写真

2006年5月3日
写真
西新井大師です。
情緒があるなあ。

青空プロレス

2006年5月3日
青空プロレス
TA氏がタダ券くれたので足立区の端っこまで『ZERO1-MAX』観に行きました。小学校横のグラウンドでリング立てて、青空プロレスですよ。でもちゃんと大谷晋二郎や大森隆男が試合やってた。すげーと思った。つうか、ばかうけ。

アックスボンバー。デスバレーボム。雪崩式。あらゆる、プロレス。とても興味深くそして楽しんで観れました。
おもしれえなあプロレス。場外乱闘、こっち側にきてほしかったなあ。
大谷が試合後のマイク挨拶で言いました。
「プロレスほどみんなを元気にするものはない!」
そのとおりだよな、と思った。

写真はY2P-160kg選手です。握手してきました。ええ、全ての人々の予想通り(?)、あの選手です。

せっかく素晴らしい天気だったので足立区をうろうろしたりもした。西新井大師とかまわりました。露天をまわって、花を見て、お団子を食べたりしてまったりしました。どこか下町だなあ。

夜はヒーローズ観た。真っ正面からの打ち合いを望んだドン・フライの男気、震撼する超絶打撃戦を期待していた観客、不死鳥横綱の覚醒を信じていたtakebonoさん、その全てを見事なまでに裏切った今日の曙さん。ほんとに、今回は、ガックリきたよ。ああ、もう、だめ、だと…。僕に生きる希望を与えてほしかった。くそお。いつになったら…。

しかし今日は良い天気だったなあ。
◇山際淳司の短編集『スローカーブをもう一球』を読んだ。MM氏に借りたときは忘れてたけど、そういえばこの本は、僕が卑屈な中学生の時にクラス担任の先生が薦めてくれた本でした。高校に入ってすぐ読んだのだけど、そんときは文学や読書の楽しさ自体わからなかったから、ただ読んでて苦痛だったような記憶がある。いま読むとわかる気もする、先生が僕に何を言いたかったのかが。僕は良い子じゃなかったけど、感動っていつもこっち側だった。僕の方に在った。僕は僕故に生きてたのだから。そうゆうことなのです。
『八月のカクテル光線』や『たった一人のオリンピック』もよかった。スポーツは素晴らしいです。
−強豪ひしめく関東大会で、高崎高校は奇跡的に勝ち進んでいた。エース川端俊介は、サイド気味のオーバースローから投げるスローカーブを駆使するマイペース野球男だった。非合理な精神論を嫌い、肉体を痛めつけるだけの猛練習とは無縁。そんなエースに引っ張られ、秀才校の快進撃が遂に決勝戦でフィナーレを迎える。人をくったように、何かを見透かしたように、そんないつもの川端投手独特のスローカーブがゆっくりとストライクゾーンに決まるとき、彼は不適な笑みを見せるのだった。
「なぜ野球を続けているかって聞かれれば、惰性ですね、惰性」
「ピンチになれば――逃げればいいんです」

◇恩田陸氏の作品を初めて読みます。この作家さんは巷で結構人気があって、前から一回読みたいと思ってたので、今回はMM氏から借りた短編集の『図書館の海』を読みました。恩田ワールドの魅力が少しだけわかった感じ。やはり文章の柔らかさというかまろやかさのようなものを大事にしてる気がするなあ。なかなか気に入ったので次は長編も積極的に読みたいと思います。そもそも『夜のピクニック』や『6番目の小夜子』を読んでないと番外短編はわからんではないか。だからすぐにでも主作品を読みたいところだ。

GW中に本何冊読めるかなあ。楽しみだなあ。
◇友達に借りた、舞城王太郎のデビュー作『煙と土と食い物』を読んだ。なかなか読ませるねえ舞城ワールド。一気に読んでしまった。
−連続主婦殴打生き埋め事件発生! その5人目の被害者はおふくろだった。サンディエゴ帰りの外科医・四郎は、血と暴力に依る復讐を決意する。 螺旋図?ぬいぐるみ?ドラえもん?矢印?イカれた謎たちが次々と、ミステリ的に降り注ぐ。この猟奇事件の犯人は?? そして四郎とその最凶家族を巡って、血と暴力渦めく地獄戦争のその果ては、遂に凄絶な宿命にも辿り着く! うわあ!もう!すご!
「生きてても虚しいわ。どんな偉いもんになってもどんなたくさんお金儲けても、人間死んだら煙か土か食い物や。火に焼かれて煙になるか、地に埋められて土んなるか、下手したらケモノに食べられてまうんやで」

◇島田雅彦を初めて読みます。『自由死刑』を読んだ。生きることと同じくらい死ぬことって大変なことなんだなあと思った。
−1週間後に自殺しよう。それが俺の「自由死刑」だ。さて執行日まで何をして過ごそうか――? 酒池肉林?享楽?復讐?救済? 全て済んだ。案外疲れた。命も売った。臓器も売った。そして聖書を読むアイドルと俺は誘拐の旅に出た。殺し屋の外科医が俺たちを追う。果たして俺は無事に死ねるのか? 死への自由は残酷にも独立した欲望と歓喜に支持されながら、俺は自由に死刑執行されるのだ。死ぬこととは、生きること以上に過酷な自由を要する行動だ。俺は自由死刑囚として、自由との最後の闘いに挑むのだった。
「人殺しを諦めて、自分が死んだらいいじゃないか。そうすれば、少なくとも、自分が生きていた世界は消滅するだろう」
「…あなたはそういいながら、世界に戦いをしかけたじゃないですか。あなたは今や、隠れた英雄だ。戦いは始まったばかりだ」
「あんたは生きる欲求が強いんだ。だから、自分が死ぬより他人を殺そうとする。自分でもわけのわからない憎しみとか悪意が、あんたを生かしてくれているんだろう。そのうち、あんたも生きる欲求の強さに振り回されて、死んじまうんだ。あんたの親父さんが、食い過ぎて死んだようにね」
「やっとわかりましたよ。…私の父もあなたも、そして私も、つまりは死のアーティストなんだ!」

SOMA日和

2006年4月30日
今日は体育館を貸し切り。
いつになくSOMAメンバーが揃いましたので最高でした。
野球とフットサルとバドミントンとバスケ。
明日は全員が筋肉痛だろうな。
スポーツはやっぱりいいなあ。
人数が集まると幅ができて良いなあ。
4月も終わるなあ。
疲れたのでよく眠りましょう。
昼間はSKとカラオケに行ってシャウトシャウト。まあ僕らのブルーハーツの素晴らしいこと。
いろんなことがあると思うけど、がんばってくれよSKさん。

夜は実の兄が久しぶりに実家に戻ってきたので飲みました。
いろんなことがあると思うけど、がんばってくれよ実の兄。

いけませんねだらだらしちゃってね。
いろんなことがありすぎるけど、がんばろうtakebonoさん。

こんなに恵まれてるんだから。
がんばることを誓います。

だらけさん

2006年4月28日
MM氏宅で昼までだらだらして、道玄坂をだらだら歩いたりして、その後だらだら帰宅して、だらだら図書館に行ってそれからだらだらバイトに出掛けて、帰ってきていまはだらだら過ごしてます。だらだらだら。MM氏、ごちそうさまでした。長居してすみませんでした。
そして普通に二日酔い気味。
文章をまとめる気もなかなかおきてきません。
このところ勉強もなかなかできてませんで、来週から生活を図書館漬けにしようと思います。
破棄駄目苦図(ハキダメクズ)の僕がどこまでやれるのか。とにかく命をかけてみます。

カリスマのみ

2006年4月27日
バイト後に三軒茶屋方面へ。
MM氏の新居へ飲みに行きました。
DJMM氏の殿堂入りCDをたくさん聴かせてもらったし。我々は相変わらず夜中まで、語り尽くせぬものを相当語り合ったし、MM氏のポリシー溢れる料理はやはり美味かった。貴重な焼酎も美味かった。
我々はビールではなく自由に、いつか酔うことなく生きて死ねるのか。
川の流れはいつか変わるのか。
アートやソウルが我々を生かす限り、可能な限り素敵に生きていけるポジションとモチベーションでアクションしていけるのではないかなあ。コミュニティーが力にもなってくれるさ。

それにしても素敵すぎる新居だわあ。隣に引っ越してえほどに。

夜中の3時半まで飲みました。
ローウェル・ジャドーが彼の作品の中で僕に語った言葉がある。
「君の右手は、何なのだ?」

淘汰と大増税時代の話。
庶民を直撃するのは雇用の二極化。よりハイレベルな不毛競争。
雇用の開国が起こるという。外人労働者が本格的に末端雇用市場に流れ込むそうだ。おいおい、「団塊世代消失後はフリーターやニートがその穴を埋める」んじゃなかったのか?
産業再生機構で生き続ける所謂「ゾンビ企業」がたくさんいる一方で。特別な力を持たない庶民労働力は無惨に使い捨てられてゆく。正社員を縛り囲い込み、非正社員はより無知無力のままに使い回される。法も教育もそれを後押しする。世論も誘導する。絶望的にまで。
だから。
非正規労働者たちの権利の確立が、まず僕の夢の一つになった。

2006年からは大増税地獄が始まる。
マスコミは充分に取り上げたか?
まずは定率減税の廃止に、多くの人が目をむくはずだ。
ターゲットは勿論サラリーマン。毎度言われることだが源泉徴収は脳死政策の一環。
あとは高齢者。
そして障害者にも手がつけられた。例の、最悪の「自立支援法」がそれ。
弱い者から奪ってゆく。それが正当だという風潮をつくる。いつものやり方だけど。
薄給サラリーたちと高齢者たちと障害者たちは、誰がどう考えたって、与党に投票すべきではなかったのです。だがこんなことを言い続けていたら僕はいずれ「共謀罪」で捕まるのか?
「悪夢っ…終わらない悪夢っ…!」(byカイジ)
だから。
なんとかしてメディアに切り込むことが、僕の夢の一つになった。

景気は回復基調だが。
財の配分機能が二極化と政策で結局イカれてるのだから。
景気回復は、将来不安解消とは別問題である。

身も蓋もない最低なことを言わせてもらえば、いま東京圏に住み、両親が公務員で、僕はこれまで正社員雇用の経験がなく、しかも残りの人生で低消費サイクルライフを確立しようとしてるいわばクズな人間です。だから、いまはデフレ不況で良かったのです。景気回復はむしろいらなかったの。
こんな考え方は最低だけど。でも思ってしまったりする。そういう部分でしかし世の中は動いている。弱者はいいかげんに政治的立場を自覚した方が良いということが結局言いたいのだけど、それもうまく言えない。結局は二極化の上での話だからだ。

馴れ合い持ち合い金融社会主義が限界に達し、外資とM&Aの餌になることで再生した日本経済。円売りドル買いで米国国債ゲット。円買いの外人投資家は日本市場に介入。2006年の商法改正で外資による買収行動は激化するんだと。

中国・インドの台頭。ロシアの復権。
原油価格・原材料価格の高騰。インフレ。

結局。
「殺し合いをしてもらいます」なのだ。
未来を想像したくも、創造したくもない人たちの気持ちも分かる気がする。分かってはいけないような気もする。

幾度かこの時代に死にかけた。
僕の右手は何のために動くのだろう?
[itukatuduku]

takebono生誕記念日

2006年4月25日
今日は自分の誕生日でした。これでなんと24年間も生きたことになるんですね。年齢なんて無頓着なままよく生きたものだと思う。うちの猫2匹も推定年齢20歳と18歳だし。似たようなもんか。彼らも気ままに必死に生きている。
それでは皆様、心の底でtakebonoさんの生誕を祝いましょう。

この世に生きてても仕方のない僕だが。
死んでもいいからいまはいまを生きるつもりでいる。

母がチケットをおごってくれたので映画を観に行きました。左系の記録映画ね。とてもおもしろかった。
夜はティッシュ配りに行きました。
K氏と色々長々話しました。ピンとはこなかったけど、かなり参考になりました。
一人で寂しくしかし寂しくもなくビールを飲みました。シェア1位を奪い返したキリンビールはやはり美味いなあ。
そんなこんなでtakebono生誕記念日でした。

こんな24歳になるだなんて、10代の頃はもちろん、20のときも21のときも22のときも、つまりは想像さえしてなかったのだ。死んではいないだろうけど、ろくな生き方はしてないだろうなーとは思ってたけど。だがそれは見事に裏切られたといえる。いま、楽しいからだ。楽しい。過去になんて戻りたくもないほど、いま楽しい。死にたくないよいまはー、絶対にー。
いやあ24歳は絶対に素晴らしく幸福な時間になるだろうなあ。

みなさんお祝いよろしく。
お祝い品もよろしくー。
時代は残念ながら夜更け前だなと思いながら。夜更けに愚かな文字を打つtakebonoです。

川又三智彦氏(ツカサグループ代表)著の『二極化ニッポン』という本を読む機会がありました。わかりやすかった。こんな風にわかりやすければいいなと思った。わかりやすいだけに落とし穴ってるのかもしれないが、そんなん自覚しつつ現状を整理するには良いんじゃないのかと思った。なにせ僕は無知だもんで。
「いつかきっと〜♪」だなんて絶対に人はわかってくれない。知らしめ、わからせるしかないのだ。そう思った。

国家財政の話だった。
改めて思った。日本の財政は危機なのだ。もうどうしようもないくらいに。
ハイパーインフレか? 連続大増税での生殺しか? またしても破滅への延命か? なんにせよ、気の遠くなるようなこの国の借金は国民がそのツケを払う。ふざけた話だがそれだけは決まってるそうだ。実感が沸かないまま、いよいよ実感が沸く時代に突入する。血ヘドを吐いてでも僕らは借金を払わさせられる。酷い話だ。多くのことがあまりにも愚かで在り続けすぎたせいだ。

破綻財政をいつまで破綻国債でまかなえるもんなのだろうか。
悪名高き特別会計の実際がどんなもんなのか結局わからない。
国民が血を吐いている最中にも、役人たちはジャブジャブな捨て金と無駄遣いを特権として繰り返していることが想像つく。モラルを失ったトップたちにしかし僕らはこの国のほとんどを委ねている。そうすることしかできていない。既にそこからなのだろう。
シャブ漬けの日本財政を支える金融システムたち。郵貯そして。銀行。
勝ち組企業には証券市場に逃げられ。負け組企業にはやっぱり貸せねえなと苦笑う。貸し渋っておいて得意先のサラ金を紹介する、と。悪魔どもめ。
結局のところ、優良運用先は破綻国債。そしてサラ金。どちらも血にまみれた金。
悪夢。
悪夢といっていい。
今現在、日銀は事実上100兆くらい国債を引き受けている形なんだと。中央銀行がそんなことやるの?て思った。量的緩和策のせいなんだろうけどそれももう終わったし、ゼロ金利も夏には解消する方向らしいが、ホント綱渡りなんだなあと思った。
さらには外国人投資家に頼み込む始末。破綻国債を買ってくれようっ頼むっ。ジャパンプレミアムだとか言われて、日本国が買い叩かれてゆく。かつてある知人が僕のことを売国奴とか言って罵ったことがあるが、それはむしろお前と政府だろうがっ。僕は愛国者。
極めつけは「個人向け国債」。僕の知り合いも買っていた。
日本よ、借金で首を吊るか? 目玉や内蔵を売れますか?
既得権益で構成された腐敗自民党に何かを変えうる力があるのですか?
「借金っ…かぶせるように借金っ…!借金地獄っ…!」(byカイジ)
麻雀の自動卓みたいに、勝手に積んでくれる。牌じゃなくて、借金を。そして人間たちがさらに積み上げる。「ツモッ!ツモッ!コココキキキ…」
末期。
戦時中の日本は、「戦時国債」を日銀に引き受けさせ、一般国民にもジャイアン的に買わせ、「胸に愛国、手に国債」などとぬかし、敗戦し、結局紙くずに終わらせた。
現在の日本は、国債を銀行・郵貯さらには日銀にも引き受けさせ、「個人向け国債」を一般国民に売り込み、「貯蓄の先を見つめています」「国債っていいかも」などと目眩のするようなスローガンを唱っている。いつ破綻するのか震えやしないのかな。

だが、破綻する日本と自民党に、遂に救世主が現れた。KOIZUMIだ。
政権交代を恐れてただ貴重な時間を失ってきた自民党歴代指導者たちと、彼は違った。
根拠のないフィーバーは、「痛み」を国民に納得させた。
ばかだ。日本人はどこまで脳死なんだ。
おかげさまで。
地獄の大増税時代が幕を開ける。

そして淘汰の時代がやってくる。
この国は二極化する。
強い者と。弱い者に。
富める者と。貧しい者に。
そのことに意義を。
唱えられるのですか?

犯罪を憎む。貧困を悲しむ。テロを恐れる。モラル低下を嘆いたっていい。システムの不手際に憤ったっていい。自らの無力と不運に因果論を帰結させたっていい。
だが。だがな。
立ち向かうべき現実と。
諦めるための現実。
どこに線を引くのですか?

僕らの目は、何を見るためにあるのですか?
[tuduku]
最近ふとある人のことを思い出した。本当に、ふと、だ。今までほとんど思い出すことがなかったのは、あれから連絡し合ってないというのもあったけど、僕が大学生でいる間はずっとホントにずっと、記憶を思い出すとき独特のあの「隙間のようなもの」が、僕の内部に滲み出てこなかったからだと思う。大学を卒業して初めて、そしてブログを書き続けていなければ、永久に彼の記憶は僕の奥底に眠っていたのではないか。そのこと自体は何ら不幸なことではなかったのだけど、僕が彼のことをここ数年間忘却していたのは事実だ。そしてこの頃、ふと、唐突に思い出したのも事実だ。繰り返すが、それらは何一つ不幸なことではない。
今回は、そんな話だ。


彼は6か7くらい年上の大学院生だった。確か某有名大学だった。
いつ出会ったのかは忘れてしまった。きっかけは覚えているのだけど。
彼は物静かな男だった。家は近くなかったけど同じ区内で、彼は静かな住宅街の小綺麗なアパートで一人暮らしをしていた。
当時まだ大学に入学したばかりの僕は、時々彼の部屋へ飲みに行ったりした。
彼はいつもクールだったから、飲みながら静かに話をした。もちろん笑いは絶えなかったのだけど、それでも僕らの会話は基本的に静かなものだった。それは僕にとって素敵な時間だった。語る、という行いの意義を僕は彼から初めて学んだような気がした。彼は紳士的で、ソウル的で、頭の回転も速かった。でも(?)酒はあまり飲まなかった。これ以上うまく言えないのだけど、つまり彼はそのような人だった。

彼からすれば年下で、しかも未熟で無知すぎた僕の話を彼はよく聞いてくれたし、彼の話すことも僕はじっくり聞いていた。
僕の描いたマンガを渡したこともあった。じっくり見たいというので渡して後日返してもらったときに、君らしいマンガだね、とだけ彼は言った。
飲みながら僕らは色々な話をした。お互いの話や、昔や、これまでの経緯や、今の話。或いは彼は政治や経済の話もしてくれた。僕にはさっぱりだったけど、どこか彼の話しぶりとその話は尊敬できたし面白かった。
口座メインにしてるのは新生銀行なんだ、と言って彼は苦笑いをした。批判されるんだろうけどね、と彼は付け足して、それから缶チューハイをグラスに注いで飲んでいた。
「どういうこと?」と僕は尋ねた。
君は本当に何も知らないんだね、と彼は静かに笑ってそう言った。

社民党主催のやつと共産党主催のやつでそれぞれ行われてる【原水爆禁止世界大会】が、いつまで一緒にやってていつの時点で分裂して今日に至ってるのか?とかそんな話を飲みながら話してたことがあって、彼はそのとき語り切れなかったらしく後日に関連記事の切り抜きを僕に郵送してくれた。解説付きで。でもそれを読んでも僕にはさっぱりわからなかった。

あるとき僕は僕が昔描いたマンガを彼に見せたくて、それを渡して、後日彼がメールをくれたことがあった。彼はメールの中で述べた。
〔君が君らしい10代の青春を謳歌してきたことが羨ましい。…僕の10代はあまりにも卑屈だった。…〕

比較的長かったと思うそのメールの内容のほとんどをもう僕は憶えていない。ただそのとき、それぞれの人にはそれぞれのいろんな過去があるんだなとだけ思った。それだけは憶えている。

彼は大学院を卒業後、雑誌社に勤め、その後にTV局関係に移ったと聞いたけど、その後の行方は知らない。都心の方に引っ越した後は多忙を極めているらしく、連絡もとり合わなくなった。そういえば引っ越す前の彼の部屋で一緒に飲んだのだった。そこで色々話したきり、それ以来彼には会っていない。
もしまた出会うときがあるなら、彼とはまた違ったことが語り合えるのだろう。その時間は間違いなく面白いだろう。素晴らしいものが生まれるのかもしれない。でも今は会っていない。確実に言えることは、あの頃だからこそ会えたということである。今からは、あのときと同じように、未知としてそれは扱われるのだとも思う。

僕はあの頃の彼と同じ歳になりつつある。そして初めて僕は僕の無知無力を本格的に知り始めてもいる。僕もまたそのうち年下の人間と、新生銀行や原水爆禁止世界大会や生き方や卑屈さなどついて、飲みながら静かに語ったりするのだろうか。

彼はこの世界のどこかで生きている。僕はここで生きている。それだけが時と共に息づいている。僕の中でだ。
ブルーダークはかつての彼であり、かつての僕であり、今は僕よりも年下の誰かなのだと思う。僕らにできることは、時代を生きることだけなのだ。
【END】
今日はSOMA集合でスポーツ日和で軽くスポーツ。
久々にスタメンが揃ったじゃん。
だらだら、だんらだんらとスポーツ。
このけだるさがたまらん。
貴重なんだなこの時間。
失って初めて気付く。
その前に気付く。
いま生きてて一番楽しくない?
いつまで続くんだろ。
昼間の空に虹が出ていたよ。
しばし眺めたよ。
のどかだなあ。

朝も読書。
夜も読書。
このけだるさがたまらん。

猫がうるさい。

今日は夜中ずっと本読んでよっと。
お茶とか飲みながら。

しかし僕の小説つまんねえなあ。
なんでだろ。
けだるさを出したいのに。
「価格」こそ「神」だ。紙幣こそ免罪符だ。

価格についてごたごたする前に「市場経済」と「貨幣」について無知なりにまとめた。
市場経済とはなにか? それはまず自給自足経済ではない。生産と消費が分離した経済である。まず生産性のUPが前提になる。そして生産性の向上は生産力の特化にある(特化の利益)。故にほとんどの生産における商品やサービスは、生産者のためではなく他人の効用のために生産される。故に市場経済は分業社会である。そして自分が生産しないものを手に入れるためには、人々は生産物の交換をしなければならない。
「分業は、人間の本性に潜む交換という性向から生じる」「分業は労働の生産力を増進させる最大の原因である」(アダム・スミス『国富論』)

分業は同一のものの生産工程についても発生する。生産工程は分割され、単純化され、特化されることで、作業能率が引き上げられる。アダム・スミスは有名な「ピン作り」の例えでこれを説明した。熟練した職人は一日で(ボーリングの)ピンを数本しか作れないが、熟練してない労働者たちが生産工程を分割単純化すれば1日で何百本も作れる。

特化は交換を前提にしている。故にスムーズな交換の成立とその保証がなければ特化は進展しない。その昔行われていた「物々交換」は絶対スムーズとはいえないはずだ。交換をスムーズに行うには、一定の日時場所で交換相手と生産物が集い交換が成立しその保障がある場所があるとよい。それが「市場」だ。さらに、交換者同士の交換ニーズの2重の一致が必要になる。交換したい商品を他の誰かも超偶然に交換したがってなきゃいけない。だからどうしても一般的交換手段が必要になる。貨幣の必要性が生まれた。
貨幣役割はコメや貝殻だったりもしたけど、持ち運びや持続性のメリットから金銀銅という「金属貨幣」の登場に至る。でも、削ったり金の含有量を減らしたりと、偽造が増えたりした。かくてトーマス・グレシャムは「悪貨は良貨を駆逐する」という所謂「グレシャムの法則」を見いだすのでありますが。
そして「銀行」が登場する。銀行は金属量に見合った預かり証「銀行券」を渡し、いつでも金と交換できる制度にして偽造を封じた。そしてそのまま流通した銀行券が貨幣にうって変わる。その後、金本位制は崩壊して通貨管理制度に移行し、銀行券が完全に貨幣役割をぶんどる。紙幣は今や金と交換できない不換紙幣であるが、法によって一般的交換手段に指定されているため法定貨幣である。同時に銀行券は人々の信認で成立してもいる。中央銀行・日銀は人々の信認を確保するために、日本銀行券の価値を常に安定させる責務がある。貨幣価値の安定化とは購買力の安定つまり物価の安定を意味する。

貨幣経済が成立し始めると、交換を専門業とする「商人」が登場する。いわばこれはモノの仲介・再販売の仕事への特化である。商品移動のリスクを伴わない「店舗」が、市場に登場する。交換に伴う時間と費用も大きく節約される。最初の「物々交換」に比べると実にスムーズに事は運ぶねえ。交換取引は大きく拡大する。毎日のように交換が行われるようになる。かくして「市場(いちば)」は「市場(しじょう)」となるのである。

アダム・スミスは言います。「分業は市場の大きさによって制限される」
その通りだ。市場が小さければ分業特化はしにくい。小さな村では、様々な商品が少しずつ揃っている「よろず屋」が一つあればいい。映画館、本屋、地下鉄など専門特化は、市場が小さければ経営として成立しない。故に小さな村にはそれらは少ないな。逆に言えば、集中はさらなる集中を呼ぶということだ。東京の「一極集中」のように。東京圏の市場はでかすぎるため、あらゆる専門特化商売が成立する。

交通と通信の発達レベルはことさら重要だ。文明が常に水の近くで発展しているのは、農業発展の他にも、陸上輸送より水上輸送の方が市場拡大に貢献したからでもある。交通と通信の発達は、さらには他国との貿易という形にまで市場を拡大させる。しかし電脳時代はそういうもんも飛び越えうるのかなあ。

岩田規久男『経済学を学ぶ』を読んで書きました。わかりやすかったです。これからだこれから。
(→→)

電脳未来社会

2006年4月20日 読書
ベストセラーにもなった梅田望夫氏の『ウェブ進化論』をざっと読んだ。図書館の返却期限が過ぎていたからちゃんと読めなかった。けどもう手に取らないと思う。それでもなかなか興味深くもあった。そしてこないだのWBSに梅田氏が出演してた。シリコンバレーからご足労か。

ITの無限の可能性が、よかれ悪かれ既存のものを破壊していき、新しいものもたくさん生むということが少しわかった。
とりわけ、「知の世界の再編」とまで言い切るネットの「ゼロコスト空間」化は、何かをドキドキさせるくらいすごいことじゃないのかと思った。 石田衣良の『アキハバラDEEP』は、ヤフーやグーグルを超える、進化したAI型サーチエンジンを巡る攻防の話だったけど、あの作品の中で語られてたことそのまま多く現実に語られててそして現実化してくのかもしれないな、と。
「オープンソース」
「はてな」「ウィキペディア」
「mixi」
「mf247」
不特定多数無限大の人間がまたその向こう側の人間と出会うこと。つながること。よかれ悪かれ何かを起こす可能性が恐いくらいあること。可能性である。
そして「チープ革命」による「総表現社会」の登場。「ブログ」。文章、写真、語り、音楽、絵画、映像…。「普通の人たち」が「何かを表現したって誰にも届かない」という諦観は、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」という希望に変わろうとしている、と筆者はいう。
「表現行為を行うためには、テレビ局、出版社、映画会社、新聞社といった組織を頂点とするヒエラルキーに所属するか、それらの組織から認められるための正しい道筋を歩むしかなかった。それゆえに既存メディアに権威が生まれた」(p12)

新旧の共存・棲み分けはこれからも相当長い間続くが、これからはネットが既存メディアを段々と浸食していくという。バーチャルはリアルに台頭してくる。

ネットがすっとばした距離と時間は、馴れ合いにとどまらないし、コミュニティーにもとどまらないだろう。革命かもしれない。
興味深かったのはやはり「ロングテール理論」だった。「売れる」ものだけが在庫になったりディスプレイされるのではなく、誰か数人数にでも売れるものが日の目を見る。アマゾンのやり方だ。ネットを介在することで、むしろベストセラー以外の本が売れている。首長竜の尾っぽこそが、ビジネスニーズになる。それを可能にするのも「ゼロコスト空間」こそだ。ベンチャーにはビッグチャンスだ。
ITはもちろんビジネスにもとどまらないだろう。いろんなことが考えられる。あんなことやこんなこともできるかもしれない。僕ならば…何をする?かだ。

「グーグルアース」で僕の家の近所の航空写真を見た。なかなかすごかった。
とりあえずfinalventというブロガーの日記は読んでくことにした。
WBSで観たけど、国内の全てのブログで語られてる情報及びキーワードを収集するソフトというのをどっかの企業が開発し使っていたっけ。もはや予測市場とかいうように、陳腐なマーケティングや世論調査なんかよりよっぽどすごい。なんだか、人間社会の全てが剥がされてゆくようだ。
脳がつながっている、とアメリカの学生がネット世界をそう表現したそうだ。
「攻殻機動隊」の世界もあながち遠い未来ではないのかもしれないなあ。

対岸のtakebono

2006年4月19日 読書
昨日読んでブログにも書いた、角田光代の『対岸の彼女』が頭を離れない。僕の中で、きっといい作品との出会いだったんだと思う。
感動したのです。じわじわともくる感じで。
人との距離とかって、もっと考えたほうがいいんだろうな。
わかってるんだけどな。
ごまかしたつもりもないんだけど。

かつて対岸が眩しかったときを思い出した。
人がうらやましくて仕方ないときもあった。
幾度、或る生き方に憧れたか。
きらきらしてるものに。
焦がれたか。
僕は。
それでも優しい人に会いたかった。

いろんな人がいて。
どの人が自分にとってどれくらい何者であるのか。
最後にはわからないから。だから。
信じることを決めるんだよね。
アオちん。ナナコ。
僕も。そう思うよ。

なのに。
人を見るとき。
僕はもう見えてないのかもしんない。
もう。
優しさだけしか。

どこかへ向かい。何かを選び。
いつか。
破綻する前に。
精一杯輝けたらって。

そんだけなんだ。そんだけ。

生きたいよな。
しっかりと。
◇友達に借りた村上龍『海の向こうで戦争が始まる』を読む。前作を引っ張った感じで。自意識と現実性の話だとかなんだね、よくわからなかった。イカれてた。
−僕の目の中に映る稜線の町をフィニーが覗き込む。戦争はそこから始まる。 …ゴミの山、ゴミ処理施設、宮殿、灰色の港、魚、サーカス、病院、蠢く人々。そして戦争は始まる。
「戦争は恐ろしい、みんながそう思っている、それは正しい、いつだって戦争は恐怖だ、私も恐い、小便を漏らしそうになる、しかし、考えてみろ、恐怖の裏側にはいつも何があった? 恐怖の向こうにあるものは何だ? それは熱狂と興奮と恍惚だ、戦争は退屈しない、今日一日何をしようかなどと考える必要はない」

◇定期的に読む村上春樹は今回は短編集の『回転木馬のデッドヒート』を読みました。『嘔吐1979』とかよかった。嘔吐って行為はフレーズ共に興味深かった。

◇山田悠介『親指さがし』を読む。文字表現としての魅力はほぼ無い。さすが酷評オーライの山田作品。だがこれもまたネタ的にはすき。ライトホラー。
−とある別荘で起きたバラバラ殺人事件。警察によってかき集められた死体には、左手の親指だけがどこを探しても見つからなかった。そこから発展した怪談話にとびついた都内に住む5人の小学生たちは、見つからなかった親指を探すため、「親指さがし」という儀式を決行する。そして、儀式の最中に1人の女の子が行方不明になった。その部屋で親指を探すとき、肩を2回叩かれたら決して振り向いてはいけなかったのに…。

◇角田光代の『対岸の彼女』を読みました。すんごいよかった。おすすめ。ソウルフル。アオちんとナナコの輝き方に泣きそうになりました。読み終わった後、抱きしめたくなる本でした。
−放課後いつものように川辺でげらげら笑い合った後で、葵とナナコは空を見て寝転がった。ねえアオちん、てナナコは葵をそう呼ぶ。 無視もいじめも独りぼっちもぜんぜんこわくないんだ、とナナコは言ったっけ。きらきら光る川を見ながら言った。そんなところにあたしの大切なものはないし、ってナナコは言った。 ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、いまになってするんだよね、と葵は小夜子に言った。 あのときの川はまだ輝いている。おいでよ、って誰かが向こう岸で言っている。歳を重ねることも、大人になることも、お互いが出会えたことも、約束したことも、輝きながら過ぎた日々でさえ、どこかへいこうとしたあの日でさえ、あたしたちは抱きしめながらきっと生きていて、抱きしめながらどこかへ生きていくんだろうって。
こんな作品をこんな気持ちで読めてることが幸せだと思った。takebonoが久々に感動した角田光代の直木賞作品でした。
前回思考してから間をおいて、でもずっと考えておりました無知takebono見切り発車的経済論。
前回から引き続く、社会そして経済という怪物に向けた僕の問い。
「市場メカニズム〈神の手〉に、僕らが僕らの社会を「どれくらい」そこに委ねるべきなのか――?」

「全部委ねちゃえ!そうすれば全てうまくいく」ってのが市場原理主義の考え方だな。資本主義の行き着く極地だ。規制緩和及び撤廃。自由。優勝劣敗・弱肉強食。欲望。夢。競争。格差。どうやらそれらが、〈活気溢れる社会〉とかいうやつらしい。
一方で、それを否定し「何も委ねるな!」というのが、統制・計画経済だな。政府が経済を統制する、社会主義の考え方だな。平等。安定。質素。博愛。人間性。どうやらそれらが、〈搾取のない豊かな社会〉とかいうやつらしい。

いまの社会は完全に資本主義だけど、でも完全な市場主義だともいえない。「混合経済」というやつだな。市場メカニズム〈神の手〉に、社会の全ては委ねずに、規制し管理し守るべき所は国や公共機関が担っている。市場の失敗や暴力から人々を守るシステムは既得権益の温床にもなっているけど。この状況は、どっちつかずであり中途半端でありそしてバランスがとれているともいえるのだろう。人それぞれの立場があるだろう。ただ、問題が問題として論じられるとき、結局はこの状況からどっちにいくのか?なのだと思うから、いろんなケースにおいても、やっぱり僕の問いは問いであっていいと思うんだけど、どうだろうか?
「市場メカニズム〈神の手〉に、僕らが僕らの社会を「どれくらい」そこに委ねるべきなのか――?」

わけのわからないものを考えるとき、きっとほとんどわけがわかっていない。どれくらいわけがわかっていないのかもわかっていないのかもしれないし、それ自体もわかっていない。だから前提とか基礎とか何度やったってわからないし段々わかっていってるのかもしれない。無知の知だとか言いながら。
そして僕が未だわかっていないのは、そもそものそもそも、市場経済とはなんぞや?であった。

とりあえず経済学というモノサシに乗っかって、規定してみることにする。
人間は「できるだけ自分にとっての利益が最大になるように行動する動物」
企業は「できるだけ企業に関係する人々の利益が最大になるように行動する組織」

そんなことを考えながらここ数週間ほど過ごした。
最近、両親が不動産物件を探し始めている。老後の田舎移住計画はすったもんだしてるらしいが、それ以前に今住んでる家がいい加減に耐震がやばいんじゃないかとビビり始めたらしいのだ。とりあえず近辺でもいいから引っ越したいらしいのだが、しかしなかなか進展はしていない。同時に、takebonoさんの願望の一つ・ルームシェアもなかなか進展はしていない。何故かってっと、土地というものがあまりにも高いからだ。当然。日本の地価は、大都市圏は人々の年収に比べて異常に高い地価。持ち家は相当困難なことであり、ローンやら相当な金やらを積んでも、通勤ラッシュを逃れられないくらいの住宅環境におかれること多々。賃貸となると、狭い割に家賃が高く、借家人の生活も楽ではないこと多々。日本の地価は欧米主要国に比べて高いのは自明だ。

そこで思うわけです。そもそも「価格」とはなにか?ということを。
商品の値段とは、「生産費+流通費+利潤」を一つの見方として。そして一方では。
「価格」とはそもそも「誰が」「何を」「どんだけ」消費するかを決める手段の一つである、わけです。需要と供給のクロス図−あの誰もが一度は見る「需給曲線」が全てを物語るわけです。

「価格」。これこそが市場経済が誇る最強のメカニズムです。「神」とまで言われた「価格」さん。それは一つの神秘な秩序でもあった。
そもそもこの世において、限りある資源や財に対し、人の欲望は限りがない。人間が「できるだけ自分にとっての利益が最大になるように行動する動物」ならば、誰もがモノやサービスを手に入れたいと思い、行動するはずだ。奪い合い、殺し合うかもしれない。できるだけ秩序や正当性を保ちながら有限な資源や財やモノやサービスを分配するにはどうすればいいのか?を考えたとき、いろいろありますね。「試験」、「早い者勝ち」、「抽選」、「コネ」、「ジャンケン」、「戦争」、「共産主義」、「ジャイアン」なんかがあります。
そして資本主義社会では「価格」こそがそのトップに君臨するのです。今日の僕は99円ショップで野菜ジュースを買いました。なぜ僕はそれを買ったか?
ちょうど2年前の今頃の季節に、僕に「自己分析」について語ってくれたあのKRちゃんの顔が浮かびました。自己なんか分析する前に、経済を分析した方が絶対に良いです。そんなことは今だから言えるんだけど。
〈→→〉

日々

2006年4月16日
これでいいんじゃないかなあって。
思っちゃうんだよね。
充実とかってわかんないんだけど。
勉強や読書が面白いのだ。
スポーツがすきなのだ。
むしろ勉強の息抜きにバイトをしてるくらいだ。
遊ぶ金ぐらいはある。でも遊ばないから意味がない。
これで生計が立てられないのかなって本気で思っちゃう。
日本そして東京圏はバカみたいに地価が高いからな。結局そこなんだよな。やっぱりルームシェアしたい。
はるか昔からそうだけど、僕は消費しない。
「物欲ゼロ」と呼ばれたこともあった。
トレンドや消費的活動は最初から拒否しちまう。というか、特に衝動がわかない。
いい家もいらない。いい服も、いい車も、いい女も、いい賃金もいらない。僕にとっていい暮らしとはそういうものではない。薄給でも時間がたくさんある方がいい。読書やスポーツをして、文化や教養を嗜んで、友達や仲間たちと時間を過ごして、政治や経済を思考し、地域に貢献し、家族や仲間と触れ合うこと。
恐らく純粋とかいう言葉じゃないのだろうけど、人をすきになりたい。
これだってかなり恵まれてるはずだ。だからこそなんだけど。
一生、だとかってわかった気にもなりたくもないんだけど、とりあえずそういう生き方がいい。
たぶん65才まで生きていない。
恐がりだけど。そう思う。
何かしたいとかいうより、何かするのだと思う。ごく自然に。
いまがすきだ。
なんか最近ずっとそうだ。
こんなんでいいのかなって。
だめな部分はもちろんある。
でも、いい部分も確実にある。

夜はうちでSKと軽く飲みました。適当すぎるんだよ君は。でも、楽しく生きるのも能力のうちさ。ビールごちそうさまでした。
昼は総合体育館でバドミントン。
兄妹やら姉弟やら夫婦やら同級やら地域ゴミュニティーやらなんだかごっちゃごっちゃな繋がりで、でも楽しく遊べました。スポーツはいいわ。ポテンシャルショットを極めつつあります。I氏には面白いように決まっていたのに、なぜかMM氏には効きませんでした。ダブルスでは負け組続きになりました。シングルでは2勝1敗でリーグ優勝を逃しました。ビールが美味しかったです。MM氏と語ると特にそうですが、最近、論じる言葉がスムーズです。講演でもやってもいいくらい適切な言葉を無駄なく無駄な狙いもなく、ただ伝えたいために並べて口に出せてるような気がするのです。酒が入ると冴えるんだよね僕は。

夜は新宿で、名古屋へ赴任するM君の送別飲み。当分会えませんががんばってください。名古屋はいいとこだよ。
カラオケも行きました。「僕の右手」熱唱中にいきなり店員が入ってきて、おすすめメニューをPRし始めたのにはイラつきました。もう一回初めから歌ったけどね。
比較しようもないほど全く異なる道を行く二人ですが、ソウルが導いてくれますよ。
つうか送別飲みなのに手持ちが足りなくてほとんどM君に支払わせてしまいました。ほんとすまん。名古屋で手に入らないものをいつでも送るのでゆるしてね。

< 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索