午前中、都心部の中小企業で就活しました。これ決まりそうじゃね?とか思ったけど、就活なんか一年ぶりだからもう相場がわかんない。どれくらいの雰囲気が好印象なのか。こんなもんで採用なのか。落ちたときのことなんか考えてないし、長期的なビジョンを持ってるわけでもない。なにせクズ作家志望・社会派小説家志望なんでね、雇用社会を経験してネタとソウル感覚磨くことだけしか考えてない。有休潰しにもサービス残業にもきっちり法律内で立ち向かうことすら今の僕には必要とされるだろう。社長と話したけど、理念は上等だったし、僕だってクズなりに社会貢献してみたい。そういう意味ではこの会社でがんばって働いてみたいとは思ったんだよ。こんな有望な人材を逃す企業は見る目がないぞお。でもこんなブログ見られたら不採用だろうな。まあそれはそれでおもしろいけどー。

夜は地域ゴミュ仲間とK1観ながら飲み。ぐだぐだ。リングイネとペンネのパスタづくしに、ケンタッキーとモスチキンの鳥づくし。いや美味いなあビール。枝豆も美味い。

自分の運命に納得できる基準というものはそれぞれのものなのだろうけど、大切なのは誠実な方法で声を上げることです。当たり前のように不正をすることでも、勿論欺瞞や嘘をつくことでもなくて。誰かの幸福が誰かを不幸にすることが最小限であるように、工夫し考慮し図ってゆく努力を多くの人がしてゆくことが有意義だと思う。
そんなこんな清酒を飲んで語ってから、真夜中にSKと一服しながらあのクズ土手を歩きました。極寒。

僕らの行く先は、いつだって輝ける闇でした。こんな20代を過ごしつつ、時代そして自分を見据え僕らは歩き続けます。

鬼は僕の内

2006年2月3日
今日は節分か。鬼かあ。昔ボール紙で恐ろしい鬼の面を作ったっけ。
たちの悪いガキだった頃は、近所の神社かなんかで豆まきがあって、小銭とかまかれるのが目当てで、ドキドキしながら毎年行ったっけ。小銭をまく役のおっさんのすぐそばまで接近して、50円玉ばかりを掴み取ったっけ(まかれるのはほとんど5円玉で50円玉は少なかったの)。そんな両津みたいなことばっか思い出にあるな。

今日は、知り合いの知り合いが新しく若者中心の労働組合を立ち上げるイベントがあって、少し彼らの集まりを訪ねてみた。いま載せてる雇用社会論にとっても自分自身にとっても結構勉強になった。寂れたとはいえこれが闘いの現場ってやつか。企業側には社労士も弁護士もいるからな。一労働者にとっては団体交渉って本当に大事なんだ。とりわけ労働者の中でも弱い立場にいるのが若者だ。無知故に使い捨てられちゃってる。
僕は就職する前に、雇用や労働の法律を学ぶつもりです。自分自身や、大切な人たちを守るためにだ。 ・有給休暇はとれる。・サービス残業は払わすことが出来る。・社会保険は条件を満たせばちゃんと入れる。・解雇はちゃんと前もって決められたもの以外は無効になる。・就業規則は明確な文書で見ることが出来る。・バイトもパートも条件を満たせば正社員と同じ権利を持てる。 …これらは全部法律に定められた当たり前の権利です。違法がまかり通り過ぎているんだ。だから労使交渉の勝率は90%です。職場や仕事で、自分ではどうしようもなく限界に追いつめられたときは、辞める前にtakebonoさんに声かけてください。絶望することなどないし、泣き寝入りすることもない。違法ならば、勝てるから。死ぬまでいいなりになっちゃだめだし、破壊されるまで黙っててもだめだ。違法ならば、勝てるからね。そいつを忘れるな。takebonoさんは優しい人の味方だよ。

そのあと少しみんなで飲みにいったけど、あのノリだめだなあ。ついてけなくて。組合っつってもさ、僕がクズ的な人種ってのは変わらないな。いい人たちばっかだけど。どこか、なんか…。 財政難だっつっから一度は断ったけど本を買ってあげたのに、あのハイテンションのねーちゃんを初め、無駄に居酒屋で消費しまくるんだもんな。なんつーかなあ、ホントに困窮して?るの?あの記事にあるように? この場合消費文化が悪いのか? いや、僕が悪いなんだろうけどこんな考えは。 でももう二度と外では飲まないぞ。イラついてたわけじゃないけど先に帰りました。 明日朝早いぞがんばるか。
「厚生労働省が1日発表した毎月勤労統計調査(速報値)によると、2005年の労働者の平均月給総額は前年比0・6%増の33万4886円で、5年ぶりの増加となった。このうちボーナスなどの月平均は、同2・1%増の6万2077円で8年ぶりの増加。景気回復が賃金に反映したと見られる。常用雇用者は4309万4000人で同0・5%増と2年連続の増加。このうち正社員など一般労働者は同0・5%増と8年ぶりに増加し、景気回復を背景に企業が積極的に正社員雇用を進めていることを裏付けた。パートタイム労働者は0・6%増で、調査が始まった1990年以来増加が続いている。産業別では、製造業が0・4%増と13年ぶりのプラスとなった。労働者1人当たりの年間総実労働時間数は1804時間で、前年比12時間減。出勤日数も234日で前年より2日減った」(読売新聞)

確かに氷河期の風は2007年を前後して劇的に止んでいるように見える。だからっつうわけじゃないけど最近少しだけ就活をしてる。決まれば正社員だ。決まらなければフリーター。どっちにしろ労働者として社会に出たい。去年の今頃も就活やってたけど、あのときとはまた全然意識が違う。たぶんみんなたちとも少し違う。でもそんなこと関係ない。僕が決めることだ。今の僕はフリーターよりも少し管理的な搾取構造に組み込まれてみたいんだ。あー残業してぇ。

では引き続き非正社員社会論。
この手の話で一番度々論じられるのが、日経連(現・日本経済団体連合会)が95年に出した御存知『新時代の「日本的経営」』というやつだ。日経連は将来の日本の雇用形態を3つに分類定義したのだけど、実際これからの企業社会はこのシナリオ通りに進むとされている。↓

?長期蓄積活用型グループ…現在の正社員の範疇。つまり一応は終身雇用。対象は管理職、総合職、技能部門の基幹職。賃金は月給か年俸制。 つまりヘッドや中心歯車だけは終身雇用で囲っときたい思惑。
?高度専門能力活用型グループ…新規プロジェクトごとに集められる専門家。プロジェクトごとの有期雇用契約。プロジェクト終われば解散。対象は企画、営業、研究開発などの専門家集団。賃金は年俸制。 つまりスキルがある人は期間を区切って囲いたい思惑。プロ野球選手と同じ。
?雇用柔軟型グループ…有期雇用契約。対象は一般職などの補助労働力。賃金は時給。 簡単に取り替えがきく使い捨て人材。ほとんどの労働者はここ。

一部の?或いは?とその他大勢の?で構成されるのが、経済界による将来の日本の雇用体系構想だ。このシナリオ通りにいけば、正社員はいずれ高嶺の花になるかもしれないって。ホントかな? 『労働力調査』(総務省2004)は、正規労働者3410万人に対し、非正規労働者を1564万人としている。つまり全体の3割以上が非正規社員であり、これが90年代当時と比較して増加しているのである。
非正社員比率が上がるほど利益率も高くなることはもう証明されてるそうだ。でも非正社員比率の上昇は「研究開発力」「組織運営力」「人的資源の質」「会社愛」など、「企業組織力」を低下させるという懸念もある。目先の利益を優先させて長期的な視野じゃないから仕方ないね。目先優先経営者が増えれば非正社員比率上昇も拍車がかかり、やはりどんどん増えてゆくよね。使い捨て労働力だ。利益は上がり、不安定化は進む。

金子勝によると、90〜01年にかけて若者フリーター率が0.98ポイントずつ増加してるからって、2050年には若者の7割がフリーターになるそうだ。女性の非正社員比率は2047年に100%になり、女性の正社員はいなくなるのだと。相変わらずの金子論ブラックユーモアだが、あながち笑えない。「自分の都合」だったはずの非正規労働はいつの間にか「会社の都合」になり現実味を帯びるほど増殖しているからだ。もはや不安定就業は、「今時の若者はぁ〜」などという月並みな労働意欲・姿勢の問題ではなくなりつつある。
経済学者の玄田有史は言う。「私は、社会の深刻化の原因を意識や意欲の低下のせいと、単純に結論してはいけないことを経済学から学んだ。(ニートなど)社会的に望ましくない事態が生じたとき、それを特定個人の悪しき意識の変化として解釈することには慎重でなければならないと経済学は教える。意識の変化という現実がそこにあったとしても、責めるべきは個人ではない。変化を生み出してきた、社会もしくは経済のシステムそのものなのだ」

世論が「不安定就業(とりわけ「フリーター」等)は問題だ」とか意識する一方で、経済界はちゃんと『新時代の「日本的経営」』でそれらを問題視するどころか喜んで肯定している。この国で一番社会問題に近く在るべき政治家どもは「正社員になればいい」などと全く無責任なことをほざいている。トチ狂いの総理大臣は格差拡大社会を遂に肯定する発言をした。不安定社会が来るとわかっていて、止められないのか。takebonoさんにもウルトラマンにも止められないんだな。おかしくない?おかしくないの?政治とそして選挙の責任を少しは問うべきじゃないの?
問題じゃなければ放置しておけばよいだろう。だが僕は問題と捉えている。だから放置できない。氷河期の風がいずれまた違う形で吹き、問題は再浮上するんじゃないか?だから、現状に対し対策を打ってほしいと考える。ニートなんて愚かな犠牲者だ。今のところ大人社会は特に何も手は打っていない。
だがまだ絶望視はしない。僕は闘う。平和主義者だけど、故に闘う。破壊されてたまるかって。
〔続く〕

くずのみのみ

2006年2月1日
A家で大人数でくず飲み。
楽しかったあ。すんごい楽しかったな。
すきな友達みんなたちで家の中でだらだら酒が飲めるというのは。
すごくすごく素敵で楽しくて。
笑えるし。ネタの宝庫だし。クズ共すき。
涙が出そ。うれしくて。楽しくて。

募る思いとか。僕の夢的なものとか。
クズゴミュニティーは逆に、そう逆に、いつだってそいつをあらゆる限り許してくれる。僕を生かしてくれる。不毛な足掻きを。故に自分、動いてる。こうゆう可能性ってまた違くて、何も得る必要なんか無くて、大体クズゴミュだしね、でも満ち溢れてる。こんなん素敵。良い酔いです。

僕は空間と時代の隙間に夢を見る。
未知で、だけど現実の具体的な先に存在すると思っている。夢ってのはこうやって見るものだと。避けて逃げて後に回して結果残るカスのようなもんじゃなく、見据えてチャージしてアプローチしてその後でまだ朧気くらいじゃないのかな。蜃気楼。可視的なものを形成してゆくというより、未知なるものに敬意を表してそれ創り上げてくことだ。ソウルフルなやつがどんな形で生まれてくるか。本来ビギナーには耐えられない程それは不安定なものではないのか。決して愚かでないわけがないし。波動エンジンを動かすこと。逃げ場すらも失いかけつつ、僕はマイソウルを開放することによって。その前の前段階で、僕の衝動とソウルが何に敗れ去るかなんて想像がついてない。
いつか滅ぶことができるなら、僕は成長してるような気がする。
イタガキさんの不自然主義のようにね。
就職活動を終えたらまたふらっと旅行するか。

卒業してもずっと飲み友達だよ。クズゴミュすきだよ。
景気が回復してきているという。2007年問題を控え、企業の求人数も上昇している。こんな僕だって望めば正社員になれるってことを最近は自分自身若干真剣に考え始めた。氷河期の風が劇的に止むこのときが機会なのかもしれない。だがしかし非正社員化は止まっていない。まさに相互作用として。

「正社員になればいい」と、2005年3月の参院予算委員会で、ある野党議員による非正社員問題についての言及に対し、ある与党の二世議員がそんな野次を飛ばした。彼らの中ではまだ「フリーター亡国論」すらも根強い。この国の為政者たちの意識はやはりその程度だ。いつも思うのは、誰がこの問題を問題として問題視するかだ。その辺の酔ったおっさんの意見ならともかく、国会議員が社会問題をそんな風に扱うのは軽率で乱暴すぎやしないかって。全員が正社員になって済む問題ではないし、そもそも正社員になれないのが問題でもあるのだから。

ある自治体の調査によると、90年代半ばには6割近い企業が「簡単な仕事だから」という理由をトップにパート労働者を雇っていた。人手不足の90年代半ばにおいては、パートは「簡単な仕事をする人」のイメージであり、あくまで臨時要員だったのである。しかし2000年に入ってからの同じ問いかけにおいて、6割近い企業の支持を集めたのは「賃金コストが安くて済むから」だったのである。

正社員は、会社の都合により生活を左右され人生を左右される。そんなことがない代わりに、非正社員はあらゆる処遇面で正社員よりも低い水準におかれる。だがかつての非正社員は、「自分の都合に合わせて働ける」という個々の希望する労働形態に適した面を含むものでもあった。そこから――或いは富める日本経済とその恩恵を受けた親世代の経済的余裕から――ある種のモラトリアム(人生決定を先延ばしにする)による「フリーター」が生まれることになる。右肩上がりの高度成長期を生きてきた親世代は、そんな若者たちが同居することを大目に見ることのできる余裕と体力があって、「家付き食事付き洗濯付き」という居心地の良さが、若者の晩婚化と親への依存性を加速させたといわれている。社会学者の山田昌弘は、そんな若者たちを「パラサイト・シングル」という言葉で括ったりした。(『パラサイト・シングルの時代』山田昌弘)
だが近年になると状況は変わる。「自分の都合で働ける」ことが、非正社員が非正規労働に従事する上での拠り所だったのに、最近は「会社の都合」がそれを凌駕し始めたのである。
「欧米では非正規労働は臨時的な仕事という位置づけだが、日本では不況乗り切り策の切り札として重宝がられてきた。正社員に比べれば、人件費が圧倒的に安いのである」(p6)

男性正社員の時間あたりの賃金(ボーナス含)を100とすると、パート労働者は39.1になる。90年当時は100:45.9だったので、ここ10数年でかなり格差は拡大していることになる。 女性の場合、正社員100に対し、パート労働者は53.2。正社員では男女間の賃金格差は大きいのだが、パートになると縮小する。パート労働はどちらかといえば男女均等に近いともいえる。その理由の一つは、パート労働が元来、家計補助的な女性中心の労働だったことに起因する。パート労働者1200万人中、その7割が女性である。現在はリストラやリタイヤなどで男性もパート市場に参入しているが、女性中心型市場故に、男性でも女性仕様の低賃金体系に組み込まれる。企業にとっては嬉しくて仕方がない。

『2003年版・労働経済白書』(厚生労働省)によると、パート・アルバイトは年収150万円未満に8割が属し、派遣社員は年収200万未満が半数(契約社員と嘱託は4割)に達している。 非正規労働の全体的な低賃金は、企業が人件費コストを抑えるのに加え、主婦労働者が多いパート労働者は「社会保険料や所得税を負担したくない」「夫の扶養控除範囲内で働きたい」等の理由で一定の収入範囲内にとどまるいわゆる「就業調整」をしていることが少なくないから、低賃金が固定されているという要因もある。主婦やパラサイトはそれでもいいんだろうけど、自立したい人にとっては低賃金体系は足枷になる。興味深いところだ。労使協調が結局泥沼になってやがる。

一つの大前提として言えるのは、90年代半ば以降に急テンポで進行した企業による「非正社員化」の狙いが、人件費の圧縮にあったことである。不況だったからね。では景気が回復してきたら正社員は増えるのだろうか。部分的にはそうなるかもしれないが全体傾向としてはあまり期待できないと筆者はいう。不況脱出で苦しむ中で企業は、総人件費がいかに経営を圧迫しているか、その削減こそが不況の克服であり、人件費の安い東アジアとの市場競争に勝利してゆく最短ルートであることを、恐るべきことに強く自覚してしまったからである。
〔続く〕
やっぱり小説です。文字バーチャル好き。

芥川氏の晩年作を読む。どれもこれもすごい。
『玄鶴山房』の暗澹たる世界。
『或る阿呆の一生』は氏の遺書そのもの。
『河童』は、単なるユートピア小説でも社会風刺でもないようなどこかイカれた奇妙な河童社会のお話。
『蜃気楼』はタイトル通り、何気ない恐怖のような物語。
『歯車』は、とりわけ死を待つ人間の日々の心を描く作品。ダークソウルに迸ってる。
「…主人公の精神的闘争は一々僕には痛切だった。僕はこの主人公に比べると、どのくらい僕の阿呆だったかを感じ、いつか涙を流していた。同時にまた涙は僕の気持ちにいつか平和を与えていた。…僕の右目はもう一度半透明の歯車を感じだした。歯車はやはりまわりながら、次第に数を殖やして行った。…僕はもうこの先を書き続ける力を持っていない。…誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」

今回の石田衣良は、『赤・黒(ルージュ・ノワール)−池袋ウエストゲートパーク外伝』を読みました。『カイジ』みたいなギャンブルの話。石田衣良さんはいつも素敵に素敵にラストへ盛り上げてく。読みやすさってこれだな。

今回の村上春樹は、『中国行きのスロウ・ボート』を読んだ。一番最初の短編集ですね。雰囲気あるね。中でも『カンガルー通信』はすごく素敵。『シドニーのグリーン・ストリート』も素敵。

そして前回に引き続き三崎亜記氏で、読んだのは短編集の『バスジャック』。まあまあだな。イカれ方が中途半端でつまんないような気がしないでもない。まあまあ。でも『送る夏』はよかった。

いまtakebonoさんも小説を書いています。クズみたいな出来でもいいので卒業までに一作品は新人文学賞に応募しようかなと。「新人文学賞ガイド」借りてきた。なんか、賞はやたら種類があって、自分の作品がどういう傾向にあってどういう賞なら評価されそうかとか、そういうのを見定める力も問われているのだと。応募する賞を慎重に選ばないといけないね。
――拝啓takebono様

――――
お元気ですか? ご無沙汰しております。しばらく寒い日が続いておりますけど、お風邪などおひきになられてはいませんか? 私の方はその後なんとか体調もすこぶる良く日々を過ごしております。
最近日本経済もやっと景気が回復してきているようですね。「痛み」と引き替えに、やっとの思いで…。
そこでこの度、実は私…「痛み」とは何ぞや?というどうしようもない愚問を思いつきまして、それで今回思い立った次第なのです。例の奴です。ええ…その通りです、全く憐れな奴です。 政治家や強者は、大衆が理解しうることは口にしてくれませんのでしょうけど…、公共部門や族議員の既得権剥奪や、金融や教育や経済の規制緩和…。…私にはさっぱりわかりませんけれど…? じゃあ、私たち庶民が食らっちゃう具体的な「痛み」って実のところ何なのでしょう? 医療費負担…?消費税増税…? でも…本当にそれだけのことなのかしら?
ときに就職活動の件、考えてみてくださいましたでしょうか? 就職とは「雇用」とか「労働」とかと同じことなわけでしょう? 過剰と浪費。需給。例えば或る破壊が…なんだか私…それが根本というか…ときに大変なもののように聞こえてしまって…にっちもさっちもいかなくなっちゃったみたいなんです。…「雇用破壊」何某?
就職する前にどうか御一考してみてくださいませんでしょうか? この社会に何が起きているのか。親愛なる貴方様の御返事をお待ちしております…。
◇◇◇ 敬具

――――

…えっと、僕は雇用問題に少し関心があります。雇用とは労働であり、生産活動であり、人々の生活設計やアイデンティティーでもあるからです。何はともあれ働くことで日々の生活は秩序立ってるからです。でも就活はしてません。えへへへへ。
今回は、鹿島敦の『雇用破壊』を読みました。

いまこの国では、実に雇用者の3人に1人が非正社員です。非正社員とは、パート、アルバイト、派遣社員、請負社員、契約社員、嘱託その他などで有期で働く人のことをいいます。2004年に「改正労働者派遣法」が施行され、ほとんどの職種で派遣社員を使えるようになり、今や労働者は必要な時に必要な所へ必要なだけ送り込めばよいという時代が到来しつつあります。いま様々な立場の人たちが同じ会社で働いており、その中でも正社員と非正社員の処遇面の格差は益々拡大しているといわれています。
非正社員問題は、これまでにも労組や様々な研究機関が関心を寄せてきたけど、総合的な社会問題として扱うメディアや機関は現れてこなかったそうです。あらゆる社会問題に関係してくる実に大きな問題なのにね。

なぜ非正社員が増えているのか?それはバブル以降の低成長期において、企業が「人材」を「コスト」と強く考えるようになったからです。人件費削減の切り札―安価な労働力―としての非正社員を増やせば、健康保険や厚生年金など企業負担金がゴソッと減るからです。一定条件で非正社員もそれらの保険には入れるのだけど、経営者の一部はいろんな方策を用いて彼らをその枠外で雇用しようとするのです。
非正規社員の大量出現雇用は確かに企業の業績回復へ寄与しました。景気にも、失業率の回復にも一応は貢献しました。だけどその一方で、雇用社会における非正社員化は様々な問題を生みました。そいつは僕らの社会にとって本当に最悪のツケとして、近い将来において、恐ろしく様々な形をもって顕在化するのではないでしょうか。 雇用とは社会の基盤故に、雇用の不安定化は社会の不安定化になってゆくと思われるからです。凶行腐敗絶望、わけのわからん社会になってゆくかもしれない。わけがわかる、とまでは言わなくとも、或る要因はハッキリしてるような気もするのです。だって確実に破壊されてるものがあるから。

僕は、人が人のために人を破壊するような社会を絶対につくりたくないのです。いろんな視点があるけれども、まず身近な問題を社会問題として他人事で片付けたくないと考えるなら、僕はやっぱこうゆう所から関心を持つみたいです。 自分にも関係してくることなので、若年層に焦点をあてた雇用問題の本も少し読んでます。とりあえずは触れません。
では、内容の紹介だけでとりとめなくなりますが、「雇用破壊」について。
〔続く〕
こんな余田話も最終回です。
どうですその後の「数字苦手」の具合は?「数字」が苦手という人がいても、会計と「数字に弱い」ことは関係ないと筆者は言います。会計はセンスなのだと。そういや数学得意な奴が頭良かったわけじゃないもんなあ。

☆「【50人に1人が無料!】―いま○○をお買いあげ頂くと、なんと50人に1人の割合で、購入額の全額がキャッシュバックされるという驚きのキャンペーン!!!」☆

例えば↑のようなキャンペーン広告をみて、「タダかぁすっげえ」「当ったるっかなぁ」とか言ってる人は数字のセンスがないんだってさ。えぇそれはなんで?? それでは最後の“謎を解け”

まず「無料」にとらわれてはいけない。そしてどんな広告にも「広告主」がいるということに気付くかどうかである。広告主からすれば、【50人に1人が無料】は「100人に2人無料」=2%無料=「2%の割引」である。そう、【50人に1人が無料】の正体は、たかが【2%割引】と同じことだったのだ。このデフレ下で、消費税だって7%に上がるかってのに、大体「10〜30%割引」くらいならどこの店でもやってることで、【2%割引】なんてホントはアピールにもなりゃしないチンケなもんのはずです。でも【50人に1人が無料】に表現を変えただけで全然違うものになるね確かに。だから広告を見た瞬間に「数字のトリック」に気付くことが「センス」なのであると。なるほどさ。
「…言葉や表現のインパクトに惑わされずに、物事をキチンと数字で考えることができるかどうか、それが数字のセンスだ」(p188)

だから、会計は数学が強いこととは違うといわれるのです。方程式や微分積分なんかできなくても、「加減乗除(+−×÷)」を電卓で使いこなせればいいのだと。筆者の山田さんは文系出身で人気小説家でもあるのです。やはりセンスなんだね。
先ほどのキャンペーンの立案者―センスもない大衆をいかに効率よくひっかけるかということに日々頭を使っている人たち―は抜群のセンスだよって。

分析の基本とは、割り算で「1単位あたりの力」を出し、過去と比較し「力の流れ」を見ること。対象となる数字のチョイスが大事である。
つまり「ある特定の数字を定期的におさえること」だと。
まずはスーパーのチラシをチェックして買い物することから始めましょう。今日は何がいつもより安いかな?必要な分だけ買ってもちゃんとお得になってるかな?

1つしか正答がない数学と違い、会計学にはいくつもの正答が存在する。やはりどの数字をおさえるかなのだ。あらゆる数字の背後に存在する「意味」を把握できるかにかかっている。センスを磨けるかどうかなのだ。
「どうすれば物事を的確にとらえることができるようになるのか?ということにチャレンジし続けているのが会計という学問なのです」(p206)

会計への興味と同時に、ベストセラーの条件が見えてきたかなあ。
僕の感想としてはただ一言。ではそれをアカギ風に最後の言葉として贈って↓、こんな余田話いいかげんにオシマイ。

「『数字』を恐れるな…、繰り返す…『数字』を恐れるな…」

{END}
筆者のある友人は、大勢での飲み会のとき必ずワリカン役を買って出るそうだ。10人で飲んで5万円だったとき、とりあえず5万を払い、後で一人頭5千円ずつ回収するという結構面倒な役。なんでそんなのいつも引き受けるのよその人?謎だわ。 ならば“謎を解け”

解答としてはイマイチだと思ったんだけど、実は彼はお勘定5万円をカードで支払っていたのでした。「キャッシュ・フロー」をよくするためにです。会計におけるキャッシュ・フローとは、単純な現金の出し入れのこと。クレジットカードの引き落としは使用の翌々月だったりするので、カード負債は5万だけど財布には9人×5千円=4万5千円がポンと入ることになる。それがキャッシュ・フロー。そうやって毎回の飲み会をカード負債と回収分で相殺してけば、理論上ずっと無利子で借り続けることが出来るということ。
カード払いって無利子なんだね。厳密には利子はあるそうだけど、店側がその分「手数料」で払ってるんだって。「カード利用不可」だと安心して飲み食い遊べないから、店側は「手数料を払ってでもカード利用可にしたい」思惑があるからだと。 逆に百貨店などではカード会社との間に手数料が発生しないんだって。百貨店でカードが使えなきゃカード自体のブランドが失墜するから、カード会社はコスト割れでも百貨店と契約を結ぶんだとさ。

しかし考えてみてほしい。キャッシュ・フローは派手でも、カード負債は確かに存在してるということ。これはいろんな場面の会計で言えることです。『ナニワ金融道』でもあったけど、破産する奴はこれが見えてないのです。
「キャッシュ・フローは現金しか考慮に入れてないが、利益は目に見えない負債なども考慮に入れた数字なのである。お金があることと儲かっていることとは別次元のお話というわけだ」(p170)

だからウン億の金を動かしてる企業も、キャッシュ・フローと負債混じってるわけだから、利益はたかがしれてたり赤字だったりするわけです。だから資金繰りが大事なのだよね。

個人の会計の場合で重要なのは「フリー・キャッシュ・フロー」と呼ばれる、自由に使えるお金のことです。一般的には、収入からローンと生活費を抜き、保険と貯蓄を抜いた額がそれ。実際豊かさの指標になりうるのはこれ。把握し認識することから始めれば、多少大ざっぱでも良いのだと。僕は低消費ライフだから、ほとんど計算いらないね。
会計のセンスはまずこんな風に家計のポイントをつかむことから始まるといえるでしょう。

この退屈な大衆庶民教養シリーズも次回で終わり。みなさん、節約会計生活をしましょうね。
「あ、それポン!」…「チー!」…「ロン!」「えっ?」(ざわっ…ざわっ…)
南4局オーラスでマンガン逆転が可能だったのに、2位の男が喰いタンヤオのみであがり、誰も順位は変わらなかった。麻雀は1位を取ってなんぼのゲームだってのに、なぜこの男は安手であがり2着に甘んじたのか? うーん…さあ“謎を解け”

雀荘に行く人なら簡単にわかるね。そう、実は2位の男は雀荘の店員だったのだ。そう、店員は店の「回転率(1日でどれだけの客をさばけるかという割合)」を高めたかっただけなのだ。店側からすれば1ゲームの場所代で商売してるわけだから、勝ち負けはどうでもよく、早くゲームを消化させゲーム数を増やしたいのである。2位の男の一見不可思議なタンヤオ1000点あがりの真実は、店の「回転率」をあげる所にあったのでした。 なーんだ。

「回転率」を重視する商売の典型といえば回転寿司、牛丼屋、立ち食いそば屋や立ち飲み屋。客が入れ替わり立ち替わり入っては出ていく「薄利多売」で利益を出している。店の構造自体も「ゆっくりできない」ように出来ているはずだ。
飲食店だけじゃない。映画館が上映時間の長い映画を好まないのも「回転率」の重視からだ。超人気映画でも1回3時間半もあれば1日に3回くらいしか流せない。300人定員満席でも300(人)×3(回)=1日900人しか集客できない。ならばそこそこ人気の2時間映画を1日5回流して、3分の2の200人しか入らなくても200(人)×5(回)=1日1000人である。 例えばタランティーノの『キル・ビル』はもともと4時間以上の1本の作品だったのだが、長すぎて上映できないので『1』『2』に分けて、まるでシリーズ物のごとく別の時期に上映したそうな。ちなみにあの映画僕は両方観た。刀を振り回すユマ・サーマンも、白目をむく栗山千明も、カタコトのルーシー・リューも、結局血にまみれてるので気持ち悪くなっただけの映画。

「売り上げ=単価×数」という永久不変の法則によって、単価を上げられないなら「回転率」を上げるしかない。もちろん単価が低いほど客は集まるので、回転率を上げるために単価をまず下げるという手もある。牛丼屋チェーンやファーストフードの値引き戦争はここに原因がある。まず集客力か、それとも値段なのか、難しいところだ。 「安い」だけでの集客力は、結局地獄の低価格競争を後押しするだけで真のリピーターは生まれにくい。いくら安くても美味しくなければ段々飽きられ、いずれは回転率も落ちてゆく。ハンバーガーチェーンの値下げ競争が急に終結し、素材や斬新さを競い合う高価格競争にシフトしていったのはそんな背景がある。

だから企業は真の「リピーター」を作ることに躍起だ。大リーグやサッカーJリーグなどは地域密着型ファンサービスであるといわれているが、地元意識を最大限に刺激した「ファンとチームとの一体感」は、何度も球場に足を運んでもらうための試行錯誤でもある。見ろ!客席はリピーターで溢れているじゃないか! 日本のプロ野球は長らくTVと巨人が支配してきたから、なかなかリピーターを生み出す形にならなかったのかも。新球団楽天は三木谷氏がヴィッセル神戸も兼ねてるから、これから「リピーター増やし」にいろんなことをやっていくと思われるよ。
テーマパーク業界でひとり勝ちのディズニーランドも、リピーターがやたら多いから強いのだね。1日で回りきれないアトラクションや訪れるたびに変わるイベント等、客を何度も楽しませる力があるからだといわれてる。
酒やタバコのブランドイメージもそうだね。いろんなお店のポイントカードとか特典とかもリピーター策ですね。いかに何度も消費させるかってのは、やはり商売の命題。

何度も何度もお金を使わせる。欲望を創造し肥大化させ拡大させる。それを万人にも拡大してく。すごい市場ってすごい。資本主義的なものってすごい。擦り切れるまで「チャンスゲイン」をうかがって、燃え尽きるまで「回転率」上げまくって、人はどこまでゆくんだろか。
そんな高速度高密度市場競争社会には、僕は嫌気なんか初めからある。だけど僕は「スロー」なんて上品な対抗物よりも、「だらだら」「まったり」がすきだよ。
とあるスーパーでの弁当フェアにて、社員のA氏は限定100個の新商品「秋の味覚ざんまい弁当」をお昼過ぎには完売させるという大成功を収めた。だがその後で社長に酷く怒鳴られたのだった。売り上げに貢献したのに怒られたのはなぜ? “謎を解け”

それはA氏が「チャンスロス(機会損失)」をしたから。商売の基本とは「チャンスゲイン(売り上げ機会の獲得)」―消費者が「欲しい」と思った瞬間に商品を提供できること(気まぐれな欲望が生まれた瞬間逃さず金を使わせることだよ!他店或いは他の欲望に奪われる前に!)―にある。100個仕入れた弁当は確かに100個全て売れたが、お昼過ぎに完売するくらいならば、150個仕入れとけば150個売れたじゃねえかよ、ってこと。つまりその場合A氏の完売は「50個の売り上げ機会」を失ったということなのである。ここが難しいところなのだ。「在庫」の売れ残りは恐いが、しかし早過ぎる完売による「品切れ」も同時に経営者にとっては恐いのである。社長はA氏のチャンスロスに対し、その店の幹部候補への期待も込めて商売のプロとして怒ったのだった。

チャンスロスって考えさせられる。三大欲求や消費の面だけじゃなくてさ、例えば何かを頑張ろうとか思い立ったときとかは、それ自体が既に「機会」だということ。自分の中に生まれた奇跡だということ。それを僕は「ソウル」や「衝動」とときに呼んだりするけども。そうだ。だからね。逃がしちゃいけないんだよ。 一瞬にでも生まれた目標には、向かわないと。好きになった人には、優しくしてあげないと。ソウルを感じたことは、極めないと。この世に生まれたのなら、生きなければ。出会えそうならば、出会わなければ。大切なら、愛そう。直球が来るのなら、フルスイングしちまおう。立ち上がれたのなら、歩いてみよう。キレてるんなら、殴りつけてやれ。一つでも楽しいことあったら、どうか死なないでくださいよ。 それ全部奇跡が与えた機会なんだもんさ。
もしかしたらもう少し出来たかもしれないとか。あと少し出来たかもしれないとか。チャンスロスへの後悔が背中を押したりするんだよ。自分を生きる機会を失い続けちゃだめだって、誰かに言われるような気がするんだよ。
いま生きてることって、僕が思うより遙かにすごすぎることなんだろうよ。
弁当を売り尽くすことよりも、同じ論理で、「生き尽くす」ことなんだろうよ。
本当はまだ死んじゃだめだ。誰も死んじゃだめ。充分生き尽くしていないでしょ。奇跡に対して礼を逸さないこと。何も正しくなくていい。ただ礼儀だけ込めて、僕らは僕らのやり方で、濃密なソウルに溢れながら生命を使い果たしてやろうよ。
筆者が知っているある自然食品店は、お客もほとんど見当たらないのにたくさんの商品群が通路や階段にまで山積みされているという謎の店。膨大な「在庫」を抱えてるくせに、やっぱりいつまでも潰れないで開店を続けている。なぜ潰れないの? “謎を解け”

まずは「在庫」の話から。一方で売り物であるはずの在庫は、会計では「罪庫」とも言われるほどやっかいな存在。それは、「棚卸減耗損(在庫を長い間抱えることにより生じるリスク)」「在庫管理にかかる人件費」「場所の問題」等々により、維持費とでもいうべき「在庫コスト」が生じるからだ。
商売するなら「売り切れ」と「在庫ナシ」状態をつくってはいけないのだけど、「多くてはダメだが無いと困る」のが在庫であり、その量の微妙な調整が重要なんだとさ。だからITで在庫調整したり、店頭ディスプレイの配置でうまいことやったりするんだそうです。

不良在庫が増えると、卸業者など生産者や仕入れ先への代金を払えなくなって、銀行とかの資金繰りがショートして倒産するわけです。銀行からの資金繰りは結局借金なので利息払い等を考えると必要以上は借りない方が良いのは当たり前だし、資金は投資に回した方が良い(と株主も圧力をかける)から、企業の財務課はギリギリのラインで資金を持っておき、ショートしないように資金繰りをするのです。支払期限を引き延ばすための「手形」はそんなときに役立ちます。または「掛取引」において代金回収を早めるのも策の一つです。小売業は「現金商売」であって、売り上げと代金の同時獲得ができるから、資金ショートのリスクが少ない業種です。そごうやダイエーが潰れたときすぐ買収の手が上がったのはそのためなんだって。

〈新年度から一人暮らしする人へ〉…家賃は3ヶ月まとめて一気に支払った方が良いそうだよ。たったそれだけで大家さんの「代金回収の不安・面倒(総じてリスク)」が無くなるから。大家と仲良くしといて損はないはず。どんな経営者も資金繰りの不安を抱えてるのだな。

だいぶ脱線したけどそれでは最初に戻って、膨大な在庫を抱える自然食品店の謎解き。この店は「在庫コスト」がかかりすぎて資金ショートしないのか?客もいないのになぜ潰れないのか?
答えは簡単でした。謎の自然食品店の正体は、ネット宅配がメインの店だったのです。店舗は在庫置き場をせっかくだからとお店にしただけのものだった。だからたくさんの商品が積まれてるのにお客がいなかったわけです。人件費や場所代も、倉庫運営より効率的だったそうです。

「在庫」の恐さがわかった所で、各企業の「在庫減らし」努力を紹介。 まず「バーゲンセール」。バーゲンに衣料品が多いのは、ファッションは「流行」が変わりやすくて常に「時代遅れ」による不良在庫化のリスクがあるから。虫食いとかもあるし、衣料品は総じて在庫コストがかかるそうです。「在庫一掃セール」は、商品の新しい店への移動コストを少しでも減らすため。以下その他。
・福袋
・「店長(シェフ)のオススメ」
・新装開店セール(在庫一掃セールの残り)

以前うちの兄が働いてたスーパーの話。マグロのサクってあるよね。かたまりで売ってるやつ。実は品物としてはあれが一番新鮮で、あれが古くなったらバラして「刺身○点盛り」とかに利用して、さらに古くなったら磨り潰して「ネギトロ」や「つみれ」に利用するんだって。あとお総菜にも利用する。(サク→刺身→ミンチかお総菜の具)の順に古くなってるんだと。サクが一番新鮮なのです。マグロはサク買いして、調理したり刺身にしたりするのが一番新鮮なの食べれるってことね。 しかしこれ軽い偽装工作じゃんと思ったのは僕だけか?これが発展するとラベルごと貼り替えたりするんじゃねえの。

「在庫減らし」は各企業が死にものぐるいで頑張ってるハードワーク。商品の販売状況のオンライン管理に始まって、その最近の究極の形が「受注生産」。売れない物は最初から作らず、受注して初めて作るってやつ。もはや時代は大量生産大量消費モデルも超える生産市場の形が出現するに至ってる。

でも僕の部屋には無駄な物がたくさんあります。なかなか捨てられないものばかり。

在庫といえば、(まあ全然関係ないけど)今日Nちゃんと小岩のイトーヨーカドーに行きました。えっと?何で行くことになったんだっけ?忘れた。 そんで、屋上のファミリーランドがあまりにも懐かしかった。昔はよくきてたっけ。デパートの屋上の子どもの遊び場スペースってどんどん消えてるらしいけど、あそこはまだ残ってた。独特の雰囲気。夕焼けに染まる下界の街並みがきれいで、寒かったけど見入った。 店の在庫減らしに協力したかったけど、何も買い物しなかった。

つわものどもが…

2006年1月23日
今日は学校行きました。教職ゼミのグループ研究の打ち合わせに。いいかげん終わらないかなあ。やっと形が見えてきた。まあまあよくやっているよ皆。

堀江社長大変ね。何か事件自体が浮き世をあらわしているなあ。国会議員になってたらどうなってたんだろ。自民党がホッとしていることだけは確かだが。

それでは2006初場所総括。
まず栃東、見事だった。攻防一体の相撲スタイル。腰を落とし顎を引く前傾姿勢。左右の強烈なおっつけ。いなし。そうそれは基礎っ。基礎だ。ただ基礎だけを極めた相撲っ。派手さもない。奇抜さもない。でも、栃東の相撲はなんて美しいんだろう。涙が出る。 朝青龍のスピード、琴欧州のリーチと懐、魁皇の怪力、琴光喜の右差し相撲のセンス、…そのどれでもない。神が与えたもう肉体でも怪力でも目を見張る鮮烈な相撲技でもない。…ただ押すだけっ。腰を低くっ。下からっ…押すだけっ…。基礎っ…。どんなに張られても突かれても顎を上げないこと。脇を開けないこと。ただ基礎。何千万回と繰り返した基礎基本こそが栃東の相撲っ。…押せっ。そうなんだ。相手をあの直径数Mの円から押し出すこと。それこそが勝利への最短ルートっ…。強さっ…。だから…押せっ。押し続けろっ…。勝利へっ…。
軽量小兵力士の苦しみ…。まわしを取られても負け。突き放されても負け。どうしたって肉体の力、圧倒的な馬力の前には、技術など無力なのかっ…。いやぁそれは違う。栃東を見ろ。どんなときもあいつは、自分が磨き上げてきた相撲を信じて、巨漢力士にぶつかっていったぜ。血まみれになりながらも作り上げた彼の相撲は、勇敢すぎるほど愚直で、基本に忠実で、基礎を極めた大相撲の中の大相撲なのだ。相撲美学。すばらしすぎるよ。

12日目に白鵬に腕を壊された朝青龍は無念。連覇は7でストップ。最後の3日間は痛々しくてかわいそうだった。 新大関琴欧州は序盤緊張したものの、まあ10勝いったから健闘か。終盤やはり勝負弱さが目立ったが、未知なる力強さは見せつけてくれた。TV出演が続きながらも練習は重ねていたようだな。 魁皇と千代大海は話にもならない体たらく。引退だ引退。来場所は2人そろってカド番で崖っぷち。落ちろ落ちろ見苦しい。 そしてやはり白鵬。堂々とした充実した相撲を取り続けた横綱級の風格。実に来場所が楽しみ。 期待された琴光喜は中盤に自分を見失い脱落。 序盤旋風を巻き起こした黒海も結局ドタバタ。 だが露鵬が来場所は三役昇進確実。遂にあのロシア人が上位進出かあ…止められなかったなあ。 今場所は、リズムに乗ったときの北勝力の強さを見て。普段クールなのに今場所は鬼がとりついたかのような時津海の気迫相撲を見た。 平幕優勝も期待された若の里は10勝止まり。勝負弱い奴。早く上がってこい。 ソルトシャワーの北桜はアマチュア力士のような相撲を見せるけど、なんとも気持ちが良い。 栃乃洋が十両優勝。当たり前だ。敵いねえだろ。 幕下でバルトが優勝。こいつ今年絶対上がってくる。

来場所は栃東の連覇か。復讐に燃える横綱の巻き返しか。白鵬の大関取りはあるのか。魁皇と千代大海は陥落してほしい。外人力士の勢いは増すばかり。稀勢の里も普天王もまだまだ小物すぎる。新星はいないのかっ。 来場所は上位に“クレイジーホース”安馬、“技巧”安美錦が上がってくる。実に凄まじい場所になりそうだ。望まれる和製横綱。よくいわれる相撲界の閉鎖性も含め、非合理性というか、古くささというか、数々のあいまいな所が相撲の魅力でもあります。 とにかく栃東がんばれ。
いやあ相撲って本当に面白いですね。ぁあ見に行きたい。
筆者の家の近くにある高級フランス料理店は、シンプルな外装で値段が高くて、でも流行ってるわけでもないようなお店。立地は繁華街や商店街ではなく、駅からも離れた郊外住宅地ベッドタウンであり、大きな道路に面しているわけでもないので駐車場もない。高級住宅地でもないのにしかし値は張る高級店。安くもなければ便利でもなく評判もわからない高級レストラン。お客がそれほど入ってる様子もないのに、ずっと潰れないで開店しているのはなぜなのか?というのが今回の謎。「さおだけ屋」は、「費用を減らす」に重点を置いた「初期投資のいらない副業」だったけど、レストランは維持費もいるし「売り上げを増やす」ことをしなければ普通は潰れるんじゃないの?なぜ潰れないの? でもそれも会計学が一気に謎を解くのです。 “謎を解け”

商売の原則である「等価交換(同じくらいの価値のモノ−お金や商品・サービス−同士を交換する)」がまるで無視されているこの店はなぜ潰れないのか。「高級」に見合った立地にするか、評判を集めるか、安くするか、どれかしら手を打たないと絶対に潰れると誰もが思うはずです。でも真実は違くて、不合理な「高級」にはちゃんと意味があったのです。
答えは、そのお店で開催している〈フランス料理教室〉と〈ワイン教室〉にあった。「高級」だからこそ、ベッドタウンの主婦たちが昼間に時間の取れるターゲットとして生徒として集まり、その入会金と月謝が商売になるという仕組み。昼過ぎから夕方にかけて開く〈教室〉はランチやディナーともかぶらず、教室はお店そのものを使用し、講師はお店のシェフとソムリエだから人件費も何とかなり、生徒たちはお店の固定ファンになり時々は食べに来ることもあったりするという。「高級」というブランドは、お得感と箔がつくからこそ〈教室〉にとってなくてはならないポイントであり、格安料理店にする必要なんかなかったのだ。
この謎のレストランの正体は、「本業で設ける必要のない商売」だったのである。

しかし、〈教室〉副業がいくらおいしくても、本業をやめて副業に絞ってしまったら本末転倒である所にこの商売の面白さがある。この商売の場合、「高級フランス料理店のシェフ(ソムリエ)が教える」という所にこそ、お金を払う価値があるからだ。
本業と副業はバラバラになってはいけなくて、商売はつなげて考える「連結経営」が大切とされる。東急、小田急、阪急など全国の私鉄が路線上に百貨店や遊園地を置いたのは、家族連れの運賃を期待したことからであった。 楽天やらライブドア(大変ね今)やらIT企業が証券会社を買収していろんなことするのは、ネットによる株取引が盛んだからというだけでなく、ネット投資家が本業である自社サイトを利用してくれるかも、という相乗効果を狙っているからといわれている。 ソニーの音楽・映画事業は、TVやDVDやCDコンポの売り上げに結びつくことを狙っているためである。 新日鉄の子会社に新日鉄ソリューションズというシステム会社があって、「鉄」と「システム」は一見関係ないように見えるけど、鉄を作る工場での高炉とかの管理は今や高度なシステムが不可欠だからなんだってさ。 こんな風に、企業は相乗効果の高い事業と市場を常に狙っているのであります。
個人なら、「週末起業」が流行ってるので良いでしょう。自分の趣味や知識を活かした副業を週末に行えば、疲れないで続けられるし儲かったら嬉しい。土日や夜間に本業や趣味と関係ないバイトをしたって長続きはしないから。
ちなみに筆者は、自分の本業、或いは興味や知識のある業界や市場での株式投資を副業として薦めている。(自社株の場合はインサイダーもどきに気を付けること)

「連結経営」の考え方は大切だと思った。僕はいま作家を目指したいんだけど、結局リアルでソウルフルなネタって実社会にこそゴロゴロしてる。ひきこもり的な職業はえてして社会に出ることから磨かれてゆくのだ。僕のようなクズヒッキーは、書物や映像だけじゃなく、いくらだって社会を見なければいけないのだよね。 僕の卒業後の進路はいま二転三転してて、やっぱ就職しようかなあううん。

栃東優勝!震えるよおめえ!最高!
初場所総括は明日。
雪が降ったなあ。
雪には思い出がない。
雪、ゆきゆきて。
こんな日は軽く教養になる本でも読もう。どうだいこんな本。。。
☆☆

会計とか会計学とかって苦手?僕苦手。「入門」レベルで難しい。僕は数学とか数字とか大っ嫌いだから。でも食わず嫌いかも、とも思う。僕と同じこと思ってる人きっとたくさんいたんだろう。昨年『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』山田真哉著(光文社新書)がベストセラーになりました。会計のこと少しでもわかりたいっていうそこらの人々が支持したこの本、あっさり読んでみたよ。
余談ですが、地元の図書館で借りようとしたら、なんと500人待ち。狂ってら。ベストセラーだからってみんなで借りてまで読みたがらなくてもいいのに。買う人たくさんいたからベストセラーなんだろ?買えよ新書くらい。…そんなこと言っておきながら僕は学校の図書館で普通に借りました。しかし学生の方が社会人より本読んでないのだな。

で、内容は会計の話でした。まずはタイトルにもある「さおだけ屋」のお話から。

「さおだけ屋」って?そう、あれですよ。あの、「たーけや〜さおだけ〜さおだけ〜。2本で千円」とかわめきながら不定期でトラックで町内まわってて、そのうちどこかに去っていっちゃうあの謎の商売のこと。単純に考えて、儲かってんの?て誰でも思う。そして絶対儲かってないと思うはず。大体「さおだけ」って?買う人いるの?使い捨てでも買い換え商品でもない。それに、欲しいときは各自スーパーにでもいくだろ。不定期(うちの町内は3ヶ月に一回くらいしか見ないなぁ)に日中うろうろして商売になるの?でも潰れないで長いこと続けられてるみたいなのはなんでなの?って話。
〈事実1〉「そもそも、さおだけはそんなに需要がない」
〈事実2〉「わざわざ、さおだけ屋から買うメリットもない」
だけど潰れずに成り立っている。疑問と謎に満ちた「さおだけ屋」の経営。しかし会計学が一気にその謎を解くのです。 “謎を解け”

まず「さおだけ屋」は副業であり、本職は商店街の金物屋だったりするという真実がある。金物屋の商売で自宅に配達するついでにだったり、仕事の合間にだけ「さおだけ〜」を営業しているのである。さおだけも人件費もトラック代もガソリン代も全部本業のものを流用しているから諸経費ゼロ。万が一売れたらラッキーだし、本業の金物屋の宣伝にもなるんだそうだ。
そう、さおだけ屋の正体は「初期投資のかからない副業」だったのである。

この一連のさおだけ屋の謎から見えてくる、「商売」の本質…「利益を上げる」ってことは、、、
・売り上げを増やす
・費用を減らす
この実にシンプルな2点をどこまで掴むかにかかっているのだという。
さおだけ屋はこの「商売」の基本をおさえてるからこそこれだけ長い期間にわたって全国的に地味ながら「ゴーイング・コンサーン(企業にとって大前提である「継続」すること)」できているのである。「売り上げを増やす」よりも、「費用を減らす」に重点を置いた利益の上げ方は、副業としての「さおだけ屋」がなせる仕組みでもあるってことだな。

少し身近に置き換えてこの基本構造を見てみよう。「売り上げを増やす」は、企業なら設備投資や新規市場開拓だろう。じゃあ個人ならどう?…「昇進」や「残業増やす」とか「土日バイトする」とか考えられるけど、それって結構大変だよね。でもアフェリエイトとか株とかもなかなか難しいよね。だから個人は「利益を上げる」ことを考えるならば、「費用を減らす」ことがやはり賢明なんだ。「節約」ってやつですよ。

そして筆者は「節約は絶対額で考える」べきだという。100万円のものを1%引き99万円で購入するのと、1000円のものを50%引きで500円で購入するのを比較した場合、一見後者が断然お得に見えるけど、実際の節約額は1万円>500円なわけだ。後者のような節約を繰り返す人ほど、マイホームや結婚式で「一生に一度のイベントですから」と言われると「高くてもいいや」となっちゃうらしい。 チリが積もってもなかなか山にはならないのに、山はすぐ崩されるもんなのです。毎日100円節約して、「たまにはパッと」5万使ったら、一年間で「100(円)×365(日)−5万(円)=マイナス1万3500円」で大赤字である。 「こういう人は非常に赤字を出しやすい性質なので経営者には向いていない。節約した気になっているだけで会計を見ていないのである」(p42)と筆者は苦言を呈す。僕もその通りだと思う。

「節約は絶対額で考える」は、「常に費用対効果を考えればいい」という反論を受ける。確かに、値段に見合った効果が期待される買い物をいつも心がければいいのである。だけど、行きつけのスーパーならともかく、値段の相場情報がわからないときはどうするのか。例えば食器洗い乾燥機が店頭で「水道代がナント年間8万円の節約!」という推しで売られてたら、「今買って何年でモトが取れるかな…?」と考え込んでも仕方ないのだ。食器洗い乾燥機はジャーやレンジのように結構電力を食う知られざる家電であり、水道代を節約した分それは電気料金にはねかえってくるというカラクリがあるからだ。「手洗い」とトータルコストでは差はないことを、東京電力はHPでも実験結果を公表している。このように情報源が偏っている場合、本当の費用対効果はわからないのである。

要するに無駄な物は買わないということと、数字に騙されないということである。「安いから」「お得だから」よりも、「時間の節約」「置き場」「効用」等々、熟慮し悩むべきファクターはたくさんあるのだ。数字だけではないからこそ、数字に惑わされないために、「会計」的な感覚が必要なのだという。わかりやすい。
そして「自分の家計状況を知っていること」で、食器洗い乾燥機だけで水道代が年間8万も節約されるわけがないということくらいわかるようになると筆者はいう。

長々書いちゃった。えへへ。ちょっとベストセラーになった理由がわかったような気がした。特に親愛なる浪費家の諸君は「会計」に興味を持ちましょう。
奇妙な飲み会もとりあえず終わって、結構飲んでしまって店を出るともう夜も更けていて、みんなしてフラついてて、まあ解散ってことになって、帰ろうとしたら、「ここら辺地元で詳しい人ー?」とか言う奴がいて、手を挙げたのは僕だけで、あれ?地元僕だけ?君ら何でここ(S駅)を選んだの?じゃあtakebonoくんはナビよろしくーということになって。原チャの後ろに乗って、駅前を徘徊する警官を避けながら、駅の側のあのでけえ公園まで僕はみんなをナビした。公園で大勢でバカみたいにそこでたまってダベって、少しずつ人数は減っていったけど、結局は日付変わるまで僕らはそこにいた。群れるの大嫌いだしくだらねえなあとか思ってたけど、昼間は学校で話したこともないような奴らと何で僕はいま一緒にいるんだろうなあと不思議でもあった。これが一般的な現代高校生文化ってやつなのかなあとか考えてた。

ちょうど今くらいの寒い冬の夜だった。でっけえ公園にはほとんど人気が無くて、僕らの話し声だけが響いていた。
息は白かった。学校で一度も話したことない、昼間よりも数倍ギャル化してたB(名前忘れた)さんが、僕にホットの缶コーヒーをくれた。

(B)「飲む?」(缶コーヒーを渡す)
(自分)「うん」(受け取って開ける)
(B)「吸う?」(タバコ取り出す)
(自分)「いい」(吸う印象つくりたくないな…)
(B)「…takebono君、学校で○○と噂になってるよ」(煙を吐く)
(自分)「ハァ?ふーん…」(コーヒーを飲む)

そんとき思った。自分は学校でクラスメートのことなんかどうでもよく、眼中にさえなかったのに、周りは以外とどーでもいい他者のことを結構よく見ているんだなと。自分を疎外していたものは自分自身でもあったんじゃないかって、そんとき少しだけ思ったんだ。自分はちっとも優しくないのに、彼らはどこか優しかった。人を暖め、勇気づけるものはやはり人なのかなあって。 takebonoが、初めてクラスメートという同年代の他者に触れ、どうしようもないようなどこか暖かい気持ちになれたのはその夜が凍るように寒かったからだけではなくて、僕のソウルのどこかしらがやっぱ冷めきってたからだったように思う。あんな寒い夜に少しだけあったかいなって思ったのは、ケバいBさんがくれた缶コーヒーと、そしてそれは初めて感じた他者のコミュニティーによるぬくもりだったような気がする。小さいことだ。小さいことだったんだけど。そのときの僕はどこか確かに、僕を見る他者の存在が初めて優しくてうれしかったんだ。

その後日付変わってからもいろんなことがあって、僕は明け方家に帰った。どこか不思議なこの朝帰りは、もう二度と訪れない種類のものだということを知りながら。自販機で買ったホットのミルクティーが胃に沁みこんでいった。この日から夜中や明け方帰るときには僕はミルクティーを飲む癖がついた。
ミルクティー飲むときたまに思い出します。数多くある酒飲んだ日の夜の中で、あんなどうでもいい夜が以外と記憶に残ってるもんです。僕はどこかで、忌み嫌う一方でどこかで、本当は「高校生」らしく、「一般的」らしく在りたかったのかもしれなかった。だから底辺でも公立高を選んだんだ。ホントは「高校生」やりたかったんだ。「自分」なんかよりホントはさ、みんなと同じように泣いたり笑ったり動揺したりキレたりしたかったんだ。叶わなくていい願いはやっぱり叶えられなかったんだけどさ。

だから、思う。学校に行くということは、学力の保障でも協調性云々でもなんでもなくて、ときに殺したくなるような奴に出会うことや、ときに死にたくなるような時間を味わうことや、何よりも素晴らしい喜びを探すためだったり、総じて生きているということや、そしてどうしようもない自分をどうしようもないくらい生き尽くすために、自分こそを自分で創り上げてゆく過程なのだったと。何よりもクラスメートという他者にこそ触れ合うことで、それを磨き、紡ぎ、育ててゆく場所だったのだと思うんだ。カリキュラムなんかまなざさなくても、進路探しに躍起にならなくても、社会に脅えなくてもよかったんだ。僕はそのことにもっともっと早く気づくべきだったんだよ。

ブルーダークこそ僕の10代の学生生活だった。そしてそれは僕の原色でもあった。透明な存在でもなく、ゴテゴテに塗り固められた気色悪さでもなく、出来合いのポスターカラーでもなければ、虹のようにカラフルなものでもそれはなかった。それは僕の原色であり、鮮やかで不確実で悠久のブルーダークだったのでした。
【END】
忘れられない夜ってあるだろうか?陽が落ちた闇の中で、自分の心臓の鼓動を許してくれている他者の優しい存在に気付いたことはあるだろうか?
今回は、永久凍土のようだったtakebonoのソウルを、初めてほんの少しだけ溶け落ちるくらいに暖めてくれたある冬の夜の話だよ。


高校に入ってからよく摂取するようになったアルコール類は、虚ろなtakebonoをハイにさせた。悪名高きYNさんや破滅士USとよく飲んだっけ。飲みまくって公園で花火をしたりね。あんときは通報されそうになったね。迷惑行為だからやめようね。YNさんとは土手で昼間から飲んだこともあったね。あんときは吐いたね。夜中に酔って川に落ちそうになったこともあったね。あんときも大量に花火したりね。ホントにクズ高校生は夜と野外と火と爆音がすきみたいなんだ。嘔吐物みたいな会話しかしなかったし、誰がいなくなっても全然構わなかったし、そのくせ不幸をネタにしたり、セーフティーをキープしてたり、どーでもいい醜悪なトレンドに一喜一憂したりしてたんだ。世の中のほとんどのことは僕らにとって「関係無い」ものだったし、誰にとってもごくありふれた「つまらない」日常だったくせに、そうだ、とりわけ楽しくもないのに死にたくもなく、そんなことくらいしか僕らはやることがなかったんだ。こんな日々が後に「思い出」だとか「青春だったね」とか、ホントやめてくれって。記憶がなくていい。過去がそんな風にカテゴライズされたとして、やっぱり悪酔いと同じような吐き気がするんだろうなって。

そんな酒の飲み方しか知らなかったtakebonoさんが初めて大勢での飲み会に行ったのは高2の時でした。クラスで飲み会やるっていうから行ったのです。なんでかっていうと、場所がなぜか最寄りのS駅だったから。ま、近いしいくか、ってノリで。誰が見つけたのか知らんがS駅のあのゴミ溜めみたいな裏路地の居酒屋の二階。角のスペースが貸しきりだったっけ。初めて居酒屋での同年代の奴らの喧騒や会話、それらに触れることがどういう感じか、そこで僕は初めて少しだけ理解したのでした。

底辺校のクラスメートたちは、学校にいるときと全然違う奴もいれば、ほとんど同じ雰囲気・キャラの奴もいたりと、多様だった。飲むと変わる奴や、飲めない奴もいて、結構興味深かった。なによりも、昼間の学校では話してるとこ見たことないような奴ら同士でお喋りしてたり、全然接点の無いような連中同士で盛り上がったりしてんの見ると興味深かった。男女も、キャラも、立場も関係なく、みんなが高校生らしく混ざり合ってんの。へェ、こいつら仲良しなんだな、と思った。下町気質なのか。どこかあの頃僕がいたあのクラスは、クラスメートがクラスメートに対して優しくて、底辺校故に競争なんてのも全く無くて緊張感なんて全く無くて、堅苦しい団結力(僕はこれが大嫌い)も無くて、ゆるゆるだらだらどちらさんも楽しくやろっよみたいな平和な空気があったんだよ。中学の陰険で硬直的な閉鎖性に比べると、全然開放的で平等で尚平和だったんだ。

「takebono君、楽しんでる?」と、昼間より何倍も濃い化粧をしたA(名前忘れた)さんが、喧騒の中、無表情で聞いてきた。何とか聞き取れたので、「うん楽しいヨ」と答えてジョッキのビールを飲み干した。バカ共が歓声を上げるのが少しだけ楽しかった。酒とコミュニティーって力を持ってるんだなァとそのとき初めて僕は思ったのでした。
【つづっく】

地元酒

2006年1月18日
夕方にNちゃんがふらりと家にきて、相撲観てゲームした。やはり本命は最凶横綱朝青龍か。しかし僕の栃東もがんばっている。ここにきて一番強さを感じるのは琴欧州。しかし白鵬の大逆転劇はあるのか。北勝力はどれだけ上位戦で粘るか。時津海にも健闘してほしい。いずれにせよこの6人の争い。すげえ初場所。

夜に急きょSK兄と飲み。彼も今日卒論が終わったということでおつかれさん飲み。ビールと泡盛。至福のひととき。キリンビールがやはり美味しい。
SKは様々な本音で語ってきてくれてうれしい。
本心とか本音とかって何だってのも思うけど。言葉すら、日本語すら、伝えられないものとか表現できないものとか概念とか思いとかってあるはず。試行錯誤すればいいと思う。僕は何が本物か分からない。どれも正しいし正しくない。衝動すら不確かだ。どれなんだよって。とりあえず勉強不足で、とりあえず経験不足だ。「とりあえず本当の嘘」という格言を言ったのはうちの兄でしたな確か。
僕の「グ論」はくだらなすぎる。でも社会学部はやっぱよかったんじゃないか。

僕らの現在、未来、このままだと見えちまってる。そして、それでもいい。だけど、そうじゃなくてもいい。いつまでもヒキこもってちゃだめだ。僕は社会に出ないと始まらない。
酔っ払って眠い。

新宿酒

2006年1月17日
代々木で働いてるKちゃんの店に顔出してきた。まあまあちゃんと仕事してた。白髪増えてたのが気になったけど。まあ僕もああゆうお店で働きたいな。楽しそう。

それから新宿で紀伊国屋行ってからMくんと飲んだ。4時から店に入ったもんだから貸し切り状態で気分良かったわあ。 Mくんは天才じゃないけど、理知的で教養があって紳士的で。そう紳士的なの。学ぶべき所は数多い。つまらない所で潰れなければガンガン進めるし伸びる人。つまらん壁なんかは僕が蹴散らしてやってもいい。なんてね。
いろんな話をしたけど、意外と色々語り合えて酒が進む仲だ。性格まるで違うのに不思議。不思議なことにももう驚かないけど不思議。同じ時代にいれてうれしいぜ。
でも新宿はゴミゴミしててすきじゃない。迷わなかったことがない街なんだ僕にとって。とりわけ迷いがあるとききてはいけない街だ。

そして、決定しました。今回の芥川賞は絲山秋子「沖で待つ」。 直木賞は東野圭吾「容疑者Xの献身」
どちらも今ノッてる作家さん。それでも2人ともこれまで候補にあがりながらも落ちて落ちて落ちまくった末に、今回つかんだ栄光。この2作はまだ読んでないのでさっそく読んでやりたいもんです。
読書を解禁してからというもの、やはり小説を読む。
今日読んだのは、三崎亜記の『となり町戦争』。確かなんか賞とってたっけ。小説好きTA曰く、「中途半端な村上春樹」らしい。なるほどそんなかんじだった。
−ある日届いた町政広報紙での開戦の布告「となり町との戦争のお知らせ」。隣の自治体と戦争が始まった!?行政事業としての戦争には奇妙な点はたくさんあるけれど、僕は役所から偵察業務を任されて戦争に参加してゆく。戦争推進室。分室勤務。戦争説明会。戦争コンサルタント会社。戦争公社。バイト兵士。戦時下マニュアル。これが…戦争!?
「これが、戦争なんだね」
「これが戦争なんです…」
この戦争で、僕らは戦争の何を否定する? 何を肯定する? 何を思いそして何を誓う? リアルはどこにある? 終戦の日の僕は何を思って立っているだろう。

定期的に読む石田衣良。『池袋ウエストゲートパーク』の最新V巻を読んだよ。相変わらず面白いわ。
定期的に読む村上春樹。『東京奇譚集』を読んだ。東京を舞台にした不思議ストーリーの短編集。まあまあ。

小説は今の所すてき。

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