それからも

2006年7月2日
昼過ぎに、雨の降る渋谷からあっさり帰宅。
喉の調子は最悪になった。

中央線の車窓にほっとした。

こんな日もあります。

いま、穏やかなものです。
人を信じたいものです。
こんなにも豊かで貧しい街にあって。

精一杯がんばって生きてる人たちがいる。
それ故に胸が痛む。
その人たちが目を向けないものを見ることが、僕のソウル。

僕はこんなふうに生きているんだな。

もっともっと人と話したい。

世界に、酔う

2006年7月1日
世界に、酔う
昼間TAさんとだらだら遊んだ。
強運だな、と思った。

夜はMM氏のお家におじゃましてワールドカップ観戦。
写真は世界のユニフォームと世界のビール。

ポルトガルがイングランドを倒しベスト4。
ほらみろほろみろ。
takebono個人的優勝候補ポルトガル、きたじゃん!
だからクリスチァーノロナウドは凄いんだって。
「ポルトガル?ありえねえッすよ」とか言ったあいつ。今頃何してるかな。
そして肝心のブラジル−フランスを見損ねた。酒が入りすぎてて眠くて眠くて。

結局セレソン負けたそうだね。そんなものさ、サッカーは。だから素晴らしいのだ。

MM氏と色々語った。
世界のサッカーと世界のことを語った。
人はいろんなもので生きている。可視的な言葉にしちまうとそれらは実にいろんな単語群だ。カラフルかもしれない。雑多なんだろうとも思う。夢とか、欲望とか、思想とか、案外それらは惰性なんだろう。
「死なないために生きているのさ」(by?)

ただ、僕は、まだいいと思う。
この世界で最強を謳歌する、妥協と惰性。
まだいいと思えるうちは、きっとそれはまだいい。
死が迫る。あらゆるものの終焉が迫る。
この世でまだ、まだ、やりたいことがたくさんある。
それは僕の創る価値に依存するのだ。

みんなそれぞれの価値観を生きることしかできない。恐らくはオリジナルな葛藤もあるんだろう。偶発的な共感を呼ぶことだってあるかもしれない。ただ、そのほとんどは報われないような気がしてならない。「手に入れたい願望よりも、失うことの恐怖の方がずっとずっと強い」からだ。わかっていながら、いつの間にか、いつも通り、時間は過ぎていくんだろう。それだってわかってたはずだ。「葛藤とは、決して抵抗ではない」からだ。そうだろ。

「誰かが用意した道に、先など無い」(by?)

MM氏に言わせればエモーショナルな。
僕からすればソウルフルな。
等身大に、正面切った、自分。
現実を、変え続ける、自分。

どうにもならない気持ちを、どうにかして、僕らは、実際に、それをどうにかしようとしているのだろう。

素晴らしいと、思ったよ。
いまの僕は命をかけてそれを守るだろうな。

僕をあの目で見てきた人たち。僕は半端だったんだろう。
聞くに堪えない戯れ言。取るに足らない歴史。
「一切聞く耳を持つなッッ!!」(byオーガ)

白痴が白紙を説く。
そんな絶望の国で。尚、声を大にして言おう。

生きているということは素晴らしい、と。
Kの熱湧く横浜アリーナ
横浜アリーナいってきました。
K−1MAXね。

ま、なかなか楽しくて。
風邪気味だってのに。
ビールをやたら飲んじゃって。
決勝戦あたりでは眠かった。

武田幸三はスーパーファイトなのに声援がひときわ大きかった。しかしこんな試合を続けてたら彼は体おかしくするね絶対。目が既にやばいんだってね。

しかしダウンの瞬間って沸き立つものがある。
3分って早いんだなと思った。
あとグシャッとかメキャッとか、鈍い音って致命打みたいね。

そして結局ブワカーオ。
強いなこいつは。

新横浜遠い。疲れた。
眠い。

いやあー。
楽しめた!!

冥土陰邪犯2

2006年6月29日 読書
かつて野球界を震撼させたといわれるあの「江川問題」における、あの「空白の一日」とは、契約社会の不備を衝いた怪物スグルの一撃であり、この事件はそのまま、「契約」社会の薄さと、「一方的」を忌み「話し合い」が尊重されるこの社会の体制を現していたといわれてるんだそうだ。
結局、明確な契約が決め手にならない社会だということだ。「非競争的」といわれる一面もこうゆうとこからなんだな。日本は、どんな契約だろうと「一方的」はだめで、「話し合い」が決めうる社会でもあるという。つまり「話し合い」に基づく慣行さえあれば、それは超法規的に許される社会なのである。一方的な法の遵守がNGで、合意の上なら多様な違法も曖昧にOKになる。これを馴れ合いというか、現場の裁量が大きいというのか、規定が曖昧だというか、いやそれ以前にやはり「個人」が無いというのかもしれない。

誰も守ってないことが周知の事実になっている法律なんかいくらでも存在して、そしてそれを暗黙了解の上で社会が正常に機能している。じゃあ何のために法律や取り決めがあるのかというと、例えば何らかの伝統的規範からの逸脱があって初めてその法が活用されるためにあるのだという。そうだ、規範さえ守っていれば、厳密な違法なんて糾弾されやしないのだ。「ホンネとタテマエ」社会と言われる所以だ。 数々の不正や汚職の事件のニュースは、どれもこれもがずーっと前から違法であることが周知の事実の上で続けられてきたものだ。建築もサラ金もインサイダーも、どれも今に始まったことではないことくらいみんながみんな知ってたはずだろ。

契約外の労働にも、法を守れない企業が生き残ることにも、全く愚を感じる。そんなことをかつては思っていたけど、この国ではその当たり前のことを通すことこそが困難だということなんだ。
わかっているのだろうか?
株保有は「投資」だ。
就職は「雇用契約」だ。

半端な資本主義をしている日本。ムラカミだってそれを言いたかったんだろう。だが、それでも愚かだ。無知無力なまま、株保有は投資になりつつあるし、就職は雇用契約になりつつある。真の競争的競争がこれから始まる。極めて無知無力なままで。「慣習」が廃されたとき、初めて本物の資本主義に晒されたとき、この国で真っ先に喰われるのは無知無力な庶民たちだと思うだけだ。

強くならなきゃだめだ。強さとは何か?はまだわからないけど、でも、僕がかつて信じた力こそが強さのような気が、今になってするんだよね。

弱い者は喰われる。喰われるのが嫌なら喰う側にまわれ。共食いしたくないなら支配者たちと闘え。闘いたくないなら我慢しろ。我慢するのが嫌なら、死ね。
弱者が、闘うこと無しに、この世を生き残れるわけがないのだ。
卑屈な共食いは勝手にやればいい。弱い者がさらに弱い者をたたいてどうするんだ、と思うけどね。
支配者たちとの闘いにだけ、僕は弱き者に手を貸してやる。
そいつが、この冥土の国に放つ僕のソウルの一部だ。

冥土陰邪犯

2006年6月28日 読書
冥土陰邪犯
昨夜のSKさんの横暴クライマックスのせいで体調がガクガク。SKさんとは本当に決定的に分かり合えないけれど、お互いそのことを認め合えてると思うし、それでも馴れ合いやキレること無しに語り合えうるから素敵です。相手を傷つける武器を持ちながらにして手を繋ぐことってのは、一つの現実的な平和なのかもしれないね。武器を捨てることじゃなくて、手を伸ばすことなのが。 ただSK君には、そこらの大人たちのように、現実に手も足も出せない虚しさや、疲れ果てるだけのダンスのような虚構現実へのもがき方は、必要ないと思ってたんだよね。この僕が正しさを説けるわけがないけれど、まあせいぜい藻掻きに協力してはやりたい。きっとそんな時代なんだろう。

最近は、山本七平『日本資本主義の精神』読んだ。でもちゃんと読まなかった。
思想史だとか精神の形成史だとか全くよくわからんくて、イマイチサッパリパリンだったんだけど、ともかく日本資本主義の精神基盤が形成されたのは江戸時代だとかいうことが書かれてた。日本の近代化は外からのものだったけど、資本主義の精神基盤は封建時代の徳川期に形成されていたものなんだそうだ。藩政だとか、禅の思想だとかが、結局エコノミックアニマルにも通じてるんだそうだ。
日本資本主義は、日本の民主主義同様に、未成熟で不完全なのだと思ってたけど、それは実際オリジナル資本主義なわけか。本流の資本主義に移行しつつある今だからこそ、またしても、日本流のそれを不完全とみなすのか、オリジナルのものとしてみなすのか、誇るのか、支持するのか、批判するのか、その辺りなのかなあとか思った。

資本主義は、全てが同じ性格を有していない。それも当然実感は無いけれど、アメリカもヨーロッパもアラブもアジアもそれぞれに異なる資本主義を持っているんだそうだ。日本の資本主義は「日本型資本主義」と度々そう呼ばれてるやつだ。かつては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界から賞賛され、嫉妬され、或いは「日本的経営」「金融社会主義」「日本株式会社」だの言われたやつだ。「日本では経済学、経営学は役に立たない」とまでいわれた所以のやつだ。
西欧資本主義ではプロテスタンティズムがそうであったといわれているように、日本には「日本資本主義の精神」が独自に存在するという。それは「見えざる原則」によるのだという。日本資本主義はこれで動いているのだとさ。

例えば、日本の雇用社会は「終身雇用制度」ということになっている。近年崩壊しつつあることも含め、多くの人が一応はそう認識してたはずだ。だけど不思議なことに、「終身雇用契約」というものは実際には存在しない。例えば採用面接の際に「貴社は終身雇用ですよねぇ?」なんて言ってみろ。ソッコー不採用ケッテーだ。「えー!終身雇用制度だと言いながら、終身雇用の契約は無いの??」と、外国人は不思議顔で質問するそうだ。僕ら日本人は「まあそうですねぇ」と答えるほかない。興味深い。よく考えてみると、「終身雇用制度」を基準に、出世戦争が存在し、入社戦争が存在し、大高中小の受験戦争が存在しているからだ。延々と敷かれている悪名高き脳死人生レールのピラミッドのその正体は、なんと実体の無い「終身雇用制度」に基づいていた。そうなんだよな。日本の資本主義は欧米のような「契約」ではなく、「慣習」に基づいているのだ。

就職は「雇用契約」である一方で、「企業神」をシンボルとした「共同体への加入」なのだという。日本の会社は、必ずしも「利潤追求」「労働力を提供して賃金を獲得する場所」ではなく、純粋な機能集団ではないという。それは、コミュニティーなのだ。正社員こそが血族のコミュニティーなのだ。故に「正当解雇」は「希望退職」なんだとさ。だから非正規社員は無権利状態のまま放置されてるわけなんだとさ。
「公共精神が無くなった」とか「地域の崩壊」とか言われる、あれ。政治家型無責任発言典型例の、あれ。そうなんだ。日本人の公共は「企業神」の方だったのだ。会社という共同体維持のためにはいくらだって奉仕する人間が、自分の属する共同体(社会とか地域とか家族とか)にはまるで無関心なのは、企業入社こそが擬制の血縁集団への加入だったからなのだと。年功序列。終身雇用。福利厚生。アフター5。系列。談合。これら日本特有といわれる企業社会特有の単語群は、そこからきてるのか。わからん。
この国は、馴れ合いとしがらみと慣習が、資本主義の基本である「個人」をも、ときに凌駕してるのか。
僕がかつて通っていた大学の女子大生が誘拐されるという事件が起こったらしい。(出自特定されるなまどーでもいっか)おかげで一気に我が母校は知名度が上がったはずだ。
うちの親父は「狂言誘拐じゃねえの」とかのたまっていたが、まあそう思われても仕方ないほど、どこか奇妙な事件だなとは思った。なんか不自然なとこがいっぱいあるような気がする。
まあでも僕が知ったこっちゃない。くだらないニュースだ。よっぽど暇なんだな、マスゴミが。

夜中、土手で涼んできた。
SKを飲みに誘って、きそうだったけどすっぽかしやがったな。やってくれるのーあいつ。
結局マルボロをふかして、一人で考え事をした。

僕はいつも考え事などがあるとき、土手か公園によくいく。静かだからだ。とりわけ近所の土手は人気が無くて最高の場所だ。まだ河岸が整備される前にもよくきたことがある。高校の時は学校をサボっては僕はよくあの土手で寝ていたりした。
土手からは高速道路が見えて、夜中は向こう岸に映し出される夜景がすんげえ綺麗だ。いつか、ビールでも飲みながら、この夜景とこの静かさを、僕が尊敬する人やすきになった人と一緒に見たいと思っている。たった一つだけ、僕がこの腐った街ですきな場所がここなんだ。

近い将来、僕はこの腐った街を出て、地方にいきたい。そして実際にいくんだろう。そのときまで僕は、精一杯数々のコミュニティーやゴミュニティーを育てときたい。最後の最後に残るソウルは、シンパシーだから。

今朝読み終えた小説が少しまだ僕の中に匂いとして残っている。感性で生きる20代は、たぶん、あっという間に終わってゆくんだろう。それでも、自己陶酔だけで終わらしちゃいけない気がするのだ。
なんでなんだろう。時間がないような気がするんだ。本当は、残された時間ってホントに少ないような気がするんだ。
あと、なにができる?
僕はこの心臓の鼓動が終わるまでに。
この脳のこの回転率が衰えてゆく前に。
やり尽くすこと。
生き尽くすこと。
焼き尽くすことを。

これまで生きてきて散々否定されてきたけど、たぶんそう在るべきだったと思うことがいま一つある。そしてそう在られては困る人々が、それを散々否定してきただけなんだってことにも、もうわかってしまった。

正しさの根拠は、自分だってこと。

僕が外側なんかほとんど見やしないこと、知ってるだろ?
内面を見たくて仕方がないんだけど。
じゃあ中身はあるのかい?
恐くなる。
なんて僕はダメなやつだろう。

僕はいま、三度、出会いたい。
ソウルに。
ノベルを述べる49
◇ボストン・テランの処女作『神は銃弾』。MM氏から借りてたのやっと読み終わった。ハードボイルドバイオレンス小説。
−地獄のカルト集団が、別れた妻を惨殺し、かけがえのない娘を連れ去った。ボブ・ハイデガーは、地獄から生還したジャンキー更正患者ケイスと共に旅に出る。教祖サイラスのナイトメアが砂塵に舞い上がるカリフォルニアの広大な大地を舞台に、ドラッグと血と精液の混じり合った世界が蠢く中で、呪縛と正義を飲み込んだ神の追撃が始まった!! ただ一つの、贖罪を求めて!!!
「でも、本物になりすますことに成功して、世間に流布してるものがひとつある。何物にもとらわれない自由な銃だ。…見なよ。これこそ完全な命の形だ。至高の芸術形式だ。誰にも平等な偉大なるものさ。これは政治の境界も社会の境界も宗教の境界も全部越える。これにはなんのしがらみもない。だから誰もえこひいきしたりしない。向こうにもこっちにもどっちにも傷を負わせる。これは、ゴミみたいな偉ぶったたわごとを並べて、聖書が撒き散らすくそ寓話のどれにも負けないくらい単純で深いものだ。これはその背に歴史を負って、眼の前にあるもの全てを薙ぎ倒す。信仰は全てこの処女真鍮の莢の中にあるんだよ。…そうとも。これこそ新しい宗教を生み、古い宗教をやっつけるものだ。コヨーテ、神はいるよ」

◇前NHKワシントン支局長の手嶋龍一が「知られざる拉致」の闇を描ききり発売前から騒がれてたというドキュメントノベル『ウルトラ・ダラー』読んだ。無知な僕には小難しかったけど、結構魅せられた。こうゆうの書くのってすごいな。半島情勢や中台問題。実際アメリカと中国は今後どうなってゆき、日本と北朝鮮はどうなってゆくのだろうか。
−昭和43年暮れ。東京・荒川に住む若い彫刻職人が、忽然と姿を消した。それから35年以上の月日が流れ、その日ダブリンに超精巧偽百ドル札が現れた!! 震源は、「北」!! 「ウルトラ・ダラー」を巡り、全ての真相が交錯する。「北」の狙いとは? 陰謀の先に待ち受けるものとは? 世界を震撼させる偽造紙幣攻防戦を描いたドキュメントノベル。
ただ、ラストは、えぇっっ?!と思った。

眠い。
言葉がシャワーのように湧き出てくる。
どんだけが無駄なものかわかんない。

ほらみろポルトガル。
MM氏のつてで、荒川区までバスケしに行きました。車出してもらってありがとございました。
ほんとに、バスケはきつい。完全にガクガクになった。でもすんげえ楽しかった。

今日はその後で、色々考えることがありました。
たぶん、僕が東京にいる間に一回は起こるだろうなと思っていたことが今日起きたからです。ブログは誰かに見られてるものだ。でもそんなことも意識せずに、今日のことは書いて残しておきたかったから書きます。

完全に一人になった後で、高ぶってたわけでもないと思うんだけど、また一人で夜の公園をうろついた。公園のベンチに、タンクトップ姿でカップラーメン食ってる外国人の方がいた。話しかけようと思って、手持ちぶさたなので、15M離れてるコンビニまで走ってキリンビールを2缶とマルボロを買って戻ったら、その白人の方は逃げるように公園を去るところだった。たぶん、ベンチの脇にいた猫を僕がじーっと見つめていたのが、「あいつ俺のこと見てる」と思われたのだと思う。ああ話したかったのに。君とビールが飲みたかったのに。
ビールは結局飲まなかった。

今日のことについて、思った。
一方的なものが正義であるはずがない。
そんなこと思うのは僕がまだ無知だからか?
僕が何を、物事の何を、誰よりどれくらい知ってるというのか?
人間は多様なんだ。
そのときわかりあえなかった人間が、どうして自分にとって無価値だと言い切れるのか。
「わかりあえてる」ことを信仰してる者同士が、何をわかった気になって、その信仰内でだけ、感情を自由にするのか。
違って、良いのだ。異なるから、人間なのだろ。
どうしよーもねえ奴だって、精一杯、できる限り、一生懸命生きてるんだよ。僕がその一人じゃないかよ。誰がそのことを否定できるんだよ!!

「聖者になんてなれないよ、だけど生きてる方が良い」(byB・H)

全てから逃れられるわけはない。どこかで立場を決めなければいけない。僕はしかし、あの一方的な正義からは、どうしても中立で在りたかったんだ。
ハッキリとじゃないけど、わかったような気になった。
自分にとって大切なものを、そのかけがえのないものを失う恐怖が、他人になどわかるものか!!
なぜ認めない? 自分とは異なる者が存在することを。そして他の誰よりも、僕らはそのことを確認し合わなければならなかったはずだろ?
利害を廃した、それでも惰性でない誠実なコミュニティーに足りうるソウルとは、シンパシー以外にはなかったのだ。
少なくともいまの僕はそう考えている。

誰も悪くはない。故に傷つけ合うのが人間じゃないか。
この繰り返される怪物のような愚かさに、僕は幾度も絶望しかけた。それを救ってくれたのも、また人間のコミュニティーだった。だから。
まだ信じてるんだよ。正しさをじゃない。可能性をだ。僕にだってわからないそれをだ。
これが一つの、現実の一面であり、決着の在り方だ。今まで見て見ぬふりをしてきたものかもしれない。
何もかもわかりあえないけど、僕はみんなのことがすきだ。「正しさ」にじゃない。一人一人の人間性に共感してるからだ。間違っても「これが正しいのだ」なんて言いたくはない。

そうさ、MM氏の言うとおりさ。
目的のための、人間関係など、必要ないんだ。
すきだから、意味があるんだ。

それでも今日はやっぱり申し訳なかった。
ゴメンね。

ああちっくしょーどーしょーもねー駄文だな。
くそったれ。
もういいや。
ヴルーだ。
あの白人と飲み損ねたビールで、エクアドルを応援してます。
◇『文学2006』を読んでみた。最近の純文学作家の作品を集めたやつだ。糸山秋子とか青来有一とか藤沢周とかは聞いたことくらいあった。読んでみて、なるほど純文学はわけわからんかったけど、なるほど文学チック。興味深かった。思うにそれは、人間社会の「隙間」のようなものだったり、どうにもなりようもないちっぽけな狂気のようなものだったり、お粗末な背徳のようなものだったり。そんなものたちがイマジンされて、凝縮されて、濃厚な文章になってくるのだ。
安吾が言ってたね。どーしよーもねー死んでもいーようなそれでも生きてるクズ人間が、それでもどうしよーもなく振り回さずにはいられないボーキレのようなものが文学だ、と。あれしっくりくるmyヒットな例えだなと思ったっけ。
僕も思うのです。瞬きするように、息をするように、屁をこくように、表現することの、最低卑屈レベルの、何たるかなんだと思う。素晴らしきくだらなさなのだと思う。孤独の味や、寂しさの匂いや、虚しさの嘔吐物のような、何たるか。そこでは涙なんか流れようもなく、天国でも地獄でもない人の世の、ただひっそりとした情緒なのだと思う。
死なないために生きている人間たちは、生きる糧を得るためにそこら中をうろついてる。飽食や虚飾を繰り返しても生き足りないやつもいる。そして僕のような人間は、そんなことすらできないくらいバカなんだと思う。同情しようもねえほどダメなんだと思う。ハキダメ−覇気駄目。音楽する人はだから演奏するんだと思う。歌うんだと思う。「だから僕は歌うんだよ精一杯でかい声で」(byB・H)。
何か表現したくても、それは陳腐で、卑屈で、キレやすく、語彙力に乏しくて、適切な単語を選べなくて、ろれつだって回らない。でもだからこそ言葉なんだ。殺意とか吐き気とか悪魔とか自殺とかなんでもいい。自殺といえば、いじめ自殺した子の漢字ノートにびっしり書き込まれてた「溺死」だの「感電死」だの、ああゆうの、ああゆうやつなんだよ言うならば。
ダメ人間ってもしかして僕のことじゃないのか? ヘイヘイ、しかしだからこそ生きていられるんだぜベイベとベイヴ。 今生きてる、この生き方以外の生き方なんて、僕には最初から無いくらい見えなかった。
朽ちてゆくのだと思う。だけどそれは現在を確かに救っている。僕にとっての創作とはそんな感じだ。文学も同様なのだ。最近またマンガを描きたくなった。未来なんか無いから、今を生きていられる。真剣に誠実になれるんだと思う。
恐くなるまでは、のたうちまわれるのだと思う。
僕こそが生に執着しているのだから。

生田紗代の『金魚の死後』は、わけわからないんだけどそれっぽかった。半同棲中の男女が、水槽で飼っている金魚の死後について延々と話すだけのストーリーなんだけど、ポストモダンの産物的作品なのだそうだ。まあそれもわけわからんのだけど、でも一番ピンときたのはこの作品だった。 この作家さんはまだ若くて、僕が通っていた大学を卒業した方らしくて、2年先輩に当たるらしい。若いこと。まぁ一つにそういうことなんだろうと思う。逆に言えば、僕らが文学やるとき、このようなものしか描けないのかもしれない。ポストモダンというか、アフターバブルなのだ僕らは。 一方でベテランの作家さんは文章が重かった。こんなんは書けない。さすがだった。

文芸雑誌買ってこようかな。
明け方に運命のブラジル戦を観るため、12時過ぎに寝る。
そして夢を見た。
夢の中の僕は、カレーを食いながら試合を観ていた。
サムライブルーの、誰かのゴールが決まった。
あああ。
奇跡は起こるんだ。
世界が、揺れた。

4時前に目が覚めた。試合前だった。日本のワールドカップ最後の試合が始まった。
やはりカワグチは神懸かっていた。ブラジルのシュートを何発も防いだ。
吠えていた。叫んでいた。「くるならこい! 一本だって通しやしない!!」(by日々野弟)
前半34分。サントスが突破してタマーダが裏に飛び出して!叩き込んだ!!日本中の祈りを込めたゴールだった。これまで何万回も繰り返してきたジーコジャパンの攻撃パターンだった。
ああ。
日本代表は何度死んだのだろう。日本の夢は何度砕け散ったのだろう。
でも。こうやって。地獄の淵から。いつだって。日本代表はよみがえるんだ。何度だって。何度だって。
奇跡は起こるんだ。
もしかしたら。
もしかしたら。
サッカーは夢を見るスポーツ。
誰にだって夢を見る権利がある。
そう、僕だって。

夢を見た。
その一瞬だけそれは美しく燃え、燦然と輝いた。

熱狂!!!!!!
そして敗戦…!!!!
ブラジルは強かった。圧倒的に強かった。カワグチが何発防いだって、カナリヤ軍団はその倍のシュートを撃ち込んできやがった。
世界との差。
ブラジルの2点目。ジュニーニョのあのシュート。リヨンでは何回も観客とGKを震え上がらせたあのシュート、無回転で揺れて落ちるスーパーシュート。さすがのカワグチも止められなかった。
アドリアーノやロベカルやカフーを温存しても、控えにロビーニョやシシーニョやジュニーニョがいる。ロナウジーニョを潰しても、カカがいる。結局、力が違ったのだ。
サッカーが、違ったのだ。

わかっていたことだ。ブラジルの強さくらい。昨日の時点で。思い知ることくらい。
僕は偏狭なナショナリズムが嫌いなので、にわかサッカーファンみたいにキレたりしない。「よくがんばったね」とだって言葉だけなら言える。
でも、笑顔にはなれない。
夢を見てたからだ。
中田の涙にそれを気付いた。
夢。見てたんだよな。
サヨナラ、ドイツ。

夢は。
夢のままで終わらせよう。
この夢の果てを。
その続きを絶対に見るために。
きっと立ち上がるんだぜ日本サッカー。

2006年6月23日早朝。
日本の夢が終わった。
僕の夢も終わった。

日本の歴史上3回目の挑戦として。
日本代表のワールドカップが終わった。
ローウェル・ジャドーの言葉を引用しよう。
「言葉とは、届くものなのかい? 伝わるものなのかい? それらは概してそんな風にできているのさ」

僕たちは、もっと、吐くだけではない言葉を、それでも熱く、大切に、それを創りあげていかねければならないのだな。
プロフェッショナルは、自分のエゴを抑えながらも、そのことに触れなければいけないのだな。
この問題は、あと100札の本を読み、100人の人と語り、100作品を書き上げたところで再考してみることにしよう。

今日は眠かったな。
早朝のブラジル戦にそなえて眠ることにしよう。
明け方の列島は、ブラジルがどんだけすげえか、思い知るだろう。
だがワールドカップの果てにある。
最初で最後のサプライズ。大大大番狂わせが。
神はこのときのためにとってあったのだと、後に言われるほどに。
凄まじい試合を魅せてくれ日本代表!!!
これ以上ない王者が相手。これ以上ない大舞台だ!!
何度だって甦る。
最後の最後の最後まで。
奇跡を夢見て。

夏至の愛歌

2006年6月21日
バイト先で、かなり暇だったもんで、高校生の子とずーっと話をしてた。愚痴でもあり悩みでもあり夢や希望でもあるような話を、延々と。若さは素晴らしいと思った。そして、この僕が大人ぶってこの世の何を知っているというのか、と思った。そんなこと傲慢すぎるから、結局まぁ何も伝えてあげられないんだけどさ。それでも人と人が語りうるのは素晴らしいことだよな。
昨日SKと飲んだときも思ったけど、人とは多様なのだということ。故に、ある価値観を否定するようなことが、一体誰に出来るというのだろうか。誰もが精一杯生きているじゃないか。それをシンプルに認めてあげたいのだ。僕は。それだけだよ。
いくら年を重ねたって、愚かな奴は愚かだ。
いくら若いからって、全てが許されるわけではない。
「正常」な人間とやらが、「マジョリティー」を信仰している奴らとやらが、大国がアフリカ大陸の植民地にやったみたいに、ストレートにラインを引きやがった。人間という複雑すぎるものに対して、何の根拠もなくカテゴライズしやがった。
僕は異常なんかじゃない。ましてやマイノリティーなんかじゃない。そんなこと考える以前に、僕は僕なのだ。何の葛藤もいらない答えだ。いじめる側にも、いじめられる側にもつきたくなかったあの頃の気持だ。
人と人はなにもかも分かり合えない。それはもはやファイナルアンサーだ。だから、人を信じるとは、自分自身を信じることなのだ。その人を信じる自分をだ。

思わないか? 全く違う人間が目の前にいるということに。それが奇跡だということに。僕はこの年でようやくわかった。
奇跡の価値は、それを愛することで、見守られるのだ。

君の。これまでを。
生きてきたもの。
読んできた本。
聴いてきた音楽。
観てきた映画。
出会ってきた人間。
付き合ってきた友人。
愛してきた恋人。
過ごしてきた家族。
飲んできた酒。
涙を流したこと。
喜んだこと。
恐怖したこと。
愚かだったこと。
歌ってきた歌。
口ずさんできた詩。
歩いた道。
登った壁。
祈ったこと。願ったこと。

それら全てが。
いまここにいる君自身を形作っている。
一挙手一投足が。
目の前にいる、ただそこにいる君が。
発す言葉さえ、そうなんだ。
君の生きてきた、有意義で不毛で素晴らしく愚かだった、かけがえのない全ての過ぎ去った時間を含めて。ここからの未来を含めて。
いま。僕は君がすきなのだ。

僕と親しくしてくれているみんな。たぶん僕は、一人一人を、またそれぞれのソウルで、リスペクトしているよ。嫌いな奴なんて、一人もいない。 これは他ならぬ僕の言葉だ。僕の言葉なら、信じてくれるだろ、みんな。
何があっても。
僕は君の味方だ。
なっ。
ノベルを述べる47
◇前から読みたかった京極夏彦『姑獲鳥の夏』やっと読みました。なかなか、なかなか、面白い。言うならば、攻殻機動隊みたいなネタが、民族伝承や民俗学と絡む辺りが素敵。京極シリーズ全部読もうと思いました。
−「20ヶ月もの間、子供を身籠もっていることができると思うかい――?」
昭和27年の夏――東京・雑司ヶ谷の古い病院で、その世にも奇怪な事件は発生した。鬼子を宿した女。密室から消失した夫。呪いの血筋。灰色の記憶。そして――姑獲鳥(うぶめ)。 本格ミステリ界に賛否両論の大旋風を巻き起こしたという京極夏彦の恐るべきデビュー作。
その怪奇性に惹かれながら、takebono夢中で読み終えた。古本屋陰陽師・京極堂は言う。
「この世には不思議なことなど何もないのだよ」と。

◇坂口安吾の『白痴』読んだ。もうどうしょーもねー堕落ストーリーの総集編。さすがデカダン派観念的私小説のカリスマ安吾。『堕落論』をそのまま小説にもっていった感がまざまざある。『堕落論』読んでても思ったんだけど、takebonoの文章と雰囲気が似ている理由がわかった。安吾は「魂」という言葉をよく使うからだ。それは僕の「ソウル」と似ている。言葉では説明しきれぬものに対して在る、自分だけの観念のようなもの。そしてその「魂」の行方こそが、安吾が文学の先に見つめていたものだった。だから彼はこんな文章が書けるのだと思う。
−白痴の女を押し入れから引っ張り出し、私は焼夷弾の雨を逃げまどった。何もかもが焼け、その跡だけが残り、生きるために灯されていた何もかもが消え去っていた。それでも人はよろよろと生きている。寒すぎる今朝に、自分と自分の隣に寝ている豚の背中に、太陽の光はそれでもきらめいて降り注ぐだろうかと考える。いずこへ。いずこへゆくのか。
安吾の言葉は、刹那的で、退廃的で、病的で、卑屈で、自虐的で、すごく人間的、そして、何よりも優しく、何よりも美しく、リンダリンダ的に僕に語りかけてくる。圧倒的な孤独と生の輝きがそこにはあって、僕の高ぶる脳の周波を鎮めてくれたりもする。安吾の声が聞こえる。優しい声だ。彼はがんばれなんて決して言わない。前を向こうだなんて決して言わない。あいだみつをなんてクソクラエ級の言葉たちだ。
死ぬな。死ぬなよ。生きろ。生きよ。生きて、堕ちよ。
それは僕にとって、涙が出るほど欲しかった言葉たちだった。

ある世界の夢

2006年6月19日
激闘の一夜が明けて、昼近くに起きた。先週は結局まともに帰って寝た日がなかったから、疲れてたんだとも思う。
ああ、そうだ。
勝てなかったんだっけ。
クロアチアはさすがだったな。ワールドカップはさすがだったな。

勝てた試合だって? あれが?
柳沢はインサイドで蹴るべきだったって?
へえ。
そうか。
そう、かもね。
きっと、そうなんだろうね。
だからどうした?なんて言わないよ。

ブラジル相手に2点差とか3点差だとか、無理だろーそれ。
控え組が出てくるだろうけど、それでも無理だろー。

それでも。
勝ってくれ、と願う。
夢見せてくれ、と祈る。

そうだ。それでも。
サッカーを、愛してやまない。
日本代表を、愛してやまない。

華々しく勝利することも。
壮絶に戦い尽くすことも。
雄々しく散ることも。
あの白黒のボールたったひとつの動きに。
これほどまで魅せられる時間はもう絶対にないから。

「もしも、もしもシュートが叶うなら、その場で死んでもかまわない」(by阿部)

ワールドカップだよ。
ワールドカップなんだよ!

「サッカーが、大好きで…」(by本郷)

「これほどまで…人々を魅了する…ワールドカップとは…?」(by伊達)

最後に夢。魅せてくれるはずだ。
僕の、日本代表。
僕の、ワールドカップ。
僕の、サッカー。

それは夢。
現実なんて軽く超える。
伝説なんて軽く超える。
一瞬なのさ。いつだって。夢。
永遠なのだ。
本当だよ。
熱狂!!!!
そしてスコアレスドロー!!!

クロアチアは強かった。オーストラリアの数倍上手かった。
PKとられたとき、終わったと思った。
カワグチが止めたとき、震えがきた。
日本は一度死んだのに。
こうやって甦るんだって。
そうなんだって。
奇跡は起こるもんなんだって。
中田、何発も狙ってた。
クロアチアのシュート、何発も決定的だった。

ハーフタイム。もはや恒例になった散歩にでかけた。ほとんど人も車もなかった。

後半はもうみんな足が動かなかった。
ものすごい試合だった。
セルジオ&松木は、アジアカップんときもそうだったけど、まるで子供みたいに絶叫する。サッカーがすきなんだなあ。

結果的に、そう、結果はドロー。そして結果こそドローであり全て。
勝ち点1。

最後の試合。全てをかける相手はブラジル。
「たとえ骨が折れたって」(by富永)
失うものなんてもうない。
最後の最後まで、あきらめやしない。

でも。
かっこよかったぜ、みんな。
すんげえかっこよかった。
これがサッカー。
これがワールドカップなんだ。
サッカーファンなら誰もがわかってる。
これが。
サッカーなんだ。

みせてもらったよ。
ソウル。

泣くのは早い。
キレるのも早い。
何か語るのもまだ少し早い。
最後まで、最後の瞬間まで。
サッカーファンなら。
夢を見る。

そうさ。
サッカー大すきだから。
朝までMM氏と飲んでた。MM氏ふらつきながら仕事に向かった。泥酔ギリじゃん。二時間後に仕事なんてありえねー。大丈夫かなあ。

昼まで寝て、午後またSKとカラオケ行った。リンダリンダでいい加減にイカれすぎて、SKがソファーごとドガシャン横転した。え?ちょっと狂いすぎじゃね? 大丈夫かなあ。

夜はA宅で飲み。
みんな相変わらずだった。1億2千万それぞれに、本当は存在するオリジナルの狂気。それを人間と呼ぶならば、そういうことで僕は一向に構わない。基準上の中立や中性のようなものを信じている人たちがいて、一方でそれはそれでよしとする人たちがいる。それが世界なんだと思う。
人は、いつもいつも誠実に何かを生きようとしてる。ただそれだけのことなんじゃないかっていつも思う。 生きることは、楽しければいい。そして、楽しくすることはいくらでも出来ると思う。だからオリジナルの狂気をもっともっと見たい。笑えるほど、戦慄するほど、震えるほど、すばらしいやつをだ。リプレイやレプリカはもうどうでもいい。 だからゴミュニティーがすきだ。予想を裏切り期待は裏切らないからだ。秩序よりすきなのです。でもみんな大丈夫かなあ。
社会人がんばってるEつんは痩せてたなあ。大丈夫かなあ。

N先生の原稿はどうなったかなあ。大丈夫かなあ。

明日は運命のクロアチア戦!!
サッカーファンtakebonoはそれでも夢を見る。
純粋にそれはソウル。
それがサッカーだから。

グッドミッドナイト

2006年6月16日
ミッドナイトぶっ通しで、MM氏とワールドカップ観ながら飲んで語ったりしました。

死の組とか言われながらも、セルビア・モンテネグロとコートジボワールが早くも予選リーグでの敗退が決まりました。今大会のアルゼンチンはブラジルを凌ぐ勢いです。なんともはや、あっぱれです。敗れはしましたがコートジボワールは素晴らしいサッカーを見せてくれました。あれこそサッカーだ。

そして我々はまたもや朝まで飲み語りました。ミーイズム氾濫の中で、少なくとも我々は愛国者だと思ったし、心に基づく行動というのは少なくとも素敵だと思いました。「正しさ」なんてものの正体を、何万回でもデマカセが飛び交うこんな世界の中で、どこに位置付けるかさえもわからないのなら、やっぱり人は人と語り合わなければならないのだと思うのです。自分で考え、選択することであり、生き方を創ることなのだと思うのです。あまりにも突然に昨日は砕けてゆく、からだ。愛じゃなくても恋じゃなくても離すことのないもの、それは決して負けない強い力なのだと思う。つまりそうゆうことなんだと思う。

最近、バイト先でよく中学生や高校生と話す。彼らがかつての僕らのように、色々なことで葛藤しているのはわかるし、彼らに伝えたいことがありながら、「若い頃は…」なんてやはり言えたわけがないのだ。何かをわかった気になって、何を語ったって、どうしようもなくそれは傲慢ではないか、と。
現実とは、どこまで知らされればいいのだろうと考える。
残酷で鮮烈な現実を、何一つ見せてくれない大人たちは、優しいのだろうか? これだけだよと、一つの現実だけを見せ続けることが、素晴らしいことだろうか?
目を背けることは、優しさではない。一つだけの世界に独りぼっちで立ち向かうことは、強さではない。
人間は多様で、世界は多極だ。一つの現実に打ちのめされてどうするんだと。僕は、言えるならばそんなことを言いたい。現実は無数に存在する。間違いなく世界は変わりうる。
腐敗した世界だ。しかし絶望はない。共に生きることができるならば、だ。僕が「若い」頃、大人たちに言ってほしかったことはそれだけだった。「現実」を決して許さないことだ。

MM氏と飲み語ると時を忘れる。
ワールドカップはこんな素敵な夜をくれた。

連夜のベタトーン

2006年6月15日
そして今日もバイト後にN先生ん家でアシ。
相当原稿は遅れていたらしい。

集中力だな集中力。
ベタベタベタカリカリカリペタペタカリカリカリ。
ベタベタベタカリカリカリペタペタカリカリカリ。

少しトーン貼り上手くなったような気がする。
まあなんとか原稿もめどがついたようでよかった。
大変だなあ漫画家も。

ワルドカップを作業の合間に観てた。
エクアドルもコスタリカもドリニダードドバゴも、なんていいサッカーするんだろ。 きっとサッカーの持つ意味合いが違う。位置づけが違う。何もかもあって、映画やゲームやレジャーや野球やプロレスや相撲や格闘技があって、消費娯楽エンタメが溢れる中でしか僕らはサッカーを見れてないのだろうな。
日本代表よ、ワールドカップには何をしにきた?
「ひとつ聞いていいかい? どうして、ここにきたんだい?」(by松尾象山)
見せてくれ、奇跡を。

サッカーとマンガはマイソウルを刺激する。
たのしい。
眠い。

時代の心

2006年6月14日
今日もバイト後にN先生ん家でアシ。
ベタベタベタカリカリカリペタペタカリカリカリ、です。

なんかこんな生活漫画家の卵みたいじゃん。日々ネタとフレーズを探しながら。きっとプロを志す者はこんなふうに下積み時代はあるんだろうな。

しかしつかれた。最近スポーツやった次の日は筋肉痛ほとんどないのに、マンガ作業の方がしんどい。これは腰や首にくる。

しかしマンガ再び描きたくなったよ。

ここにも一人、がんばってるやつがいる。
いい時代だ。
時代の心をわかりたい。
あなたのその小さな声が、いつか誰かに、優しく届きますように。

「きこえてほしい、あなたにも、ガンバレ!!」(byB・H)
今をときめく職業漫画家N先生がまたもや締め切りに追われているということで、takebono助っ人アシスタントとしてまたしても参上っ。N先生、締め切りは守らなきゃあだめだよお。
先月手伝った原稿は雑誌にちゃんと掲載されてた。うわあおおおおお僕が塗ったベタじゃん僕が貼ったトーンじゃーん!印刷されてて発売されてるじゃんようわすげーすげー。takebono感激!!

いやー肩こった。先月よりはトーンさばきがスムーズになったかなー慣れなんだなー。集中力すげんじゃねー。

夕飯にお寿司をご馳走になっちゃった。ラッキ。

トーン作業しながら、韓国vsトーゴ観た。どっちもいいサッカーをしてたから面白い試合だった。こんな試合を観ちゃうと、逃げ腰サッカーをしちまった日本は全然面白くない試合だったんだろうと思った。くそう。奇跡を起こす舞台はいいかげんに整ったぜ。たのむぜジーコジャパン!!

サッカーをやれること。観れること。
マンガを読めること。描けること。
文章を読むこと。文章を書けること。
聞くこと。話すこと。
幸せすぎ。
なにもかもがいま喜びの中に在ります。

いま、生きてて、え、なんか、楽しすぎんだけど。
人生のドラッグ期か、いまが?
僕、こんなんで、いいのかなあ。
やっべ。ハハハ。
やりたいことマジたくさんありすぎ。宣言するぜ。絶対に全部やってから死ぬ。

< 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 >

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索