃないなーこりゃ。リアル壮絶。
黒部ダムにいきたくなったよN先生。
『東京ゲストハウスLife―270軒以上の路線別物件ガイド付き!!』

先月ねこのぷうたんが天国にいったことで、かつて「猫屋敷」とまでいわれた我が家の猫たちもあとはとうとうミキティただ一匹になりました。うちの両親はどうやらミキが死んだら引っ越しを考えてるようでございます。

パラサイトでもよいけれど、これを機に家を一度出るのもいいかもねんと。
千葉のセカンドハウスにひきこもるか、いよいよ地方行きか、夢のルームシェアリング実行か、じゃなければホームレスしかないやがなー、と思っていたけれど、
角田光代の『東京ゲストハウス』を読んでから、ゲストハウスLifeというのもなかなか良いなと。そう思ってこの本読んだ。
悪くない。
ユースホステルの長期滞在型のようなかんじ。
悪魔の地価を誇る東京で、地獄の賃貸で尚生き延びたいのなら、こんな選択肢も考えられるわけだ。
ニーズのマッチがマーケットを生むンだから。
ゲストハウスはそのうちTVかなんかで取り上げられるかもしれん。またしても多様化時代というわけだ。
金無しとコミュニティー愛好家は御一考。ルームシェアよりよい面もある。あーりーうーるー。
◇金城一紀『GO』
普通におもろかた。こうゆうポップノベルもよいね。映画は観てませんがね。青春小説は元来すきなほうなのだ。

−都内の私立高校に通う「在日コリアン」で23戦無敗の僕は、ダンスパーティーで素敵な「在日ジャパニーズ」の女の子に出会い恋に落ちた。
ただでさえわかんねえ自分のことを、アイデンティティーとかいうやつが切り刻む。そんなときはきまって僕は拳を振るう。
どこへゆくのか。どこへゆけばいいのか。

「おまえらが俺のことを《在日》って呼びたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ? 名前をつけなきゃ安心できないんだろ? …名前を呼びながら近づいてきてみろよ、おまえらの頸動脈に飛びついて、噛み殺してやるからな。おまえら、俺を《在日》って呼び続けるかぎり、いつまでも噛み殺される側なんだぞ。

…俺は何者だ?俺は『在日』でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。俺は俺であることを忘れさせてくれるものを探して、どこまでもいってやるぞ

GO!takebono!

フルムーン

2007年3月14日 読書
花村萬月『あとひき萬月辞典―花村萬月ベスト・アンソロジー』
あれ?画像がない…。

萬月のエッセイ、どことなくMM氏の文体に似ていませんか?
雰囲気ちゅうか。

そもそも少しイカれた人ですね。おもろいわあ。
◇角田光代『空中庭園』
角田光代はやっぱどこかしらすきだなー。文章がすきなのかなー。げにめずらしい僕のお気に入りかも。

−郊外のダンチで暮らす京橋家のモットー「何ごともつつみかくさず」。でも、透明なドアをひとりひとりが閉ざしている。 秘密をつくらないための秘密がそれぞれにある。
「家族」とは何か?
誰もが営もうとするこのコミュニティー。
ショッピングモールに人々が集うみたいに、
消費主権として個人を確立し尚、
人はそこに人の生命の形を見る。
今この一瞬のバラバラな集合体。

短編連作の家族小説。それぞれの立場の物語。うまいな。

けっざい

2007年3月10日 読書
山崎好裕『目からウロコの経済学入門』
うわ、うわしゃー。
ようやく理解した。
無知はその100倍だってこと。

Nっちゃんに数学のテキスト借りました。

ばかだなー。
ばかだねー。
内田樹『下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』

売らんかな本見え見えの割には珍しく、まあまあすーっと読ませてくれたかな。
頷く箇所は多かったがウーンと。
自分のことを言われているようでムムム無無と。

親のみならず、もはや子ども自体が、「高給取りレース」における教育サービスにおいて「賢明な消費者」であろうとしてる。だけどその背景は結局ヒエラルキーピラミッドと市場価値商品経済バーチャル世界でしかない。「商品」の価値を適切に理解し、いち早く選択を行える環境にいる子どもだけが、自分が「教育を受ける意味」を知りうるのだ。
「不快」を代償に、我慢してるだけの子どもは、やはり現実認識が不足しているから終わっていくわけだけど。
でも、
現実に期待させることがそもそも難しい、なと思ってしまうのだがな。
そもそも「教育」は残酷な真実であり、罪ではないか。

やっぱり出来レースだと思う。一生をかけた出来レースだ。
誰が何を憂おうが、これは総体や結果としての流れなのだ。

良き労働者になるためか。良き消費者になるためか。国民全員でこの国の市場経済を守ってゆくためなんだろうか。
それでもいいんだけどさ、
僕があの頃先生に教えてほしかったことは、
この国で僕たちは幸せになれるのかどうか、ということだった気がします。

経済社会から排除される人が増えることが教育問題になるのなら、
それこそ誰が何のために何かを学ぼうとするのだろうか。
教育はとっくに自殺してたんじゃん。

自分の生活のことを、多かれ少なかれ皆考えてる。
落ちこぼれのプライドも、
ニートの気楽さも、
現実の前には、ちっぽけで。

だから僕は、在る、と思うんよ。
それらを満たし、且つ個々に普遍的な知の体系というやつが。
それは、
争いや犯罪に巻き込まれないで平和に誠実に暮らす方法。
自分で自分の生活を守る力だったと思う。

賃金を稼ぐ能力、だけじゃない。
自分の生活立場にとってベストな政策を行う政府を、適切に選ぶことのできる政治意識。
争いや犯罪を回避する、権利や法律の知識。
人生を豊かにするための、教養と健康。

学ばなければならないことと、
学びたいこと、
一致してるものは絶対ある。

その上で、
知らなくてもよかったことと、
知ってよかったことが、
どっちも未知の中にあるということも認めてあげたい。
幾らでも在る真実を、都合の良し悪しで見たり見なかったり、見させられたり見させられなかったりしてるんだから。
◇金原ひとみ『オートフィクション』
相変わらずイカれてやんの。面白くなかった。でも現代ってこれだなー。そうゆう意味では共感もする。若い人は読めばいいと思う。

−私はオートフィクション(自伝風小説)を書き始める。これは彼女が殺した過去の記録であり、過去に殺された彼女の記録でもある。きっと全ては破綻した。全ては神になった。彼女の物語がいま世界をえぐる。
◇角田光代『東京ゲスト・ハウス』。
僕は角田光代のさりげなく良い感じがすきです。僕は小さなストーリーに小さく感動する人間のようだ。

−なんとなく決行したアジア放浪旅から半年ぶりに帰った僕。変わらないはずの恋人は、別の男と暮らしていた。僕は旅先で知り合った女性の一軒家に転がり込む。そこは、行くあてのない人間たちが一時的な共同生活をおくる、旅の途中のゲスト・ハウスのような場所だった。旅の終わりを探す新しい日常が始まった。

僕は独り旅がすきでたまにふらふらと日本中をうろつくことがある。
《ここではないどこか》を見てみたくて旅に出ながら、
自分が帰るべき場所を探すためにも旅を続ける気持ち、よくわかる。
旅先が現実と地続きであることを知ってる。
旅の終わりはいつだって日常の始まりだったから。
だけどなんつうか、あれが夢だったとは思わない。
日常は、つまらない現実なんかではないからだ。
素敵な現実は存在するし何処までも続いているし、
その果てをむしろ夢見ている感じだ。
旅の終わりに思うことこそが夢だったり。

そして旅に出たい。あー旅に出たい。

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