飲んで

2005年9月17日
家で飲み会をやりました。飲みながら相撲を観たりした。AとRさんしかこなかったけど、すげえ楽しかった。すてきだなあ。どうしても。僕なんかクズだけど、こりゃあおもしれえって思っちゃう。ツボなのかな。どんな飲みでも、こんな楽しさって無い。僕は何なのでしょう。 Aよ、君がアル中でくたばるまでtakebonoは飲み友達だよ。それまではずっとビールおごり続けたるよ。Rさんも遠いとこありがと。2人とも、僕はすごいすきです。信じらんねえよな。僕は何なのでしょう。 「出会えてよかった」なんてのは強者の言葉だと思ってた。こんなクズな僕が誰に出会えるのかって。そんな可能性が万が一にもあるのかって。もがいた結果、それは在ったりした。おもしれえよな。信じらんねえよな。 なんかちっぽけなんだろ。でも二度と無い。だから、やっぱ楽しかったな。楽しかった。

そしてめまい

2005年9月16日
頭痛いな。ゼミ合宿用の卒論中間発表レジュメがなかなかまとまらない。でも明日は飲み会。なにやってんだ僕ぁ。

めまい

2005年9月15日
来週からゼミ合宿なので準備に慌ててる。
まず教職ゼミの合宿で松本にいかなきゃならなくて、それが終わったら軽井沢に移動して社会学部のゼミ合宿に合流するという、合宿のはしご状態。 特に社会学部のゼミ合宿では、卒論の中間発表をしなきゃならなくて、あまりというかほとんど進んでないので参ってるところ。ちょっとだらけすぎたなー。 しかし今更合宿なんて何のモチベーションも出ないなー。つまんないだろうなー。集団行動大嫌いだしね。はあ。
本を読んでまとめとかないと。今は納得いくものができそうにない。結局モチベーションだよな。ダメだな。
前回に引き続き、学校システムの肥大化が学歴インフレ等パイプラインの亀裂を起こしてるって話。漫然と流れに身を任せていたツケ。僕らアフターバブル世代は、戦後で初めて、自分の人生のことを自分で考え自分で創らなきゃいけない時代にいたんだ。そう、僕らにとって「希望」こそがリスクになっていた。

「能力に見合った職に送り出す機能」の不全。→「学歴に見合った職業に就けないリスク」の発生。…こんくらいの学歴持てばこんくらいの職につけるべ、って見通しの消失。卒業さえすれば見通しの職に就けていたかつての時代は、だからこそ学問への求心力もあったという。現代は、勉強なんかしないで就活や就職試験勉強の努力の方が最終的には有利だから、当然学問の意欲は空洞化する。当然レベル下がるわけだ。大学は学問機関じゃなくなってるんだもんな。それでも、よい就職をするために、より「漏れ」のない上級の学校へ入学しようとして、一部の大学や学部で受験競争は激化する。それ以外の平均以下大学へ入った奴らは「大学行っても仕方ないけど大学行かなきゃもっと悪くなる」と考え進学するから、更に大学生の学問レベルは下がる。

「過大な期待を諦めさせる機能」の不全。→「諦める機会がないリスク」の発生。…学校に入学できなければ諦めて他の道を探せた人に対し、無意味に入学させ「希望」を与えてしまったために起こるその後の「絶望」。先送りした諦めに、納得できればいいんだけど、期待切り下げはなかなか困難だという。「大学まで出たのにこんな仕事しか就けないのかよ」って、やっぱ多くの人が思うのだろう。でも、大学で何を学んだかしら?って、疑わないのかな彼らは。結局歪んだ構造だったんだ。「学歴」なんて、もっと早く崩壊していいものだったんじゃないのかな、って思う。 全員で高等ルンペンになればいいのにな。

「階層上昇の機能」の不全。→「階層上昇期待が無くなるリスク」の発生。…「頑張ればいい学校には入れていい会社に入れていい人生が送れる」って定説の崩壊。不安定社会の到来は、「頑張っても報われないから、頑張るのやめよう」って人をたくさん生んだ。「個性」の時代が到来したのだ。そう、バブルまでだったら、登校にも授業にも意味はあったんだ。だけどバブル以降は、不登校も学級崩壊も、むしろ起きて当然なんじゃないかって思う。「将来」が見えないのになんで「現在」を犠牲にできるのかって。

現代の子どもたちは「将来についての確実な見通しが持てないまま」「諦める機会がないまま」「過大な期待を持つことを強いられ」「勉強を頑張っても将来豊かに暮らせる見通しがたたない」という状況におかれている。まあイカれたりキレる奴もたまにでてくるのかもしれないな。
「希望」の喪失は、大高中小と徐々にドミノ的崩壊をしていくという。登校という努力が将来報われないことを、多くの子ども達が気付き始めた〈不登校〉。学校の勉強が将来役に立たないことを、多くの子供たちが気付き始めた〈学級崩壊〉。インセンティブディバイドと呼ばれる「意欲格差」〈学力低下〉や、様々な教育問題への入口は結局これではないのだろうか。加えて、個人の自己実現までを「幸福」とみなすようになった社会で増大する「不幸」が起こす更なる「希望」の喪失は、社会の様々な場面で、歪みとなって現れてる。なのに、大消費社会の規制緩和はとどまることを知らない。否応なく、子どもたちは「希望格差社会」に巻き込まれてゆくのだ。

不安定社会の到来が3つの神話を破壊した。「企業」「結婚」「学歴」。かつて「安定」の代名詞だったこの3神話はもう蘇らない。 だけど多くの人々も、そしてtakebonoも、ひとまずこの不安定社会で生きていかなきゃなんない。でも、これを書きながら段々思うようになったんだけど、それでもいいんじゃないかって。だって、高度成長期やバブル以前だったら、間違いなく僕だって「学歴」の下で「企業」に入り「結婚」することに価値を見出して、そしてそう生きていたはずだから。ぞっとするさ。この時代だからこそ、この僕がこの僕で生きてるってこと。この時代だからこそ、あの人があの人で在ることができて、あの人があの人で在ったから、僕が僕で在れるってこと。生まれた時代はやはり自分のものなのだ。探そうぜ、「希望」を。
〈つづく…〉
僕らの父親たちが若い頃は、大学を出さえすれば大企業就職。定年まで安定給料が期待されていた。でも今は大卒でもフリーターにしかなれない若者も多いし、大企業も倒産やリストラと無縁でない。当時の「学歴」ってなんだったんだい?それは「希望」だったのかい?

今現在「学歴」はインフレしてる。僕の通う大学で、キャンパスや教室で周りを見渡せば、中学生みたいな大学生がいる。バカかこいつって思うくらい幼稚な大学生もいる。欠けてるのは知識や経験とかだけじゃなく、意識及び姿勢もだと思う。どっかの専門家みたいに、分数だの漢字だので「学力低下論」なんて語りたくもないけど、でもしかし大学生のレベル(という基準があるとして)は明らかに落ちていると思う。なにも学生運動やれとか言うわけじゃない。でも、こんな奴が大学生なのかよっていう連中が多くないかっていつも思うのだ。そう、まるで子どもなんだ。物質欲・消費欲とヘボいプライドだけが大人感覚で。あと何もないの。探求心も、知識欲も、行動力も、「大学生」らしいソウルの何もないの。なんか枠組み通りに縮こまってる。そのくせ見栄を張ったり、見て見ぬふりをする。すげえ醜悪。受験競争システムと現代的豊かさの申し子として、脳死学生が大量生産されてる今、大学はもはやレジャーランドであり、就職予備校であり、モラトリアム消費機関なのだと改めて実感する。
学歴インフレは、ニューエコノミー下において、学歴自体を段々と着実に形骸化していってる。社会において進行するリスク化と二極化に対し、学校教育システムはあまりにも不対応でありすぎた。仮に学校教育とは?を考えたとき、それを「人格の形成」という抽象的結論に求めるヒューマニズム教育者はそれでよくとも、社会学的に見れば学校教育とは「階層上昇の手段」「職業配分の道具」に他ならない。ある人材に適正な能力を教授し社会における適正なポストに配分することこそが教育の目的である。受験や入試もそのためにある。能力の伴わない者が不適正なポストに着くことで起こる社会混乱を防ぐために。一方で、階層を上昇するためにも教育は使われる。高給取りになれるからこそ、みんな東大を目指すのだ。 オールドエコノミー下ではこのパイプラインが見事に機能していた。故に安定が約束されていた。学校教育がこのパイプラインの上に胡座をかいていられたのは、「学歴があれば大丈夫」神話こそが、学校という収容所への求心力を維持していたにすぎないといわれる。今日の「教育問題」は、パイプラインの機能不全によるものであるという。きっと恐らく僕らの世代はその真っ只中を歩いてきたように思う。パイプラインから「漏れる」ことを、完全に理解はせずとも、学校教育への求心力は確実に下がっていたように思うからだ。失うものもなければ、そう、「希望」がなければ、学校に執着する意味だって僕らには無かったのだ。
学校教育という、社会とのパイプラインの機能不全が、何を引き起こしたのか?それはパイプラインの亀裂から生じる「漏れ」である。そしてその受け皿は全て「フリーター」に集約されていった。

大学院における「漏れ」を見てみる。まず大学院博士号取得者が毎年1万人を超えているという実態があり、一方で少子化等からくる大学入学者不足による、学部の統廃合という状況が、大学経営における雇用数も減少させている。博士課程を修了しても、大学の先生には一生なれない「博士」が、毎年7000人以上誕生していることになるという。「大学院まで進学した」というブランドとプライドと、そこまでに費やした金と時間の投資を「無駄にしたくない」と考える彼らは、不安定雇用に就きながら大学雇用ポストの空きを狙って息を潜めて待機している。この状況で20年後には、大量の中年フリーター「博士」が出現するとまで予想されている。「超高学歴フリーター」の本格的増加が危ぶまれている。
工業高校における「漏れ」を見てみる。ニューエコノミー下で企業の工場自体が低賃金のアジア等に国外流出しているため、20年前に比べ雇用はガタガタ。特に地方では、卒業後の工業以外の不安定就業が増大しているという。
各種学校・専門学校の「漏れ」は救いようがない。ミーハーな職業観に飛びついてきた人たちが、需要以上の過剰供給となり、卒業後も希望の就職ができない状況にある。既に溢れちゃってるってこと。
一般文化系大学の「漏れ」は量的に最も多い。バブル以降は完全に崩壊したパイプラインである。就活がんばっても中堅ホワイトカラーにも採用されないことが多々あるし、大卒学歴が無意味な職種に就くことも多い。まあ社会学部なんてまともにやったら社会人になんかなれなくなるし、僕の場合それはそれでいいけど、結局一般文系ってニューエコノミーになんら貢献できないってこと。

進路によっては「漏れ」が少ないパイプラインもある。「乗り続けられる」か「漏れる」かは、運や実力、それに状況の格差がやはりものを言う。結局、学校に入ることが職を保証してくれない時代がきてるのだといえる。
〈つづく…〉

衆院選総括

2005年9月12日
選挙終わりました。やっぱ投票率上がったね。そして自民党の圧勝。民主党の惨敗。うん、なんか、予想は裏切られず、期待は裏切られたって感じ。 国民のための、一連の構造改革は必要だと思うけど、このまま自民党の「勝ち組」優先政治・格差拡大政治が進めば、結局苦しむのは一般庶民だと思うのだけどね。それも国民の選択なのだから仕方ないのだろうか。 改憲も確実だべ。憲法9条をなくして本当に良いのだろうか。素直に不安を感じるけどな。 しかしでも民主主義はこうやって国民の審判が実際に国をつくってゆく。はねかえってくるのも国民になのだから、やっぱり仕方ないんだけど。
しかし小選挙区・比例並立制はあまりよくないと思うね。死票多すぎ。一部の組織票や利益票が一人勝ちしちゃうし。比例での復活ってのもなんかいらつくわ。ちゃんと支持票数分が国会で反映されるような選挙制度を望むね。どうみても自民・公明が勝つようにできてるもん仕組みが。
ムネオも辻元も、早くねえか復帰が。日本人は情に脆く上に甘いからな。

選挙終わってアナーキーな気分になった。

for 〈9・11〉

2005年9月11日
朝っぱらから投票しにいってきました。結構人いた。投票率は上がりそうだなー。

午後はAとHTとDさんと一緒に、上野の東京芸大の学祭に行ってきました。「little birds‐イラク 戦火の家族たち‐」ってドキュメンタリー映画の上映会があってそれを観に。
−この映画は、2003年のイラク戦争下におけるイラク国内を映したノンナレーションのドキュメンタリー映画。内容はなんとも強烈すぎた。普段はヒューマンドラマなんかを観ても感動すら覚えない僕が、震えた。自然に目に涙が浮かんだ。イラクが、かわいそすぎる。アメリカの空爆で子どもを亡くしたお父さんが小さな遺体の前で泣き叫ぶ。「神様っ!神様ーっ!」「愛する子…」 空爆で腕と足を吹っ飛ばされた男性が病院のベッドで痛みにのたうちながら叫ぶ。「これのどこが「解放」だ!アメリカは何しにきやがった!俺が何をしたっていうんだ!」 結局、バクダット陥落っても、ミサイルの光が乱れ飛ぶ映像しか僕らはTVで観てない。その裏には、こんなふうに何千人もの民間人が傷つき、死んでってるリアルがある。罪のない子どもやお年寄りも。こんなこと許されんのかって、理性ある人なら誰でも思う程凄まじい映像の数々に、そして、日本のTVで僕らが観てる映像なんかホント現実の内のごく一部なんだなってことに、僕はショックを受けて、震えがとまらなかった。TVメディアは「戦場」は伝えても、「戦争」は伝えないといわれる。その意味がやっとわかってきた。この映画を九州の高校か中学かなんかで上映しようとしたら、校長会の圧力でストップがかかったんだって。自衛隊がイラク派遣してるからという理由で。バカな、って思った。現実なのに、その現実が知らされることに圧力がかかるなんて。今現在、民主主義がもっとも潰されてる場の一つが教育現場なのだと改めて思った。これは反戦映画か?反米映画か?反体制的なのか?観終わった後の僕は全然そう思わなかった。この映画は「戦争を知る」ためのものだった。TVが流さない別角度の「現実」を。何百個も存在する「真実」を。それらに近づくための映画だったと思う。「見る」ことや「知る」ことに圧力がかかったってこと。恐ろしいし、悲しいことだなって思う。

フセイン独裁からの解放?やめてくれそんな詭弁は。一体どんだけの民間人が死んだと思ってんだ。悲しみと憎しみと絶望が、どんだけ生まれちゃったんだろ。もう取り返しなんかつかないのさ。 イラクの人々が自主的にやってるように見せかけて、アメリカの戦車でフセイン像が引き倒される例のシーンもバッチリ映ってた。占領風景もバッチリ映ってた。検問所を通るたびに米軍のボディチェックを受けなければならないイラクの人々の目は、悲しみと怒りに満ちていた。 廃墟と化したバクダット市内を、米軍戦車が地響きを立てて進んでゆく。 「人殺し!何人子どもを殺したんだ!」と戦車上の米兵に詰め寄る女性。 「(フセイン独裁を終わらせてくれて)ありがとう。感謝してるよ。…でももう帰ってくれ。お願いだ…」と弱弱しく米兵に語りかける老人。 「日本は良い国だった。イラクとはいい関係を築いていたのに…なのになぜ日本はブッシュとつるんだりしてるんだ?」と真剣な顔で問う青年。 どの人々の顔にも、まざまざと見せ付けられた「戦争」。それこそに僕は衝撃を覚えた。
3人の幼い子どもを爆撃で失った父親サクバンさんが凄まじい顔をして言った。「何のための戦争だ!」戦争を生き延びた娘のハディールちゃんは、米軍の殺傷兵器クラスター爆弾によって右目を失った。ハディールちゃんの通学カバンの脇に置かれたカラシニコフの小銃をとってサクバンは言う。「米軍がここにきたらこれで撃ち殺してやる!」 フセインが捕まって「これでテロも止むのでは」なんていわれたけど、ありえねえなって思った。誰もフセインのためになんか銃を持とうとしてないんだもん。結局そういうことなんだろ?多くの人は、ビンラディンのためになんか銃を持ってるわけじゃないんだ。 米軍の戦車を睨みつけながらサクバンはぽつりと言う。「ちくしょう、またきやがった…」 そして「なんて恐ろしい世の中になったんだろう…」と嘆く。 銃を持つ自分自身に矛盾する彼の発言に、僕は「戦争」を見た気がした。爆撃で何もかも奪われ、しかしフセイン独裁政権は倒れ「解放」は訪れた。米軍を憎みながらも、隠し持つ小銃を使うことなく、戦車をただ睨みつけるしかできない彼の目は、とても悲しかった。それでも残された家族とこのイラクで彼は生きていかなければならない。戦争を経ても、人は生きていかなければならないのだ。数日後、反米デモに参加する彼の姿があった。 イラクの人々が「解放」を喜んでいるわけではない。だけど、フセイン政権の崩壊を嘆いているわけでもない。米軍を憎んでるけどでも全員がテロを起こそうとしてるわけでもない。何が正しいのかなんてそこには見えなかった。ただ戦争の傷跡だけが僕には見えたのです。

僕はかつてイラク戦争反対のデモ行進に参加したことがある。だけどそれも「戦争」を知った上のものではなかったように思う。純粋に他者の痛みを知ろうとするということとは、全く違うものだった。今回、それを思い知って、そして尚、takebonoはピースウオーカーであろうと思った。

今日、メディアが嘘をついてるわけではない。ただ、メディアは「真実」の一部分しか放映しないということ。残りの「真実」を、僕らは見なきゃいけない。僕らの中でも、もちろんイラクでも、まだ「戦争」は終わっていないってことを。あの画面の中やニュース記事だけが「戦争」ではないということを。
いつか、イラクに行ってみたい。いつか平和になったら、あの地を歩いてみたい。 あの〈9・11〉から4年。世界は尚不安定だけど、そう願わずにはいられない。テロも戦争も、この世からなくしていきたいな。

PC転生

2005年9月10日
今日はサッカーしてバドミントンした。酷暑な残暑。熱中症で死ぬかと思った。でもスポーツはいいな。

そのあと夕方涼しくなってから自転車でぶらぶら散歩した。近くまで来たついでにこないだのゲーセンに入ったら、こないだのあの兄ちゃんがいた。また共同プレイで全クリアした。やべえ。完全に顔馴染みだな。その後その兄ちゃんは、チンピラみたいな連れの兄ちゃんと違うゲームをやり始めたのでさっさと帰った。

我が家のPCを父が買い換えた。ちょっといい感じ。これでもう日記の更新が滞ることはなくなるよ!

明日は9・11。いろんなものが失われた日。いろんなものが生まれた日。そしていろんなものがまた新しく生まれる日。
引き続き、不安定社会について。ニューエコノミーの台頭で構造上、雇用が不安定なものになってゆくと、当然社会の色々な面も影響を受けてくる。顕著なのが「結婚」という社会制度だ。厚生労働省調査で、年収と結婚率における比例関係の結果を最近見た。やっぱり年収高いほど結婚率が相当高くて、年収低いほど結婚率は相当低いという結果だった。この国で全体的に「晩婚化」が進んでるっつっても、その中にもやはり状況の格差が生じている。カネ次第。経済的に安定してる層はちゃんと結婚できてるってこと。「晩婚化」には、確かに女性の社会進出も要因にあるんだろう。近代的恋愛結婚において恋愛市場の拡大という一面も確かにあるんだろう。だけど、例えばフリーターカップルは、結婚したくても経済的不安定から結婚を思いとどまってるってのも事実だ。つまり、結婚を選択肢にできる層がいる一方で、結婚したくてもできない層もたくさんあるってこと。少子化を嘆くなら、こんな実態をまず憂うべきなんじゃないか。
更にいえば、子どもの教育費養育費がバカみたいに搾り取られるこの社会構造において、出産がリスク以外の何でもなくなっているように思う。多産多死、多産小死を経て、遂に時代は小産小死。子どもは既に労働力でもなく、種の存続でもなく、夫婦のエゴの産物になった。子どもはどこか夫婦の芸術作品のようなものでもあり、夫婦の夢やアイデンティティや永続性を託す、「希望」的存在にまでなったのだ。「少なく産んで大切に育てる」近代子ども観は、子どもの価値を高く引き上げた分、膨張した「希望」が諸処の問題を引き起こしてもいる。ほっとけば勝手に育ってくれた「子育て」は、もう戻ってこない。昔に比べて現代は、子どもに様々な複雑な「ケア」をしてあげなければ「子育て」は成立しないのだ。故に、出産はリスクである。故に、不安定なままの出産は不幸なのである。できちゃった婚は、多いけど、この時代には高リスクだ。産みたくても産めない層がまたたくさんいるってこと。「少子化」は、先進国ならどこでも起こってる必然的なものだけど、社会の不安定性もしっかり反映してると思う。出産や養育に手当や保障をつけたりして少子化対策とってる国もあるけど、僕が住むこの国にはそんなもんはなく、都市化や近代化が子どもの教育環境を急変させてしまった今、周囲を見渡して、この社会が子どもを育てやすい環境だとはやはりいえないのです。

かつて「結婚」は、そのまま「安定」に直結する幸せなことだった。だけど今や結婚はそれ自体リスクになっている。或いは経済的合理性からの「玉の輿」だけを目的とした、社会移動上の「チャンス」にもなってる。愛はどこにいったのか。市場や合理性なんかに負けるなよLOVEよ。

本来、孤独で弱い個人を社会の圧力から守り傷を癒し共に「希望」を紡いでいってくれるものこそが、中間集団と呼ばれる「家族」であった。が、今や「絆」こそがリスクになった。「家族」を持とうとすればするほど、個人はリスクを背負う。だけど、家族に取って代わる伝統的共同体(村、宗教)なんかも今はもう無い。現代人が依るのはやはり「家族」以外に無いのだと思う。リスクを覚悟してでも「絆」やアイデンティティを求めるしかない。「家族」を求めるしかないように、構造は構造化されているのだ。

これまで述べてきたけど、雇用が不安定なものになれば、「結婚」は安定ではなくリスクになる。とりわけ女性にとっては大きなリスクになる。フェミニストには怒られるかもしれんけど、女性の社会進出とかいいながらやはり残存する女性側の最後の切り札「結婚さえしてしまえば」という既存のセーフティレール。専業主婦の一生生活保障。雇用の不安定はその神話の崩壊を意味するからだ。早い話、旦那がリストラされりゃ破綻ってこと。熟年離婚も恐いけど、やはり問題はカネなのだ。世の女性は結婚に悩むようになる。高給取りか、リストラされないような職種・技能を持った男を探さなきゃならないからだ。恋愛市場が拡大した現在、「恋愛対象との出会い」のチャンスは溢れるほどに増大した。しかし、需給ニーズのミスマッチに試行錯誤しながら年老いていく女性も少なくはない。また後に述べるが、そこに「希望」の不安定性があるのだ。
カップル単位の格差も注目されている。親の格差、配偶者の格差がそのままリスクに直結する。僕の姉夫婦は2人とも優秀な公務員で地方暮らし、強者カップル。兄は未婚だけどフリーターカップルか、弱者カップル。格差は拡大してるけど、どちらにしてもかつての神話の意味での「結婚」はもはや無い。共働きは当然主流になってくる。

「企業に入れば大丈夫」神話の崩壊は、「結婚すれば大丈夫」神話の崩壊も誘発した。個人の時代。自己責任。「結婚」制度なんてのは、いろんな面で形骸化してゆくんだと思う。何度も述べるが、「安定」こそが難しい不安定社会がやってきてる。そして、戦後日本人を支え続けた3番目の神話「学歴があれば大丈夫」もまた、雪崩現象のように崩壊していく。それは次回。
〈つづく…〉

ソウルをかけて

2005年9月8日
教職ゼミの打ち合わせで学校に行きました。前日寝ないでまとめたりして頑張ったのに、一人欠席で、あと2人は何もやってきてなかった。結局誰も主体的に動かずに、僕にかかってる感じ。その方がいじりやすくていいんだけど、でもホントいつもそうだけどグループワークって意味無えな。一人の方がマシだぜ。イライラするわ。こうしようとか、ああしようとか、最初の意気込みはなんだったんだ。あれはエセソウルだったのか。 メンバーに恵まれるかどうかにはいつもいつも振り回されてる感じだ。自主ゼミはやっぱ貴重だったんだな、ソウルに溢れてて。「神の子」のときも、「狂育改革」のときも、去年の実習や、「井上哲次郎」のときも、思えばソウル溢れるメンバーに恵まれていたから、グループとして充実できたんだわ。試行錯誤して、議論して、1+1が2以上になるようなコラボは、いつだって最高に楽しかった。ソウルをコラボするために僕は大学入ったんだって、改めて思ったっけな。 今回のこの教職ゼミでのグループワークは、やはりつまらないな。ノンソウル。 とりわけ紅一点のSAさんは、僕と全く正反対の人間性を持っていて、実に絡みづらい。SAさんが喋る、実に「社会」的なほとんどのことがイラつく。相性最悪ってこのことだな。僕がどんだけ非社会的かってのが見えてくるわ。クソ面白くもねえ。もっと僕を震えさせろよ。暑さもあって少しイラッとして噛み付いてやったら、気分を悪くしてた感じ。ちょっと悪かったかな。今日の僕は少し大人げなかったか。
食堂でTMさんに会った。よっぽどついて行きたかった。今度会うときは何を話せるかなって、少しでも思えたのなら、ソウルが生じたのだと信じてもいいかなって思うから。M先生の別時限コラボ計画は、この僕が実行してやる。ソウル掻き集めてやってやる。マジ楽しみ。ゼミ長の座は僕のものだ。
僕を震えさせうるものに、僕は全ソウルをかけて巡り逢ってやりたい。
芥川の短編集を読んだ。なんかよくわかんねえや芥川小説は。でも「トロッコ」と「お辞儀」は面白かった。

太宰の短編集も1冊読みました。短編ってちゃっちゃっと展開するのがすてきね。
「富嶽百景」は富士山のお話。
「女生徒」はtakebonoさんがもし女の子だったらこんなんだったかなって話。
「駆け込み訴え」は面白い。イエスを眼差すユダの話。
「きりぎりす」は少し感動した。悲しく、すてき。
「走れメロス」もやはりすてきね。

勉強の傍ら、小説がやはりやめられねえな。自分でも、9月いっぱいで短編を一つ書こうかなと思ってます。

覇気駄目

2005年9月6日
そろそろ色々勉強し始めなきゃならないなあとか思って図書館に行った。
帰りに久々にゲーセン寄って、お気に入りの横スクロールアクションゲームをやって、ワンコイン50円で8面まで進んで死んだ。いつもこの辺で死ぬよなあ。さあて帰るかあとか思いながら缶コーヒー飲んでハイライトふかしてたら、隣の兄ちゃんが声かけてきた。で、なぜか共同プレイで遊ぶことになった。その兄ちゃんは相当マニアで、隠しコマンドや隠しアイテムなど色々教えてくれた。共同プレイだと、出現する敵キャラの数が倍になって、連携も難しいのだけど、僕らは恐るべき強さでワンコインで一気に全面クリアした。ラスボスも余裕で叩きのめした。調子こいてもう1回キャラ替えてまた共同プレイで全面クリアした。気が付けば外が暗くなってた。兄ちゃんはまだやりたそうだったけど、「また今度ね」っつって僕はゲーセンを後にした。こんなしょーもねえ掃き溜めみたいなとこで人間関係築いてもしょうがねえからな。
夜、駅のそばの公園を自転車でぐるぐるまわった。漠然とした考え事。一度きりの人生に、悔いを残さないように。
OECDの統計で最近出た、加盟国の状況を比較調査した「貧困率」というのを興味深く見た。その国の国民平均所得の半分以下の人を「貧困者」とみなして、国民全体の何割にあたるかその率を出したやつ。1位メキシコ20%くらいで、米国、トルコ、アイルランドに続き日本は5位で15%なんだと。日本は先進国の中では、格差拡大が著しく拡がってる「高貧困率国」だといえるそうだ。そう、豊かな国の裏の顔がこれだ。この10年で貧困率は倍増したという。生活保護受給者数は実際に倍増していることからも、格差拡大時代がやってきてるリアル感がある。なんでこうなった? まず不況からくる高失業率。倒産とリストラ。そして極めて由々しき事態は、その不況につけこんだ形の、低賃金非正規社員数(フリーターや派遣社員)の急増にある。年金や失業保険など社会保障の対象にならない労働者がたくさん生まれたのは、不況企業が非正規社員を雇うことによって社会保障負担を免れ、労働コストを削減しようとする悪魔のビジョンからだ。だから、失業率が下がって(失業率の調査方法を知ってるかい?)、それを政府が「構造改革の成果」だとか自賛してても、実際働く人の多くはいわゆる低所得で「不安定」就業なわけで、それが「貧困率」を押し上げてるというわけだ。 はあ、じゃあ、「景気回復」は誰のためのものなのよ?決まってんだろ。「勝ち組」の人々のためさ。

衆院解散の翌日に日銀が「景気の踊り場脱却」を宣言。内閣府とかのデータ的には、今現在が「景気拡大期」なんだって。なんと、1958〜61のあの「岩戸景気」を抜く、戦後3位タイ確実だという、すっげえ。「景気回復」! …は?どこが?バカいうなって。誰一人景気が回復したなんて思ってないっしょ?つうか…「不景気」だろ。内閣府のデータ狂ってんじゃね?…いやいや狂ってない。実際に「景気回復」きてるんだと思う。でもそれは「誰のための景気回復か?」ってこと。そう、一部の勝ち組以外には「景気回復」の恩恵なんかまわってこないように構造がそうなってるからさ。そう、これまでの経済学モデルのようにはいかなくなってるってことじゃん。儲けてる企業がそのくせ設備投資しないだとか、金融不安だとか、個人消費が伸びないとか、色々あるんだろうけど、何よりも大多数のサラリーマンの給与が伸びずに社会保障費や税金の負担増があるもんだから、誰も景気回復を実感できないというのもあるだろう。一方で、超満員のディズニーランドや、大繁盛の100円ショップや、空港の外国旅行からの帰国ラッシュなんかを見てると、どこが不況?って思わずにいられない。

末端を淘汰し排除する形での景気回復が進んでるのか。僕らどうしようもないじゃないか。「社会に必要ない人間」は、経済がそうさせるのだ。学校教育も、メディアも、罪なくらい綺麗事しか言わないけど、経済は容赦なく人に現実を突きつける。「あなたはもう必要ない」と。

「人間はもはや搾取の対象にでさえなくなった。いまや人間は排除の対象になった」(『経済の恐怖』Viviane FORRESTER)

「経済は栄え、社会は衰退する」
「作らせない、買わせる」

市場を中心に進めていく改革は、必然的にそうなってゆくと思うし、至上主義批判はだからこそ同時に社会のことを顧みないといけないと思うのです。先日のブログで「豊かさ」を書いたときには、まるで欧州がすごいみたいになっちゃったけど、EU展開に始まり、欧州も徐々に市場中心になっていくのかな。これから勉強したいけど、でもまだ政治は社会のこともみてくれてる感じもするんだがな。「第三の道」ってやつなのか。冷戦終結までに、左と右に揺れ動き続けた歴史がヨーロッパにはあるからかな。市民革命もあったし。日本は結局市民社会が育っていないとか、そうなのかなあ。
日本は絶望っすか。それでも僕は「希望」を探す。
〈つづく…〉

いまここtakebono

2005年9月4日
学校に行って勉強しようと思って電車乗ったら、今日は日曜だって気付いてやめて、ついでだったから有楽町の国際フォーラムで「あいだみつを展」を観てきた。タダ券が今日までだったことも、一枚で2人入れるから誰か誘おうと思ってたこともすっかり忘れてたけど。
みつをの詩はシンプルだけどソウルに溢れてるな。人が共感するのもわかるような気がする。本当に自分らしく生きている人ほど、みつをの詩は必要ないんだと思う。今の僕なんかは、だから共感っつうよりは親しみというか、作品としてじっくり見れたかんじ。 それでもこんな詩が書けるのはすてきだな。

「いまここ 自分」
「しあわせはいつも じぶんのこころがきめる」
「生きていてよかったと思うことのひとつ それは人間が人間に逢って人間について話をするときです」
「あのねえ 死んでからわかったんじゃおそいんだなあ」etc…

人生とは「いまここ」の連続に在る、とみつをはいう。具体的に動かなければ、「そのうち」「そのうち」に何も出来なくなって、年とって死んでくんだろう。感じて動くこと。感動。感動し続けながら生きてくってのは実にシンプルで。しかし脳死社会においては難しいのだと思う。消費物として作られた感動は所詮消費物で、生身のリアルや死ぬことの出来るリアルには及ばないからさ。

「生きることが、すてきなことになるように、生きればいいのさ」(takebono)

その後、サッカーしてたら土砂降りに遭いました。あ〜あ〜あ。
今日は下北沢に、SSの出演する劇を観に行った。前にも行ったことがあって、小さなバーなんだけど、店内はショーが催せるようなスペースや照明機材などが揃ってて、一杯ひっかけながら軽い演劇ショーを鑑賞することができる洒落た空間。AとKSとDさんとHTとNさんとその友達と、つまりはSSの知人友人総出で行ったら、開始1時間半前でまだ開場してなくて、ミスドでまったり。なんんつーか、開場時間くらい把握しとけよな。こいつらホントにクズってんよなあ。 しかし下北沢ってとこは狭苦しくてゴミゴミしてて、渋谷や新宿並みに人混みで、僕は吐き気が何回もした。オシャレな若者達の街ってのは別にそれでいいけどさ、僕はあまり歩きたくないな。こんな密集地は地震や火事起きたら壊滅だな、なんて言ったらDさんが笑ってた。なんて素敵な笑顔。よろしくない。 歩きたくないのに、NさんやHTは古着屋に入ったきり出てこないし、Aはウロウロしすぎだし、この統率の無さがしかし大すきだね。「チーム・くず」がクズ代表SSの裏庭・下北にくり出してるなんて面白いひととき。僕に全く気を遣う気がないこいつらに、やはり僕も全く気を遣う必要がない。他のコミュニティーと、全く質の違う居心地の良さ。それも僕故の僕らしさなのだろうか。
舞台で演じるSSはとても輝いてた。学校や飲み会でいつものようにイカれてるSSよりも、もっともっと、ずっとずっと輝いてた。たぶん、SSがイカれた自分をソウルフルに生かしきってるのはこの場所なんだなって思った。僕にもそんなものがあるように。
自主映画の上映。ショートコント。ショートパロディ。セクシーダンスショー。拍手の連続。素敵な舞台ショーの満載だった。中でも面白かったのが、即興パロディだった。入口で「何か書いて入れて下さい」と言われて渡された紙に僕は「takebono」と書いて箱に放り込んだのだが、お客一人一人が書いて投入したその紙が一枚ずつ折りたたまれて舞台の床中にぶちまけられた。何が始まるのかと思ってたら、4人の役者から2人を選べというので、SSと団長の人を選んだら、そこからそのコンビで即興芝居がスタート。芝居上の台詞を、時折その床に散らばった紙から拾ってくの。紙開けるまでどんなこと書かれてるのかわからないから、うまくいかないんだこれが。でもそれが笑いを誘ったり。なんとか懸命につなげるあたりは巧いなあと思った。まさか出るとは思わなかった「takebono」が出てしまったときは、僕の方がびびったよ。 SS、お疲れ。楽しめたよ。
そんなこんなでその後はパスタ屋でまったり。ウニパスタが美味かった。こんな、居辛いはずのゴミュニティーで、誰と話してるわけでも、誰の話を聞いてるわけでもないんだけど、やっぱ楽しかったり、リラックスできたり。すきなんだこの時間空間。恋は盲目で、愛は狂った力なのか。
ソウルは多様だ。人間も、その幸福も、つまるとこ価値や、意義も、たぶんメチャクチャに多様なんだろう本当は。僕はそれでいいんだと思う。そして、バラバラに立ち、それでもソウルをコラボできたらなと思う。
KSさんと福本漫画の話をしてて、何でそんなに楽しそうに話すの?って聞かれた。そんなに僕は楽しそうだったのかなあ。
Hが薦めてくれた漱石の「それから」を読みました。
−主人公・代助は、大学を卒業したが職業も持たず、一軒家を構え、書生を置きながら、月に一度は本家に金を貰いに行くという「遊民」であった。彼は自らを、職業のために汚されない内容の多い時間を有する「上等人種」と考え、芸者遊びや園遊会を嗜み、労力は生活以上の働きにより名誉になるという思想を持ちつつ、日々を遊民として過ごす。友人の平岡は彼のことを単なる「坊ちゃん」だと嘲る。彼は自らを「特殊人(オリジナル)」だと考えるが、実生活に根を持たぬ思索家であった。30歳になっても尚遊民生活を続ける代助に、実業家の父・得は地主の娘との結婚話を強く迫る。「遊民」代助を心配する兄夫婦・誠吾と梅子。脳天気な書生・門田。「遊民」代助を取り巻く様々なキャラクターと、どこか優雅で情緒的な漱石ワールドが、明治末期の東京下町を舞台に優雅に展開される。
友人平岡の妻・三千代は、かつて代助が恋しながらも自ら周旋し平岡に嫁せしめた女性であった。3年の月日を経て再会したとき、平岡と三千代との間に生じている間隙は、代助の愛を復活させる理由を正当づけていた。三千代もまた代助の想いに手を委ねてゆくが…。

「…父のあとには兄がいた。嫂がいた。これらと戦ったあとには平岡がいた。これ等を切り抜けても大きな社会があった。個人の自由と情実を毫も斟酌してくれない器械のような社会があった。代助にはこの社会がいま全然暗黒に見えた。代助は全てと戦う覚悟をした」

「遊民」代助が破綻してゆく様が、とても悲しいんだけど同情は全く出来ず、それがなんとも優雅で情緒がありました。代助の自業自得といえばそれまでだが、とても親しみを感じ多少の共感を覚えるのは僕がきっとクズだからだろう。高等ルンペンの元祖ということで、恐らくはM先生を通じてHは僕にこれを薦めたのかもしれないな。 現代的な高等ルンペンの道もこんな所からヒントにして始まればいいのかもしれない。その結果、僕も破綻するのだろうか。友達の奥さんに手を出すことはないだろうけど。
新宿に、兄が脚本やってる劇団の演劇公演を観に行った。
新宿はイラつくね。人が多すぎて。吐き気がするんだ人混みってやつは。しかもかなりの方向音痴である僕は、駅からたった徒歩10分ほどの道に迷い、25分かかって辿り着いた。帰るときにわかったけど、随分遠回りをしていた。これだから新宿は嫌いだ。
劇はなかなか面白かった。もう何十回も観にきてるけど、今回はより洗練されてたというか、馴染みの役者さんたちも随分上手になってきたように思った。 演劇ってすてきだ。あの臨場感は映画とはまた全然違うものだからだ。そして商業主義に染まってくフィルムが忘れてしまったソウルめいたものが、演劇の持つ力にはあるような気がする。思想であったり、哲学であったり。何より、目の前で演じるという迫力は、やはり鬼気迫る。TVもスクリーンもやはり画面の中だから、どんなに爆発しようが銃が乱射されようが、安心して観てるんだけど、演劇のそれは実際その場で起こってるような感覚で、感情移入がまた全然違う。よくわかんねえけどなんかリアルなんだ。
表現ってすばらしい。表現できる能力・創造力ってすばらしい。財産だろう。生命だろう。ソウルなのだろう。こんな時代だからこそ、光り輝いていたりする。何かのためになんか生きてない。表現者ってすてきだな。
「希望の消失は、全ての人々を一様に見舞うわけではない。中にはもちろん将来に希望をもって生活できる人もいる。それは、生まれつき高い能力や資質をもっていて、経済構造変換後のニューエコノミーの中で、より大きな成功を得られそうな人々である。その一方で、平凡な能力とさしたる資産を持たない多くの人々は、自己責任という名の下の自由競争を強いられ、その結果、いまと同様の生活を維持するのも不安な状況におかれることになるだろう。つまりここに、経済格差よりも深刻な、希望の格差が生じるのだ」(「希望格差社会」p20)

まず企業社会が変化し、雇用体系が変化する。国際競争の熾烈化も後を押すニューエコノミーにおいては、安定成長が約束されてる企業など僅かなのだから、ほとんどの企業は生き残り競争に晒されることになる。結果、オールドエコノミーを支えてきた「終身雇用」等の日本型雇用慣行は当然のように崩壊する、といわれている。
かつては企業が人間を一から教育した。住居も与えてくれた。そして年功序列賃金体系も含め、何もかもは「末永く」安定成長を共に果たしてゆこうとする「家族」のような、〔会社−人間〕の一心同体主義であった。企業忠誠もそこに生まれた。「頑張りさえすれば幸せになれる」「努力は報われる」といった努力主義や平等感もそこで生まれた。会社のためそして自分の将来のために、ただ人々は働き続けたのだ。企業は会社に人々を縛り付けようとした。そしてまた人々も会社に縛られることを良しとした時代だったのだ。
だが、高度成長が終わりニューエコノミーが台頭すると、今や企業は激烈な競争の中で一からの教育などする余裕など無く「即戦力」を求めるようになった。住居の世話などしない。社宅や寮なんかガンガン消えてってる。企業福利の時代は終わったのだ。リストラの横行。年功賃金制は徐々に廃され、能力賃金制が台頭してくるという。企業の中核を担う人材は、当然ニューエコノミーにおける「新・消費体系」において、激烈な競争の中で他企業を出し抜き、金を生むにあたり最高の「ニーズ」を効率よく供給できるかにかかっているいわば会社の「〈商品〉創造部門」…「頭脳」である。そしてそれ以外の人間、才能も特別な技術もないいわばほとんど大半の「手足」普通労働者たちは、ただいつでも取り替えのきく単純労働に従事し使い回されることになる。情報化が進めば中間管理職なんてのも消えてくともいわれる。「中抜き」ってやつ。出世するポジション自体が消えてくサヨナラ。そして、パソコンスキルや資格くらいないと「手足」普通労働者の中でも格差が生じてくるともいわれてる。
つまるとこ一昔前の「サラリーマンライフ」なんてのは良かれ悪かれもう幻想になってゆくんでないかってこと。平凡な安定ってやつは、年々掴むことが困難になってゆくってこと。これからは「倒産」「リストラ」「再就職」の時代。
不安定雇用社会は多くの人に嫌がられるのかもしれないけど、これからの時代の不安定就業ライフスタイルはもう政府や経団連の予定調和の内なのだからどうしようもない。皮肉なことに、発展を遂げた経済下だからこそ、国の方向性は不安定雇用構造になっていってる。一方で、例えば「フリーター」の不安定性を問題に取り上げたり、そこから派生する少子化や年金問題なんか聞くと、どうしろっつうの?って思う。フリーター研究にも色々あって、「夢追い型」「モラトリアム型」など、豊かさが生み出した新しいライフスタイルなり若者の就業・職業観、なんていう一面は確かにあるのだけど、「やむを得ない型」というのもやはり多く、要するに正社員採用が少ないから仕方なくフリーターしてたり、正社員になれるまで腰掛けフリーターをしてる人たちってのが実際多かったりするのだ(歪んだ希望社会のせいでもあるが)。だからいくら問題視したって、それはニュー・エコノミーのせいなわけで、政府も経団連もそんなこと予定調和だって理解して動いてるわけだから、だから「フリーター」ってのは一体何が問題で誰のせいで誰がどう解決する意義があるのか、僕には未だわかんないままなのだ。不安定雇用社会がどんどんやってくる中で、社会の色々な面が不安定になってゆくのは当然のことで、それを(一部の連中は)散々批判し否定し「誰か」の責任にするくせに、やっぱりそれは必要悪でもあるらしくて、「生きる力」「転職の時代」だなんて騒がれて推進されてたりする。なんなの?どうしろっつうの?
例えば、不可避な不安定構造の中であっても安心して暮らせる多様な福祉システムだとか、企業利益や生産消費中心じゃないライフスタイルの推進だとか、そういった、人々に優しい政策って必要だし可能だと思うんだけど。でもいつも掛け声だけで終わったりする。よくわからないけど、勝ち組を優遇し負け組を淘汰しなければ本当に国際競争とやらに勝っていけないのだろうか。そのへんの理屈がイマイチ僕にはちっともわからないんだ。

とにかくも、才能や技術を必要としなくても安定していたかつての雇用社会はもう戻ってこない。誰も悪くないけどそうなってゆく。構造だから。景気が回復してもそれは同じ。だから不況の時にこそ思考すること。不況期ってのは、そういう進歩的なインターバルや、これまでの経済を反省するという意義にもあたるっていわれてるし。 「景気回復」っていう言葉に甘い夢を抱いてる庶民たちは、いわゆる「雇用無き景気回復」に愕然とするのかも。
takebonoはそんな絶望社会でも「希望」を探し続けています。そう、本当の「希望」をね。
〈つづく…〉
昨日の飲みの流れで、Aに貰ったチケットで、僕とBちゃんとDさんとで、高輪プリンスでやってる「ドイツランド」とかいうイベントに行くことになってて、約束の時間に品川駅に行ったんだけど、2人とも姿を現さなくて、あれぁ昨日飲み過ぎで記憶飛んでたんかなーとか思ってたら、普通に少し遅れて2人ともやってきたのでそれはそれでホッとした。相変わらず最高に素敵にイカれたお嬢さまたちで。ホントすきだわ。こんな、特にイカれたメンツで行動することもなかなかない。昨日の酒がまだ残ってる軽い二日酔い状態で、僕は楽しい時間を期待してた。 とりあえずお昼は、オープンしてから一回も行ってなかった「品達」で、つけ麺を食べながら3人でまったり。BちゃんもDさんも、会話の端々がどことなく狂ってて、それがとっても魅力的。小さく矛盾して歪んでる僕のソウルゾーンを掠める彼女らの魔球と大暴投は、バットに当てようとするちゃちで愚直なスイングなんぞでは捉えきれないほど非社会的で、オリジナルで、ソウルに溢れてる。時代に合わせたくだらねー変化球は最初から打つ気のない僕に、だからといって彼女らはゾーンを考慮するでも、直球でも速球でもビーンボールでもない、自然なままのイカれた魔球を放ってくれる。よく見てるわりに僕は空振ったり見逃しちゃったりするけど。でもすごく楽しい。絶好球がわからないって、最高だぜ。
「う…打てるのか!?こんな…目で追えねえ球を…!」(by大道)
僕の打席は、魔球を打ち返すことにこそモチベーションがあるんだなあ。なんたる卑屈。でも、なんて魅力的なんだろ。

「ドイツランド」はその入場ゲートからおかしく、中身はただドイツにかこつけた商品売り場のようなものだった。商業主義以前。ひどいもんだ。他には、子どもが喜びそうな動物の人形テーマパーク街のようなものがあってなかなかよかった。でも眠かった。 昨日Aから聞いてた抽選コーナーみたいのやったら、僕に2等が当たった。なるほど、1人は絶対当たるようにできてるって話は本当だった。で「大当たり〜!」「賞品郵送するのでこちらへどうぞ〜!」とかって騒ぎ立てて、2等の賞品はなんか有線放送が聴ける機械のセットとかいうので、結局金かかるの。サギねサギ。Aから聞いてたのとまるで同じ展開だったもんだから、2等当たった瞬間は3人で大笑いしちゃったよ。当たるとわかってて、サギだとわかってて、抽選してやっぱ当たって、ギャハハハって。 音楽そんなに聴かないなあなんて言ったら「じゃあ意味ないから2等やめた方がいいっすよ」だって。どういう2等なんじゃ! あまりに僕らが笑ったもんで、サギ側もなんか苦笑いしてた。 ちなみに1等は絶対出ないんだろうけどディズニーランド招待券で、2等はその有線サギで、3等はウエットティッシュなの。なんて酷い抽選だ。 「ドイツランド」は、まるでイカれた僕らのためにあるような、サギとネタに溢れたイベントでした。普通に入ると1700円だって。狂ってら。A、チケットありがと。おかげでとても楽しめました。こんなメンツでこんな一日もなかなかすてき。そのまま学校寄ってバラけた。楽しかったわ。

夜はPRIDE観ました。凄まじい試合の連続。とりわけヘビー級タイトル戦のドリームマッチは打ち震えました。ミルコが見せてくれた超人魂に感極まった。

残暑呑み

2005年8月29日
上野の東京都美術館に行ってきました。ルーブル美術館の「古代エジプトコレクション展」。スフィンクスとか結構すげえの。ミイラの棺とか。やっぱり、王の神権政治を象徴するように、あのエジプト芸術の数々は支配権力の象徴でもあるわな。とにかく巨大にしたり、とにかく金ピカにしたり、と。
そして科学が発達してなかった故に、あれほどの芸術がありうるとも思った。宗教や神への畏怖。何の理屈にもならない、合理的でもない、だけど故に歴史性を帯びた震えるほどの芸術文化が存在するのだ。神や王や、わけのわからぬエネルギーに向けて作られたアイテムの数々には、鬼気迫るものを感じます。やはりそれもソウルなのだ。 エジプト行ってみてえわ。

その後学校に行って色々PCで調べものしたり勉強したりした。

いったん家帰ってから、夜はAの家に四国みやげ持って飲みにいった。OやBちゃんやDさんと色々話した。こんくらいの人数も結構すてきだなと。Aのお兄さんとも少し話した。なんとも自由人なA兄は結構すてきだ。 やたら飲んで、Aも結構酔っ払ってた。陽気な酒乱はすてきだな。Oがこき使われてた。仲良しだなあ。

帰り、自転車置き場閉まるギリギリだった。結構ふらつく。今日はやたら飲んでしまったな。

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