昨日遅くまで教材研究してたら今朝遅くまで寝てしまって1限出れなかった。しかも教採の申し込み締め切りが今日だった。ネット申し込み出来ると思って余裕こいてたら、IDの取得とかが2日かかるとかで、結局ネットでダウンロードした書類を簡易書留で郵送した。後で調べてみたらすぐID取得できるんじゃん。郵送費損したわ。それもこれもちゃんと前もって準備してないからだな。しかも今日に限って遅く起きたりして、ヤバイとこだった。まあ受かるわけないんだけど、いちお勉強してるしとりあえず標にはなるからやっぱ申し込んどかないとな。
その後ゼミで、待たされてた卒論テーマ発表をやっと出来た。かなり力を入れて発言してしまった。充分に勉強して用意したネタ材料が役に立った。まだ皆の意識とは乖離があるように思ったけど、先生だけは理解してくれてたかんじだった。議論が活発になって嬉しかったんじゃねえのかな今日の先生。僕がことなかれ主義キャラだと思ったら大間違いだぜ。
その後C氏とDさんとで模擬授業やった。C氏の授業は落ち着いててとてもわかりやすかった。才能があるように思うけどな。触発されるわ。僕も授業やってみたけど、シュミレーションと全く違う。あの教壇に立つと世界が変わる。充分に、もっと充分に、授業計画は練らなきゃならないのだな。
久しぶりにC氏と色々話した。お喋りしてると時間過ぎるのあっという間だな。語り合える友達ってすごくすてき。自分を再確認する感じ。思えば、C氏とも長い付き合いだ。大学1年のときから、いろんなことを語り合ったし、共に取り組んだっけ。自主ゼミも、学部のイベントも、教職の発表も、調査実習も、何より同じ講義を机を並べながら受けて、僕らはいろんなことを議論したり語り合ったっけ。その度に、そうだ、その度に、こんな人もいるんだなって僕は思うようになったんだ。C氏は素晴らしい人だ。こういう人が幸せになってゆける社会を僕は願う。うまく立ち回った頭のいい人だけがうまく得して生きてゆける社会ってどうなんだろうねってC氏は言った。でも、そうかもしんねーけど、最後は、最後の最後は、誠実が勝つと僕は信じてるよ。ささやかな幸福を、最後に優しい笑顔で生きていられるのは、やはり誠実な人だと僕は思うし、願うんだよね。人に優しくできる人は大すきだし。人の幸せを願い、人の不幸を悲しめる人は、大すきだ。 大丈夫だC氏は。いろんなものを乗り越えて、人に優しく在ろうとしているのだから、大丈夫だ。
過ぎ去ってしまった時間、取り戻せやしない空虚は、後悔が栄光への背中を押してから、かけがえのない時間で埋まっていった。あの時代は何よりもかけがえがなく、永遠に輝いていくと思う。一瞬一瞬を輝いて生きれれば僕はそれでよかったんだっけと、改めて気付かされた。

猛スピードで時が…

2005年5月12日
今日は教職のゼミ授業に出てきた。グループで研究発表をすることになった。でもメンバーはイマイチ頼り無い。突っ込むべきか突っ込まないべきか迷っちった。前提が無いままに進めてくもんだから、うまくいかないグループ研究作業の典型だなと思った。でも最後には先生のフォローでうまいこと軌道修正したかんじ。せいぜい社会調査をかじった自分が、引っ張ってゆくしかない。教育実習で長期離脱するのも痛いな。
焦っても仕方ないんだけど、時間かけてもかけてもなかなか進まないときがある。ますます焦る。時間的なリミットはあるからだ。やばい、と思う。なのにダラダラしちまう。まずいまずいまずいまずいこれはまずい。時間を費やさなければならないときに限って、他にやりたいことが次々と浮かぶ。そういうのもう見ちゃいけない。姿勢を崩さずに、目の前のことに集中しなけりゃ。早いなあ時間が逝ってしまうのが。時の流れの速さに乗り切れないよ。くそくそくそ。集中集中。がんばろっと。
今日は2限は教育実習クラス。Hの模擬授業は昨日より格段に良くなっていた。やっぱリハの効果が出てたみたいでよかった。他の人のも見たけどなかなかよかった。しかし僕の母校は底辺校なので、僕はやはり僕らしいリズムで授業いったるぞ。
は〜時間がない。焦る焦る。なのにダラダラしちまう悪い癖。関係ない勉強や本を読んでしまう悪い癖。本を読んでても頭入らなかったりして。時間は夢のように流れてくなあ。周囲の就職活動も佳境みたいだ。僕のクズ臭のする友人らは就職するんだろうか。その前に就職出来るんだろうか。 そういや就活戦線も6月辺りで一つのピークを過ぎるってSK兄貴が言ってたっけ。それ以降は、内定決まらなくて焦ってる学生を狙った悪徳企業も増えてくるらしいとか。まあ僕には関係のない話だ。これからはかなりの流動化社会になっていくと思うし、ホントに今日M先生が言ってたように、昔の「就職」イメージで就活してたら結局行き詰まるんだろうな。末端の終身雇用は崩壊した。それでもまだ企業社会にしがみついて過労して脳死社会人になってゆくのも勘弁だ。賢明ならばその前にドロップアウトすべきだよな。人間らしく生きていきたいなら尚更。世界の資源を喰らい尽くして、罪悪感と後進国の脅威に脅え、守ってく幸せなんていらないや。ホームレスになんてならなくても、ダラダラ生きてゆくことも出来るんだぜ本当は。早いとこ諦めて旅に出ようぜSK兄貴よ。 こんな僕が後人生をどう送るのか。誰もわからない。僕にもわからない。わかろうとすることはきっと、奇跡への冒涜だろうな。生きようとして、生きてゆけばいい。今や希望は生きるためにこそ僕の心に存在する。
食堂でAやKSさんやS氏やHやHTやDさんやEつんが入れ替わり立ち替わりで現れ、楽しかった。素敵すぎる奴らだ。時々、輪の中に自分がいることを不思議に思う。人の輪の中で、不思議と僕にもう吐き気は無い。クズ臭が心地よい。それは人間臭い。それはぬくもり。それは嘘臭くも胡散臭くもない、それでいて人間臭さを脱臭されなかった香り。木々や潮や風の匂いに似てる。どこかあれが自然だとでも言いたいのか僕は…。
授業は無かったけど、学校行って勉強した。 Hの模擬授業リハをみてあげた。相変わらずいっぱいいっぱいみたいだったけど、がんばってるようだ。Hはいつも一生懸命であろうとする。誰に対しても、何に対しても、背負おうとする。なんだかもどかしいというか、たまらない。こんな世の中適当に生きりゃいいのに。みんなふざけて生きてるのに。まともに向き合おうとしてるかんじ。バーンアウトの典型っぽいとこが心配だけど、少なくとも僕は信頼されてんのかな。長い付き合いで、色々なことを共に過ごしたことも、決して忘れないし、そして、あの素晴らしい生きる姿勢を、僕が尊敬するあの姿勢を変えずに生きてってほしいと思う。辛いときゃーフォローすっから、そっちに歩いてってほしい。僕がすきになった全ての人たちへも、そう思うんだよな最近は。 やっぱり、優しい人は負けちゃダメだ。優しい人がいなくなったら誰が平和を守るのか。ジャイアンが優しければと僕は何度思っただろうか。人に優しく在れる人こそを、僕は守ってやりたい。 優しさと強さ、両立しにくいそれぞれの奇跡をつなぐ勇気と意志。創造したい。それを創造したい。人間を愛し人間を慈しむことのできる人間の強さ人間の弱さ。
時間が無え、時間が。生き急げ。それがすばらしいなら、もっと、遥かに。生き急げ、自らを。
今日は実習校で打ち合わせ。スーツ暑い。だんだん実習の概要がわかってきた。授業は僕次第で5〜7時間計画が立てられるみたいだ。どうする?限界までやってみるか?恐れるしかし下がらない。当然7時間計画だよな。 いよいよ焦るぜ。いよいよだからな。超不安しかし超楽しみ。授業だぜ授業。この僕が?マジですげー。すげー。教師って何よ?金八っつぁん教師って何よ?

「ヤンキー母校に生きる」読んだ。熱い。ヨシイエ熱すぎ。何回ブチ切れて椅子を床に叩きつけたんだこの人は。机殴って拳折ったり、勘違いで怒り狂ったり、裏切られて泣いたり、くさすぎ。でも熱すぎる。それもこれも生徒を信じているんだな。「教育」を信じてるんだわコイツは。教師の鏡。過労伝説。金八リアル版。すげえ。虐げられ排除されてきた者たちと一緒に生きてゆくことを、腹決めてるんだな。個人的にはあんまりすきじゃないんだけど、社会や教育に対する思いは似ているなと思った。だからやっぱ感動するとこもあった。義家先生もまた、この国の社会に排除されて、傷つけ傷つけられ、それでもクソッタレの社会に希望求めて生きていこうとしてるんだわ。だから教育者はそれでも理想を追わなければなんないんだよ。多くの多くのちっぽけな希望になれるってすげえ。だからこそ、教師続けてほしかった。いつか絶対戻ってくるんだろーなコノヤロー、じゃないと、ただのヤンキーだぜ。
でも感動はするわ。「自分を大切にできない人間は、相手を大切にすることはできない。自分が幸せじゃなければ、本当の意味で相手を幸せにすることはできない。お前が優しい心で相手を大切に思うように、お前自身のことも大切にしてあげてほしい。俺の前ではそのままのお前でいていいから」 ドラマの台詞かよ。でも不器用だコイツラみんな。傷つけ合わなければ生きていけないなんて悲しすぎる。それでも、その傷を、痛みを、衝動を、受け止めて一緒に生きるしか、ねえんだよな。ヤンキー先生は所詮ヤンキーだ。しかし、間違っちゃいない。
心の扉を、ノックすること。開こうとするよりもまず、ノックすること。心の闇を共に生きてやること。友達でいること。
授業計画、授業計画、教材研究、教材研究…。学校の先生の授業がつまらない理由が分かる。授業研究する余裕が無いからだ。本職である授業以外に、公務分掌やら家庭との連絡やら研修やら、その上問題でも起こったりしてたら、どうしても授業やっつけになってしまう。教科書に頼らざるをえなくなる。教科書問題なんて大したことねえよと言えるくらい教科書依存を無くしていければよいのにな。本当は総合学習だってチャンスなんだ。教育を子ども達の側に取り戻すチャンスなんだ。でも、多忙故に既存に妥協してしまう現状は悲しすぎる。 浪人の時、予備校の先生が言ってたっけ。「学校の先生よりも、私たちには教え方を研究する時間がたくさんある。本を読む時間がたくさんある。だから学校の授業がつまらなくてわかりにくいのは当然だし、予備校の先生の方が面白くて教え方がうまいのは当然のことなんだよ」 その先生はその後ボソッと言った。「まあ、学校の先生が多忙でまともに授業できないから、(勉強が分からなくなる子がたくさん出てきて)私たち(予備校)が食っていけるんだけどね」 皮肉なことだ。塾産業は学校教育を機能的には完全に上回りながらも徹底批判しにくいんじゃないかな。学校教師の現状が認知されて改善されてきたら、いやむしろ学校教育がレベルアップしちゃったら、予備校なんか必要なくなっちまうもんな。今や教育が格差を生み、教育がまた商品として消費されるのだ。そこにはもう人間の姿は無いんじゃないか。学校の先生の手には、徒労と無力だけが残るわけだ。教育って何なんだ?教えてくれよ金八っつぁん!
それでも僕は教育実習生だ。時間を両手に持つ大学生として、この現状に対し、全力で向かいたい。その答えは決まってる。授業計画と教材研究に全力をもってして多くの時間を費やすことだ。それが、僕が今できる「教育」への姿勢だ。
やばい…なかなか授業計画ができない。徹夜だ徹夜。

市場経済末期国家

2005年5月7日
教材研究の日々だ。実習教科は地理。単元は「国としてとらえる地誌」。僕はアメリカという国をまず授業することになった。キーワードは《超大国》。 その超大国ぶりを、どう興味深く伝えることができるか。どんなパフォーマンス、エンタメが必要だろう。構想は固まってきたものの、肝心な教授法に悩んでいる。昨日の皆の模擬授業は参考になった。あんな感じで、自分のテイストを取り入れていけたらな。
僕の知るアメリカは、自由主義で個人主義で契約社会で訴訟大国でもあり、差別は潜在化しているものの、表面上細かい権利への配慮もあると思う。自由と自己責任。競争と消費こそが文化の国。だが、「アメリカ=世界」と勘違いしている愚かさと、アメリカンスタンダードと、911以降酷くなったアメリカ愛国主義の立ち上がりは、酷く醜悪で、今後の世界の不安材料だ。
社会福祉面でいえば、国民健康保険が存在せず、公教育予算の現状は酷いらしい。故に民間が介入することになり、教育の商業化が進んでいるという。学校教育現場は、企業広告・マーケットの場になっていて、教材・教科書はスポンサー企業が提供する。校内の学食や自販機は契約企業の商品を独占契約し、学校行事は契約企業が優先的に広告塔として使うそうだ。運動会のユニフォーム、コンテストの賞品等々。(ソニー主催○○中学校合唱コンクール…とかか?)スポンサー企業がエネルギー会社だった場合には、社会の教科書に「環境問題」が載ることは無いらしい。なんというか…悪夢だね。京都議定書を蹴った態度そのものだな。だから地域によっては「進化論」を否定する聖書原理主義教育なんかがまかり通るわけか。学校教育が、アダムイブが人類祖先だと教えるわけだ。中絶、同性愛、尊厳死の否定を学校教育が教えるわけだ。何という危うさ。悪夢。まあ石原東京王国も似たようなものか。保守回帰。天皇万歳。 当然ながら地域間で学校・教育の質の格差は存在する。あの雑多種国家をまとめ上げる公教育なんてありえないのかな。地方分権、州とかの権限が強いってわけか。日本ではまだ教育がアメリカほどは市場の食い物にされてはいないのだな。だけどたぶん今の日本のネオリベラリズム的教育改革の最果てはこんなかんじなのかも。公教育の一定レベル保障というものを、最近の風潮のようにその一律画一主義の弊害という面だけで批判するのは危険すぎると思う。日本の教育界は規制緩和されていない非関税障壁だから、ガンガン自由化せよと、ネオリベラリズムの風吹き荒れる現代社会が後押ししているように思える。自由とは何なのか、教育権とは何なのかを考えなければならない。教育する権利を持つのは、国?親?教師?或いは市場?「子どもにとってよい環境」って何だ?誰が決めるんだ?答えなんか出ていない。ある教育という営みが、誰にとってどんな利害なのかを問うところにこそ、一つの不毛な議論への決着があるのではないか。
アメリカの教材研究だったはずが、こんなことをぐだぐだ考えてしまった。こんなん授業したら実習中止かな。大人社会は、嘘ばっか。荒れるの当たり前じゃないですかあ。
教育王ブレア労働党が生き残った。イギリスもこれからどうなってゆくのかな。
今日、1限は遅刻した。3限のゼミは休講だった。ほんと嫌になる。僕の発表はいつまで待たされるのやら。大体ネットトラブルで昨日から休講掲示見れなかっただろが。ノコノコ休講掲示板見に学校やってきたんじゃねえやい。クソー。だめだ、焦ってんな最近僕は。
時間空いたから食堂で教採の勉強した。暗記は得意だけどやり甲斐を感じない。こんなんで教師が採用されんのか?ばかばかしいな。それでも、古代から続く教育史は興味深かった。今ある教育も、全部知の巨人達から受け継いできたものなんだね。しかし、教育の意義自体が、教育史の時代と現在とでは乖離しまくってる。それほどに、近代公教育を経て現代という時代はすごい時代なのだ。いじめに不登校、学級崩壊かか…ソクラテスはそんなこと想像もしなかっただろう。ヘルバルトやペスタロッチはそんなものが起こるとは思わなかっただろう。僕らに必要なのは、過去の偉大な教育家たちの功績を踏まえ、僕らなりに教育にアプローチしていくことなのだ。昨日、ヤンキー先生がTVに出てた。あまりすきじゃないけど、番組は面白かった。自分でもわからない自分の声を聞くこと。何を通してでもいい。友達でも恋人でも芸術表現でも。心の闇を、閉じこめるのではなく、生かすのだ。真っ新な己が情動を震わせるのもまた、自分なのだ。冷え切った激情、ありふれてしまった情動、そんなものじゃないリアルをあの子ども達に掴ませてやりたい。それこそ生の価値なのだ。 大人の言うことだけまともに聞いていたら、僕なんか死んでいたよ。だって生きてるんだもんさ。死んでない。自分を生きるってそういうことだと思う。
で、皆で模擬授業やるっていうから観にいった。MG君とDさんとKNさんの模擬授業を拝見した。C氏のLHRはまた今度ということになった。来週は僕もやろう。なんだかこういう自主的な集まりって、ホントにすごい、すてき。感心する。今時の学生に主体性がないわけじゃねえんだぜ。僕らはニュージェネレーション。旧世代のように、露骨に社会闘争的でないだけさ。 がんばるべ。自分らしく。

GW…ACミラン対PSV

2005年5月5日
チャンピオンズリーグ感動した。ACミラン対PSVの一戦。1戦目を2−0でミランが勝ってるから、この2戦目ではPSVは最低でも2点を取らなければならない。アウェーゴール優先ルールだから、ミランに1点でも取られたら今度はPSVは4点取らなければならない。90分でミランから2点を取るだけでなく、失点も許されない。しかしミランの最終ラインはおなじみマルディーニにネスタ、イタリア代表・アズーリの鉄壁ライン。GKのジダは前半守りきれば連続試合無失点の大会記録。どう見てもミランの勝利は動かないだろう。しかし第1戦でPSVは、リスクを冒してでもアウェーゴールを奪いにいっている。ミランに勝つには、リスクを冒さなければ、普通のサッカーでは勝てないということを、監督ヒディングは知っていたのだ。奇しくも、02W杯で韓国代表監督としてイタリアを破ったヒディングが、今回またも奇跡を起こすのか。キックオフ!
いきなり!W杯の再現であるかのように、韓国代表のあのパク・チソンがジダの無失点記録の夢を打ち砕く先制ゴールを決める!PSV先制!さらに後半、コクーのヘッドシュートが決まりPSV2点目!なんと総合で2−2の同点!うおおおお!だが、だが、終了間際ミランの超新星カカの絶妙クロスをアンブロジーニが押し込み、ミランが遂にアウェーゴールをもぎとる。2−3。これでPSVは仮に3−3に追いついてもアウェーゴール優先で敗北だ。でも!PSVは諦めなかった。ロスタイム、コクーが豪快なボレーシュートをミランゴールに叩き込んだ!うおおおお!しかしここでタイムアップ。結局王者ミランの辛勝。 最初から守りきろうとしたミランに対し、最後まで攻め続けようとしたPSVに、僕は震えた。最高の試合だったぜ。 決勝は醜悪なチェルシーを叩きのめした名門・リヴァプールがミランの相手だ。イスタンブール決戦は、教育実習で焦ってる頃だと思うから、楽しめないかもしれないな。でも超楽しみだな。 しかしミランのガットゥーゾはかっこいいな。
今日はいい天気だった。Sちゃんの運転するクルマで、Hと僕を乗せて、千葉の海岸などをドライブした。このメンバー、気分がほっとするなあ。波が来る砂浜で遊んだりした。いい大人が、男女3人が何やってんだか。なんだか不思議だ。でも楽しかった。銚子海岸で食ったイカ焼きとニシ貝焼きが超うまかった。 それぞれの不器用さが、にじみ出てて、でも素直でいられるこの時間はほんとに貴重だ。生きることが下手かもしれない。人よりうまいこと出来ないのかもしれない。でも、なんでこんなに人間的なんだろうね。心が優しいんだろうね。守りたくなるマジで守りたくなる。僕の無力なんて、無視してもいいぐらいに。 今はまだ。恐怖のカタチが見えないけど。失えないという幸福故の弱さ。恐怖との闘いに身を投じるという強さ。結局、僕は僕が見据えるものと、戦争しなきゃならないのかな。 人間って不思議だ。いつの間にか、失えなくなっている。戦わなきゃならないようになっている。生きる上で、そうなのだ。
今日は楽しかった。風が気持ちよかった。最高だった。ドライブはやっぱいいな。僕も車ほしいな。友達と過ごす休日は素敵だ。
卑屈だな。卑屈卑屈。ペシミズムペシミズム。厭世厭世。ルサンチマンルサンチマン。もはや苦悩でもないのかなあ。
一昨日行ったカット店で三木谷浩史に似た美容師の兄さんがくだらねえことばっか話しかけてきてザクザク切りやがって、別に髪型失敗したとかじゃないしそもそも髪なんてどうでもいいからまあどうでもよかったんだけど、今日昼間急に寝ぐせがイラついて、TVで楽天の試合見ながら自分でハサミで髪ザクザク切ってしまったよ。Bちゃんがスキンヘッドにしたり眉毛剃ったりしたのほんの少しだけ気持ちわかったかも。ああマジ髪なんてうぜえ。坊主にしよ今度、絶対。
昨日S氏の小説を読んでから、文字を打ちたくてしょうがないのだけど、今は抑えなきゃクソッ。なんとか今日今度のゼミの発表内容をまとめた。連休中にあと実習の指導案まとめないとな。
しかし、僕なんかにゃ一生わかんねえようなことが、無限にあるんだなあこの世の中は。世界は広いぜ。その欠片でも感じる前に死にたくないし生きたくないな。勉強しかねえ勉強勉強。本を読もうもっともっと本を読もう。
今日一つの不和が解決した。「平和学」を思い出した。争いの解決に必要なのは、冷静な目と、第三者的視点。それぞれの利害と対立点の明確化。妥協案の中立で公正な立て方。何なら失えるか、何なら守らなければならないか。誰かの幸福が誰かを傷つけることを、最小限に食い止めるために。 まあ結果論として解決した。ガルトゥング博士、僕はやったよ。また一つ世界は平和になったのかも。

GWにこそ眠れ

2005年5月2日
教育実習の教材研究と並行して、卒論にも取り掛かっている。GWはある意味時間をフルに使えてうれしい。今日ネットで色々調べてたら、とても参考になりそうな文献を見つけた。しかし地元の図書館検索全てに置いてなくて、学校の図書館検索で見つけたのだが誰かが借りていた。来週返却予定だったが、くそ〜すぐ読みて〜のにな〜とかってイラってしまった。しかしこんなマイナーな研究図書みたいの他にも借りるやついるんだなあ、なんて思ってたら…その本借りてたのは僕だった。先週借りて、布団の脇に積んであった。あぶないあぶない。これは本当に死にたくなるところだった。あぶないあぶない。法政大までいくとこだったよ。
学校行った。1コマだけ授業出てきた。さすがGWでキャンパスは人影がまばらだった。生協の購買では商品が余りすぎてて、閉店間際はお弁当やおにぎりやパンが全て半額というかつてない事態だった。需給バランスきっちりしてる。実際「安かったから」買ってしまったよおにぎり。市場って面白えや。 世の中の全てのものは売られている。土地は上がったか?円は下がったか?株はどうだ?今日の特売は何ですか?いい男いい女いい学校いい会社いい老後いい人生…すげえよな市場ってのは。価値をつくりだしちまうんだもんな。市場原理とはまさしく神なんだねアダムスミスさん。 全ての価値から自由に生きられるわけはないけれども、少なくとも僕は怪物じみた市場価値観からは逃れたいな。馬鹿馬鹿しくてさ。搾取されるものはいつまでも搾取される。とはいえ市場の奴隷となった労働者たちが革命起こしても、酷い世の中になるだろうな。それでもただ食い物にされるのも、お前らそれでいいのかよって思ったりしちゃう。結局は無力か、しかしそれでいいのかも。誰かにとってのちっぽけな希望でいいんと違うか? 僕は臓器でも売らない限りは労働力市場には食い込めそうも無い。僕は圧倒的に隙間産業ってやつで生きていきたいぜ。 GW…まさしく金がやたら舞う週だろうな。恐るべき無駄遣いしかし経済効果。遊んで食って飲んで吐いて散財して、また過労・貯蓄に励んでくれ日本人。いい笑顔ですな竹中大臣。
物語は終局を迎える。 「ではなぜお前たちは来たのだ?…怖いからだろう?我々がしようとしていることが…、我々が何者か…お前らはそれを知っているんじゃないか…?お前らが…想像している通りだよ…お前たちが我々をテロリストと思う限り…我々はテロリストなんだよ…、勝手に想像し恐れるがいいッ、…恐怖は万人に平等に与えられるものだ…我々だけでなく…お前たちにも…、人間はそう思ったようにつくられ…世の中もそう信じた通りに存在するのだ、我々も…お前らも…この世の中もな…」 「恐怖を感じない種は滅びる以外ないからだ…脳を持つ全ての生き物にとって、恐怖は最も根源的な感覚なわけだよ…生と死が表裏一体である限り、真の生を人に与えられるのは死と背中合わせの恐怖に他ならない!そして今快適な社会は滅び去り…遂にまたその根源的な恐怖が我々の前に…人間の世界に甦ってきたのだッ!…全ては人間たちが無意識の恐怖より生み出した、この世の惨状に対する終末のイメージだよ…人間の頭に潜む破壊的な想像…イメージ上の怪物…内なる幽霊…無意識が作り出す恐怖の世界…それらの意識の集約こそが究極の恐怖なのだ…人間は頭の中に恐ろしい力を持っている…それはこの世の中の恐ろしさよりもっと恐ろしい…」
ドラゴンヘッドって結局何だったのか、色々謎を含んだまま話は終わってしまったのだけど、やはり僕は「テロリズム・エコノミー」にしか関連付けることができなかったな。ああマジ小説書きてえんだけど、やること他にいっぱいあって集中できやしない。当分は思いついた文章を少しずつ書き溜めていくしかないかな。

恐怖は情動だ。人の心の闇は、世界を動かす力だ。行き詰まった資本主義市場原理という怪物の、その断末魔の叫びに人々は恐怖する。その恐怖という情動・動機付けすら、怪物に与える餌になる。今世紀に起こる恐怖は、怪物に与えるための最後の食料だ。 戦争が、バブルが、搾り出された欲望が、次々と喰われていった。失えないために与えられた幸福は今や人間を縛る鎖となった。死なないために生きている生はいつしか醜悪なインフレを起こしていった。流動化するアイデンティティーが本当に流れきってしまう前に、恐怖は万人に生きる力を与えるだろう。 それは最後の怪物の餌。そして最後の生命の証。ニュー・ニューエコノミーのその先を、まだ誰も知らないのだ。人間の未来がその岐路に立つとき、テロリズムはエコノミーとなる。

takebonoマンガ夜話9

2005年4月30日
死と生、世界の終わり、崩壊、そして恐怖とは何なのかという重きテーマに基づいた衝撃作品。少年世紀末ストーリー『ドラゴンヘッド』。 修学旅行中に新幹線のトンネル事故に巻き込まれた青木テルは、同級生で唯一生き残った瀬戸アコ・高橋ノブオと共に、埋まったトンネルからの脱出計画を試みる。しかし、恐怖との共生を求め闇に飲み込まれてゆくノブオ。そして遂にトンネルを脱出したテルとアコが目にしたのは、壊滅した日本国の姿だった。原因不明のままに滅びゆく世界で、生き残った人間たちが右往左往する。ある者は希望に、ある者は絶望に、それぞれの命を揺れ動かせてゆく。「恐怖」とは何なのか。「テロリズム・エコノミー」を書くにあたり、僕は再びこの漫画を読み返した。人間の持つ恐怖とは、生命そのものではないかと僕は思う。発展により恐怖を克服し続けてきた人類、しかし恐怖無くしてはまた生きられないのも人間。恐怖を乗り越えるという動機付けは、生きる意味は、生き延びたことにこそ基づくのだと。恐怖という存在は、人間の生命を物語っているのではないかとも思う。
最終巻。アコを追い、壊滅した東京に再び帰ってきたテルに、仁村は銃を突きつける。「結局、東京にゃ人間も文明も残ってなかったんだよッ!何もかもが終わっちまってたんだッ!…全て他人事だった、何が起きようと…俺は最初からこの世の中なんぞには何の期待も持っちゃいねえッ…だからこの世界がどうなろうと失望することもねえ…俺が怖いのは自分が死んじまうことだけさ、世界がブッ壊れようが知ったことじゃねえ…だからこそ…俺はいつでも一歩引いてこの世の崩壊を見ていられたぜ…よく読んでたSF怪奇小説でも読んでる感覚でよ…だが…俺の考えた以上に、いつしかこの世界は俺の予想を遥かに超えた…歪んで狂った形へと変貌していった…俺はその歪みに囚われも逆らいもせず傍観して生きてきた…それがどうだ?いつの間にか俺自身もこの歪みの中にとりこまれちまってるッ!傍観者としての立ち位置も崩れて不安定な状態になっちまったッ…!…だが、思ったんだよ…その女と行動してた時だけは、歪んでるのはこの世界のほうで、自分はあれでも割とまともに動いてたんじゃないか…ッてな!」
アコを奪おうとする仁村に、テルは口を開く。「死なんてものを何も意識しないでいられた世界はとても素晴らしい世の中だったさッ…だけど…こんな世の中に変わってしまって、やっとのことでここまで帰ってきて…いろんな目に遭って…!…そうさ、もちろん死なんて意識しないで生きられる世界の方が、幸せで素晴らしい世界なんだッ!でも僕は…何かをおろそかにしてた気がするんだ…“死に対して鈍感”ってことは“生に対して鈍感”ってことだッ…そうなんだッ!生きるのに意味なんてそんなものいらないんだッ…ただ…意志があるだけだッ…!…生きる意志だ!それを忘れて生きてられるのは幸せだけど…、バカなんだ確かに、気付かなくていい問題を無理やり掘り起こして苦しんでいるのかも…生きてる意味なんて…何で僕はここにいるのかなんて…そんなこと考えるのは…でも…でもその答えのほんの一部でも見つけることができれば…命をかけて生き延びてきた価値があるんだって、今思えるんだ…」
「心の闇」というやつが、しかし誰の中にもあって、立ち向かうのか、飲み込まれるのか、でも、恐怖するということが、人間が生きているということでもあるのだと思う。恐怖無き生は、それは輝く生命で在れるのか。ハッキリ言える。恐怖することこそ、生命である。心の闇こそが、人間の証である。「テロリズム・エコノミー」ではそういう所も描きたい。
早朝に起きて国技館の横審の稽古総見を観に行こうと思ってたのに、昨日の深酒がたたって二日酔いで起きれなかった。あああマジ残念。あとでニュースで聞いたけど、早朝7時開場だっつうのに9000人程来たらしい。観にくるのマニアだけかと思ってたのに、相撲ファンは老人が多いから朝は強いのかな。無料ってのが一番大きいのだとも思う。相撲ファンはいつもTVでしか観れないのに悔しがっているんだ。 昼起きてまた寝てまだ酒が残ってるっぽくて、天気よかったから自転車でうろつこうかと思ったら、自転車を駅の自転車置き場に置き忘れていたことに気づいてウンザリして駅まで歩いて取りにいった。そういえば昨日は自転車置き場閉まっちゃってたから歩いて帰ったのだ。よく帰れたもんだ。いつもの地元の感覚で飲んでたらあぶない。外で飲むときは気をつけなきゃ。 Oが花見で泥酔して救急車で運ばれたと聞き、無茶しやがってバカが、なんて思ってたけど、人事じゃないや。最近オールもしなくなったし、次の日に響くのが嫌だし、ある意味年をくって懸命になった。理性あるクズになったのか。いずれにせよまだ若いし、しかし若すぎない。良き時代なのだと思う。
「テロリズム・エコノミー」を考えながら思った。しかし、恐怖とはなんだろうなあ。生きるってことは、やはり動機付けなのだ。どの感情というか衝動というか情動を、生きるモチベーションにする或いはされるのかだ。快楽か。欲望ってのは不思議なもんだ。再生産される。朝起きたらまた欲しくなるように体が出来てる。そのくせ、段階がレベルアップされる。つまり欲望ってのは増殖しやがるんだ。だからこそ人間は進歩もするししてきたのだろうけど。 アイデンティティーか。基本欲望だけじゃ埋まらないもの。自分の存在を規定するもの。自己の基盤を奪われた人間がいかに弱いものかは歴史が示すとおりだ。 目標とか夢とか壁とかも、障害物のくせして生きる動機付けだ。
結局、完全なんかなくて、泣いたり笑ったり怒ったり恐怖したりするから、人間は人間なんだ。やはり無念を愛することなのだ。
「ドラゴンヘッド」であったように、恐怖すら、生きる意味なのだ。恐怖感情を失った人間はもう人間ではないんだ。だから経済活動は充分に成り立つのではないのかな。テロや戦争が景気を冷え込ませるとかいうけれど、僕は今や平和の方が景気を冷え込ませるほどの成熟経済だと思う。恐怖以上に、経済活動に動機付けのある情動はないだろうと思うけどな。
人間である以上は、社会や経済からは逃れられないだろうな。あの欲望と恐怖が織り成す悪魔のサイクルとは、上手に付き合ってゆくしかないのだ。地球が壊れる前に。戦争が起こる前に。平和のうちに生をまっとうするために、か。わかってて愚かになれるのも人間なんだな。バカじゃない人間なんて、人間じゃないのかもしれないな。
それでも僕は脱線事故の被害者の方々、遺族の方々の悲しみに、涙を流さずにいられない。一人一人にとって、かけがえのないものが奪われちまったことに。僕なんて、僕がすきな人やすばらしいと思ってる人が死んでしまったら、立ち直れないかもしれない。それほどに拠って生きてるんだ。僕なんか、僕だけじゃ生きられず、かろうじて生かされてるんじゃねえかって思う。人間的で、反近代経済社会的な、クズだな。それでも生きるということが、素晴らしくて仕方がない。 みなさんせめて安らかに。
教職のゼミ授業で、色々話した。まだまだ面白くなりそうだけど、世界を歪めそうなほどのソウルはまだ見えないな。なんでみんなあんなカタいんだろ。教育問題においても、どこか社会学的なアプローチは、僕が社会学部だからか、皆の問題関心アプローチの底が見えてしまうかんじだ。いくらでも答えのない議論を繰り返すことももちろん大事だけど、僕はもっともっと文献を読みたい。教師は、知のプロでなければ。生きるための知の。教師なんて過労職、なんでみんな希望にするのだろうか。ソウルを感じなければそれも僕にはわかんないや。
それからH先生からやっとダビングテープ入手した。これが伝説になるのかなあ。
その後、Aの家の飲み会にいった。Aから頼まれた買い物しつつ、中野駅周辺をうろついた。ゴチャゴチャした街だなと思った。今日は日中暑くて風が強かった。しかし夕方からビール、お好み焼き、最高! やっぱ楽しかった。AとOは相変わらずなんだかんだいって仲良しが続いてる。すげえ笑えて、まるで夫婦漫才だなって、C氏と笑い転げた。久々にBちゃんきてたので、Bちゃんネタで笑い転げた。SSのトークはマジで笑える。社会生活を営めそうもないKSさんも、すごい笑顔だった。SS曰く「クズ臭」なのかな、僕がここで居心地がいいのは、そうなのかもな。列車事故がかわいそうだとか、僕とBちゃんの非言語コミュニケーションがどうだとか、SSのバイト先がどうだとか、何聞いてても結構興味深かったり、面白かったりするのは、やっぱクズ臭なのかなあ。 「ナニワ金融道」を文科省の指定図書にすべきとかいう僕の提案から始まって、C氏とも色々語っちまった。C氏はいつもすてきな人だ。見習うとこたくさんある。
飲んで、笑い合って、語り合えることほど、僕に幸せなことはない。いつのときも、奇跡に感謝してる。すばらしく在った永遠の一瞬を心に残したあとは、僕は僕自身一体何をして生きてゆけばいいのかと、立ち止まるときもある。でもきっと、よりすばらしく歩き出すために立ち止まるのだ。 進歩主義、努力主義、成長神話、そんなもんクソクラエだ。歩かされるんじゃない、歩くんだ、自分の足で。それだけなのだつまるとこ。「死ぬときは、前のめり」大学入学したとき、僕がどっかに書いた言葉だ。もがいて生きる、足掻いて死ぬ。愚かな私。それが人間だ。
結局指導案が間に合わなかった。クソッ。教育実習のクラスで他の人の模擬授業を見た。いい出来だった。でもやっぱ進学校なんだろうな。中高生の頃の僕があの授業聞いてたらやっぱり寝てるだろうからな。勉強なんてしたくもなかったしな。僕は僕らしく失敗してもいいからウケを狙えるような授業をしようと、そう思った。個性個性なんだろ。特色出してやんよ。そういう意味では社会科ってのは燃えるようなやりがいがあるよな。あの底辺校のクズ高校生どもに、ちょっと耳を傾けてもらえるような授業が出来たらな。そういうのっていいな。
中学の頃、あのはぐれクズ集団のMちゃんが「おいテメー、…勉強おしえろよ」とかってグダグダでそば寄ってきて、数学教えてやったっけ。ほっとけばいいのに僕は教えてやった。ほっといてあいつがどこで死のうが関係なかったけど、何故か僕は勉強教えてやったんだ。結構そういうものこそが、教育の本質なのかもしれないとも思う。あーいう連中は、教師に質問することも、自分で考えることも出来ないんだ。本当は、学びたがってる奴らって結構多いのかもしれないのにな。文化資本っていうのかな。勉強できる環境にいない連中にも、学ばせてやりたい。本当に、充実して生きるための生きる力を。 なんか、話しやすい先生っていなかったな一人も。理解を望んでるとかじゃなくても、ただ一人でも、僕の言うことに耳を傾けてくれる先生がほしかったな。
今日はそのクラスで知り合った人たちと少し話したりした。まあ普通の人たちだ。もっと絡めばいいんだろうけど、何かもう僕にパワーが無いのかな。がむしゃらなエネルギーがわいてこない。奥底にあるかもしれないソウルを、ほじくり返してみればいいのに、何か沸いてこない。変に中途半端に、自分固まっちまったのかなあ。 僕は僕であることを許してから、僕以外の可能性を諦めちまったのかな。いずれにせよ、波があるな最近。
その後食堂やら図書館やら帰り道やらで、今日は旧自主ゼミのメンバーをやたらよく見かけた。みんなそれぞれを生きている。臆することなく僕も、自分の道だけを歩まないとな。これからやることは山積みだ。いまはその全てが輝いてる。
今日は一日中PCに向かっていた。迫る教育実習に向けて、今は教材研究の日々だ。ソウルある授業を展開したい。
まずは「アメリカ」。アメリカといえば超大国なんですよ。日本とは親密なんですよ。そうですかあ。…でもさあ、高校生の頃の僕だったら絶対にピンとこない。軍事大国つっても、経済大国つっても、それが何を意味してるのか全然わかんなかったし、アメリカ市場的文化で染まっている日本国内の都市部なんかに住んでれば、その永遠の日常が当たり前だと思ってたし、要するにアメリカが超大国だろうがスーパーサイヤ人国家だろうが、どうでもよかったのよね。「わかる喜び」なんてカケラも無かった。記憶に残る授業なんて一つも無かった。地理なんて、やったっけ?と思うほど。マジで記憶が無い。まあ僕は教科書も開かずに本やマンガ読んだり描いたりしてたからな授業中は。しかたねっか。
でも、なんとかして、繋げることは出来ないだろうか。せっかく、クソくだらねえ教室に登校してきてくれてる高校生どものためにも何か、何かだけでいい、心に残してやりたい。それは「教える」なんておこがましいもんじゃない、何か、奴らの心にそっと触れられる何かだ。ホントは勉強ってマジに面白えもんなんだけどな。うちの親父には感心するしさ。
僕が考えうるアメリカネタ。大リーグ、ハリウッド、ブッシュ、マックとコカコーラ、何かこういうポップなツールを使って、アメリカという国を理解できないものだろうか。あの醜悪な市場原理主義を論ずるわけにもいかない。決して僕のエゴではなく、彼らにとってのアメリカを、何か現実のそれと繋げられる手助けはできないだろうか。

あの頃の僕は教師にどんな言葉を言ってほしかったか。今日ふと思い出した。大学1年の英語の授業で、おばあちゃん先生が語ったっけ。「いま、世の中はこんなにもひどい世の中。でも、死ぬことはない。私の教え子の中には、社会生活を降りて田舎でゆっくり暮らしている人もいる。若い人はこれから死にたくなるときもあるだろうけど、そういう生き方もあるということ。いくらでも、あるということ。私に言ってくれれば紹介してあげるよ」 僕はそれ聞いて、これだなあと思った。その言葉が、あの頃からずっとほしかった。認めてほしかった、綺麗事なくして世の中が歪んでいることを。そしてそれでも死ぬことはない、いくらでも生きるすべはあるのだということ。死にたくなったときは自分の所に来い、と。きっと多くの中高生は、その言葉だけで救われるのになと思った。 おばあちゃん先生は末期ガンだった。身体に悪いからと、夏でも教室に冷房はつかなかった。最後の授業が終わった後、付き添いの人に車椅子を押されて、病院に直行したらしい。 あのばあちゃんはもう死んじゃっただろうか。それでも僕の中にはあのばあちゃん先生の言葉が力強く残っている。生きる力として、残っている。絶対忘れやしないよ。

マイバースデー

2005年4月25日
23才か。よく生きたなあ。もう充分に死んでいい年齢なのだけど、どっこい僕はまだ生きるぜ。もう少し生きていくぜ。10代の頃は自分の20代が想像できなかったけど、それは考えてみれば当然のこと。あの頃想像もしなかった未来に僕は立ってるってことがその証明。いや、思えば、明日のことなんて何一つわかんなかったし、そして実際その通りに、明日はどんどんどんどん変わっていった。運命は巡り巡り回り回り揺れに揺れた。生きるってそういうものだった。運命を揺り動かすような生き方をしてれば、明日以降はまた想像もつかない生き方になってゆくのだろう。ソウルだけを感じていけばいい。運命だけを見ていけばいい。これから巡り会うものに敬意を表して、自分が自分らしく素晴らしい生き方をすればいい。生き急いでも、生き急がされても、運命が導かなければそれは諦めればいいのだ。すがりつこうとも思わない。我思う故に、だ。今は、最後のときまで自分を生きていきたいと思う。

OTに酒プレゼントされた。まあうれしかった。食堂でAやDさんに会ったけど、別に今日誕生日なんだよねなんて言わなかった。なんか祝ってもらうのもおこがましくて、今更誕生日ごとき、音もなく過ぎ去ってくれればそれでいい。 とりあえずハッピーバースデートゥーミー♪よく生きました立派です。

約束の地へ

2005年4月24日
今日は仲間とサッカーとバドミントンをやって色々ダベったりした。それから図書館行ってまた本借りてきた。2カ月予約待った本が届いていた。やったぜ。
いよいよ教育実習の指導案のそのまた案を作り始めた。自分が社会学部ということもあって公民がもちろんよかったし、歴史でもなんとかなると思ってたけど、指定された教科はなんと地理だ。なんでも例年社会科は公民だから今年はやめてくれということで、歴史は3年生とかだからできればやめてくれということで、地理になった。しかも担当の先生が新しくきた先生で、なんか不安だ。でも優しそうだったし、何より自分次第であるということを確信した。 授業範囲は「国」とかになりそうだ。まずはアメリカを授業することになった。地理だというから、気候とか地形とかやらされることになったらどうしようかと思ってたけど、これなら本当にやりやすい。僕のネタ引き出しの全てを駆使して、僕の能力の全てを使って、ここにぶつけるときがきた。思えば教職課程を始めたときから、教育実習生として立つあの教壇を夢見たきたのだ。 ちくしょう。面白え。あんなにボロクソに非難した教師どもを、くだらなすぎた授業とかいうやつを、今度はこの僕が実行する側になったなんてさ。笑えるよ。ハハハだ。 あのとき、高校生のとき、僕は教師達に、大人達に、どんな言葉をかけてほしかっただろう。わかんないけど、僕は言葉がほしかった。僕を生かす言葉がほしかった。いま、教壇に立つ僕は、同じような連中に、何を伝えられるだろう。教育なんてエゴだ。でも、生きる喜びって本当は教育の中でもっともっと熟成されるもんだと思ってる。学校って、人生を豊かにするために通う所なんだ。それを、心に残らせるような授業をつくってみせたい。 僕が今さらに、何者かに変わるときがくる。全力を尽くしてみせる。

< 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121

 

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索