真夜中人
2005年6月29日学校に行って教育実習クラスで事後指導を受けて、その後はグラウンドの抽選会など行って、食堂でダベったりして帰りました。 その後久しぶりにファミレスで読書と勉強しました。勉強に飽きてきたところでSK呼び出したりして、やっぱはかどりました。夜中の3時までいてドリンクバー飲み続けてて胃がおかしくなりました。駅の近くの大きな公園など散歩しました。いつも迷いがあると僕は夜中に自転車でこの公園をぐるぐる回ります。2週か3週くらい。たまたまタバコを持っていたのでホント久しぶりに2、3本吸いながら、ダラダラと自転車を漕ぎました。う〜ん。
3時半頃家に帰るとAからメールがあった。コンフェデでドイツが勝ったようだ。あいつの体はドイツソウルに溢れてるからなあ。眠かったけど決勝、Aとメールしながら前半だけ観た。アドリアーノとカカの凄まじいゴールを観た所で、ブラジルの勝利を確信して眠り込んでしまった。Aごめんやっぱ寝ちゃったよ。
3時半頃家に帰るとAからメールがあった。コンフェデでドイツが勝ったようだ。あいつの体はドイツソウルに溢れてるからなあ。眠かったけど決勝、Aとメールしながら前半だけ観た。アドリアーノとカカの凄まじいゴールを観た所で、ブラジルの勝利を確信して眠り込んでしまった。Aごめんやっぱ寝ちゃったよ。
スーツで真夏日
2005年6月28日提出書類等最後の後始末ということで、昼から実習校へ。Y先生は最後まで僕のキャラを見極めることが出来なかったみたいで、何やら色々訪ねてきたから、もう最後だしいいかってことで、少しだけ本性出してライフプランについて話してみた。目丸くしてた。なんだこいつって顔してた。しょうがねえや、それが僕のソウルだから。 でもいい先生だったな。厳しかったけど、最後の最後まで面倒見てくれた。感謝したい。 二度と戻ることはないと思っていたあの日から、再び母校に戻ってきて、今度こそもう二度と戻ってくることはないだろう。あっさりと僕は母校を後にした。学校。教育。教師。そいつらがただ何であったか。僕の中で何であったか。答えはきっともう出てるのだけど、もう少しだけ、最後まで、僕は考えてみるのだろうな。そいつが礼儀だ。僕と僕のソウルと、僕を苦しめしかし強くしてもくれたこの腐敗した社会にも。
せっかくだからスーツのまま、グリンパレスでR−SOMAの公認団体の更新手続きを済ませた。受付の人は「え〜っと、R…?」とか呟いてた。役所はでも意外と親切だ。僕ら市民はもっともっと行政と付き合わなくっちゃね。いい傾向です。 その後小学校に行って体育館借りようとしたら教頭が留守で、帰ろうとしたらちょうど帰ってきて、でも工事中だからだめなのよ〜とか言われて、なんじゃいくそ〜!と思った。 しかしスーツってのは暑いな。この真夏日に、死ぬかと思った。当分着たくないな。
せっかくだからスーツのまま、グリンパレスでR−SOMAの公認団体の更新手続きを済ませた。受付の人は「え〜っと、R…?」とか呟いてた。役所はでも意外と親切だ。僕ら市民はもっともっと行政と付き合わなくっちゃね。いい傾向です。 その後小学校に行って体育館借りようとしたら教頭が留守で、帰ろうとしたらちょうど帰ってきて、でも工事中だからだめなのよ〜とか言われて、なんじゃいくそ〜!と思った。 しかしスーツってのは暑いな。この真夏日に、死ぬかと思った。当分着たくないな。
心からくるもの
2005年6月27日DさんとC氏が教育実習から戻ってきたので色々話した。Dさんはきっと大活躍だったのだろうなあ。C氏もものすごい素晴らしい経験になったのだろうなあ。目を輝かせて話す2人の実習は、とても良いものだったに違いない。僕は…僕は大切なものを見失なった中で実習終えちまった感じがして、精一杯駆け抜けた後でも後悔は残るものだということを、いい加減に思い知った。結局そう、ごまかせなかったのだと思う。僕の僕たるソウルが、心の闇が、ごまかせなかった。「教育」なんかじゃごまかせなかったのだ。 やっぱそう、やっぱ、僕はごまかそうとしてた。ちっぽけな狂気も、ごまかしちゃいけなかった。ソウルをごまかそうとした僕自身を、僕は後悔したのだ。くそう。 自分が剥がされてゆく感じ。剥き出しのソウルを、それを自分自身も望んでるってことにも気づき始めた感じ。遠回って遠回って、剥き出しにされたソウルが、僕の人生をメタメタに楽しく狂わせてくれるような。運命こそ正直な怪物。人間は玉葱の皮。
食堂でS氏の彼女を紹介してもらっちった。ホヤホヤカップル。面倒だなあと思いつつ、C氏と一緒に話に絡んであげた。S氏はずっと幸せそうで、優しさ故にどこかいつも相手を気遣ってるのに、あんなに楽しそうで自分を出してるS氏は初めてみた。恋人ってすばらしいんだね。セックスと恋愛市場だけかと思いきや、今や人は個々の恋物語を消費できるのだ。オーダーメイド、個人向け国債の時代だなあ。何万人がそれぞれ世界の中心で愛を叫んだかは知らないけど、恋愛という感情はまだまだ飽和しないんじゃないかと思う。恋愛消費産業はまだまだいける。恐怖産業はこれからだろう。 市場価値的消費型恋愛に反吐が出る僕は、いつだって愛だけを見つめていたりして。この脳味噌が、可視的な幸せをクソッタレと言っているようで。消費社会の中、創り上げるのは容易じゃない。愛は不思議で神秘なもの。S氏、お幸せに。
恋愛小説もいいかもな。例によって少しイカれた感じで。来るべく変愛ブームに備え。
食堂でS氏の彼女を紹介してもらっちった。ホヤホヤカップル。面倒だなあと思いつつ、C氏と一緒に話に絡んであげた。S氏はずっと幸せそうで、優しさ故にどこかいつも相手を気遣ってるのに、あんなに楽しそうで自分を出してるS氏は初めてみた。恋人ってすばらしいんだね。セックスと恋愛市場だけかと思いきや、今や人は個々の恋物語を消費できるのだ。オーダーメイド、個人向け国債の時代だなあ。何万人がそれぞれ世界の中心で愛を叫んだかは知らないけど、恋愛という感情はまだまだ飽和しないんじゃないかと思う。恋愛消費産業はまだまだいける。恐怖産業はこれからだろう。 市場価値的消費型恋愛に反吐が出る僕は、いつだって愛だけを見つめていたりして。この脳味噌が、可視的な幸せをクソッタレと言っているようで。消費社会の中、創り上げるのは容易じゃない。愛は不思議で神秘なもの。S氏、お幸せに。
恋愛小説もいいかもな。例によって少しイカれた感じで。来るべく変愛ブームに備え。
たまには世界を憂うとき?
2005年6月26日 戯言戯言諸々その他 コメント (1)大学1年のときに、早稲田や法政の人たちと連携して、ある映画上映会企画に取り組んだことがあった。僕は自分の大学でもチケットを売ったり、ポスターを貼ったり、PR活動に励んだりした。監督の講演会のおまけつきで、企画も成功。400人くらい入る会場を見事満員にし、大学生らしい充実感を味わったっけ。上映したのは「神の子たち」という映画で、フィリピン・マニラにある、通称「スモーキーマウンテン」と呼ばれる、夢の島みたいなゴミの山に暮らす人々を描いたドキュメンタリー映画だった。明日食べる物もなく、ゴミにまみれゴミを漁りながら暮らす人々は、「金持ちたちの出したゴミ」を糧にして生きている。これを「食物循環」とかいわれちゃあ酷く残酷じゃないかと僕は思った。
僕たちはまず「飢え」の真実を知らない。テレビメディアが報道する「飢え」は、「何とか余力を持って難民キャンプまで辿り着いた人たち」の「飢え」に過ぎないことが多い。ガリガリに痩せこけた人々、栄養失調でお腹が膨れている子ども、蠅が飛ぶ中横たわる赤ちゃん。それだけでも悲惨な映像だけど…しかしその奥にはさらに凄惨な「死体の山」が存在する。最も凄惨な「飢え」の現実がそれだ。でもそれはブラウン管には映らなかったりする。
内乱状態にあるソマリアは、戦闘で港がぶっ壊されてて、コメ積んだ大型船が入れない。ヤク中で狂った武装兵がうろついてて、まともな荷揚げも困難。何とか到着した援助物資は衛兵達が横取りし、闇市場で売りさばかれる。国連決議の多国籍軍が人道介入したけどぶっ殺されちまった。(「ブラックホークダウン」て映画があったな)水不足・干ばつ・砂漠化等の自然災害に加え、終わらない内戦、破壊されるインフラ、ただでさえどうしようもないのに、人道援助も拒否しちまったソマリアは世界で孤立しちゃってて未来がない。飢餓の裏にはまず、こういう現実があったりする、どの国・地域にも。こういうのって仕方のないことじゃんと思ったりする。
それでも、ジグレールお父さんは言う。「飢えはけっして自然淘汰でも運命でもない」と。
そう、飢餓はその国だけの問題ではなかったんだ。特に、アメリカって国のことを勉強するようになってから、僕はそれを痛烈に知ることになった。
アメリカっつう国は、日本と違って、農業超大国だ。アメリカ国民が食って吐いてブタみたいに肥え太ってダイエットしてまた食って吐いても、それでも全然食糧は余る。吐いて捨てるほど余る。あの広大な大地に、穀物を大量生産してるから。それもものすげえ合理的に。適地適作っつって、降水量多い地域は農業、少ない地域は遊牧、温暖地域は綿花、っていう風に、きっちりエリア分けして、それをあの広大な大地でやっちゃうからすげえ生産性なのだ。アメリカ農業は、面積にかける労働人口が少ない。機械でドカドカやっちまうからだ。農薬は飛行機で一気に飛行機雲みたいにまいちまう。最近では遺伝子組み換えて、害虫が死ぬ作物を開発した。農薬まく手間すら非効率らしい。機械農業は土壌に悪影響を及ぼし、農薬汚染は常に懸念され、虫が死ぬ遺伝子作物を人が食うこと自体不安がられたりして、アメリカ農業は問題点だらけだ。 アメリカでは、吐いて捨てるほどとうもろこしが作られてるけど、アメリカ人が特にとうもろこしを食いまくってるわけではない。余ってるくせに、それは「飢え」の国の人々の元には届かない。何故かというと、それは人じゃなくて牛が食うから。アメリカの牛がエサとして食うから。すげえよ。人が飢えてるのに…牛はたっぷり食ってるんだ。 アメリカ式の遊牧は、のんびり草食って牛小屋で繋がれて…なんてやつじゃない。フィードロットっつって、でっけえ敷地に牛を大量に詰め込んで、太るエサをドカドカ与えて、まるで工場みたいに、短い期間に大量の「肉」を生産する方式だ。圧倒的な生産量があの安値を維持し、結果売れて儲けなのだ。BSEなんてどうでもいいくらい、肉の大量生産が可能なのだ。
話を戻す。じゃあアメリカ農業は、なんでそんな狂ったようにしてまで生産するのか?アメリカ国民が今後一日5食になるわけでも、5倍のメシを食うわけでもない。ではなぜかっつったら、そう、輸出政策のためなのだ。誰だったか忘れたけど、かつてアメリカの偉い人が言った言葉。「農業は武器である」 ひょっとしたら、核ミサイルより強い。アメリカは農業を世界戦略の道具にしているのだ。
アメリカの牛が食っちまうから世界市場に穀物が余らない…わけはない。まだまだまだ余ってる。それを飢餓の国に渡してやればええのに、と思ったけど、現実はそんな甘くなく、はるかに残酷だったのだ。
だらだら〜っと書いちゃったな。そして僕はPRIDEを観てて思いました。いつかミルコが王者になって、そして、世界を救ってくれないだろうか、と。
−つづく−
僕たちはまず「飢え」の真実を知らない。テレビメディアが報道する「飢え」は、「何とか余力を持って難民キャンプまで辿り着いた人たち」の「飢え」に過ぎないことが多い。ガリガリに痩せこけた人々、栄養失調でお腹が膨れている子ども、蠅が飛ぶ中横たわる赤ちゃん。それだけでも悲惨な映像だけど…しかしその奥にはさらに凄惨な「死体の山」が存在する。最も凄惨な「飢え」の現実がそれだ。でもそれはブラウン管には映らなかったりする。
内乱状態にあるソマリアは、戦闘で港がぶっ壊されてて、コメ積んだ大型船が入れない。ヤク中で狂った武装兵がうろついてて、まともな荷揚げも困難。何とか到着した援助物資は衛兵達が横取りし、闇市場で売りさばかれる。国連決議の多国籍軍が人道介入したけどぶっ殺されちまった。(「ブラックホークダウン」て映画があったな)水不足・干ばつ・砂漠化等の自然災害に加え、終わらない内戦、破壊されるインフラ、ただでさえどうしようもないのに、人道援助も拒否しちまったソマリアは世界で孤立しちゃってて未来がない。飢餓の裏にはまず、こういう現実があったりする、どの国・地域にも。こういうのって仕方のないことじゃんと思ったりする。
それでも、ジグレールお父さんは言う。「飢えはけっして自然淘汰でも運命でもない」と。
そう、飢餓はその国だけの問題ではなかったんだ。特に、アメリカって国のことを勉強するようになってから、僕はそれを痛烈に知ることになった。
アメリカっつう国は、日本と違って、農業超大国だ。アメリカ国民が食って吐いてブタみたいに肥え太ってダイエットしてまた食って吐いても、それでも全然食糧は余る。吐いて捨てるほど余る。あの広大な大地に、穀物を大量生産してるから。それもものすげえ合理的に。適地適作っつって、降水量多い地域は農業、少ない地域は遊牧、温暖地域は綿花、っていう風に、きっちりエリア分けして、それをあの広大な大地でやっちゃうからすげえ生産性なのだ。アメリカ農業は、面積にかける労働人口が少ない。機械でドカドカやっちまうからだ。農薬は飛行機で一気に飛行機雲みたいにまいちまう。最近では遺伝子組み換えて、害虫が死ぬ作物を開発した。農薬まく手間すら非効率らしい。機械農業は土壌に悪影響を及ぼし、農薬汚染は常に懸念され、虫が死ぬ遺伝子作物を人が食うこと自体不安がられたりして、アメリカ農業は問題点だらけだ。 アメリカでは、吐いて捨てるほどとうもろこしが作られてるけど、アメリカ人が特にとうもろこしを食いまくってるわけではない。余ってるくせに、それは「飢え」の国の人々の元には届かない。何故かというと、それは人じゃなくて牛が食うから。アメリカの牛がエサとして食うから。すげえよ。人が飢えてるのに…牛はたっぷり食ってるんだ。 アメリカ式の遊牧は、のんびり草食って牛小屋で繋がれて…なんてやつじゃない。フィードロットっつって、でっけえ敷地に牛を大量に詰め込んで、太るエサをドカドカ与えて、まるで工場みたいに、短い期間に大量の「肉」を生産する方式だ。圧倒的な生産量があの安値を維持し、結果売れて儲けなのだ。BSEなんてどうでもいいくらい、肉の大量生産が可能なのだ。
話を戻す。じゃあアメリカ農業は、なんでそんな狂ったようにしてまで生産するのか?アメリカ国民が今後一日5食になるわけでも、5倍のメシを食うわけでもない。ではなぜかっつったら、そう、輸出政策のためなのだ。誰だったか忘れたけど、かつてアメリカの偉い人が言った言葉。「農業は武器である」 ひょっとしたら、核ミサイルより強い。アメリカは農業を世界戦略の道具にしているのだ。
アメリカの牛が食っちまうから世界市場に穀物が余らない…わけはない。まだまだまだ余ってる。それを飢餓の国に渡してやればええのに、と思ったけど、現実はそんな甘くなく、はるかに残酷だったのだ。
だらだら〜っと書いちゃったな。そして僕はPRIDEを観てて思いました。いつかミルコが王者になって、そして、世界を救ってくれないだろうか、と。
−つづく−
たまには世界を憂うとき?
2005年6月25日 戯言戯言諸々その他「世界の半分が飢えるのはなぜ?」(J・ジグレール著)という本を読んだ。「僕たちはこんなに、お腹一杯に食べられるのに、どうして世界にはたくさんの飢えている人たちがいるの?」−カリム少年の素朴な疑問に、お父さんのジグレール教授が一つ一つ答えてゆくというストーリーだ。
いま地球上で、実に8億2000万人が「飢え」に苦しんでいるという。「飢え」。ウエ〜。そんなもんはもはや「普通」になっちまっている。「恵まれない」人々が「いること」を、僕らは普通に知ってるし、かわいそうに思うこともあるけど、もはやそれすら「日常風景」や「共通認識」みたいになっちまってて、固まって動かしようのない「現実」みたいで、どうしようもない。「世界全体の問題として考えなければなりません」なんていつもいつも言うやついるけど…さ、そのどこかの世界の悲惨な現実なんて誰でも知ってる問題だし、既に考えたことあるんだよね。かわいそうだなとも、出来れば助けてあげたいなとも、少なくとも僕は思ったことあるんだ。なんつうか、多くの人が既に「問題として考えている」と思うんだよね。だけど悲劇はなくならない。僕は「問題」の「位置づけ」なんじゃないかと思う。単純な「かわいそぉ」だけでは、人は「悲劇」だけでは動かない。福知山線脱線事故の方が共感できるのは、僕らが日本に住む人間であり、JRを使う可能性がある人間だからだと思う。どこか知らない遠い国での「飢え」による罪なき死よりも、日本国内の列車事故による同国人の罪なき死の方が、ずっと共感できるのは当たり前のことなのだ。「共感理論」のようなものも社会学系か心理学系であるんだろうけど…そう、要するに、何故「かわいそぉ」なのか?なんだ。 過去に、イラク人の幸せなんぞ願ったことはなかったけれど、僕はイラク戦争反対のデモ行進に参加したことがある。それは、大国の傲慢な戦争政策に憤ったからだった。そう、現実って「かわいそぉ」以上のものなのだ。世界には、「かわいそぉ」な人たちがいくらでもいる。「世界の問題として考える」っつうのは、8億2000万人全てに同情し共感することじゃない。構造だ。構造。人間が人間を苦しめる人間世界の構造に。そいつこそに僕は憤り悲しむんだよね。支配者が作り上げ、人々が妥協して支えている世界構造の中で、罪なき人々が死んでゆく現実こそが「かわいそぉ」だと思うんだ。
全世界の人々を養うだけの食べ物は、既に地球上に存在する。だのに何故、片方で肥満やらグルメやら食い過ぎて死ぬ奴らとかがいて、片方で飢える人がいるのか?食料が行き渡ってないのか?幼いカリム少年の問いに、ジグレールお父さんは静かに答える。「飢えは自然淘汰でも運命でもない」と。
教育実習でアメリカの農業政策について勉強してから、いや、もっと前からか、食糧問題はいつか触れてみたいとは思ってた。食料って、決定的に「力」だからだ。拳銃持ってても核持ってても、札束持ってても、人間は食わなきゃあ死ぬ。食い物持ってる奴が最終的には一番強いんじゃねえかって、子どもの頃いつも思ってた。食糧自給率の低い日本って国は、食糧の貿易を絶たれたら滅亡する国だけど、経済大国だ。歪んだ経済大国だ。「構造」の中で、食糧問題に関心を持つべきはむしろ日本じゃねえのかと僕は思う。日本人ならば、「構造」の中に取り残された飢える人々に対し少しは共感の立場に立てるんじゃねえのかなと、残飯にまみれた食堂の配膳場を見ながらふと僕は思ったのでした。
−つづく−
いま地球上で、実に8億2000万人が「飢え」に苦しんでいるという。「飢え」。ウエ〜。そんなもんはもはや「普通」になっちまっている。「恵まれない」人々が「いること」を、僕らは普通に知ってるし、かわいそうに思うこともあるけど、もはやそれすら「日常風景」や「共通認識」みたいになっちまってて、固まって動かしようのない「現実」みたいで、どうしようもない。「世界全体の問題として考えなければなりません」なんていつもいつも言うやついるけど…さ、そのどこかの世界の悲惨な現実なんて誰でも知ってる問題だし、既に考えたことあるんだよね。かわいそうだなとも、出来れば助けてあげたいなとも、少なくとも僕は思ったことあるんだ。なんつうか、多くの人が既に「問題として考えている」と思うんだよね。だけど悲劇はなくならない。僕は「問題」の「位置づけ」なんじゃないかと思う。単純な「かわいそぉ」だけでは、人は「悲劇」だけでは動かない。福知山線脱線事故の方が共感できるのは、僕らが日本に住む人間であり、JRを使う可能性がある人間だからだと思う。どこか知らない遠い国での「飢え」による罪なき死よりも、日本国内の列車事故による同国人の罪なき死の方が、ずっと共感できるのは当たり前のことなのだ。「共感理論」のようなものも社会学系か心理学系であるんだろうけど…そう、要するに、何故「かわいそぉ」なのか?なんだ。 過去に、イラク人の幸せなんぞ願ったことはなかったけれど、僕はイラク戦争反対のデモ行進に参加したことがある。それは、大国の傲慢な戦争政策に憤ったからだった。そう、現実って「かわいそぉ」以上のものなのだ。世界には、「かわいそぉ」な人たちがいくらでもいる。「世界の問題として考える」っつうのは、8億2000万人全てに同情し共感することじゃない。構造だ。構造。人間が人間を苦しめる人間世界の構造に。そいつこそに僕は憤り悲しむんだよね。支配者が作り上げ、人々が妥協して支えている世界構造の中で、罪なき人々が死んでゆく現実こそが「かわいそぉ」だと思うんだ。
全世界の人々を養うだけの食べ物は、既に地球上に存在する。だのに何故、片方で肥満やらグルメやら食い過ぎて死ぬ奴らとかがいて、片方で飢える人がいるのか?食料が行き渡ってないのか?幼いカリム少年の問いに、ジグレールお父さんは静かに答える。「飢えは自然淘汰でも運命でもない」と。
教育実習でアメリカの農業政策について勉強してから、いや、もっと前からか、食糧問題はいつか触れてみたいとは思ってた。食料って、決定的に「力」だからだ。拳銃持ってても核持ってても、札束持ってても、人間は食わなきゃあ死ぬ。食い物持ってる奴が最終的には一番強いんじゃねえかって、子どもの頃いつも思ってた。食糧自給率の低い日本って国は、食糧の貿易を絶たれたら滅亡する国だけど、経済大国だ。歪んだ経済大国だ。「構造」の中で、食糧問題に関心を持つべきはむしろ日本じゃねえのかと僕は思う。日本人ならば、「構造」の中に取り残された飢える人々に対し少しは共感の立場に立てるんじゃねえのかなと、残飯にまみれた食堂の配膳場を見ながらふと僕は思ったのでした。
−つづく−
パスタでひととき
2005年6月24日今日はいちおうゼミだった。卒論もそろそろ取りかかり始めないとな。9月に合宿いかなきゃならねえらしいけど、はあ興味無いなあ。つまんねえだろうなあ。集団行動大嫌いなんだよね。意味不明にはしゃぐ奴らもいらつくんだよね。まあいっか、軽井沢で単独行動するか。
その後今日も食堂で勉強&読書。夕方食ったスパ王が酷くまずかった。7時半くらいまでいて、帰り際AやRさんやSSらいつもの連中がいつもの喫煙場所でたまってた。Bちゃんは地面座ってた。 で、みんなでパスタ屋行くってえから一緒に行った。クソまずかったスパ王の恨みというか何というか、生パスタの響きにひかれた。で、目黒のパスタ屋で久しぶりにBちゃんと話し込んじゃった。AとかSSは、僕がBちゃんと会話「できる」ことに、またいつものようにからかってくるけど。Bちゃんとまともに話せるのはホントに僕だけなのだろうか。いや実際この会話は会話として成り立っているのか。まあそんなこと考えるのもめんどいから、でも、今日はよく話した。教育実習のこととか、小説のこととか、進路のこととか、ライフプランのこととか。そして思い切ってルームシェアリングの話を切り出してみたら、なんかBちゃん乗ってくれそうだった。これは、面白いことになるかもな。僕の夢。僕だけじゃあ叶えられない僕の夢。生き方。こんな風にしてホントに運命が回転していくと素敵なのにな。 僕はどこか、人生がうまくいかないことに慣れすぎてしまってて、その素敵さを忘れていた感じ。そう、人生は楽しむためにあるのだ。
その後今日も食堂で勉強&読書。夕方食ったスパ王が酷くまずかった。7時半くらいまでいて、帰り際AやRさんやSSらいつもの連中がいつもの喫煙場所でたまってた。Bちゃんは地面座ってた。 で、みんなでパスタ屋行くってえから一緒に行った。クソまずかったスパ王の恨みというか何というか、生パスタの響きにひかれた。で、目黒のパスタ屋で久しぶりにBちゃんと話し込んじゃった。AとかSSは、僕がBちゃんと会話「できる」ことに、またいつものようにからかってくるけど。Bちゃんとまともに話せるのはホントに僕だけなのだろうか。いや実際この会話は会話として成り立っているのか。まあそんなこと考えるのもめんどいから、でも、今日はよく話した。教育実習のこととか、小説のこととか、進路のこととか、ライフプランのこととか。そして思い切ってルームシェアリングの話を切り出してみたら、なんかBちゃん乗ってくれそうだった。これは、面白いことになるかもな。僕の夢。僕だけじゃあ叶えられない僕の夢。生き方。こんな風にしてホントに運命が回転していくと素敵なのにな。 僕はどこか、人生がうまくいかないことに慣れすぎてしまってて、その素敵さを忘れていた感じ。そう、人生は楽しむためにあるのだ。
今日読み終えたのは乙一って人の「GOTH」というミステリ?ホラーか?のアンソロジー。中々面白かった。どこか狂ってるけどのほほんとした主人公コンビが、毎回異常殺人犯を追いつめてく話なんだけど、活字表現ならではのどんでん返しが面白かった。「私」が男主人公だと思って読んでいたら、最後に実は主人公は女だった、ってオチはどっかで読んだことあったけど、この小説はそういう類が随所にあった。「私」が、ああコイツだったのか!コイツの正体がああアイツだったのか!「僕」の正体がアイツじゃなくてコイツだったのかあ!等々。いや活字表現って面白いな。映像じゃ絶対出来ないもんな。すげーや。
バラバラを超えてグチャグチャ殺人事件。手首切断事件。ペット噛み殺し事件。埋葬殺人事件。その他にも首つりごっことか、テープ遺言とか、結構一つ一つ面白かった。
僕は、活字を追うとき、キャラクターをマンガのキャラでよくイメージすることがある。或いは俳優や知人の顔・キャラクターでイメージする。主人公コンビのかたわれ、イカれた女子高生の森野夜は、「999」に出てくるメーテル以外の黒髪の女性と、女優の栗山千明と、あのKSさんを足したような…。こんな感じにイメージするわけだ。
今日は食堂でずっと勉強と読書してた。食堂でずっと大勢でたまってくだらねえ話してる奴らいなくなってほしい。雑談するにしてももっとおもしれえこと話せよ。バラバラグチャグチャ殺人の話とかさ。アイツラどこでも聞ける話ばっかしてるんだもん。もういいよ。つまんね。今年になって資格サポート室が閉鎖されたのはホントに痛いぜ。
バラバラを超えてグチャグチャ殺人事件。手首切断事件。ペット噛み殺し事件。埋葬殺人事件。その他にも首つりごっことか、テープ遺言とか、結構一つ一つ面白かった。
僕は、活字を追うとき、キャラクターをマンガのキャラでよくイメージすることがある。或いは俳優や知人の顔・キャラクターでイメージする。主人公コンビのかたわれ、イカれた女子高生の森野夜は、「999」に出てくるメーテル以外の黒髪の女性と、女優の栗山千明と、あのKSさんを足したような…。こんな感じにイメージするわけだ。
今日は食堂でずっと勉強と読書してた。食堂でずっと大勢でたまってくだらねえ話してる奴らいなくなってほしい。雑談するにしてももっとおもしれえこと話せよ。バラバラグチャグチャ殺人の話とかさ。アイツラどこでも聞ける話ばっかしてるんだもん。もういいよ。つまんね。今年になって資格サポート室が閉鎖されたのはホントに痛いぜ。
教育と教師と
2005年6月22日教員採用試験の勉強を始めた。絶対受からないと思うけどいちおう受けてみる。受けるからにはギリギリまで勉強してみようかとも思う。まあ万が一受かっちゃったら、それはそれで困ったことになる。結局なんで勉強するのかな…。
正直なところ、教師はきついな。やり甲斐はある。素晴らしい職業だとも思う。何よりも、世界を正面に置かなければならないこと。斜めにかまえて生きすぎた僕には、すげー遠い。生きた人間を扱うこと。人間嫌いの僕には、すげー遠い。
そんなこと思いつつ、「夜回り先生」読んだ。震えた。 この人、水谷さん、なんてすばらしいんだろ。教師としてとかじゃない。人間として、大人として。なんでこんなにも、自らをぶち当てていける?ある時は暴走族と、またある時は暴力団と、文字通り、命をかけて、子どもたちを守ろうとしてる。自分の子どもや教え子だけじゃない。この国の子どもたちを、守ろうとしてる。誰から?大人から。腐った社会から。人間の、愚かさから。子どもを守ることで、未来を守ろうとしてるみたいだ。僕は、人に優しくできる人たちを守ることで、平和を守りたいと思ってるけど、水谷先生はたった一人でそれを行動に移してる。ちっぽけだけど、一つ一つなのだけど、この先生は、歩くのだ。夜の街を、子どもを守るために歩くのだ。不幸に対して、真正面からぶつかっていくんだ。「生きてくれさえすればそれでいいんだよ」って言える大人、なんて優しいんだろう。そしてなんて強いんだろう。 水谷先生の利き手の小指は、少年を暴力団から守るために、落とされた。既に、人生かけてるんだね。 水谷さんが歩くは、夜の世界。自分が必要なくなるときが、社会がよくなったときだと水谷さんは言う。僕は、先生の言うように、僕の世界を守らなきゃ。僕が生きる昼の世界を。家族や友を。愛する人、尊敬する人を。そんで、誰でもない僕の前に現れる、助けを必要としてる人を。こっちの世界で。水谷さんもそれを望むはずだろ。
教師はわかんねえ。たぶんならねえ。僕は思想に殉ずることはできねえな。でも、すばらしいと思うぜ。金八も、水谷さんも、うちの両親も。
正直なところ、教師はきついな。やり甲斐はある。素晴らしい職業だとも思う。何よりも、世界を正面に置かなければならないこと。斜めにかまえて生きすぎた僕には、すげー遠い。生きた人間を扱うこと。人間嫌いの僕には、すげー遠い。
そんなこと思いつつ、「夜回り先生」読んだ。震えた。 この人、水谷さん、なんてすばらしいんだろ。教師としてとかじゃない。人間として、大人として。なんでこんなにも、自らをぶち当てていける?ある時は暴走族と、またある時は暴力団と、文字通り、命をかけて、子どもたちを守ろうとしてる。自分の子どもや教え子だけじゃない。この国の子どもたちを、守ろうとしてる。誰から?大人から。腐った社会から。人間の、愚かさから。子どもを守ることで、未来を守ろうとしてるみたいだ。僕は、人に優しくできる人たちを守ることで、平和を守りたいと思ってるけど、水谷先生はたった一人でそれを行動に移してる。ちっぽけだけど、一つ一つなのだけど、この先生は、歩くのだ。夜の街を、子どもを守るために歩くのだ。不幸に対して、真正面からぶつかっていくんだ。「生きてくれさえすればそれでいいんだよ」って言える大人、なんて優しいんだろう。そしてなんて強いんだろう。 水谷先生の利き手の小指は、少年を暴力団から守るために、落とされた。既に、人生かけてるんだね。 水谷さんが歩くは、夜の世界。自分が必要なくなるときが、社会がよくなったときだと水谷さんは言う。僕は、先生の言うように、僕の世界を守らなきゃ。僕が生きる昼の世界を。家族や友を。愛する人、尊敬する人を。そんで、誰でもない僕の前に現れる、助けを必要としてる人を。こっちの世界で。水谷さんもそれを望むはずだろ。
教師はわかんねえ。たぶんならねえ。僕は思想に殉ずることはできねえな。でも、すばらしいと思うぜ。金八も、水谷さんも、うちの両親も。
絶望の後に続くは、希望
2005年6月21日飯島夏樹って人の「天国で君に逢えたら」という本を読んだ。元サーファーで、末期ガンに冒されちゃって、そして文字に目覚めて書き始めて、これがベストセラーになったらしい。余命を宣告された人達が何を考えて生きるのか、というテーマに、しばし考えさせられた。末期ガンの少女が明るく話す「天国でまた会えるよ」って台詞に、少し泣きそうになった。 不幸ってのは、幸せへの道しるべなのだと。残りの命を知らさされた人間が抱く、あらゆるものへの感謝と、全ての人に対する共感は、人間がやはり意味を生きていることへの、なんつうか、限りなく生命への賛歌のようでもあった。死があるからこそ生が光り輝く、わかりきったことなのに、それでも感動するんだな。命って誰にとっても一つしかないものだからだろな。永遠の命って、存在するんだなあ。
ロブ@大月って人の「リストカットシンドローム(1・2)」という本を読んだ。手首切っちゃう人達を取材したルポルタージュなんだけど、なかなか興味深かった。人それぞれいろんな要因があるんだけど、リストカットは自殺のためではないということ。むしろ生きるための行為だということがわかった。赤い血や痛みが生の証なのか、「手首を切る=自殺」イメージから来る「死に近づいた」感からの生の証なのか、酒でもドラッグでも無い不思議な魅力、リスカ。生きていたくないとき、でも死ねないとき、手首切りは安心であったりする。希望であったりする。分かる気がする。つまらないけど、分かる気はするな。 生きてる故に苦しんでる人たちも多くいるってこと。しかし「リスカ」とかって略しちゃうと変な感じ。大体「リストカット」ってのもなるほどポップなネーミングだ。自傷行為のくせに、トレンドみたいになってたり。僕だったら首切って「ネックカット」だ。 でもどの人にも共通して、親や兄弟が悪影響及ぼしてた。愛情ってのはやっぱりエネルギーなんだろうな。人が生きるための、最もシンプルで根源的な価値であったり、生きる意味であったりするんだろうな。多くの人が、愛したくて、愛されたいと思ってる。どんなにくだらなくても、僕は愛がすきだ。その非合理さに、人間が人間らしく見えるからだ。愛こそ生命の躍動、僕はそう思ってる。
人は、何度も絶望すればいい。そのあと何度もやってくる希望を迎え入れてあげるためにだ。
ロブ@大月って人の「リストカットシンドローム(1・2)」という本を読んだ。手首切っちゃう人達を取材したルポルタージュなんだけど、なかなか興味深かった。人それぞれいろんな要因があるんだけど、リストカットは自殺のためではないということ。むしろ生きるための行為だということがわかった。赤い血や痛みが生の証なのか、「手首を切る=自殺」イメージから来る「死に近づいた」感からの生の証なのか、酒でもドラッグでも無い不思議な魅力、リスカ。生きていたくないとき、でも死ねないとき、手首切りは安心であったりする。希望であったりする。分かる気がする。つまらないけど、分かる気はするな。 生きてる故に苦しんでる人たちも多くいるってこと。しかし「リスカ」とかって略しちゃうと変な感じ。大体「リストカット」ってのもなるほどポップなネーミングだ。自傷行為のくせに、トレンドみたいになってたり。僕だったら首切って「ネックカット」だ。 でもどの人にも共通して、親や兄弟が悪影響及ぼしてた。愛情ってのはやっぱりエネルギーなんだろうな。人が生きるための、最もシンプルで根源的な価値であったり、生きる意味であったりするんだろうな。多くの人が、愛したくて、愛されたいと思ってる。どんなにくだらなくても、僕は愛がすきだ。その非合理さに、人間が人間らしく見えるからだ。愛こそ生命の躍動、僕はそう思ってる。
人は、何度も絶望すればいい。そのあと何度もやってくる希望を迎え入れてあげるためにだ。
ひとつ進んだあとで
2005年6月20日食堂でボーッとしてたらAが来た。ああマジでこいつに会いたかったんだ。実習中ずっとずっと会いたかったんだ。嬉しかった。色々話した。嬉しかった。何だか実習に行く前より軽く、より軽く、Aと話せるようになった感じ。いちおう、よくわからんが、ふんぎりのようなものがついたんじゃねえかって思う。 あとRさんに会った。相変わらずマイペースだった。この人とどーでもいい話をしてるときって、なんでこんなに楽しいんだろ。笑えるな。Rさんとは笑い合えるんだよな僕は。 結局、すきな人たちに会えるから楽しいんだな、いまは。
最近は大学卒業後のライフプランをよく考える。悩みどころだけど、どこか答えは既に出てる感じ。何選ぶかだ。そして何選ぶにせよ自分は自分でしかないから、まあ愚かさを繰り返すのだけど、人生は一度なのだから、やっぱりそれなりに自分らしくかけがえなく生きるしかない。そう考えると、この変動の時代、自分がどう生きるかも自ずと見えてくる感じだ。子どもの頃、未来が恐かったけど、今は恐いとかじゃなく、開き直ってる。死ぬことと同じ。充分に生きたし、どこまでも生きる必要も僕にはない。正解もない。バブル後世代の僕らには、あふれ出し垂れ流される生命を、ちゃんと見つけて自分のものにしてゆく作業が必要なのだ。インフレ状態にあり、使い捨て使い回される現代人の命。その中でも、自分が自分である奇跡の価値を見出さなきゃーね。
最近は大学卒業後のライフプランをよく考える。悩みどころだけど、どこか答えは既に出てる感じ。何選ぶかだ。そして何選ぶにせよ自分は自分でしかないから、まあ愚かさを繰り返すのだけど、人生は一度なのだから、やっぱりそれなりに自分らしくかけがえなく生きるしかない。そう考えると、この変動の時代、自分がどう生きるかも自ずと見えてくる感じだ。子どもの頃、未来が恐かったけど、今は恐いとかじゃなく、開き直ってる。死ぬことと同じ。充分に生きたし、どこまでも生きる必要も僕にはない。正解もない。バブル後世代の僕らには、あふれ出し垂れ流される生命を、ちゃんと見つけて自分のものにしてゆく作業が必要なのだ。インフレ状態にあり、使い捨て使い回される現代人の命。その中でも、自分が自分である奇跡の価値を見出さなきゃーね。
今日は姉が家にきてた。なんかおごって貰おうと思って忘れちゃった。
読書解禁して何冊かもう読んでしまったが、今日読み終えて少し面白かったのが、石田衣良「うつくしい子ども」 石田衣良はあの「池袋ウエストゲートパーク」の原作者。前から読みたかったんだ。
とあるニュータウンで起きた女子児童殺害事件。中学校の裏山で発見された惨殺死体と犯行声明「夜の王子」は、小さくて静かな人口の街を震撼させた。そして、突然にして明かされた「夜の王子」の正体は、中学一年生の弟のカズシだった。[凶悪少年事件発生!!]一日にして「『少年A』の兄」となってしまったミキオ。始まった「いじめ」。マスコミが、評論家が、世論が、得意げに繰り返す事件への言説。容赦ない加害者家族への風当たり。何が正しい?真実は何処に?カズシの心の闇…「夜の王子」の真の正体を突きとめるために、ミキオはクラスメートのはるきと長沢君とともに、事件現場の裏山に集合する…。
徐々に明かされてゆく「夜の王子」の正体に、僕は引き込まれて一気に読んでしまった。ニュータウンの人工性…家庭環境…学校教育…中学生文化…どれでもいい。多分どれでもいい。大人を納得させる答えのようなものは、たくさんたくさん物語上に登場した。でも、全てを曖昧に裏切りつつ、それらは切り捨てられて、結局僕の中に残ったのはたった一つだった。
「子ども」であること。「大人」になること。
弟が起こした事件を巡り少しずつ成長を見せるミキオに、記者の山崎はこう答える。「正しさの基準を外側にではなく、自分自身の中心に据えること」 どうやらそれが「大人」らしい。
事件の全てが明らかにされた後、ミキオは矯正施設で暮らすカズシを訪ねる。面会室に現れたカズシは言う。「ここでは、朝起きてから夜寝るまでやることが全て決まっているんだ。自分の頭で考えることないしすごく楽だ。それでわかったんだ。僕は人に命令されて動く人間だ。正しいことをきちんと決められてこなしていく方が、誰にも迷惑をかけないからいいんだって。…僕は昔は悪いロボットで、今は正しいプログラムで動くロボットだ。機械はいいね。人間より全然いい…」
獲得することなく全てを与えられ、全てを創らせてもらえない現代の「子ども」。全てへの思考を奪われた故に、全てへの懐疑を向ける現代の「子ども」。
「夜の王子はそこにいた」
「夜の王子」の正体ってのは、きっと誰でもなくて、全ての子どもに存在する。そう、誰でも持ってる「心の闇」。でもそれは一方で、ピーターパンみたいに、純粋で幻想的な闇。 きっと多くの子どもは大人に問うのだろうなあ。「大人になるってことは、「正しさ」をどっちに置くことですか?外側?内側?…光?闇?」 そうね…。「うつくしい子ども」…タイトルに全ては集約されていた気がした。
読書解禁して何冊かもう読んでしまったが、今日読み終えて少し面白かったのが、石田衣良「うつくしい子ども」 石田衣良はあの「池袋ウエストゲートパーク」の原作者。前から読みたかったんだ。
とあるニュータウンで起きた女子児童殺害事件。中学校の裏山で発見された惨殺死体と犯行声明「夜の王子」は、小さくて静かな人口の街を震撼させた。そして、突然にして明かされた「夜の王子」の正体は、中学一年生の弟のカズシだった。[凶悪少年事件発生!!]一日にして「『少年A』の兄」となってしまったミキオ。始まった「いじめ」。マスコミが、評論家が、世論が、得意げに繰り返す事件への言説。容赦ない加害者家族への風当たり。何が正しい?真実は何処に?カズシの心の闇…「夜の王子」の真の正体を突きとめるために、ミキオはクラスメートのはるきと長沢君とともに、事件現場の裏山に集合する…。
徐々に明かされてゆく「夜の王子」の正体に、僕は引き込まれて一気に読んでしまった。ニュータウンの人工性…家庭環境…学校教育…中学生文化…どれでもいい。多分どれでもいい。大人を納得させる答えのようなものは、たくさんたくさん物語上に登場した。でも、全てを曖昧に裏切りつつ、それらは切り捨てられて、結局僕の中に残ったのはたった一つだった。
「子ども」であること。「大人」になること。
弟が起こした事件を巡り少しずつ成長を見せるミキオに、記者の山崎はこう答える。「正しさの基準を外側にではなく、自分自身の中心に据えること」 どうやらそれが「大人」らしい。
事件の全てが明らかにされた後、ミキオは矯正施設で暮らすカズシを訪ねる。面会室に現れたカズシは言う。「ここでは、朝起きてから夜寝るまでやることが全て決まっているんだ。自分の頭で考えることないしすごく楽だ。それでわかったんだ。僕は人に命令されて動く人間だ。正しいことをきちんと決められてこなしていく方が、誰にも迷惑をかけないからいいんだって。…僕は昔は悪いロボットで、今は正しいプログラムで動くロボットだ。機械はいいね。人間より全然いい…」
獲得することなく全てを与えられ、全てを創らせてもらえない現代の「子ども」。全てへの思考を奪われた故に、全てへの懐疑を向ける現代の「子ども」。
「夜の王子はそこにいた」
「夜の王子」の正体ってのは、きっと誰でもなくて、全ての子どもに存在する。そう、誰でも持ってる「心の闇」。でもそれは一方で、ピーターパンみたいに、純粋で幻想的な闇。 きっと多くの子どもは大人に問うのだろうなあ。「大人になるってことは、「正しさ」をどっちに置くことですか?外側?内側?…光?闇?」 そうね…。「うつくしい子ども」…タイトルに全ては集約されていた気がした。
サッカー解禁
2005年6月18日大学のグラウンドで久しぶりにフットサルやらサッカーを楽しんだ。むちゃくちゃ楽しかった。読書もそうだけど、奪われた時間で気が狂いそうになるのは、サッカーが出来ないこと。教育実習期間、ずっとずっとサッカーをやりたかった。 ボールを追って走ってると、健康であることを実感する。五体満足への感謝をしたくなる。生きているという思い、心臓の鼓動が、流れる汗や、よくわからんがあの開放感が、解放感が、生命を証明してくれてるみたいでなあ。すきなんだ。
とりわけサッカーの、サッカーたる、コミュニティー性が、何度も確認したあのサッカーの素晴らしさが、やっぱりすてきなんだろうなあ。
つま先を痛めたけど、楽しかった。SKと、ビール飲みながら帰った。グダグダに疲れた後の心地よさ、涼しい風とビールの炭酸が、もうどうしようもなく気持ちよかった。
とりわけサッカーの、サッカーたる、コミュニティー性が、何度も確認したあのサッカーの素晴らしさが、やっぱりすてきなんだろうなあ。
つま先を痛めたけど、楽しかった。SKと、ビール飲みながら帰った。グダグダに疲れた後の心地よさ、涼しい風とビールの炭酸が、もうどうしようもなく気持ちよかった。
アイムバック
2005年6月17日3週間ぶりに大学へ。実習終了の証明書類等提出してきた。 食堂のテーブルの配置が変わっていた。少しずつ、何かを変えているんだな、時間ってやつは。 今日のゼミは休講だった。いいかげんにしてほしいなあ。 S氏に会っただけで、誰とも会わなかった。つまんなかったから帰って3週間ぶりのバイトに行った。
Hが電話してきて、実習いっぱいいっぱいだって。きついって。いっぱいいっぱいの声で、Hはいつだって背負い込むからな、時折不安定だからな。僕は話を聞いてやることくらいしかできないけど、でも先に終えた者として、何か助けになれたらな。みんな、それぞれの教育実習をがんばっているだろうか。
僕は、とりあえず道しるべにしていたものがあっさり終わって、ぽかーんとしながら、また自分らしくゆっくり動こうとしてる。答えのようなものなんか、既に見つかっちゃってたんじゃないのかな。それを確認するための、なんか旅みたいなもの。それってちゃんと孤独から見えてきてて。おもしれえなって思う。人生。今僕が生きてること、これからも生きていくことが。
とにかく戻ってきた。僕は僕の世界に。
Hが電話してきて、実習いっぱいいっぱいだって。きついって。いっぱいいっぱいの声で、Hはいつだって背負い込むからな、時折不安定だからな。僕は話を聞いてやることくらいしかできないけど、でも先に終えた者として、何か助けになれたらな。みんな、それぞれの教育実習をがんばっているだろうか。
僕は、とりあえず道しるべにしていたものがあっさり終わって、ぽかーんとしながら、また自分らしくゆっくり動こうとしてる。答えのようなものなんか、既に見つかっちゃってたんじゃないのかな。それを確認するための、なんか旅みたいなもの。それってちゃんと孤独から見えてきてて。おもしれえなって思う。人生。今僕が生きてること、これからも生きていくことが。
とにかく戻ってきた。僕は僕の世界に。
息を吐くサンデー
2005年6月5日模試の帰りだとかで、S氏が家によってくれたので、いろいろ話し込んだ。いい息抜きになった。教材研究の参考にもなったのでよかった。S氏を駅まで見送った後、偶然Sk兄貴に会った。内定決まったらしい。よかったじゃん、とりあえず。夏に二人で計画してるあやふやな旅行企画について色々話した。たぶん流れる可能性大の無茶企画だろうな。
教育実習まっただ中だ。来週は遂に研究授業を迎える。息つく暇もなく、この時が流れてゆく感じだ。理想と現実ってやつ。リアルに叩きのめされ、またリアルに迎え撃っている。落ち着く暇もなく、早く駆け抜けたいと思うのもまたそれは勿体なく、かといって無力で、この時を懸命に一瞬一瞬ソウルを震わせてゆくことしか結局できない。 僕が僕をどうやって生きていこうとしたかったのかも、こんな風にソウルを震わせる中でおぼろげながら垣間見えるものなのだろう。
社会じゃない。ソウルだ。結局ソウル。ソウルが拒否し、ソウルが求めるもの、それをいつだって追っかけたいと思ってた。人はいつか死ぬ。どこで死のうかと思うとき、人間として社会の中で死ぬのか、それを否定して何やら蠢くのか。でもソウルに生きるって生き方もあるんじゃないか。僕はきっと生き尽くしてない。生き尽くしたつもりで、生き尽くしてない。だから、燃え尽きたいんだろうな。社会じゃなくソウルを、生き尽くしたいんだろうなあ。だからたまに嫌悪感に襲われるのは、少しでも歩かされていると感じるときだ。 どこに引くかも分からなかった僕の限界を、いいかげんに僕自身が引いてみることで、ソウルフルに近づけるかもしれないな。
教育実習まっただ中だ。来週は遂に研究授業を迎える。息つく暇もなく、この時が流れてゆく感じだ。理想と現実ってやつ。リアルに叩きのめされ、またリアルに迎え撃っている。落ち着く暇もなく、早く駆け抜けたいと思うのもまたそれは勿体なく、かといって無力で、この時を懸命に一瞬一瞬ソウルを震わせてゆくことしか結局できない。 僕が僕をどうやって生きていこうとしたかったのかも、こんな風にソウルを震わせる中でおぼろげながら垣間見えるものなのだろう。
社会じゃない。ソウルだ。結局ソウル。ソウルが拒否し、ソウルが求めるもの、それをいつだって追っかけたいと思ってた。人はいつか死ぬ。どこで死のうかと思うとき、人間として社会の中で死ぬのか、それを否定して何やら蠢くのか。でもソウルに生きるって生き方もあるんじゃないか。僕はきっと生き尽くしてない。生き尽くしたつもりで、生き尽くしてない。だから、燃え尽きたいんだろうな。社会じゃなくソウルを、生き尽くしたいんだろうなあ。だからたまに嫌悪感に襲われるのは、少しでも歩かされていると感じるときだ。 どこに引くかも分からなかった僕の限界を、いいかげんに僕自身が引いてみることで、ソウルフルに近づけるかもしれないな。
折り返し
2005年6月4日日本代表の勝利を見届けた後、睡眠。朝遅く起床。 図書館に3カ月待った予約本が届いてんだけど、実習期間中ずっと借りておきたい本があって、予約本もらうためにはそっちをまず返さないとならない。延長可能期間が短かったら、大学の図書館行って借りてこようかと思ったら、大学の図書館でも延滞本があって、返却したその日は貸し出しが禁止されてしまう。どうしようかと思ってたら、確か土曜はAが学校きてることを思い出した。Aに本借りてもらおうかな、でも実習期間中はみんなに会うと緩むかもしれないなあ。そんなことをだらだら考えていたら、延長期間は全然余裕があったから学校いく必要はなくなった。やっぱり、全部終わってから、みんなに会いに行こう。変わってるかもしれない自分を確認するためにも。楽しみだ。教育実習も早くも半分が過ぎてしまった。 昼寝して、夜は教材研究に集中するためにファミレスへ。近所の高校が今日は体育祭だったらしく、高校生達が体操着でたまっていた。CDウオークマン持ってきてよかった〜むちゃくちゃうるせえんだもんな店内。ポテトとドリンクバーでひたすら粘る。高校生達は11時には店を追い出されていた。その後は静かな真夜中のファミレス。とても集中できる。図書館は静かすぎて逆に集中できない。こんなくらいの喫茶店ぽい落ち着いた、真夜中のファミレスが、一番勉強には適してる。 月曜からの授業計画と、卒論の構成と、あと実習が終わった後のことを少し思いめぐらした。夏はどうしようかとか、少しだけ考えた。でも今はまだ考えなくていい。目の前が全てだ。 2時半まで粘って帰った。コーヒーを飲み過ぎて、胃がおかしかった。集中は出来るけど、体調にはよくないな。 月曜日は正念場だ。授業が4コマもある。うまくいかないなりに、試行錯誤しながら進めていこうかと思う。